第五話 ヒーローごっこ

「ほら、また見てたでしょ」

「な、何を」

「女の子よ、今さっきあのお店に入ってった女の子」

「み、見てないよ」

「見てたね、絶対。私にはわかるもん」


 なぜだ、なぜ妻にはわかるのだ。オレは目で追っていただけなのに。


「あなたって案外なのよね」


 オレより一歩下がった位置取りで歩きながら妻はオレの仕草について評論家然とした態度で語り始めた。


「仕事柄あなたが周囲に気を遣う人ってのは知ってるわ。だから道を歩く時もこうしてなるべく広がらないようにしてる。そりゃたまには手なんか繋ぎたいなんて思う時もあるわ。でもあなたの気持ちもわかるからこうして一歩下がって歩いてるんだけど、そうすると見えちゃうのよ」


 すると妻はおもむろにオレを追い越してそのまま先を行く。ちょうど目の前の交差点で信号が赤に変わった時だった、妻はおもむろに振り返ると人差し指を立てていたずらっぽく微笑んだ。


「さて、おわかりいただけただろうか?」


 どこかで聞いたようなセリフをナレーションそのままに声真似して見せる。

 わからん、さっぱりわからん。


「なあ、もったいつけないで教えてくれよ、なあ」

「では正解です」


 妻は少しばかりのオーバーアクションで首を左右に振った。それは真横だったり斜め上だったり、まるで初めての都会に興味津々なおのぼりさんのように。


「どう、わかった? 今のはあなたの真似、形態模写よ。あなたっていつも結構キョロキョロしながら歩いてるのよね、それはあなたのクセなのかも知れないけど。それでね……」


 目の前の信号が赤から青に変わる。オレたちは二人並んで広い横断歩道を歩き始めた。そして妻の種明かしはなおも続く。


「その動きが止まることがあるのよ、ほんとにピタッと。おしゃべりしてるときなんかは会話まで止まるし、私がしゃべってても生返事だし。あなたは気付いてないかも知れないけどよくあるのよ」


 交差点を渡り終えると妻は再びオレの前を行く。


「そういうときのあなたって女の子を見てるのよね」

「そ、そうか? オレは全然意識してないんだけど」

「別に責めてるわけじゃないのよ、あなたが道行く女性を見てるってだけでヤキモチを焼くような年齢としじゃないしね」


 ごまかしてはみたものの妻の指摘はドンズバだ。それにしてもなんて鋭い観察眼なんだ。


「実はまだあるのよね。あなたがそうやって気を留める女性ひとのことなんだけど」

「今度は何だよ」

「それはね、ショートパンツ。ね、そうでしょ?」


 恐れ入った。なんと妻はそこまで見抜いていたのか。確かに今さっきもオレの視線は追っていた、ショートパンツ姿のを。


「わかった、オレの負けだよ。その通りだ、ショーパンのを見てた」

「よしよし、素直、素直。まあいいけどね、私も腹を立ててるわけでもないし」


 まいったなぁ、こりゃしばらくは注意しなきゃだ……って、ちょっと待て、まだ続くのかよこの推理ドラマは。


「それともうひとつ」

「今度は何だよ」

「あなたってショートならなんでもいいってわけじゃないのよね。どちらかと言えばボックス型のシンプルなタイプ……そう、半ズボン、ショーパンって言うよりもあれは半ズボンよ。だからキュロットぽいのには見向きもしないのよ」


 そして妻の追及はますます核心に迫っていく。


「最初は足フェチなのかなって思ったんだけど……ううん、そうじゃないのよ。だってあなた、ミニスカートには反応しないし。そんなに好きなら今度サプライズで私もなんて思ったこともあったんだけど、とにかくあの手のパンツって買うのも勇気がいるのよね。だってJKとかに混じってレジに並ばなきゃなんて、あり得ないわ」


 確かにオレはショートパンツ姿の女性が好みだ。それにオレのこだわりもご指摘の通りだ。比較的シンプルな形状、例えばデニムのショートはいい。ただし裾がカットオフされているのはダメだ、食指が動かん。

 他にも、そうだなぁ、コットンのシンプルな、ほんとに四角い感じのがいい。ただしやたらとハイウエストなのは好きになれない。それならばローライズの方が全然イイ。

 それにしてもオレのこの性癖とも言えそうな嗜好はどこから来たんだろうか。

 中学生時代か?

