第58話

 夜風が、やけに冷たい。


 私が花火大会で事故に遭ってから三か月と二週間が経っているのだから、外の世界はすっかり秋めいていた。母が高校の冬服移行期間に合わせて病室に飾っておいてくれた冬用のセーラー服を身に纏っているのだが、それでも病室から抜け出してきた私には寒い。カーディガンがあれば文句なかった。


 ざあ、と吹き抜ける風に、私は夜空を見上げる。今日は星を掻き消すほどの明るい満月が浮かんでいた。


 遂に、この日が来たのだ。


 左腕のメッセージに気が付いてから一週間、私はずっとこの日を心待ちにしていた。母には何を楽しみにしているの、と尋ねられたが、馬鹿正直にリヒトさんのことを話せばきっと精密検査を受けさせられるので、好きな漫画の載っている週刊誌の続きが楽しみで仕方がないのだと誤魔化した。


 もっとも、本当に精密検査を受けなければならない線も勿論あるのだけれど。


 そうだったとしたら、私まずいなあ、と一人呑気に笑いながら、私はこの街のシンボルである時計塔の階段を上り始めた。流石の母もローファーまでは用意してくれなかったので、病院のスリッパのまま一段一段上がっていく。筋力の落ちた体には、かなりの重労働だった。


 三階分に相当する階段というのは、エレベーターに慣れ切った現代人ならば正常でも疲労を覚えるものかもしれないが、今の私には10階分に相当するのではないかと思うほど長く感じた。


 だが、残り数段まできたとき、そんな疲労は吹っ飛んでしまう。


 時計塔の展望台、夜空がよく見えるようバルコニーのように開放的になっている最上階に、満月を見上げる青年の姿があったからだ。


 白金の髪、すらりとした長身。服装こそはラフなシャツ姿で見慣れなかったが、あの姿は間違いなく私の大好きなあの人だ。


「……リヒトさん?」


 内心では確信しているのに、彼を呼ぶ私の声は疑問形になってしまう。青年は私の声に反応すると、ゆっくりと振り返った。


 空色の瞳に私の姿が映し出されると、彼は端整な顔にいつになく穏やかで、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。


「……エナ様、気づいてくださいましたか」

 

 私は動きづらいスリッパを脱ぎ捨てて、紺色の靴下で残りの階段を駆け上がった。同じ場所に立つと、彼の怖いほど整った顔が一層よく見えた。


「リヒトさん……?」


 これこそ、夢ではないかしら、と私はそっとリヒトさんの顔に手を伸ばす。これが現実だと証明するかのように、私の指先に温かいリヒトさんの頬が触れた。リヒトさんもまた、私の頬に手を伸ばして感触を確かめているようだ。


「リヒトさん……リヒトさんなのね!」


「はい、エナ様。僕は確かにここにいますよ」


「ああ、リヒトさん……会いたかった」


「そんなの、僕の方がどれだけこの日を待ち望んでいたかわかりませんよ」


 どちらからともなく伸ばされた腕がお互いの背中に触れる。感触を確かめるような優しい抱擁は、次第に息苦しいほど強いものに変わっていく。


「……もう、絶対に逃がしません」


言葉とは裏腹に甘い響きのあるリヒトさんの声に酔いながら、私はリヒトさんの腕の中で、かつてないほどの幸福感に涙を流したのだった。






「それにしてもよく来てくれましたね。怖がって来てくれないものかと思っていました」


 ひとしきり再会の喜びを味わった私たちは、展望台の古びた木製のベンチに座っていた。隣に座ったリヒトさんはどこか悪戯っぽく微笑んで、そんなことを口にする。


「あまりの痛みと出血のせいか、それほど恐怖は残っていませんので……。それにしても、本当に酷いことをしてくれましたね。想い人の腕に文字を刻むなんて、正気の沙汰ではないと思いますけれど」


「こうでもしないと、気づいていただけないでしょう。それに、あなたが来ないと言うならば、僕が見つけに行くだけの話ですので、怯えていようがいまいが関係ないかと思いまして」


