彼女はいつだってそこにいた

イプシロン

幼年時代の追憶(夏)

 少女の話をしようと思う。

 真珠を磨き上げて作られたような、超越した美しさを持っていた少女のことを。

 暗い森の中に住んでいて、しかし暗闇から僕を何度も助け出してくれた少女のことを。


 そして、もしこれを読んだ君が彼女と出会うことがあったなら、この追想録を彼女に渡して欲しい。

 どれだけ、叫びたいほど願っても――――僕はもう彼女に会うことができないから。


 ◆◇◆◇◆


 最初に彼女と出会ったとき、僕は六歳だった。

 シングルマザーだった母親は、僕を実家の祖父母に預けて仕事に打ち込んでいた。

 僕を育てるためにお金が必要だったのが半分、残り半分はきっと働くこと自体がどうしようもなく好きだったのだ。

 そんなわけで親がいないまま幼年時代を過ごした僕だったが、祖父母は僕の面倒をしっかり見てくれたし、際だって孤独を感じることもなかった。

 でもやはり、母親からの愛情というのは何者にも代えがたいものだったのだろう。

 当時の僕にとって、一番楽しみだったのはクリスマスでも正月でもなく盆休みだった。

 ちょうど母親の誕生日が重なっているのもあって、その時期だけは彼女も田舎に戻ってくるし、僕と一緒に時間を過ごしてくれたからだ。


 だが、六歳の盆休みの時は事情が違った。

 約束の日の朝、急遽入った仕事の関係で、母は田舎へ帰ってこられなくなったと言い出したのだ。

 僕は、古寺の鐘が鳴るような困惑と絶望を味わった。

 何しろ僕はその日のために、母を歓迎するための子供ならではの『誕生日パーティ』を企画していたのだから。

 折り紙で作った飾り付け、押し花を丁寧にあしらったしおりのプレゼント、祖父母に手伝って貰って作ったケーキ、それにメッセージカード。

 どことなく少女的なのは、古き良き大和撫子然としていた祖母の教育の影響だろう。

 それらの準備にはトータルで一週間以上の時間を費やしていた。

 だが、問題なのは時間ではない。

 普段母が僕のことを全く置き去りにしても我慢できたのは、盆休みだけは必ず帰ってきてくれる、一緒に時間を過ごしてくれるという確信があったからだった。

 なのに母はその時、その唯一の確信を裏切った。少なくとも当時の僕は母に裏切られたと確信していた。

 頑張って用意したケーキ、プレゼント、飾り、メッセージ……それら全部が無駄になった。うきうきしながら用意していた自分が馬鹿みたいだと思った。

 僕はたまらなくなって、そこにいもしない母に向かって罵倒を浴びせた。

 そして、母に対する暴言を吐いた僕をしかりつけた祖父の言葉に反発して――――そのまま僕は、田舎の家を飛び出した。

 考えなんて、何もなかった。


 祖父母が暮らしている田舎の家は、限界集落まっただ中の山奥にあって、周辺は田畑や川や、さもなくば森や山といった様相。スーパーやコンビニどころか、個人商店すら全くない。お隣さんの家まで歩いて行くのも一苦労といった調子で、当然人気などあるわけがない。

 僕は家の周囲数百メートル程度の地理はその時点で把握していたが、それより遠くはさっぱり分からない。特に、道路から逸れて森の中に入りでもすればお手上げだ。

 でもその時の僕は幼かった上に頭に血が上っていたせいか、迷って帰れなくなることにまで考えが及ばなかった。

 それで、追い掛けてきた祖父母の目を欺くために、僕は安易に森への道を進んだ。

 いや、きっと道と呼べるようなものなど何もなかっただろう。だからって、そんなことかまいやしなかった。


 僕は草木が鬱鬱と茂る森の中を、掻き分けながら奥へ奥へと走って行く。

 頭が冷えるまでさらに多くの時間がかかった。


 ◆◇◆◇◆


 六歳の子供の体力などたかが知れている。

 森の草木を分け入りながら必死で走っていた僕は、いつのまにかへとへとに疲れていて、目の前に大きな木が現れたところでそのまま前のめりに突っ込んだ。僕は頭を思い切り幹にぶつけ、もんどりうってその場に転がった。

 頭からは血が流れていた。


 ……?


