青年時代の追憶(冬)
高校に上がってから、本山美奈という同級生の女に出会った。
彼女は病気がちで、体育などの激しい運動には参加せず、いつも教室の窓から校庭を眺めていた。
どうやら彼女の中学からその高校に進学した生徒は他にいないようで、それでいて常に孤高学校でも常に孤立していた。
僕はそんな儚げな彼女の姿に惹かれた――――というより、助けたいと思った。
どうしてそこまで引きつけられたのかは、その時は分からなかった。
思い返せば理由は二つあって――――そのうち一つは、かつて誓った理想的な自分を目指すという言葉に、自分が殉じてこられなかったことに対しての焦りだろう。
そしてもう一つは……。
◆◇◆◇◆
とにかく僕は動き出した。
彼女は分かりやすく不幸であり、そんな彼女をちょっとでも自分の力で助けられたらこれに勝ることはないと思った。
だからこそ、どれだけ突き放されようとも、逆にムキになって頑張ってやろうと思えたんだ。
「なんですか? そのなよなよした目で私のことを見ないでください。不愉快です」
なんと言われようと、折れてやるものかと思った。
「私の病気のことを知って、同情しているつもりなのかもしれませんが……自立している人間に対して憐れみを向けるのは侮辱ですよ」
ああ、そう思われてしまうのも仕方ないかもしれない。
だからって、辞める理由になるものか。
「また貴方ですか。しつこいですね。これはもうストーカーみたいなものですよ」
たとえそう呼ばれたとしても、彼女が孤独に甘んじる世界なんて、僕は許容しない。
「……っ、これだけ突き放しているのに、どうして貴方は私に拘るんですか! 迷惑だって言ってるじゃないですか!」
自分でもどうしてか分からない。ただ、行動を起こさねばならないと思ったんだ。
「迷惑なんですよ、本当に! 私と一緒にいたら、貴方に迷惑が掛かる! それで私は大して助かってもいないのに、要らない罪悪感を抱える羽目になる! そういうやりとりは、もう嫌ほど繰り返してきたんですよ!」
罪悪感なんて感じる必要はない。これはあくまで僕の自己満足だから。
「~~~~!!!」
◆◇◆◇◆
僕は彼女に拒絶されながらも、少しずつ距離を近づけていった。
最初は地を這う蚯蚓を見るような目で僕を見ていた彼女も、少しずつ僕に優しくなっていった。
その過程で、彼女がこれだけ周囲を突き放していた理由も分かった。
だから、彼女のそんな意識を変えるための努力をした。
やがて彼女は、僕に理解を示してくれるようになり――――いつの間にか彼女と僕は、楽しく談笑できるくらいの仲になっていた。
けれど、僕は気付いていなかった。
その執着が、僕のことを彼女にどう見せていたのかを。
◆◇◆◇◆
季節が過ぎた先、真冬のある一日のこと。
深々と雪が降り積もる校庭を眺めながら、僕は部室で本山と校正作業に励んでいた。
その場所は、二人で作った新聞部の部室だった。
「これだけ寒くなってくると、防寒具が欠かせないんじゃないのか」
「そうですね。万が一風邪を引いたりしてしまったら、私の場合入院騒ぎになってしまうから」
世間話がてらに、本山の体調を尋ねる。
出会った頃は、黙ってろと言わんばかりのきつい目線で睨みつけられるだけだったが、今返ってくるのは柔和な視線だ。
「でも深江君のおかげで、暖かい部室でこうやってくつろぐことができています。まさかわざわざ私のために、部室に暖房を用意してくれるなんて」
うちの高校の部室棟には基本的に冷暖房が用意されていない。しかも建て付けが悪く、そこらかしこからすきま風が混入してくる。
はっきり言って過酷な環境で、それを理由に彼女は部活動からも遠ざかっていたのだ。
自分が入れば、周りに迷惑をかけるかもしれないからと。
だが僕は、生徒会や教師との行く度もの衝突を乗り越えて、ついに部室棟への冷暖房設置をもぎ取った。
数人の先輩方の助けこそ借りたものの、よくもまあ独力でここまでやったものだと、自分を褒めてやりたい気分にもなる。
「毎日を楽しめるようになったのは、深江君のおかげですよ。本当に感謝しています」
