櫛邉亨司

安良巻祐介

 櫛邉亨司くしべこうじが畔を歩いていたので顔を覆って地に伏せた。

 さく、さく、さく、と、櫛邉亨司の履いた沓踏くっつらの音がすぐ傍を行き過ぎる。

 鼻孔を刺す生臭い匂いは、櫛邉亨司の腐れた体から放たれる彼岸の薫風だ。

 ひたすらに地面に頭を擦り付けて、それを見ないようにやり過ごした。

 やがて、秋の畔道に足音は絶え、辺りに静寂が訪れても、夕暮れが青く失せ去るまで、結局頭を上げることができなかった。

 冷えきった体を震わせながら、宵の薄闇のなかに立ち上がると、櫛邉亨司の立っていた辺りに無数の虫の死骸や、水から跳ねだした蛙や魚の骸が散乱していて、腥い奇景を作り出していた。

 櫛邉亨司が、どこから来てどこへ行くのか、誰も知らない。

 ただ、死を引きずって、田舎の畦道に現れ、暫くの間、辺りの景色を眺めた後で、消えていくだけ。

 櫛邉亨司はいつも何かを懐かしがっているらしいが、それが何なのか、個人的な生前の光景を虚ろの眼で幻視しているのか、或いはもっと広範で曖昧模糊とした、いわゆる「生そのもの」を、その対極にある者たちの代表としてしんでいるのか、それもまた、誰も知らないのである。

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櫛邉亨司 安良巻祐介 @aramaki88

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