第六話 if( abs(X)< Δ )

 絶対領域こそ至高。

 それが俺の持論だった。もちろんこんなこと職場の連中には一言も話していないが、たまに飲み会の席なんかで仄めかしはしているから勘のいい奴は察してるかも知れないな。裸やモロ出しなんぞは下品なだけ、もの欲しそうな顔で扇情的なポーズを見せるのもしらけちまう。そんなものよりも俺は着衣の、それもちらりと見える素肌や隠しようもなく現れてしまう身体からだの曲線にエロティシズムを感じるのだ。その中でもやはり絶対領域が白眉だ。

 もう一度言う。絶対領域こそ至高、なのだ!


 俺の朝は通勤途上のエスカレーターから始まる。東京都心部の中でも最深部を走る地下鉄路線、そのターミナル駅での乗り換えにはえらく長いエスカレーターを使うことになるのだがそれこそが俺にとっての活力源だ。

 昨今は「エスカレーターは歩かずに」なんてマナー広告も見かけるが、それが浸透するにはまだ時間を要するだろう。とは言えこのクソ長いエスカレーターを歩こうとする者なんぞ滅多におらず、おかげで隣を行く下り線に立つ人たちを心ゆくまで観察できるのだ。これぞまさに僥倖だな。


 午前八時二〇分、俺が毎日決まってこの時間に上っていくのと同じくその女性もまたこの時間に下りてくる。今日の彼女はアニマルプリント、白地に黒のあれはヒョウ柄だ。薄手の春物コートは前を開けたままなので彼女の魅力的な下半身がよく見える。赤に近い茶色の髪はストレートのセミロング、白いTシャツにヒョウ柄のショートパンツが朝の場面ではえらく目立って見えた。

 俺は彼女と視線を合わせないよう視界の端でその姿を鑑賞する。スリムであるが肉感も感じさせる足には底の厚いスニーカーと白のオーバーニーソックス、そしてパンツとソックスに挟まれたその場所こそがまさに絶対領域、ゆったりとした速度で降りてくるその姿はまさに天からの贈りものだった。

 絶対領域降臨!

 俺はいつの間にか日々訪れるこのひとときを心待ちするようになっていた。


 そんな彼女のスタイルは決まってショートパンツをメインにしたコーディネートだった。それは今日のようなアニマル柄もあれは白の無地、カーキー色はたまたデニムなどなど、ただし共通しているのはカットオフタイプではないことだった。そしてもうひとつの特徴はオーバーニーソックス、股下何センチかの短いパンツに膝の上まで覆うソックス、色や素材は異なれど、この組み合わせが変わることはなかった。きっと彼女なりのこだわりがあるのだろうと俺はそう考えていた。

 そして今朝もまたスマホの画面に目を落とすふりをしながら、名も知らぬ彼女とすれ違う十数秒のひとときを俺は楽しむのだった。



――*――



 絶対領域、あの聖なる空間がそう呼ばれるようになったのは二〇〇〇年頃のことらしい。しかし俺はその名が知れ渡るもっともっと以前からそれを目にしていた。

 チョロ美、真名は比呂美ひろみだったか浩美ひろみだったか、とにかく「ヒロ」だ。公団住宅に住んでた俺たちが遊ぶ後をついて回るその姿を見た駄菓子屋のオヤジが「金魚のフンみたいにチョロチョロくっついてるなんて、ヒロ美ちゃんじゃなくて『チョロ美ちゃん』だなぁ、ハハハ」なんて言ってたっけ。それからはみんなしてあいつをチョロ美って呼ぶようになったんだよな。

 で、そのチョロ美なんだが、俺達のような公団住まいではなく両親と祖母との四人家族の一戸建てに暮らす子だったんだ。ところがそのおばあちゃんがやたらと躾に厳しい人で、女児は年頃を迎えるまで足を見せるものではないと、とにかくうるさかった。でも母親はかわいい服を着せたくて、結局、両者の間を取ってレギンスかニーハイソックスを履かせるってのが落としどころになったんだ。俺があいつの家庭の事情みたいなそんな話を聞いたのはずいぶんと後になってからのことだったっけ。

 とにかくそんなわけで俺にとってショートパンツとニーハイソックスが織りなす絶対領域の存在はガキの頃から日常の光景だったわけだ。


 チョロ美は特に俺によく懐いていた。二歳上の俺を「よっちゃん」って呼んで、互いの家もよく行き来した。しかしそんな日常もある契機を境に終わりを迎える。そのきっかけは俺だった。

