今、まさに目の前で(秋)


 二人が愛し合って、結ばれて、夫婦になって、養子を引き取って、『遥』と名前を付けて、二人で育て始めて、それから五年が経過した頃。


 美奈の容態が悪化した。

 覚悟はできていなかった。


 病気はもう何年も落ちついていて、もうこのまま二人で何事もなく歳を取っていけると信じていた。

 美奈に無理をさせたことだってなかったのに。


 どうしたらいいのか分からず倦ねる僕の前に、母が救いの話を持ってきた。


 「海外なら、彼女の病気を治せるかもしれないんだってさ」


 なんでも最近、新しい治療法が見つかったとの話だった。日本ではまだ認められていないやり方だが、海外では既に治験が始まっているらしい。

 飛びつかない理由がなかった。

 引け腰だった彼女をなんとか説得して、僕はすぐに彼女を遠い異国の地に送った。


 ついていくことはできなかった。

 何しろ手術には莫大なお金が掛かる。手術単独に限っても、僕の今の仕事だけでは、お金があまりにも足りなかった。

 だからといって、遥に苦労をさせるわけにはいかない。

 遥にはちゃんとしたものを食べさせて、やりたいことができるだけの教育を受けさせて、

 美奈は体が弱いから、子供を産むことはできない。だから養子として遥を引き取った。

 自分たちの手で、ちゃんと育てきってみせると決めたからこそ彼女を迎えたのだ。

 不足があってはならない。

 


 上司に頼んで、残業を多く回してもらうようにお願いした。仕事帰りには副業で少しでも多くの金を稼いだ。

 遥の面倒は見切れないので、今は母が住む実家の方に、一時的に彼女を引き取って貰った。

 一分一秒も無駄にするものかと、必死に、懸命に働いた。


 しかし僕は、仕事の山に押しつぶされる中でいつの間にか、本当に大切なものを見落としてしまっていたらしい。


◆◇◆◇◆


 ある日の朝のことである。

 その時僕は会社の仮眠室で、スーツのまま寝転がっていた。

 当たり前のように連勤し、まともに家に帰る時間もなくなって、

 体力的にはかなり追い詰められていたが、それでも二人のことを思うと元気が体の底から溢れてくるような気がした。

 僕は大きくのびをしながら立ち上がり、深呼吸をする。


 「よし、頑張るぞ――――……」


 その時、電話が鳴った。実家からだった。

 僕は枕元に置いてあったコンビニおにぎりを囓りながら電話に出た。


「もしもし! りょ、良介!?」

「……?」


 六十になって未だに闊達な母の声が、珍しく狼狽していたので、僕は少し怖くなった。


「ごめんな、私がうっかりしてて……」


「……? なんだ母さん、要領を得ないな。何があったんだ?」


 奇妙な緊張感が漂っていた。

 電話の向こうの母は、どことなくすっきりとしない物言いで、ひたすらに二の句を継ぐのを戸惑っているように思えた。


「何があったんだよ、母さん! はっきり話してくれ!」


 僕が語気を荒げると、母は観念したように呟いた。


「実は、遥ちゃんが、家を出て行って――――」


 思わず息を飲んだ。


 ◆◇◆◇◆


 大急ぎで、数ヶ月ぶりの有給休暇を申請し、上司に事情を話して僕は実家に向かった。

 家に戻ると、松葉杖の母が取り乱しながら僕を迎えてくれた。


 朝、遥が突然家を飛び出して、それを追い掛けようとしたときに玄関に置いてあった漬け物石に足を引っかけて転んで折れたらしい。

 母の怪我も心配だったが、その時の僕はとてもそれどころではなかった。

 遥がいなくなったということは――――単に彼女が危険に晒されているという事実だけを表すものではないからだ。


 きっと遥はこう考えたに違いない。

 お母さんは病気でアメリカに行った。お父さんは仕事ばかりに打ち込むようになった。

 自分は置き去りになっている。お父さんもお母さんも、自分に一切興味を示してくれない。

 会いもしなければ、構ってくれることもない。

 だったら、もしかしたら自分は――――愛されていないんじゃないかって。

 自分の存在が、『邪魔』なんじゃないかって。


 そう思うだろう。当然の話だ。

 血が繋がっていて、母が手を尽くして親権をもぎ取ったのを知っていた僕でさえ、放置され続けたことで母からの愛を疑ってしまったのだから。

 血の繋がりがないあいつにとって、親に放置され続けることが、どれほど、どれほど怖いことなのか――――……!