 リヒトさんのことを聡明で常識人だと思っていた私の認識はかなりずれているようだ。恋愛面に関してはあまりにも危険すぎる。


「……あのとき、リヒトさんに殺してもらったから、この世界に帰った来られたのも事実ですし、もうあのことは責めません」


「おや、流石は聡明なエナ様。それに気づいておられるとは」


「……やはり、そうなんですね。命が危険に晒されると、世界を行き来するというのは」


 リヒトさんはベンチの上に無意識の内に置いていた私の左手を取ると、指を絡めて握りながら小さく微笑んだ。


「そうですよ、一度きりですがね。致命傷は跡形もなく消えるにもかかわらず、小さな怪我なら消えずに残ることにも気づいてますか?」


「ええ……リヒトさんはその仕組みを利用されたんですね」


 ふと、新たな疑問が湧き起こる。リヒトさんは結局、どちらの世界の住人なのだろう。私や兄と同じように、何らかの理由で瀕死に状態になってあの世界に渡っていたのだろうか。それとも、もともとあちらの世界の住人であるリヒトさんが私のことを追って世界を渡ったのだろうか。後者に関して可能なのかどうかは分からないが、もしそうだとしたらリヒトさんは今どうやって生活しているのだろう。


「リヒトさんはその……こちらの世界の住人なのですか?」


 そう尋ねると、リヒトさんは僅かに驚いたような表情をしたが、すぐに苦笑を浮かべた。


「はい。エナ様と同じ、こちらの世界の人間ですよ。この街に暮らしています。そういえば、自己紹介をしていませんでしたね」


 リヒトさんは座ったまま、僅かに私の方を向き直ると、耳障りの良い声で自己紹介を始めた。


「僕の本当の名前は、九重ここのえ理人りひとと言います。10年ほど眠っていたので……22歳ですね。見ての通り異国の血が入っていますよ」


「……てっきり、純粋な異国の方かと思っておりました」


 様々な企業の要職に就いている人間が多いこの街には、比較的海外の人も多い。高校にも外国人の生徒はそう珍しくない頻度でいるので、リヒトさんの顔立ちからしててっきり純粋な海外の人だと思ってしまった。


「よく言われます。でも、ハーフですよ。異国人の母に似たんでしょうね」


 そう告げると、リヒトさんはおもむろに、シャツのボタンを外し始めた。いきなり何をし始めるのだと、問いただすようにリヒトさんの目を見つめていたけれど、次第に露わになった胸に残る大きな傷を見て、口を噤んでしまう。


「……12歳のとき、心臓の手術を受けたんです。昔から身体が弱かったので、手術の成功率は五分五分といったところだったらしいんですが、案の定、手術中に昏睡状態に陥って今まで眠っていたというわけです」


「……大変でしたね」


 当たり障りのないことしか言えない。12歳なんて、ちょうど遊びたい盛りだったろうに。


「そうでもありませんよ。向こうの世界はなかなか楽しかったですから。目覚めても自由に動き回れない体である可能性があるのなら、あのままあの世界で生きて行こうと思っていました。僕を保護してくれた公爵夫妻は優しかったですし、充分な教育も受けさせてくれましたからね。精神面の成長も遂げられたので、むしろ目覚めた今、僕が年相応の行動をとっていることに家族は驚いているようですよ」


 それはそうだ。12歳で昏睡状態に陥ったリヒトさんが目覚めたら、彼の心は12歳のままだと思うだろう。リヒトさんの家族の驚きを思うと、何だかふっと笑えてしまった。


「……僕の指輪は随分と持ちがいいなと思っていましたが、原因となった病気が治って、適切な医療施設に入れられていたことが大きいようですね。カイ様の指輪は2年で壊れてしまったのに……」


「兄は、リヒトさんがこちらの世界の住人だということを知っていたのですか?」


「知っていたら、僕をあなたに近付けはしなかったでしょうね。僕の方が随分先にあの世界にいましたから、カイ様は特に疑うこともしなかったようです」


 リヒトさんがハーフでなければ、そうもいかなかっただろう。私も、異世界転移という非現実的な出来事を前に、傍にいるリヒトさんが同じ世界の住人ではないかと疑う余裕などなかった。


「そういえば、リヒトさんは指輪をしていませんでしたね」


 見飽きるほどに見た彼の指に指輪がついていれば、私が気付かないはずがない。そう思ってからふと、あちらの世界で息絶える寸前にリヒトさんの首元から覗いた鎖に繋がれた空色を思い出した。


「首から提げていましたからね。石の色が違っても、カイ様やエナ様は見ればわかってしまうでしょう」


 上手いこと隠されていたものだ。思い返せばそういうようなことがまだ山ほどあるような気がして、思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「まあ、昔話はそれくらいでよいのです。この先のことを話しましょう」


 リヒトさんは再び私の手を握ると、にこやかに微笑んだ。私はもう知っている。そのアルカイックスマイルには必ず裏があることを。


「目覚めてからこの2週間で調べましたが、エナ様のお父様はどうやら僕の父が代表を務めるグループ傘下にある会社の役員をされているそうですね。3日以内に、会社を通じて僕とエナ様の縁談を持ち掛け、1週間以内には正式な婚約を結びたいと考えて――」