「感謝される筋合いはないよ。これは僕が勝手にやったことだから」
僕は謙遜するが、感謝されて悪い気がするはずもない。
これは彼女に近づくための一歩だ。
誰かに感謝されるような自分になるための積み重ねだ。でも自分では歩幅が分からないから、結果で距離を測るしかない。
あとは、この部活に部員を呼び込んで、俺以外に彼女の友達を作るところまでいけばパーフェクトだ。
以前に一度提案したことがあるのだが、今作っている新聞を完成させるまでは、他の人を入れたくないということだったので、その思いを尊重した。
まあ、二人だけで新聞を作るとなるとその苦労も一入で、それは彼女も身を以て感じてくれただろうから、この仕事が終わったらもう一度提案してみよう。
そしたらきっと、世界を開くことに前向きになってくれるに違いない。
……と、その時の俺は思っていた。
◆◇◆◇◆
午後六時になって、学校のチャイムが鳴り響く。
その時点で作業は殆ど終わっていて、本山は図書館から借りてきた本を読んでいたが、チャイムの音と同時にそれを閉じた。
彼女は読書家で、一日に何冊もの本を読む。今日も二冊、頭から読み始めた文庫本を尻まで読み切っていた。
人並み外れた速読技術は、本山が子供の頃から続けてきた読書習慣の賜で、病弱だったことに得られた唯一の特技だと、以前満足げに語っていた。
そういうことも、彼女と距離を近づけたからこそ知れたことだ。
「ああ、時間ですね。今日も来てしまいました」
体の弱い彼女は、家族から常に身を案じられており、いくら環境が整ったといってもあまり遅くまで学校には残れない。
彼女は最近いつもチャイムが鳴った後、一瞬だけ残念そうな表情を見せる。
そういう
「そろそろ私は帰りますね。では……」
彼女は立ち上がり、本や教科書を積み上げた山を鞄に一つ一つ丁寧に入れて、最後に鞄を背中に背負った。
「……ああ、じゃあね」
僕はそれを見送って、外へのドアへと視線を送る。
するとその時、彼女の鞄の隙間から――――……。
ぴらり。
本と本の隙間から、一枚の便箋がこぼれ落ちた。
「? 何か落としたよ……」
「……!」
こぼれ落ちたその紙片を、僕は何気なく拾い上げる。
すると、いつもは至って静かで行儀の良い本山が、顔の色を変えて僕からそれを取り上げた。
「……あ、ごめんなさい……」
「ひょっとして、見たらまずいものだったかな。だったらごめん」
覗き込むつもりはなかったものの、彼女を心配にしてしまったかと思い、僕は即座に謝った。
すると彼女は何故か不機嫌そうに頬を膨らませた。
ん? 対応間違えたかな?
「追及しないんですか?」
「しないよ。だって、踏み込まれたくないだろう」
何が書いてあるか知らないが、便箋に書き留めるほどなら相当の思いが込められているだろう。
彼女の『何』でもない僕には、それを覗く資格はないだろう。
「……そうですか。おくて、なんですね」
「?」
その時僕は、彼女が何を言わんとしているのか分からなかった。
「……だったら……良い機会かもしれません」
ずい、と彼女が迫る。
「言わないといけません。私の、本当の気持ちを」
何故か、背筋がぞっと凍り付く。奇妙な感覚だった。
「これ、読んでください」
そう言って彼女は……僕からもぎ取った便箋を再び僕に渡した。
僅かに手汗が滲んでいるのを感じながら、僕はその便箋を恐る恐る開く。
そこには、彼女が僕に対して抱いた――――恋の全てが綴られていた。
最初は心底嫌っていたこと。理解できなかったこと。
しかし僕に触れるにつれて、段々と抵抗感がなくなってきたということ。
少しずつ、僕のことが分かるようになってきたということ。
――――僕のことが、好きになったということ。
「……っ……」
僕は言葉を失った。
嬉しかったのでもなければ、嫌だったわけでもない。
ただ、ただ。
こうなる可能性について、全く考慮できていなかったのだ。
「私は……深江君のことが好きです」
違う。そんなつもりじゃなかったのに。
僕は彼女の気を引きたいから彼女を助けたんじゃない。
だけど、客観的に見たら、ああ……。
「どうか私と、付き合ってくれませんか?」