 どうして気付かなかったんだろう。


 いつの間にか僕は、かつて母さんが僕自身に対して成した過ちと同じ事を、自分の娘にしてしまっていたのだ。


 僕は走った。

 田舎中のあらゆる道を、二本の足を使ってかけずり回った。

 車では行けない場所も多かったし、何より足で探さなければならない気がしたからだ。

 楽をして探そうとしても、きっと遥のことは見つけられない。


 母だって、同じやり方で僕のことを見つけたんだから。


 ◆◇◆◇◆


 人里近くは一通り探し歩いたが、それでも遥は見つけられなかった。


 最後に辿り着いたのは――――


 「ここは……」


 間違いない。



 野山を一通り駆けまわっても、村人全員に話を聞いても、彼女の手がかりは掴めなかった。

 次第に、日は暮れ、夜が近づいてくる。

 夜になればいよいよ致命的だ。取り返しの付かないことになりかねない。

 


 焦りが汗となって心を浸していく。

 そんな僕の視界に、よく見慣れた立て看板と、ぶっきらぼうな入り口が止まった。


 「……」


 思えば、無意識下で避けていた――――■■と結婚してからは特に、この場所のことは忘れるようにしていた。

 ■■は気にしないだろうが、僕自身の心が咎めるから。

 けれど、ここを探さないわけにはいかない。

 もし遥が、僕の娘だから同じ事をやったというのなら、彼女がここにいない理由などないのだから。


 「遥、遥――――」


 見慣れた森は、最後に入った十年前と何も変わっていない様子で、相変わらず鬱鬱として人の行く手を阻む構造になっている。

 今思えば、こんな森に良くずかずかと踏み入れたものだ。

 子供の目線では、背丈に迫る高さの草が生い茂るこの森は、不気味で恐ろしいものに違いない筈なのに。


 ……。


 ――――何を恐れているんだ、僕は。

 かつて僕は、自分の恋との訣別のために、二度とこの場所を訪れないと決めた。

 だが今は、それどころじゃないだろう。

 自分のプライドと遥の命、一体どっちが大事なんだ。


 今までで一番震える足で、僕は森への坂道を踏み出した。


 ◆◇◆◇◆


 草木を掻き分けながら、僕は森の中をずんずんと進んでいく。

 高校時代に訪れた時と、僕の体格はさほど変わっていないから、体感には変化がなかった。


 ここをまっすぐ行けば、あの切り株がある場所だ。

 四季と僕が出会った場所で、幾たびもの季節を彼女と過ごした場所だ。

 遥が僕の娘だからと言って、必ずここに来ていると言い切れるわけじゃない。

 仮に来ていたとしても、運良く四季に会えるかは分からない。一人で寂しい思いをしているかもしれない。

 もしかしたら、出会うことすらできないのかもしれない――――彼女の姿は、僕に


 一歩、一歩――――恐怖しかなかった。

 遥がいなかったらどうしよう。

 仮にいたとして、一人だったらどうしよう。

 もし四季に会えたとして、その時僕は彼女に対してどんな言葉をかければいいのだろう。


 考えられる全ての可能性が、いずれも恐ろしいものとして僕の脳裏に去来する。

 しかし足は止まらない。

 まるで体と心が別々になってしまったかのように、理性が切り株の場所への到達を恐れ、本能は迅速な到達を求める。

 こんな時、理屈は無力だ。


 ◆◇◆◇◆


 草木を掻き分けて、さらに前へ。

 ついに僕は、見慣れた切り株の場所まで辿り着いた。

 そして――――……


「……!」


 そこに遥はいた。

 しゃがんだ彼女に、そっと肩を抱きかかえられて。

 泣きそうな顔を、くしゃくしゃにしながら。


「ぱ……パ?」


「遥……」


 僕は、四季の姿を見たときに、彼女に対して何を言うべきかと未だにうじうじ考えていた。

 だけど、遥の姿をこの目に捉えた瞬間、全ての言葉は吹き飛んでしまった。

 僕は自然としゃがみ込み、目線を遥に合わせる。

 そして、走り寄ってきた遥を受け止めることだけに、全ての意識が凝縮する。


「ぱ、パパ―――!!」


 遥が、僕の胸に飛び込んでくる。

 僕はそれをできるだけ優しく受け止めた。


 遥の温もりが伝わってくる。

 良かった。まだ彼女は元気だった。


「ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」


「ごめんな……ごめんな。お前に、寂しい思いをさせて……」


 二人で、何度も同じ言葉を繰り返した。

 そう言えば、三〇年前も同じようなことをやっていたな、なんて思い出して懐かしくなる。


「……それにしても、お前にもあの人が見えたんだな」


「うん。この森で迷子になったらね、お姉ちゃんが探しに来てくれて、それで一緒に遊んでくれたんだよ」


 僕の時と同じだ。

 僕のことを受け止め、優しく助けてくれたように、彼女は遥のことも助けてくれた。

 何度も、何度も――――僕は人生の節目節目で、いつも彼女に助けられていて。


「だから、お父さんが迎えにきてくれるまで、私、我慢できてたの。絶対に泣かないって。泣いたらおとうさんが心配しちゃうから。でも、お父さんの声を聞いたら……」


「……そっか。早く来てあげられなくてごめんな」


「ちゃんとお姉ちゃんにお礼は言ったか?」


「あ、そうだ。ちゃんと言わないとね。お姉ちゃん、ありが――――」