 小学校高学年の男児ならばその多くが経験するであろうこと、それは大人になるための通過儀礼でもあるのだが、その日の朝から俺はチョロ美を避けるようになってしまった。なにしろあいつを見るたびに得体の知れないヘンな気持ちが自分の心を占有するんだ。そしてそんな自分に対する恐怖と不安、まるでそれから逃げるように俺はあいつから距離を置くようになっていった。


 やがてチョロ美も中学生になる。俺は三年、あいつは一年、高校受験の忙しさもあって同じ学校に通いながらも接点は無いも同然だった。

 チョロ美はバレーボール部に所属していた。背は高くなかったがその名の通りコートの中をチョロチョロ走り回って一年生ながらも活躍していた。そんなある日のこと、体育館の前に部員が集まっていた。どうやらチョロ美が練習中にケガをしたらしい。自宅が近いこともあった俺はみんなからチョロ美を送っていってくれないか、と頼まれた。久しぶりにまともに顔を見たチョロ美は昔の面影を残しながらも十分にかわいくなっていた。


「よっちゃん、ごめんね」

「いいよ、気にするなって。それより立てるか?」


 そのとき俺の目に飛び込んで来たのはケガをしたチョロ美の左足だった。ハイソックスにパッドの入った膝サポーター、そしてテーピングされた腿と練習用のショートパンツとの間には紅潮した絶対領域があった。

 十分に大人びた領域を前にして、いやがうえにも高鳴る鼓動、俺は自分自身を必死に取り繕った。そのおかげか久々に訪れた二人きりの時間だったのにあのときはロクな会話もできなかったっけ。

 思えばあれが俺とチョロ美が二人で過ごした最後になったんだな。あいつは高校から女子高に行っちまったし、俺は地方の国立大学だ、その後のことは風の噂に訊くこともなかったな。



――*――



 それは大きなプロジェクトが片付いたある日のことだった。連日オフィスに泊まり込んでの追い込み作業を終えた俺はその日の午後から三日間の代休を取得するよう命じられた。おしゃべりに興じる女子高生やひたすらスマホを見つめてゲームを楽しむ学生、いつもと違うこんな光景を目にするのは本当に久しぶりだ、そんなことをぼんやりと考える午後のひとときにその出来事は起こった。


 東京西部の主要ターミナル駅、その駅から乗ってきた女性のファッションはそのままランニングだかホットヨガでも始めそうなスタイルだった。

 少しばかり長めのTシャツに春らしく薄手のパーカーを羽織っている。目深にかぶった白いキャップからは金色の髪が伸びていた。彼女は俺の正面に座るとセミロングの髪をさらりと後ろに流す。そして肩にかけていたリュックを足の間に挟むように置くとすぐさまスマホの画面をスワイプし始めた。

 彼女の足にはコットンのレギンス、カラーはライトグレーだ。よく目にする黒ではない、グレーなのだ。足元は街歩きにも映えそうなブランドもののスニーカー、適度にふくよかなふくらはぎ、膝から腿にかけてはコンプレッション機能を兼ねたステッチが筋肉の陰影を際立たせている。そしてその先では長めのシャツの裾が他者の視線からそのエリアを防御していた。そう、彼女はショートパンツなど着けずにシャツとレギンスだけというなかなかに攻めたコーディネートだったのだ。

 突如目の前に広がった魅力的な光景、俺はそれをしばし楽しむことにした。彼女は十分にリラックスしていた。最初は深めに腰かけていたが徐々に腰が前に出てくる。するとシャツに覆われていたその部分も少しだけめくれかけて露わになりつつあった。

 丁度よい角度だ、ぴったりとフィットしたレギンスに包まれた核心がすっかり見通せている。立体裁断というのだろう、ステッチは凝った曲線を描いていて中心部には縫い目がない仕様になっていた。


 電車が揺れると彼女の身体からだも併せて揺れる。足の間に置いたリュックが倒れないようにと彼女は器用にそれを挟み込む。瞬間、キュッと締まった下半身に浮き上がった筋肉がライトグレーの陰影となって現れる、もちろんその付け根のあたりの部分もまた。