 僕はおもむろに立ち上がり、改めてあたりを見渡す。

 その時初めて、僕は見たことのない世界が周りに広がっていることに気が付いた。


 それで、パニックに陥ってしまったのだろう――――僕は森から抜け出すつもりで、むしろ逆に森のより深いところへとずんずん進んでいってしまった。右も左も分からなくなっていたのだから、無理もないことではあるのだが。

 そしていつしか、視界に移るのはどことなく陰鬱で怪しげな木々ばかりになり、ちっとも改善しない状況から来る焦りと恐怖で僕はじわじわと追い詰められていった。

 やがて歩く元気もなくなり、偶然見つけた切り株の上に腰掛けて、僕は小さく身を縮こめた。


 ――――……


 大変なことになってしまった。

 体力を使い果たしてしまったわけではないのだろうけど、気力がめっきり参ってしまって、体が重たくて動けない。

 真夏の朝だというのに木々が光を遮るせいで森の中はひんやりと寒寒しく冷たく、心までもが凍り付いていく。


 「……なにやってるんだろう、ぼく……」


 体温の冷えと同時に、頭も冷えてくる。火照っていた怒りが平熱を取り戻し、薄情だと思っていた母の顔が思い浮かんでくる。

 お母さんは、本当に僕のことをないがしろにしたのだろうか、お母さんだって本当は帰ってきたかったけれど、どうすることもできなかったんじゃないだろうか、そんなことを考える余裕も生まれていた。