 そうだ、きっとそれだ、下校時によく目にしていた女子テニス部の連中だ。一年生はスコート禁止なんて謎の縛りがあって、新入部員たちはみな白いショートパンツを履いてたっけ。

 うん、確かにあれはよかった。オレの好みに刺さってたことは確かだ。

 しかしそれよりも前からそのはあったんじゃないか?

 だからこそあの部員たちがやたらと気になったわけで……。

 ならば、オレのこののルーツって何なんだ?


 そんなことを考えながらすっかり黙り込んでしまったオレに向かって妻が呆れた声を上げた。


「もう、女の子の次は妄想タイムなの?」

「あ、ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「ほんとにもう、そういうのは帰ってからにしてよね」


 こうして妻の声で日常に引き戻されたオレだったが、それから間もなくして自分の深層を垣間見るような出来事が起きる。

 それはほんの些細なことがきっかけとなって。



――*――



 飲んだ水はすぐに汗となり塩へと変わる。そんな猛暑の中、オレと後輩社員は並んで歩道を歩いていた。

 ヤツが頑張って来たこの商談もようやっと契約にこぎ着けた。これで十月からはお客様のオフィスで我が社のシステムが稼働するのだ。そして今上期の目標も達成ということだ。

 気を良くしたオレたちは会社に戻る前にどこかで涼んでいこうと手ごろなカフェを探していた。


「ところで先輩、先輩はこの辺りって初めてっすか?」

「そうだなぁ、新宿と言えば歌舞伎町やら伊勢丹やら、あとは家電量販店を巡るくらいか。同じ新宿でもこっちの方に来ることはまずないな。あ、でも新宿御苑ならうちのカミさんと来たことがあるぞ」

「そうっすか。それじゃ二丁目なんかは?」

「二丁目? それってあれだろ、LGBTとかそういう……ま、オレにはそんな趣味はないし、一生縁のない街だろうな」

「実は先輩、ここ二丁目っすよ」


 左手には公園、それを囲んでいるのは雑居ビルやらオフィスビル、今自分が立っているここが都内有数のその手の街であるとはとても思えなかった。


「この先に自分がよく行くイイ感じのカフェがあるんっす。場所柄スタッフはそっち系なんですけど、いや、むしろ細かいところまで気が利くんです、彼ら。なかなか居心地がいいんっすよ」

「お、お前、ま、まさか……」

「いやだなぁ先輩、夜ならまだしも、まだ昼間っすよ。これから行く店はほんとにただのカフェっすよ。一丁目と二丁目はさっき曲がって来た交差点んとこで隣り合ってるんっす。それにこの先には新宿三丁目の駅もあるんっすから、自分にとっちゃここいらはただの通り道っすよ」


 おいおい、紛らわしいヤツだなぁ。

 それにしても、言われてみればオフィスビルの合間に建つ雑居ビルには小さな看板が並んでいる。そしてそれらは明らかにおとことかおとこを想起させる店名だったりする。まだ日が高い時間だからかどの店も開いてはいないようだが、オフィスとゲイバーが混在するこのカオスな雰囲気が自分にとっては妙に面白く新鮮に感じた。



「先輩、先輩、ちょっと怖いもの見たさで覗いてみません?」


 カフェを出てすっかり汗が引いた後輩社員は楽しそうに笑いながら目の前の小さな交差点を右に曲がる。そこに広がるエリアではこの時間でもいくつかの店が営業していた。しかしそれらはその手のバーではなく煽情的なアンダーウェアや書籍、DVDなどを並べた店だった。

 店頭には肩を寄せ合う男二人のポスター、それはアニメ風の絵柄だったがボーイズラブのそれとはまた違った趣だった。鍛え抜かれた髭面ひげづらの男、見事に割れた腹筋と小さな布で隠された局部が大写しになったポスターなどなど、どれもみなそこはかとなく見てはいけない何かを感じさせるものだった。