これじゃ僕がまるで、自分の為に彼女に近づいたみたいじゃないか。
違うんだ。そうじゃない。やめてくれ。
僕は、『自分の為に』『彼女の為に』彼女に近づいたんであって。
決して『自分の為に』彼女に近づいたんじゃない。
「……っ!」
傍からすれば意味不明なことを頭の奥で念仏のように呟く。
僕は、内側から押し寄せる自己否定の津波に、押し流されるように震えた。
「あっ、待って、深江君――――!」
ここで逃げることが、彼女の心をどれだけ傷つけるか考えていない僕ではなかった。
でも、それ以上に、やってしまったことを直視できなくて、僕は逃げずにいられなかったんだ。
そして、その後部室には行けないままに冬休みがやってきて、僕はまた縋り付いた。
◆◇◆◇◆
つい二年前祖父が死んで、前から腰を悪くしていた祖母は老人ホームに移った。
それ以来、年に数回の里帰りすらなくなって、僕はすっかり田舎と疎遠になってしまっていた。
だから、空漠を埋めるためにやってきたこの場所は、かえって僕に対して辛辣で、埃が溜まった家の住み心地の悪さが、そのまま僕を責め立てているようだった。
僕は、かつて自分が使っていた部屋に向かい、そのままベッドに寝転がり。
数日、何も食べずに引きこもった。
◆◇◆◇◆
三日目の朝、天井を見上げながら僕は呟く。
……数年前にも、同じことをやっていた気がするな。
その時はどうやって、
ああそうだ、僕は彼女に出会ったんだ、なんて、頭の中で小芝居をして……馬鹿馬鹿しいとやめにする。
そうだ。
襤褸屋でいくら思索にふけっていても、本質的なところでは何の意味もない。
だって、今回僕は『彼女』に会うためだけに、この場所に戻ってきたんだから。
会えなかったら、森の中に居座ってやる。雨が降ろうと雪が降ろうと、彼女が来るまで待ち続ける。
それくらいの覚悟は決めてきたつもりだ――――僕は持参のダッフルコートを羽織って、玄関から勢いよく飛び出した。
◆◇◆◇◆
村は豪雪地帯ではなかったものの、ちょうどその時は雪が降っていて、山道は易々と登れるものではなかった。
それでも普段の二倍の時間をかけて、僕は森の入り口へとやってきた。
森の中は、さらに分厚い雪の柵によって守られている。
まるで拒絶されているような気分だった。実際はそんなことないというのに。
辿り着いた切り株の場所は静かで、誰の気配も感じない。
分かっているつもりだったけれど、やっぱりちょっとだけショックだった。
僕は切り株に寝転がり、そのまま微動だにせずに
寒空に、深々と雪が降り積もる。
日は暮れていく。
陽の光も満足に通さないような鬱鬱とした森なのに、
永遠に会えないのではないか、そんな絶望感すら覚える時間だった。
そして日は落ち、闇が周囲を包み込む。
こんな遅くまで居座ったのは初めてだと気付いた。
それでも、彼女が現れる気配はない。
持ってきた懐中電灯とペットボトルであたりを淡く照らした後、それでも彼女の姿が見当たらないので、僕はいよいよ会うことは適わないのかとがっくり肩を落とした。
「……!」
すうっと、目の前にかかっていた見えない靄が取り払われるように。
「……良介君」
木々に寄りかかって、僕を眺めている彼女と目があった。
「どうして、今……」
彼女は、切り株に寝転がっている僕の顔を見て、当惑している様子だった。
僕は、何か変なものでもついているかな、と自分の頬を撫でた。
何もついていなかった。
だったら、恐れる必要は無い。きっかけは不明だが、彼女はまた僕のまえに現れてくれたんだから。
僕は立ち上がり、彼女と目線を合わせようとした――――が、合わなかった。
三年前より一層高くなった背は、彼女を軽々と追い越してしまっていたのだ。
だが、どんな形であれ、彼女に出会えたなら僥倖だ。
僕は、彼女に言わなければならないことがあ――――
「……ん?」
――――すると、彼女の姿がまた朧に変わっていった。
闇に溶けるように、彼女の姿は消えていく。
僕の目に映らなくなっていく。
駄目だ、まだ行かないでくれ。消えないでくれ。
伝えたい言葉があるんだ! 伝えなければならない思いが!