 いや……でも、約束を守ってくれなかったことに変わりはないじゃないか。

 悪いのは僕じゃない。嘘をついたお母さんがいけないんだ。

 僕は、目下追い詰められていた自分の罪悪感を誤魔化すために、この逃避行に対するしみったれた言い訳をひねり出していた。


 「……」


 がさ、ごそ。

 不意に草木が擦れる音がした。


 「……ひっ!?」


 僕は思わず飛び上がって、切り株の上から転げ落ちる。地面に生えた固い雑草が、頬をかさかさと撫でつけた。

 実際のところ、それはただの風だったのだが、僕には獣か何かの気配のように感じられた。

 日頃から、祖父にきつく言いつけられていた。人里を離れた森はけだものの世界だから、安易に踏み入ってはならないと。入った途端、猪や熊に食い殺されてもおかしくないと。

 今思えば流石に大げさだし、猪が人を食い殺すなんてことは滅多にないと分かるのだが、その時の僕はまだ子供で、祖父の言うことを馬鹿正直に鵜呑みにしていた。

 だからこそ見知らぬ森の奥深くに入ってしまったという状況が、僕にとっては背筋が凍るほど恐ろしいことだったのだ。


 僕はもうすっかり身動きが取れなくなって、切り株の上で小さく小さくなっていった。


 「……うう」


 あまりの心細さと情けなさから、涙まで零れてきて、しまいには大泣き寸前のところまできた。

 ちょうど、そんなときだったのだ。


 「あれ……?」


 「……!?」


 彼女が、僕の前に現れたのは。


 ◆◇◆◇◆


 「……人間?」


 突然に現れたその女の人は、鬱鬱とした森の中にあまりに不釣り合いなほど美しかった。

 白いサンダルと白いワンピースを身につけた彼女の肌は、それらに負けないほど純白で、透き通るような色合いは磨き上げられた真珠を彷彿と刺せる。

 髪すらも真っ白だったが、それは老齢による白髪と言うよりはむしろ、空の星の色を集めたような清廉な輝きを湛えていた。


 「君、そんなところで何をしてるの?」


 人間でないのは見るからに明らかではあったのだが、その時の僕にとってはどうでも良かった。

 ただ、自分以外に誰かがそこにいてくれているという事実だけで、心は果てしなく安らいだ。


 「……おねえちゃんはだれ?」


 ただ、もう一声安心が欲しいと思ってしまったのは失敗だった。


 「あー……えっと、私?」


 僕がそう聞くと、彼女はばつが悪そうな顔をして頬を人差し指で掻いた。その指はすらりと細かった。


 「まあ、お化けみたいなものかな」


 「ええっ!?」


 まさかそんなことを言われると思っていなかったので、とても面食らったのを覚えている。

 そういえば確かにお化けみたいな外見だと、僕はその時初めて気付いた。


 「え、えっと……」


 「ああごめんごめん、取って食べたりはしないよ。怖がらせちゃったかな」


 彼女は、申し訳なさそうに眉を落とし、はにかんだ。

 そうやって笑う彼女の面立ちを見て――――僕は、たとえ彼女が人間でなかったとしても、きっと悪い人ではないのだと思った。


 「ところで、君の名前は?」


 「ぼくは……深江良介」


 「そう、良介君。……で、改めて聞くけどこんなところで何をしてるのかな」


 「あっ……」


 「何か力になれるかもしれないから、お姉さんに話してご覧よ。ん?」


 彼女の笑顔には、人を安心させるものがあった。

 その微笑みに釣られて、気付けば僕は今日あったことや僕自身のことについて、彼女に滔々と話していた。


 ◆◇◆◇◆


 「それでね、おかあさんが! おかあさんがぼくとのやくそくをやぶって! せっかくよういしたのに! やくそくをさ!」


 「なるほどね、そんなことがあったんだ」


 一体どれだけ懇々話し続けただろうか。昂ぶった子供のいうことなんて、相当に支離滅裂だろうし、話が行ったり来たりするし、聞き苦しいことこの上なかったはずだ。

 しかし彼女は、笑顔一つ崩さず、優しい笑顔で僕の話を聞いてくれた。


 「いっつもきてくれないから、ずっとがまんしてるのに! なのにさ! きてくれないからさ!」


 そうやって聞いて貰えるとなんだかただそれだけで僕の言葉が肯定されているような気がしてきて、怒りも少しずつ和らいでいた。語気こそ相変わらず強かったが、心はかなり冷えていたのだ。


 「……寂しかったんだね」


 「そんなんじゃないよ! でも、でもさ! おかあさんがやくそくをやぶるから……」


 「……だったらさ。もしお母さんが良介君のことを迎えに来てくれたら、良介君はお母さんのことを許してあげられるかな?」


 「……!」


 僕に同調するでもなく、されども否定するわけでもなく。彼女は、ひらりと躱すように、僕の言葉を包み込んだ。


 「……それとも、お母さんが君のことを迎えに来てくれても、君はまだ、お母さんのことが許せない?」


 「……」


 許せない、なんて思うはずがない。

 だって、僕はその時母に会いたくて仕方が無かったからこそ、裏切られたと思ったわけで。

 それは裏を返せば、母のことを大切に思っているからこそ生まれた怒りなのであって。


 「……でも、きっとむかえにきてくれないよ。だっておかあさん、いましごとでいそがしいし。それに、おかあさんがふだんはたらいているのはとおくのまちで、ここまでくるのになんじかんもかかるから」


 「そうかな。きっと君のお母さんは、君がお母さんのことを好きなのと同じくらい、君のことを愛してくれていると思うよ」


 「……」


 僕はそれでも、彼女が言うとおりに母が自分を迎えに来てくれるとは思っていなかった。もしかしたら、僕はこのまま森を抜け出せないかもしれないし、仮に誰かが迎えに来てくれるとしても、それはきっと祖父母のどちらかなんだろうなと確信していた。

 彼女は、そんな僕の内心すらもお見通しだったのか、立ち上がってその場でくるりと回ると、切り株に腰を下ろしていた僕に手を差し伸べた。


 「じゃあさ、お母さんが迎えに来てくれるまで、ここでお姉ちゃんと一緒に遊ばない?」


 「ここで……?」


 僕は困惑した。彼女に対してはすっかり気を許していた僕だったが、森のことは未だに怖くて、草木が風で擦れるたびに、表情に出さないまでもきゅうきゅうと心臓が締まる思いをしていたからだ。