 後輩社員は小さなグッズショップの前でオレを手招きすると、まるで観光ガイドでもするような素振りで入って行く。オレもヤツの後を追う。するとまず目に飛び込んで来たのは平積みされたその手の専門誌だった。


「実はこの店、よく覗くんっす。もちろん自分、そっちの趣味はないっすよ。ここのジョークグッズが面白いんっす。去年の忘年会のビンゴ大会、覚えてます? ここで買ったのを出したんすよ。ゲットしたのが営業部の女子だったんすけどね、大ウケでしたよ」


 そう言えばあったなぁ、そんな話。箱を開けてみたら出てきたのがゼンマイ仕掛けで歩くイチモツだったって、大笑いしてたっけ。

 そうか、こいつの仕業だったのか。

 楽しそうにグッズを見て回るヤツをそのままにオレは傍らのグラビア誌に目を落とす。表紙を飾るのは短髪のイケメン男子、彼らはふんどしやら競泳タイプのビキニやらで挑発的なポーズを見せていた。オレは物珍し気を気取ってそれらを流し見ていたが、奥の一角に並ぶ周囲とは違った雰囲気のあたりで目が止まった。

 そこではまだ小学生であろう少年が無邪気な顔で笑っていた。それは撮影用のポーズなんかではなく、まるで盗撮と言わんばかりの構図で半ズボンや男児用スクール水着姿であどけなくも無防備な姿を晒しているのだ。

 それを見た瞬間、自分の心の中で何かがはじけた気がした。

 じっとりと吹き出す汗、高まる鼓動、オレはそこに並ぶ同様の数冊から視線を動かすことができなくなっていた。


「どうしたんっすか先輩。あ――まさか、興味あるんっすか、こういうの」


 ヤツの素っ頓狂な声でオレは白昼の金縛りにも似た感覚から我に返った。

 いかん、何やってたんだ、オレ。

 カフェの居心地はよかったし、今までに経験したことのない雰囲気も味わうことができた。しかし自分はこの街にこれ以上の深入りをしてはいけない、と自分の中の何かがそう警告している。もう契約も済んで納品日程も決まったのだ、あのお客様はヤツに任せておけばよいだろう。そうすればオレがこのエリアに再び足を踏み入れることはないだろうし、あんなものを二度と目にすることもないのだ。



「先輩、今度はどうしたんっすか?」


 既に自動改札を通り抜けた後輩が不思議そうな顔で改札機の前で立ち止まるオレを見る。オレは慌ててこの場を取り繕うための言葉を探した。


「あ、ああ、カミさんに枕カバーのいいのがあったらって頼まれてたのを思い出したんだ。そういうわけでちょっと伊勢丹を覗いてから直帰するよ」

「了解っす。書類は先輩のデスクに置いておきますんで、明日よろしくっす」


 そう言って後輩は一礼すると構内の人波に消えていった。そしてオレはヤツの姿が完全に消えたのを確認すると踵を返して地下道出口を目指した。



 オレは再びあのグラビア誌が並ぶ棚の前に立っていた。

 タンクトップにショートパンツ姿で自転車のサドルに足を掛けている少年、その目はカメラレンズの向こうに立っているであろう人物を見ていた。


 自転車に足を掛けるなら普通はペダルだろ、なんでサドルなんだよ。


 そんなツッコミを自分自身にしてみたもののその理由は理解していた。あられもない姿で強調される少年の股間、その隙間からは白いブリーフが垣間見える。テープで封印などされていないそのグラビア誌を何食わぬ顔で手に取ってパラパラとめくってみるとそこにはページを追うごとに一枚、また一枚と身に着けているものを脱がされていく少年の姿が写っていた。

 まずはタンクトップ、リストバンドにヘアバンド、スニーカー、続くページでついに少年はショートパンツとソックスだけの姿となる。

 これをめくればこの子はブリーフ姿になり、そしてついには……オレはそこでページを閉じる。そして何事もなかったかのようにそれを元の場所に戻すと足早にショップを後にした。