 これは何なんだ。黒ならまだしもライトグレーはヤバいぞ。身体からだの線どころか筋肉の動きまではっきりわかるなんて。それでも立っているのならシャツやパーカーで隠されているであろう部分が、今はこちらから丸見えではないか。今そこで繰り広げられているのは、俺にとって絶対領域の魅力を遥かにしのぐ光景だった。そう、今このとき、俺にとっての至高は敗北してしまったのだ。


 いかん、目が離せない。もし俺の視線に気付いたならば、彼女は即座に席を立ってしまうだろう。何しろ次の駅まではまだまだだ、下衆な目から身を守るためならば黙って移動するのが正解だろう。

 そうなればこの至福のひとときもそこで終了だ。俺は自分の気持ちを悟られまいと俯き加減に、しかし視界の左斜め上あたりで魅力的な部分を堪能することにした。


 ところがだ、事態は思わぬ方向に転がる。


「よっちゃん……よっちゃんじゃない?」


 その声に思わず顔を上げた俺の目の前では懐かしい面影を残す顔が微笑んでいた。


「やっぱそうだ、よっちゃんだよね」

「チョロ……か?」

「あ――懐かしいなぁ、その呼び方。そうだよチョロ美だよ。元気してた?」

「あ、ああ、なんとか」


 それからチョロ美は席を立つと明るい笑顔とにぎやかな声とともに俺の隣に移動してきた。リュックを挟むために少し広げた足が俺の足に密着する。あのレギンスが俺の足に。視線を落とすとそこにはほどよい肉付きの足が無邪気に揺れていた。

 ヤバい、マジでヤバい。とにかくこの動揺を悟られないようにしなくては。俺はその場を取り繕うかのように今はIT企業に勤めていることや今日から代休だのと、とりとめのない話で間をつないだ。そして今は実家のすぐ近くに部屋を借りてひとり暮らしをしていることも。


「へぇ――マネージャーなんてすごいじゃない。でもよっちゃんらしいなぁ」

「すごくなんかないよ、残業ばっかでさ。だからこんな時間に帰宅なんて、ほんとに久々なんだ。ところでチョロ美は今、何をやってるんだ? 学校の先生になったって噂を聞いたけど」

「ああ、あれね。辞めた」

「辞めた? 教職持ってるのにもったいないなぁ」

「なんかさ、水が合わないっていうか、想像してたのと違う世界だったんだよね」「ふ――ん。で、今はどうしてるんだ?」

「ボランティアみたいなもんかな。辞めた学校のコネがあってさ、放課後に学童保育の指導員をやらせてもらってるんだ。今日もこれから、ね」

「なるほど、それでそんなカッコしてるのか」

「そうそう、毎日が体操着だよ。でもさ、ジャージとかってなんか野暮ったいじゃない。だからこうして少しでもオシャレなコーデにしてるんだ」


 そう言ってチョロ美はシャツの裾をパタパタさせて見せた。目の前ではさっきまで俺を虜にしていた部分が見え隠れしている。しかし今のそれに艶めかしさは感じられず、代わってそこにあったのは無邪気で健康的なエロティシズムだった。


「それに私、未だにスカートって落ち着かなくって。だから普段着は相変わらずショーパンだよ。これでもまだまだイケるんだから」


 そう言ってケラケラ笑うチョロ美を前にして俺の気持ちは徐々に落ち着きを取り戻していた。しかし今度は別の意味で鼓動は高鳴っていた。もちろんそれが意味するものが何かを俺は自覚していた。

 脳裏にはいつも後をついて回っていたあの頃のチョロ美の残像が、そこにすっかり見違えて魅力的になった今の彼女がオーバーラップする。俺はもうしばらくこの懐かしくも甘い気分を楽しみたいと考えていた。



「ねえ、よっちゃん」


 チョロ美が突然に身を寄せてきた。そして俺に耳打ちする。


「久々の再会を祝してさ、いっしょにお食事とかしない? そうだ、早速だけど、今夜とか行っちゃう?」


 いたずらっぽく微笑むチョロ美を見ながら俺は躊躇することなく頷いた。そして俺は思った。


「今日からちゃんと名前を呼ばなきゃかなぁ、チョロ美じゃなくて」




第六話 if( abs(X)< Δ )

―― 幕 ――



次回は

  「第七話 ゆかりスウェット」

でお会いしましょう。

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