 草と根だらけで足場も悪ければ視界も悪い。こんな場所で遊ぼうだなんて、流石に無理があるんじゃないか? だから、彼女が差し出した手も、すぐに握ることはできなかった。


 「怖がらなくてもいいよ。大丈夫、ちょっとだけ強面だけど、この森は優しい森だから」


 でも、それも含めて彼女にはお見通しだったのだろう。一向に手を掴もうとしない僕の手首を逆に掴んで、彼女は強引に僕を立ち上がらせた。


 「うわっ、とっと……」


 「何が好き? 動くのが好きか、草花が好きか、それとも虫とか動物が好きか。きっとなんでも、君を退屈させたりはしないと思うよ」


 彼女は、森一帯を指でざっと一瞥してから、心底楽しそうに言った。


 「え、えっと、じゃあ……」


 その声が、あまりにも心地よく僕の耳に飛び込んできたので僕は、


 「……全部」


 ――――なんて、ちょっとふざけたことを言ってみたりした。

 彼女は、そんな僕のふざけた言葉も笑顔で受け止めて、


 「分かったよ、じゃあ時間がある限り全部楽しもうか」


 ……って、優しく言ってくれたのだ。


 ◆◇◆◇◆


 それからの時間は本当に楽しかった。

 彼女が言ったとおり、その森は僕が思っていたよりずっと優しくて、色々な感動を僕に与えてくれた。

 木々によって複雑に組み上げられた森のアスレチックは複雑で、公園の遊具なんかよりよっぽど楽しかった。

 たびたび姿を現す形さまざまの虫や動物について、彼女が教えてくれた小話も面白かった。

 途中で見つけた木の実は、良く分からない変な味がしたけど、悪くない気分だった。


 鬼ごっこをした。かくれんぼをした。虫取りをした。彼女はワンピースをたくし上げながら走っていたのに、僕よりずっと機敏だった。

 たった半日ほどの時間のうち、ありとあらゆることを楽しんだ。


 始まりは朝だったはずなのに、いつの間にか空が赤くなっていた。密な木々の隙間からは夕日も殆ど入ってこないから、深紅に染まる頃まで気づけなかった。

 気付かぬうちに昼を跳び越えてしまうほど、僕は森に夢中になっていたのだ。

 いや、違うか。

 今思えば、僕は森に魅せられていたというより彼女に魅せられていたのだ。

 薄暗い森の中で、ただ一人妖精のように輝いていた彼女の事が。


 彼女がいたから、何もかもが美しく見えた。


 でも当時の僕は、まだその感情の意味をよく理解していなかったのだ。


 そして、一日中走り回ったらもうへとへとになって、いよいよ動ける気がしなくなった僕は、勾配がついた茂みの上に倒れるように寝転がった。


 「……あー! たのしかった!」


 彼女と共に過ごす時間は、僕にとって本当に楽しい一時だった。

 あまりにも楽しすぎて、自分がどうしてここに来たんだったかを忘れてしまうほどに。

 いっそもう、僕は彼女に会うためにこの場所に引き寄せられたんじゃないかとさえ――――。


 「ねえ、お姉ちゃん。つぎはなにをしてあそぶ? ぼく、まだまだなんでも――――……」


 僕は、傍で佇んでいた彼女に視線を向ける。


 「……?」


 「りょ――――――たあ――――――!!」


 「――――……おかあさん……!」


 思わず僕は、へとへとの体を起き上がらせて周囲を見渡す。

 聞いた。確かに聞こえた。

 それは間違えようもない母の声で、


 「良太――――どこにいるのお―――――お願い、出てきて―――――お母さんが、お母さんが―――――」


 母の声は掠れきっていて、もう出ない声を腹の奥から絞り出しているといった調子だった。

 後にも先にも、母があんなに声を涸らした姿を僕は見たことがない。

 それだけ方々を走り回って、そこら中をかけずり回って、僕を探し続けてくれたんだろう。

 仕事も何もかも投げ出して……。


 「……」


 ごめん、お母さん、ごめん。


 急いで行かなければいけない、と思った。

 でも、『お姉ちゃん』とも離れたくないと思った。

 どうしたらいいんだろうかと悩んだ僕は、助けを求めるように彼女の方を見た。


 「……」


 するとどうしたことだろう。

 ついさっきまでくっきりと見えていた彼女の輪郭が、いつのまにか不鮮明になっていたのだ。