だから!
僕は目を剥いて慟哭した。
すると、また彼女の姿が鮮明になった。
「……良かった……久しぶりだね……」
僕は、彼女にほほえみかける。
彼女は、僕の表情を見て――――何かを悟ったように目を伏せた。
「……?」
◆◆◆◆◆
「もう、お姉ちゃんなんて呼び名はしっくりこないかもね」
そう言って、僕を上目遣いに見上げながら彼女は笑う。
確かに、僕はいつの間にか彼女の背丈を追い越してしまった。
それに、見た目の上でも――――かつては僕よりずっと年上に見えた彼女の姿は、今となってみれば僕と同年代くらいの外見だ。
「でも、僕は君の名前を知らないから……」
思えば、ずっと聞きそびれていた。
出会った時の印象で、ずっと『お姉ちゃん』と呼び続けていたせいで、それが定着して、他の呼称を必要としていなかったから。
しかし、確かに今となっては僕が彼女をお姉ちゃんと呼ぶのは奇妙だ。
それは中学生の時から若干感じていたことだったのだが、照れくささと気恥ずかしさから今までずっと聞けずにいたのだ。
だが、いつまでもそのままではいられない。
関係性とは変化するものだ。
本山と僕の関係が、大きく揺れ動いたように――――彼女と僕の関係も、何らかの変化があって然るべきなんだ。
「……教えてよ。君の名前を」
僕がそう聞くと、彼女は悲しそうに目を伏せた。
「名前なんてないよ。今まで必要ともしなかったから」
口角を持ち上げ、目を閉じて、まるで笑っているように見せた彼女の心中が、今まで僕が見てきた中で最も沈んでいることは明らかだった。
「……!」
名前がない。必要ではない。
その言葉の意味は何か、考えるまでもなかった。
彼女も孤独だったのだ。それも、そこらの人間とは隔絶するほどに。
無理もない話だ。
ここは山奥の田舎の奥深く、普段は誰も寄りつかない。
まして彼女は、常に姿を現しているというわけでもないのだ。
村に昔から住む祖父母ですら、その存在を知らなかったくらいだから――――場合によっては本当に、僕だけしか彼女の存在を知らなかったのかもしれない。
きっと彼女は、この寂しい森の中でずっと孤独を味わってきたのだろう。堪え忍んできたのだろう。
森だけが彼女の空漠を埋めてくれるから、彼女は森を知り尽くしていた。
しかしそれだけで、無限の孤独が癒やされるとも思えない。
驕り高ぶりのように聞こえるかも知れないが、
思えばいつも僕と出会ったとき、彼女は嬉しそうにしていたような気がする。
今回だけはまあ……いつもとはちょっと様子が違ったが。
僕は、気が付けば次の言葉を口にしていた。
「名前がないことが、君の孤独を表す呪縛だというのなら――――僕にそれを取り払わせてくれないか?」
「……へ?」
困惑する彼女に、僕はより近くまで詰め寄った。
彼女はたじろぎ、一歩後ろに下がる。
「僕は、君のことを名前で呼ぶよ。どんな名前にするかは、君が決めたっていいし、僕が決めたっていい。でも二人にしか通じないその名前で、僕は君のことを呼んでみたいんだ。そうすれば、君をほんの少しだけでも孤独からすくい上げられるかもしれない! 傲慢な物言いだってことは、もちろん、分かってるつもりだけど……」
「……」
彼女は伏し目がちに視線を逸らすと、一歩後ろに下がって、それから消え入りそうな声で言った。
「じゃあ……君に付けて欲しいな」
僕はしばらく無言で考えた。その様子を彼女は黙って眺めていた。
「そうだ……」
そして、僕は彼女に贈るべき一つの名前を思いついた。
「四季、というのはどうだろう。今まで僕は、夏に一回、春に一回、冬に一回、君に出会ってきた。そしてそのたびに、君から何らかの助けを貰ってきた……」
彼女は嬉しそうに笑った。
しかしどうして――――僕は今までこのことに気付かなかったのか。
彼女が孤独に甘んじていることなど、予測するのはそう難しい話でもなかったはずなのに。
