少年時代の追憶(春)
時は巡って、中学二年の終わりの春。
卒業式を目前にして、僕は初めての告白に挑み――――そしてこっぴどく振られて撃沈していた。
相手は、同じ部活の先輩で、洒脱な雰囲気と軽妙な性格が素敵な人だった。
以前から良くしてもらっていたし、趣味も同じだったし、誕生日プレゼントを贈り合ったり、休みの日に二人で遊びに行ったりと、脈はある、と思っていたのだが……。
『ごめん。君のことは好きだけど、男としては見られないかな……だって君、ちょっと『女々しい』し……』
「……うああああっ……」
つきつけられた残酷な言葉は、深く深く僕の心に突き刺さった。
元々、卒業後先輩は遠くの高校に進学する。
たとえ先輩も僕のことが好きだったとしても、『じゃあ付き合おう』なんてことにはならないはずだ。
けれど、二年間胸の内で抱えた思いを吐き出さずに先輩と別れてしまえば、きっと後悔することになるだろう。
だから、この告白はただの自己満足。
上手くいかなくて当たり前で、振られたって別に構わない。
そのつもりだったのだけれど……
『正直格好良さとかは全然ないっていうか……うん、ごめんね?』
……容赦ない現実を叩きつけられたことで、僕の心は粉々に砕け散ってしまい、次の日は学校に行く気力すら湧かなかった。
その後も数日間、何も手に付かない日々を過ごしたまま、先輩は卒業していってしまった。
僕は自分が思っていたほど割り切れる人間ではなかったらしい。
自惚れていた自分が嫌になる。自分は振られても平気だと思っていたのは、振られる可能性とその後の顛末をちゃんと直視していなかった結果だ。
そもそも、いけるかもなんて考え自体が傲慢で、学校の人気者だった先輩にとって、僕は精々使い勝手の良い石ころぐらいの存在でしかなかったのだろう。
そして卒業式を終えても、僕はそのまま先輩に会うことができず……ちょうどおあつらえたようにやってきた春休みで、僕は久しぶりに田舎の祖父母のところに戻ってきた。
学校と違って、先輩の部屋の中でじっとしていれば、そのうち気分が立ち上がるだろうと思ったのだ。
しかしむしろ静かに考える時間が生まれたせいで、自省のデフレスパイラルが逆巻いて暴走を始め、鬱鬱とした気分は際限なく悪化していく。
暴挙に出た自分に対する自己批判、自尊心の自傷行為、そんなようなことを延々頭の中でぐるぐる続けていた。
だが、部屋の中でうじうじしている僕を見て祖父が業を煮やし、僕は外に追い出された。
目障りだ、鬱陶しい、部屋に閉じこもってないで外でも歩いて気分転換してこい、とのことだった。
まったく、九年前は外に出るなとうるさかったのに、今では外に行けだなんて随分と勝手なことを言うもんだ。
僕はふて腐れながら家を出て、田舎の寂れた道をとぼとぼと歩いた。
住処を町に移してからも、盆と正月には訪れていた祖父母の実家だが、村の中をゆっくり歩くのは久々だった。
数年の時を越えて僕の前に再び現れた村は、前見たときよりさらに貧相に見えた。
それは僕が大きくなったからなのか、それとも村が寂れていったからなのか。
きっと両方なんだろうと、五分ほどで勝手に結論づけた。
◆◇◆◇◆
しばらく村を歩いてはみたものの、沈んだ気持ちは持ち上がる気配も見せなかった。
それも当然のことで、思い入れのない景色をいくら眺めても、気分を入れ替えることなんてできるはずがない。
「……」
……思い入れか……。
そうだ。
昔、不思議な少女と一日中遊んだ、あの森の奥の奥に行ってみよう。
五歳だった頃は、出るのも大変だった森だけど、今や僕の体は大きくなった。もうあの程度の森に入ったところで、迷ったりはしないだろう。
第一、あの後も何度か森の入り口までは訪ねていて、それで一度だって迷ったことはないんだから。
僕は森を目指した。
九年前よりずっと大きくなった歩幅で、まっすぐに森を目指して歩いた。
ひょっとしたら、九年前にあの場所にいた彼女が今日偶然戻ってきていて、絶望を晴らしてくれたりするんじゃないかなんて、そんな浅ましい願いを胸に抱きながら。
◆◇◆◇◆
かつて母が僕を迎えに来てくれた山道までやってきた僕は、坂に沿って木々が障壁のように屹立する森の入り口を眺めていた。
周辺の自然と比べてもその場所は異様だった。相変わらず鬱蒼としていて、入りがたい雰囲気を醸しだしている。
しかし僕はこの森が見た目よりずっと優しく暖かいものであることを知っている。
だから僕は何も恐れずに、奥へと続く獣道へと足を踏み入れた。
森の中に入ってから、迷わずにあの場所に辿り着けるかは自信がなかったが、一度足を踏み入れさえすれば、案外体は覚えているものだと気付く。
たった一日だけとはいえ、野山を走り回ってへとへとになるまで遊び倒した、あの日の記憶を体が覚えているんだ。
およそ五分ほど歩くと、見覚えのある切り株を見つけた。
周辺の景色は全く変わっていない。精々葉の色が前と僅かに違う程度で、
木々のうちの一本が桜であることに気が付いた。
世間にありふれたソメイヨシノとは全く違う、見たことのない花びらを散らす樹だったけど、でも間違いなく『桜』だった。
桜、咲くんだ。
それを見て僕は気付く。
なるほど、この森がどこか不明瞭で渾然としているのは、木々の種類が混在していたからなんだ。
桜の他にも、周囲にある木々はどれも一つ一つ微妙に違っていて、同じ種類のものは一つもない。
人工林ではこれはあり得ないだろう。
この森はもしかして、ずっと昔から人の手が入っていない森なんだろうか?