 夏の暑さとは違う熱さで顔が火照っているのがわかる。激しい動悸と軽い眩暈、地に足がついていない不思議な感覚、オレは駅への地下道を降りることなくふらふらと新宿の街を歩き回っていた。


 するとそのとき、不意にオレの中に遠い過去の情景がフラッシュバックした。


 ケンちゃん。

 歳はオレのひとつ下、学年は違えども家が隣同士のオレたちはよくいっしょに遊んだものだった。

 ナイトスカーレット。

 それは当時子どもたちに人気だった戦隊ヒーロー。舞台は秘密基地と勝手に呼んでいた資材置場。スカーレット役のケンちゃんと悪の首領を演じるオレ。

 まるでダムが決壊したかのように懐かしくも、しかし、それだけではない感情がオレの頭の中にあふれ出していた。

 それはあのグラビアで少年が見せた無邪気な姿がトリガーとなっていたことは明らかだった。



――*――



「今日は誰も来ないのかなぁ、ねえ、たっくん」


 ケンちゃんはオレのことを「たっくん」と呼んでいた。いつもオレの後について回る彼のことをオレのクラスの仲間は「タクの弟」と呼んでいたのが懐かしい。


「もうちょっと待とうよ。そのうち来るかも知れないし」


 そうは言ってみたもののオレは知っていた、いつもの遊び仲間はみんな学習塾の夏季講習に参加していることを。今日がその開催初日、だから遊びになんか来るわけないのだった。

 教育熱心な親御さんは小学二年生の夏休みから中学受験に備えて塾通いをさせ始める。幸いにも我が両親はそんなことには無頓着だったおかげでオレは自由気ままな夏休みを謳歌していた。ケンちゃんはまだ一年生、こうしてその年のオレたちはみんなから取り残されたように二人きりの夏を過ごした。


「ねえ、たっくん。ぼくね、ナイトスカーレットになりたいんだ」

「ケンちゃんはテレビに出たいの?」

「ううん、そうじゃなくて、スカーレット、スカーレットがいいの」


 そう言って立ち上がるとケンちゃんはいきなりナイトスカーレットの変身ポーズを決めた。

 そうか、そういうことか。

 オレは子どもながらに彼が求めているものを直感した。ケンちゃんは前回放映された、スカーレットが敵の秘密基地から脱出して見事勝利したあのストーリーを再現したがっているのだろう。

 よし、一丁乗ってやるか。

 ひとりっ子だったオレはまるで兄になった気分で弟分とも言うべきケンちゃんの希望を叶えてやることにした。

 ヒーロごっこ、ここではさしずめナイトスカーレットごっことでも言うのだろう、その遊びはその日から毎日のように続いた。


 ケンちゃんはとにかくスカーレットが大好きで、どうやら彼の頭の中には彼独自のスカーレット像があるらしい。もちろんそれは敵役においてもである。だからテレビのストーリーをトレースしていたのはほんの最初のうちだけで、すぐに彼オリジナルの、まさにケンちゃんワールドと言わんばかりのスカーレットを演じるようになる。


 彼のスカーレットは毎回必ずピンチに遭遇する。それは悪の組織が放つ罠にかかって捕らえられては延々と痛めつけられるのだった。

 今、ケンちゃんの頭の中ではスカーレットが磔台に拘束され、されるがままになっていた。彼のリクエストと誘導に合わせてオレは彼の顔やボディーを攻撃する。もちろんそれはやっているフリ、いわゆる寸止めだ。

 しかしケンちゃんは小学一年生とは思えない迫真の演技で苦悶の表情と叫び声を上げる。オレはますます調子に乗ってパンチの連打をお見舞いする。やがて首領の間抜けなミスによって彼の拘束が解ける。

 さあ、ここからはスカーレットの反撃だ。

 悪の首領、すなわちオレは遂に敗れてアスファルトに頬ずりすることになる。

 こんな稚拙な遊びだったがオレとケンちゃんは毎日飽きもせずに小芝居を演じていた。そんな二人だけの遊びだったが、それが原因でちょっとばかり面倒な出来事が起きたのはスカーレットが放映されたあくる日の夕方だった。