いや、違う。僕は最初から気付いていたんだ。
それでも言及を避けていたのは、
その事実が説明する真実は――――一つしかありえない。
思えば、先輩にしても本山にしても、どことなく彼女に似た雰囲気を持っていた。
中身は二人とも、彼女とは全く違っている。
違っているから駄目だとか言う話じゃない。
しかし、いずれにしたって、僕が追い求めていたのは彼女であって、二人のことはどちらもある意味代替品でしかなかったのかもしれない。
あのとき、五歳の夏の日を彼女に助けられてから――――ずっと僕は彼女の面影を追い掛け続けていたんだ。
「でも、きっとこれだけじゃ足りないんだ……他に、僕にできることはないだろうか?」
僕は、探るように彼女に問いかける。
彼女は僕の真意を理解していないように、首をかしげた。
「……」
「……例えば、僕が毎日ここに通うのでもいい。でもそれはきっと本質的な助けにならないと思う。例えば、ここに沢山の人を呼んでくるとか……」
「そんなことしなくてもいいよ、別に私は――――」
「……でも、独りぼっちを辛いと思っているという事実に変わりはない。君はそれで、寂しい思いをしているはずだ」
「……」
彼女は否定しなかった。少なくともその点に関してだけは僕の妄想ではなく、揺るぎない事実だったんだろう。
ただ、人を集められるということについて彼女が歓迎的でないのも分かった。
「別のもし四季が、孤独に苦しんでいるのなら……四季を孤独になんか絶対にさせない! 僕が四季にしてもらったことを返すなら、そのくらいのことが出来なきゃ駄目なんだ!」
僕は勢いづいて、夜の森に見合わないほどの声で彼女に訴えかける。
「だって、僕は、僕は……」
詰まる息を嘔吐くように漏らしながら、僕は次の一歩をねじり出す。
重たい。次の一歩が、途轍もなく重たい。
先輩に言った時は、ここまで重たくなかったはずだ。
こんな思いを、本山も乗り越えたのだろうか。
それなのに僕は、彼女の思いを踏みにじってしまった。
謝らねばなるまい。そして――――この一言が、後にどんな結末を迎えるとしても――――
「僕は、四季のことが好きなんだ……!」
――――僕も等しく、その罰を受けなければならない。
「……!」
四季の手を握りながら、僕は胸の内を全て吐き出した。
そうだ。僕は常に彼女の背中を追い掛けていた。
それは憧れとか、崇拝とか、尊敬とか、そういう感情ではない。
僕は彼女に恋をしていたんだ。
断られたって、拒絶されたって構わない。
これが自己満足に完結するとしても、気持ちを伝えなければならない。
「ありがとう……」
彼女は、泣きそうな顔で微笑んで言った。
「でも、ごめん」
「……!」
そう言うと、彼女は顔を押さえて僕に背を向け、木々が絡み合う森の中へと逃げ出した。
消えるのではなく、走って逃げようとしたのだ。
「ちょ、ちょっと待って、せめて理由を――――」
追い掛けようとした僕は、身を大きく乗り出して、彼女へと手を伸ばす。
だが、地面からぶっとい根っこに気付かずに、僕は足を取られ、躓いて、切り株に強かに頭をぶつけ、そのまましばらく意識を失ってしまった。
薄れゆく意識の中で、四季が逡巡して立ち止まる姿を僕は見た。
◆◇◆◇◆
目が覚めると、朝になっていた。
僕は切り株の上に寝転がっていて、彼女の気配はどこにも感じられなくなっていた。
……僕は、振られてしまったのだろうか。
無理もない。三年前の女々しい自分を、僕は全く脱却できていなかったのだから。
変わりたいとは思っていた。変わろうとしていたつもりだった。
でも僕は、中学時代にやった、自己満足の慟哭から、僕は未だに抜け出せていない。
僕はまだ幼稚で女々しい精神を、胸に抱いたままだった……。
◆◇◆◇◆
正月休みが明けて学校が始まった。
「……深江君……! やっと、来てくれたんですね」