 そこで振り向いた遥は、きょとんとして首をかしげた。


「……あれ?」


「どうした?」


「今はなんだかぼんやりして、お姉ちゃんがよく見えないや」


「……!」


 はっとして、僕は顔を持ち上げる。

 すると僕の目に映る彼女も、遥が言っているのと同じ様相だった。

 彼女の輪郭は揺らぎつつあったのだ。


 その時、僕は気付いてしまった。

 何故、僕が彼女に出会うことができたのは、五歳の時と十三歳の時、十八歳の時、それから今の――――たった四回だけだったのか。


 この四回、僕はいずれにせよ途轍もない悲しみを胸に抱いていた。

 何もかも投げ出したいと思っていた。死にたいとすら思っていた。お終いだと思っていた。自分自身を否定していた。

 そして今僕の胸に抱かれている遥もきっと、ついさっきまで僕に見放されたと思って強い悲しみを抱いていたに違いない。


 そう、彼女はきっと、『深い絶望の中にある人の前にしか現れることが出来ない』んだ。

 だからいつも、僕の心から絶望の根源が取り払われる度に、彼女は解けるように消えてしまっていたのだ。


「あっ、あああっ……!」


 彼女は確かに言っていたはずじゃないか。

 何十年も、何百年もずっとこの森の中を一人で彷徨っているって。

 自分は森から出られなくて、この森には滅多に人も来ないし、来ても自分のことが見えないから、いつも寂しく過ごしているのだと。


 恐らく彼女は知っていたんだ。深い絶望を味わっている人だけが、自分のことを認識できるのだと。

 なのにその上で、彼女は僕に手を差し伸べたんだ。背中を押してくれたんだ。

 どこまで――――どこまで優しかったら、こんなことができるんだ!?


 朧気になっていく彼女のシルエット。

 消えていく。

 彼女が僕の前から消えていく。


 言いたいことは一杯あるのに。数え切れないほどの言葉を彼女に届けたいのに、僕には時間がない。

 何がいい。何を伝えないといけない。

 どんな言葉が――――


「僕は今、幸せなんだ……!」


 僕は慟哭した。遥を両手で抱きしめながら叫んだ。

 きっと今もまだ目の前にいるはずで、でももう殆ど見ることができない彼女に向かって、あらんばかりの声を張り上げた。


「とっても、とっても……そしてこれは、君が送ってくれたものなんだ。君が、何度も僕を助けてくれたから……だから……!」


「――――……」


「ありがとう……!」


 こんな言葉しか形にできない自分が嫌になる。

 もっと、もっと別の言葉があるはずだ。

 僕が彼女に言いたいことは、言うべきことは、こんなありふれたどこにでもある言葉じゃない。


 彼女に対してだけ贈ることができる、僕だけが紡ぎ出せる、そんな言葉があるはずだ。

 あっていいはずだ。なければならないはずだ。

 僕はそれを見つけ出すことができるはずだ。


 そして僕は――――彼女の綺麗な瞳をまっすぐに見つめながら、その言葉を伝えなければならないはずだ。


 でももう、この場に彼女はきっといない。

 少なくとも僕に見ることはできない。

 だって僕は今、どうしようもないほどに幸せなのだから。


 ああ、もし世界があと少しだけ、僕に冷たかったなら。

 僕はきっと彼女のことを、もう少しだけ目に止めることができていただろうに。


「お父さん、泣いているの……」


 そよ風が森を吹き抜けた。

 涼やかな肌触りと共に、樹木の葉が擦れて降り注ぐ陽の光を瞬かせた。


 その木漏れ日の輝きは、まるで彼女の笑顔のようだった。


 ◆◇◆◇◆


 それからは、全てが上手く行った。


 アメリカから美奈の手術成功の知らせが届いたのは、それから二週間後のことで、その後のリハビリも気持ち悪いほどに順調に進んだという。

 客層の新規開拓の関係で新しく作られた部署に異動したことで、遥と共に過ごす時間も増えた。

 そして一年も経った頃には、帰ってきた美奈と一緒に三人で暮らせるようになった。


 僕を取り巻く暗雲の全てが、とんとん拍子に消えていき、気付けば目の前には、雲一つない青空が広がっていた。

 まるで彼女が僕を突き放したかのようだった。


 僕はきっとこのまま、人生を順風満帆に過ごしていくのだろう。

 苦しいこと、辛いこと、悩ましいことが一つもないとは言わないけれど、それらはきっと絶望には値しない。

 いや、きっと呼んではいけないんだ。

 彼女が作ってくれた幸せを、美奈や遥と過ごすこの幸せを、否定するようなことがあってはならない。


 僕は、もう二度と彼女に会ってはいけない。きっとそれは、彼女自身が望んだことだから。

 だけどもし、これを読んでいる貴方がもし今苦しんでいるなら、貴方には彼女に会う資格がある。

 必要があるなら連絡を入れて欲しい。僕だけが知っているその森の在処を、貴方にこっそり教えよう。

 そしてもし純白の少女に出会ったなら、この言葉を一字一句余すことなく彼女に伝えてやってほしい。

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彼女はいつだってそこにいた イプシロン @oasis8000000

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