 その日、ケンちゃんは新たな提案を口にした。悪の首領の得意技に首絞めがある、今日は自分の首を絞めて欲しいと言うのだ。確かに昨日、敵の怪人が振るう鞭がスカーレットの首に巻きついて締め上げるシーンがあった。なるほど、あれを再現しようというんだな。

 よし、わかった。

 オレは言われるがままにケンちゃんの首を絞めるフリをした。苦しそうにうめき声を上げるケンちゃんスカーレット、反撃するも為す術はなく、その手は宙を搔くばかりだった。

 ところが彼はこれでも飽き足らないようで、


「もっと強く絞めて、もっと!」


 とオレに懇願する。オレはオーバーアクション気味に力をこめる演技をするも、彼はまったく納得していない。


「もっと、もっと。たっくん、もっと強く」


 オレは子どもながらに困惑した。このままでは演技は終わらない、少しだけ力を入れてみようか。

 するとそのときだった。


「あんたたち、何やってんの!」


 それは買いもの途中にここを通りかかった近所に住むおばさんだった。


「そんなことしたら死んじゃうでしょ、バカなことするんじゃないの!」


 そしておばさんはオレの顔を見るなり少しばかり困った顔を見せた。


「あなた、小島さんのところの拓斗たくとくんね。おばさん、今のは見なかったことにするから今日は二人ともお家に帰りなさい。いいわね」


 そう言っておばさんはオレたちが散開するまでその場から去らずに見守ってくれていた。その時のオレは親に言いつけられる心配よりも、本当に首を絞めなくてよかったという安堵の気持ちで今にも泣きそうだったことを覚えている。


 そんなごっこ遊びも回を重ねるごとにマンネリ化していた。ケンちゃんは日を追うごとにもっともっとと刺激を求める。子どもながらにオレも葛藤する。


 このまま続けていいのだろうか。


 それはちょうど二日ばかりの雨模様が続いて、ようやっと天気が回復した日のことだった。ケンちゃんがいつものようにオレを迎えに来て言った。


「たっくん、ぼく、すごいところを見つけたんだ。秘密基地だよ、ほんとの秘密基地なんだよ」


 興奮気味のケンちゃんに手を引かれながら、オレは家から少し離れたところにある秘密基地なる場所を目指した。


「ほら、ここだよ。ね、すごいでしょ」


 そこは建設資材置き場、砂利や砂、黄色と黒に塗られたA型バリケードなどが整理整頓されて積まれていた。

 ロープが張られただけの入口をくぐるのは子どもにとってたやすいこと、オレたちは積まれた資材に気を遣いながらも誰にも知られていないこの秘密基地で二人だけのスカーレットごっこを続けた。


 首を絞めろとは言わなくなったものの、相変わらず拘束されては痛めつけられる演技が続く。苦悶に歪むケンちゃんの表情、声を上げてのた打ち回るオーバーアクション、そんな彼の姿にオレ自身も高揚していくのがわかった。

 そしていつしか自分も悪の首領になりきって、ケンちゃん演じるスカーレットへの凄惨な責めのアイディアを提案するようになっていった。


 暑い夏の午後、半ズボンにタンクトップ姿のケンちゃんが汗にまみれながら叫び声を上げる。その声に刺激されたオレも前の晩に温めておいた拷問を実行する。

 いつしか二人が阿吽あうんの呼吸で演じるようになったそれは、まさにタチとウケ。こうしてオレたちは子どもながらに嗜虐と被虐という密かな楽しみにのめり込んでいくのだった。



 そんな二人の関係も夏の終わりとともにやってきた三つの出来事を以って終焉を迎えることになる。

 ひとつは秘密基地の閉鎖。夏休み最後の日、オレたちの秘密基地は鉄製のゲートで塞がれて施錠されてしまったのだった。

 そして新学期の開始。夏休みも終わりだ、もうあんなに長時間のごっこ遊びをやっている時間などないのだ。それはあの遊びを終わらせるに足る十分な理由だった。

 そしてこれが一番の決定打、なんとケンちゃん一家がお父さんの仕事の関係で引っ越すことになったのだ。


 ケンちゃんとの別れはあっさりしたものだった。ご両親と三人であいさつに来たケンちゃんはあの演技派の少年ではなく、母親の後ろで恥ずかしそうに俯くだけのおとなしい子どもになっていた。