僕が部室にやってきた瞬間、倒れるように机に突っ伏していた本山が起き上がり、安堵したような興奮したような、そんな目で僕のことを見た。
「心配したんです。私のせいで、また誰かを傷つけてしまったのではないかって思って……前にも言ったでしょう? そういう思いをするのは、もう嫌ですから」
「大丈夫、分かってます。こんないつ死んでもおかしくないような女に言い寄られても嬉しくなんかありませんよね。私は体が弱いから、きっと深江君が願うようなことを何も叶えてあげられません。
なのに私は、自惚れて、深江君が自分に優しいからって、調子に乗ってあんなことを……」
「……そうじゃない。そういうことじゃないんだ」
「え……?」
彼女は、きょとんとした目で僕を見た。
「迷惑なんかじゃない。間違ってもそんなことはない。ただ……ただ、僕が最低だっただけなんだ」
◆◇◆◇◆
それから、全てを話した。
僕は本山に関する全てのことについて、『四季』の面影を追っていただけだったということ。
彼女の名前は伏せておいた。二人だけのものにすると、約束したばかりだったから。
全てを説明した後、本山はしばらく黙った。
部屋は沈黙した。ただひたすらに静かだった。
その静寂は僕にとって耐えがたいものだったが、それも僕への罰だと思って受け入れた。
そして――――およそ五分ほど、僕にとっては一日に匹敵するほどの時間が流れた後、本山は口を開いた。
「話は分かりました――――それを踏まえてですが、もう一度告白をしたいと思います」
しかし、彼女からもたらされた答えは、僕が予想だにしていなかったものだった。
「……え?」
「私は深江君のことが好きです。この思いは今も変わっていません。それで――――
おかしい。
僕はここで、彼女から突き放されなければならないはずだ。
なのに彼女はどうして――――僕を受け入れようとしているんだろう。
「いや、だから僕の話は聞いてた? 僕は、ずっとこんな女々しい思いを抱えたまま君を―――」
「……その人ごと、深江君のことを好きになっては駄目なんですか?」
「……!」
「私は、深江君が私を愛してくれるから、大切にしてくれるから好きなんじゃありません。深江君のことを、素敵な人だと思ったから好きなんです。深江君だって同じですよね? その人が貴方のことを大切にしてくれるからではなく、その人が素敵な人だと思ったからこそ、告白したんですよね?」
僕ははっとさせられた。
全てを取り払った上で、本山美奈という人のことが好きかどうか。
考えるまでもないことだった。嫌いなはずがない。
それでも、自分の思いが彼女にないことを理由に、僕は彼女から逃げ続けていた。
しかし彼女は、そんなことを気にしなかった。
関係ないと言い切った。
でも思い返せば、僕だって同じだ。
僕も、四季に受け入れられたいと思って、彼女に思いを打ち明けたのではないのだから。
「……どうですか。まだそれでも、私のことは受け入れたくありませんか?」
本山は、僕をまっすぐに見つめて聞いた。
受け入れたくない、なんて言葉を彼女に言うはずがない。
彼女は、僕なんかには勿体ないほどの強い人だ。
だけどそういう遠慮が誰かを幸せにするかと言うと、きっと誰も幸せにしないだろう。
たとえエゴであったとしても、もし彼女に救いを与えられていたのだとすれば――――僕に、彼女の手を引く資格があるのだろうか。
いや、違う。
これはきっと義務なんだ。
罪深い僕に課せられた、彼女の手を引くという義務。
けれどこんなに、幸せな義務があるだろうか。
僕は笑って、そっと彼女の手を取った。
◆◇◆◇◆
ここまでが昔の話。
僕と『四季』についての、かつての思い出の物語だ。
そしてここからは――――今の話。
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