でも、切り株があったということは、誰が鋭いもので木を切ったことがあるわけで……やめよう。深く考えてもどうせ答えは出ない。
大事なことは、この森がかつてと変わっていないということと、他とは違う異質な森だということくらいだ。
そして、森の木々たちをもその存在一つで群衆に変えてしまうほど――――
舞い散る桜すら、引き立て役にしてしまうほど、清廉に、瀟洒に――――『彼女』は美しくそこに佇んでいた。
「……っ……!」
僕は思わず息を飲んだ。
理由の一つは、彼女が眩しいほどに綺麗だと、魅力的だと感じたからだ。
五歳の頃、初めて彼女に出会った時、僕はまだ五歳だった。
美人とブサイクの違いくらいはその時分で既に理解していたけれど、ただ漠然ときらきら光る宝石を愛でる程度の見方しか持っていなかった。
今は違う。九年の時を経て、僕はある程度男になった。
単なる『可愛い』『美しい』を超えた、女性としての美しさも理解しつつある。
そして『女性』として、『異性』として彼女を見た時、そのなんと美しいことか。
遠い記憶の果ての彼女は、限りなく美化されていると思っていたけれど、決してそんなことはなかった。
むしろ彼女は記憶の中にあるイメージより遥かに美しかった。
そしてもう一つは――――彼女の姿が、九年前に出会った時と一切変わっていなかったからだ。
ここで僕は確信を強めた。
ああ、やはり彼女は――――人ではない何かなのだと。
しかし今更、彼女に対して恐れを抱くことはない。
僕は一歩前に進んで彼女に近づき、声を掛けた。
「こんにちは。久しぶりだね、『姉ちゃん』」
彼女は、一瞬戸惑うような表情を浮かべたが、次第に笑顔に変わっていった。
「……良介君……」
名前、覚えていてくれたんだ。
そんなたわいもないことが、たまらないほど嬉しかったのを覚えている。はっきりと。
◆◇◆◇◆
僕は彼女にこの九年間の大まかな話をして、それからここ一ヶ月にあった僕の恋の話をまたも滔々と語った。
彼女はかつてと同じように、僕の下らない話を優しく聞いてくれた。
「僕は、そんなに女々しいかな」
その時の僕は、かつてのように彼女が僕を支えてくれると期待していた。優しい言葉をかけてくれると思っていた。
改めて思い返せば、そういうところこそが僕の女々しさの象徴のようなものだ。
そして彼女は、僕の本性を見抜いていたのだろう。
一瞬伏し目がちになった彼女は、それからくわっと目を見開いて――――
「いや、良介君は女々しいよ」
僕の情けない縋りをばっさりと切り捨てた。
僕は思い出す。そうだ、彼女はこういう人だった。
初めて出会ったときも、彼女は僕の我が儘を聞いてはくれたけど、全肯定したりはしなかったじゃないか。
しかし、まさかここまで言い切られるなんて。そんなに僕は女々しいのだろうか。
額から嫌な汗が滲み出る。
先輩が僕を突き放したように、彼女にまで突き放されてしまうのだろうか?