「ちょ、ちょっと待ってください!」


 突然明かされたもろもろの事実に驚いているのもあるが、淡々と進められる彼の計画に物申したくなった。リヒトさんは「何か?」とでもいうように、にこやかに微笑んだままだ。


思わずその両頬を指でつねる。ここが現実世界だと思うと、どうやら私は遠慮が無くなるようだ。


 リヒトさんは空色の瞳を目一杯見開いて、私をじっと見下ろしていた。頬をつねられているはずなのに、それでも不細工に見えないリヒトさんの顔立ちの端整さには最早苛立ちを覚えるレベルだ。


「何でいきなり婚約とかそういう話になるんですか! リヒトさんはともかくとしても、私は一般庶民ですからそういうことを言われても困ります!」


 リヒトさんは私の両手に自分の手を重ねて、リヒトさんの頬をつねる私の手を離すと、再びにこやかに微笑んだ。


「逃がさない、って言ったでしょう? 本当ならあの世界で僕のものにしようと思っていたのに……妥協したんですからエナ様も観念してください」


「そういう、ことではなくて!」


「……まだ、逃げようとするんですか? いいですよ、やってみればいい。海を越えようが国を越えようが、絶対に逃がしませんけどね」


 油断をすると再び瞳が翳りそうな勢いのリヒトさんの胸倉を掴み、私は思いきり自分の方へ引き寄せ、その勢いのまま形の良い唇に口付けた。


「っ……す、少しは、私の気持ちも考えてくださいということです! あなたはいつもそうです、私が逃げることにばかり怯えて……。私だって、リヒトさんのこと、す、好き……なのに」


 いざ言葉にするとこうも照れるものなのか。一気に頬に熱が帯びる。きっと頬も耳も真っ赤に染まっていることだろう。リヒトさんはよくこんなことをさらりと言ってのけるものだ。異国の方だというお母様の教育の賜物なのだろうか。

 

「……エナ様が、僕を、好き……?」


 なぜ疑問形になるのだ、と軽く問い詰めたいところではあるが、今の私にはそんな余裕もなかった。リヒトさんの胸倉から手を離し、両手で熱くなった頬を包む。恥ずかしくて目の前にリヒトさんの顔も見ることが出来ない。


「あ、当たり前でしょう……。あと、この世界では私の名前に敬称はいりませんからね! 敬語も然りです!」


 万が一、いや、充分に予想できることなのだが、リヒトさんが私の病室に押し掛けてきたときに「エナ様」呼びは非常に困る。両親に何と言い訳をすればよいのだ。


「……あまり嬉しいことばかり言うと、舞い上がってしまいます。ですが、敬語はこの国の言葉を喋るときの癖なのでこのままにさせていただきますね」


 私は頬を両手で包んだまま何度か頷いた。癖ならば仕方ない。私だって、丁寧な言葉のリヒトさんの方が耳慣れているのだから不都合はなかった。


「瑛奈」


 不意に名前を呼ばれ軽く顔を上げると、理人さんの手が私の頬にへばり付いていた手を剥がし、そのままぐっと距離を縮める。


「っ!」


 今度は理人さんから唇に口付けられた。こんな短い間に2度もキスをして、私の心臓ははちきれそうだ。目を瞑って柔らかい感触に耐える。まだとても、キスを楽しむだとかそういう段階に無い。

 

「月が綺麗ですね」


 ようやく唇を離した理人さんが、目の前で魅惑的に微笑む。隠し切れないその色気に酔ってしまいそうなのをぐっとこらえて、私は何とか強がって笑ってみせた。


「死んでもいいわ、とでもいえばいいのですか?」


 理人さんはその答えに一層笑みを深めた。どうやら満足いったようだ。


「二度も瑛奈を殺すのは流石に憚られますね……。今度こそ次はないですし」


「私だってごめんですよ!」


 絶対に意味は伝わっているはずなのに、微妙に笑えない冗談を持ち出すなんて酷い人だ。抗議の意を込めて理人さんを見つめていると、彼はふっと笑って片手で私の両頬を挟み込んだ。


「瑛奈は可愛いですね」


「っ……いきなりは反則ですっ」



 拝啓 異世界にいる海兄さん


 どうやら私はこの先も、理人さんに振り回されることになりそうです。

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囚われの妹姫は歪んだ愛から逃げ出したい 染井由乃 @Yoshino02

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