 彼女自身の存在感も、それに比例して薄まっていく。その色も、その厚みも、その気配も。

 まるで白砂糖が水に溶けるように、彼女は空気と一体化して消えつつあった。


 「ふふ、そろそろお別れの時間になっちゃったみたいだね」


 僕の目を見て、彼女は何かを悟ったかのように目を伏せた。


 「ど、どうして消えてるの、おねえちゃん……」


 「私は、普通の人とは違うから。だから君とも、ずっと一緒にはいられないんだ」


 そして僕をそっと抱擁すると、母の声が聞こえてきた方向に僕の体を向けさせた。

 眼前には、なだらかに続く坂道があった。下り坂だ。

 茂みに隠れていたのもあって、今まで傾斜を殆ど意識していなかったのだ。


 「……さ、このまままっすぐ駆け下りたら、きっとお母さんのところに行ける。そしたら言いたいこと、ちゃんと伝えるんだよ」


 「お、おねえちゃ――――」


 「そら、行った!」


 ワンプッシュ。殆ど圧を感じないほどの弱々しい力で、彼女は僕の肩を押した。

 でもその一押しに任せて、僕は一気に坂を駆け下りた。

 ここで踏み切らなければ、僕はずっとこの森を出られないような損な気がしたから。


 森を抜けるわけだから、行く手を遮るように無数の木々が入り交じっている。

 それに一日中遊んでいたんだから、体力だって殆ど残っていない。


 なのに、不思議なほど体は軽く、まるで落ちるように僕の体はまっすぐに前へと進んでいく。

 そして、次第に木々の間隔は広がり、夕焼けが僕を迎えるように強く差し込んできて――――


 「おかあさあんん!!」


 ぱあっと、目の前が開けた。


 「――――! 良太……!」


 そこに母が待っていた。

 倒れるように飛び込んだ僕を受け止めようとした母は、勢い余った僕と一緒に舗装された道を転がった。

 その道は、前に祖父に車で連れてこられたことがある道だった。

 実家から随分と離れた場所だ。

 いつの間にか、こんな遠くまで来ていたのか。

 そして母は、こんなところまで僕を探しに来てくれたのか。

 こんなにも母は僕のことを愛してくれていたのに、僕は気持ちも考えずに――――。


 せき止められていた感情が、一気に噴き出して。

 ぼくは、砂だらけのまま泣きじゃくった。


 「おかあさん、ごめんなさい、ごめんなさい。しんぱい、かけて……!」


 ぼろぼろと涙を流す僕を、同じく砂だらけになった母はそっと抱きしめてくれた。


 「ううん。私もごめんな。あんたとの約束、守ってやれないで。今日があんたにとって大事な日だってことくらい、わかりきってたはずなのに」


 腕の力が自然と強くなる。母が今日の一件でどれだけ辛い思いをしたのか伝わってきて、僕は一層悲しくなった。

 そして同時に、自分がどれだけ恵まれていたかを思い知った。

 その日、家に帰った後僕達は改めて母の誕生日パーティを開催した。

 明朝には母はまた仕事に出かけてしまったが、もう寂しいと思うことはなかった。


 もし、あのとき彼女に出会えなければ、僕はこうやって素直に母と抱き合えただろうか。

 仮に森から出られたとしても、わだかまりを残してしまったのではないだろうか。


 彼女がいたからこそ、僕は母の思いを素直に受け止められた。


 だからありがとうを伝えたかったけれど――――その後、何度か森の近くまで来てみたものの、彼女の気配は一切感じ取れなかった。

 一度は草木を分け入って、森の中に入って探してみたけれど、やはり人の気配はしない。

 祖父母に聞いても、そんな女の子のことは知らないと言う。

 狭い田舎のことだ。祖父母が知らないということは、村の誰かでないのは間違いない。

 では、彼女は誰なのか? どこからやってきたのか? どうしてあの場所にいたのか?


 考えたが、答えがでるはずもない。状況に変化もなく、ただ漠然と日々は過ぎていく。

 その後僕は、祖父母のいる田舎を出て、町で母と過ごすようになり、距離的にも森から乖離した。

 時が経つにつれて、僕の中であの日の思い出は過去のものになっていき、彼女への記憶も一度、毎日の生活に埋没していった。

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