先輩に会えなくなったように彼女にも会えなくなると思うと、焦りで手が震えてきた。
すると、それを見た彼女は――――
「……でも、別に女々しくたっていいんじゃない?」
しゃがんで、僕の顔をのぞき込んで、言った。
「性格に正解なんてないんだからさ。どんな性格の人だって必ず誰かには嫌われるんだし、どんな人だって世界中の誰か一人くらいには大抵愛されるものだよ」
「……!」
前の時と同じだ。
限りなく透明に近い彼女は、心に関してはむしろ僕の方を見透かすようにして、悩んでいる所、辛いと感じているところを的確に撃ち抜いてくる。
それは決して僕に対して甘い答えではないけれど、間違いなく優しい答えだった。
「少なくとも私は、君のことが好きだよ。気に入ってる」
彼女は僕の髪をそっと撫でて笑った。
からかうような微笑みも、僕を馬鹿にするような印象など一切与えない。
思いやりに溢れた暖かな眼差しだ。
けれどその時の僕には、彼女のそういう目線こそがなんだか子供扱いされているようで、気にくわなくて、思わず拗ねた物言いで反発してしまう。
「……その言い方で好きだよって言われても、無理やり褒めてるようにしか思えないけど」
「そんなことはないけどね。本心だよ」
僕から手を離して、彼女はくるりと一回転。
「でも、どうしても君が自信を持てないというのなら、自分自身に対して努力してみるってのはどうかな」
「……え?」
「良介君。君自身は、どういう人間になりたい?」
「え?」
彼女が何を言おうとしているのか、その時はさっぱり分からなかった。
「将来の夢でも、理想の人物でも、抽象的なポリシーでもなんでもいいよ。なにか、『こうなれたらいい』みたいな理想に向かって、全力で努力するんだ。結果としてなれたってなれなくたっていい。目標が男らしさである必要もないしね。努力しているという事実が、君に自信をくれるはずだから」
「……でも、僕の問題点が女々しさにあるんだったら、そこは男らしさを身につけられるよう努力すべきなんじゃないのかな?」
彼女は首を振った。
「君自身がなりたい君自身になる。そうすれば、君の趣味がよっぽど奇特でない限り、君のことを好きになってくれる誰かが必ず現れる。そして多分、君もその人のことを好きになれる。だってその人と君は、人としての趣味が一致しているわけだから」
「……!」
彼女は切り株の上によじ登って、空を仰ぐように両手を掲げた。
ただし、頭上は木々の密な葉に遮られて、空なんてちっとも見えやしない。
「……そうかな」
「私はそう信じてる。というよりも、じゃなかったら……世界はいくらなんでも冷たすぎると思わない? この世界を誰が作ったかなんて、私は全然知らないけどさ……」
まだ感覚でしか掴めなかったけど。
彼女の言葉は力強く、僕の内側で鳴動した。
「……でもそのくらいの優しさを、神様は認めてくれていると思うんだよね。だから安心して。君が誰からも愛されないなんてことは絶対にありえない」
自信満々に語る彼女の目はまっすぐで、ぼくには眩しいほどだった。
何の根拠があって言っているのか分からないが、その自信に満ちた表情を見ていると、不思議と元気が湧いてくるような気がした。
……もしこの時、僕が冗談めかして『じゃあ、今ここで僕が告白したら、姉ちゃんは恋人になってくれるのか』なんて聞いていたら、何かが変わったりしただろうか。
もしあのときの僕にもう少しだけ余裕があれば、そんな風に口を滑らせていてもおかしくなかった。
でも僕にはその時そんな発想はなかったし、思い返せば言わなくて正解だったとも思う。
未だ失恋の衝撃冷めやらず、ショックから抜け出せない僕には、ただ彼女の言葉をまっすぐに受け止めることしかできなくて、受け止めることだけに集中できて、それだけにまっすぐに捉えることができた。
「ありがとう。……分かった。何か模索してみるよ」
僕は自分の足で立ち上がる。
森の中は薄暗いのに、ついさっきより明るく見えた。
先ほど家を出てしばらく歩いた村の道よりも、ずっと明るく見えた。
「……元気、出たみたいだね」
「……!」
その時、僕は目の前の彼女がまた消えつつあることに気が付いた。
輪郭が朧に変化して、彼女と彼女でないものの境界線があやふやになっていく。
彼女の背後にあるはずの樹木が上から下まで全て見えてしまうほどには、その時彼女は透明だった。
「姉ちゃん……?」
僕の表情の変化に気が付くと、彼女は少し悲しそうにはにかんだ。
「私が『普通』じゃないことくらい、君はきっと気付いていると思う。その上で言うけど、私のことは忘れた方がいいよ」
「……?」
「私に関わっている限り、『君は不幸なままだから』。それじゃ、ね」
そう言うと、彼女は軽く手を振った。
「待って、姉ちゃ――――」
瞬間、桜の花びらが目の前に舞い散って、僕の視界を遮る。
そのうち一枚が目の前を掠めたので、僕は思わず目を閉じた。
そして再び目を見開いた後、彼女の姿は既にどこにも見えなかった。
◆◇◆◇◆
森を出て、山道を歩きながら考える。
今まで、考えたこともなかったけれど――――僕は、どんな人間になりたいんだろう?
将来の夢で何になりたいとか、子供の頃は考えていたけれど、今はめっきりあやふやになってしまった。
でも、彼女が言いたいのは、そういうことじゃないだろう。
「……理想か……」
イメージして、最初に浮かんできたのは、他ならぬ彼女の顔だった。
僕を二度も助けてくれた彼女。
森の中に超然と佇んで、僕を救ってくれた彼女。
あの真っ白な人のようになりたい。なれないとしても、その姿を追い掛けたい。
◆◇◆◇◆
「おお、すっきりした顔つきになったな」
家に帰ると、祖父が笑顔で僕を待っていた。
確かに、先輩に振られたショックからは立ち直った。
これから自分がどう生きていくかも固まった。
ビジョンは固まった。
でも、不安なことがただ一つ。
一体どうすればなれるのか、さっぱり想像がつかないってところだ。
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