 ケンちゃんと二人で共有したあの濃密な時間は何だったのだろう。しかし次々開催される秋の学校行事に流されて、オレの記憶からケンちゃんのことも二人だけのごっこ遊びの思い出もあっという間に押し流されていった。

 それは背徳感からの逃避だったのか、あるいはケンちゃんがいなくなってしまったことによる心の隙間を埋める代償行動を危惧して本能的に封印してしまったのか、オレ自身にも理由はわからないまま、とにかくあの夏の記憶は心の奥底に封じ込めてしまったのだった。



――*――



 すっかり日も落ちて群青色に染まった空に星が瞬き始めるころ、ようやっと落ち着きを取り戻したオレはバッグからスマートフォンを取り出して妻にショートメッセージを送る。


 後輩が頑張ってくれたおかげで契約が取れた。

 お祝いを兼ねて軽く飲んで帰るけど夕食は家で食べる。


 妻からはウサギが微笑むスタンプだけが返される。オレはそれを確認すると少しだけ歩を速めた。新宿二丁目の表示板が掛かる信号の交差点を曲がればそこはあの街並みだ。

 日が落ちてからのメインストリートは後輩社員と歩いたときとはずいぶんと様相が異なっていた。看板の明かり、店のディスプレイ、すべてがこれからの長い夜を楽しむ客たちを誘い込まんとしていた。

 オレはひとり歩道を歩く。

 さっきグラビアを手にしたあのグッズショップ、そこから一本入ったあたりにもたくさんの小さな看板が並んでいる。ガラス張りの路面店ではテレビに出て来そうなドラァグクイーンらしき連中が道行く人に視線を投げかけていた。


「今ならハッピーアワー、飲み放題ですよ」


 メイド姿でチラシを配る小柄なこの子は、もしかして……金髪のショートボブに薄化粧、中性的な風貌はまさにおとこか。

 そんなメイドさんに手渡されたチラシに目を落とす。そこにはアニメ風の絵柄でメイド、体操服、競泳用のビキニパンツを身に着けた少年が描かれていた。オレの鼓動が再び高鳴る。

 なんだ、この気持ちは。

 まさか、オレは……いや、そんなはずはない。

 オレには妻もいるし、なにより夫としての勤めもそれなりに果たしている。

 オレは、オレは……。


 チラシに描かれた短パン姿の少年が幼いころのケンちゃんの想い出と重なる。ふと顔上げると、オレの目の前にはあの頃のままに変身ポーズを決めるケンちゃんの姿があった。


「ケ、ケンちゃん……」


 嗜虐への欲求とそれを否定せんとする感情、妻と過ごす満ち足りた家庭の情景、それらのシーンひとつひとつがオレの中で交錯する。

 酒とは違った何かで酩酊したようなおぼつかない足元。ついにオレは誘われるがままにケンちゃんの腕を取ろうと手を伸ばす。


「いけません、お客さま」


 我に返ったオレの目の前で少しばかり引きつった笑顔を見せる性別不詳のメイド。

オレはビラを配るその手を掴もうとしていたのだった。

 そうだここは新宿だ、こんなところにケンちゃんがいるわけがないじゃないか。これは悪夢なのか、それとも……。


「あの――大丈夫ですか? もしよろしかったらお店に寄っていきませんか? かなりお疲れのようですし、お酒じゃなくてもいいですから。ね、少し休まれた方がよろしいですよ」


 メイドはオレの手を取る。その場で呆然自失となったオレは彼だか彼女だかのエスコートに身を委ねる。

 そう、あの夏と同じように手を引かれながら、雑居ビルの小さな階段の先にあるだろう秘密基地を目指して。




第五話 ヒーローごっこ

―― 幕 ――



次回は

  「第六話 if( abs(X)< Δ )」

でお会いしましょう。

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