第57話
やけに重たい瞼をこじ開けるようにして、目を覚ます。目の前には、真っ白な天井が広がっていた。
ここは、一体どこだろう。
上手く体が動かないので、視線だけで辺りを見渡してみる。私の周りを囲むのは白ばかりで、ゆらゆらとカーテンのようなものが揺れていた。
次第に明瞭になる意識の中で、規則正しい電子音を拾う。これは、聞いたことがある。兄がまだ生きていた頃、病室でよく聞いた音だ。
消毒液のような、何とも言えない匂いも兄の病室で嗅いだことがある。私はぎしぎしと軋むような体を無理やり起こし、やっと周りの様子を目にすることが出来た。
白く清潔なベッドの上に、私はいた。換気をしているのか、陽の光が漏れるカーテンが風にゆらゆらと揺れている。
右腕の肘の内側には点滴の針が刺さっており、抜けないようにテープで固定されていた。よく見れば、帯の無い浴衣のような病衣の中にも様々な色のコードが繋がっている。
私、リヒトさんに殺されたのではなかったっけ。
ぼんやりとそんなことを思い出して、慌てて腹部や胸に触れた。どこにも傷跡らしきものは見当たらない。ただ、左腕と左脚、それから首元には包帯が巻かれている。その部分は動かすと僅かに痛んだ。
これは、夢だろうか。死した私の魂が、あまりの未練の強さゆえにみる、憐れな夢。そう思えば納得できるような気がした。最後にこんなに穏やかな場所を見られたのだから、悪くないかもしれない。
「まあ、千羽鶴ですか? ぜひ飾って差し上げてください。瑛奈ちゃんもきっと喜びますよ」
「ありがとうございます。優しい同級生を持って、瑛奈は幸せ者ですね」
聞き慣れた声、懐かしい言語。私は声のする方に自然と注目していた。耳元に触れても、イヤリングはつけていないのに不思議だ。
「失礼します、時雨さん。点滴を交換しますね――」
カーテンを纏めながら姿を現したのは、看護師らしきユニフォームを纏った女性だった。そのすぐ後ろには、この三か月間ずっと会いたかった人の姿がある。
「……瑛奈?」
――お母さん。
最後に見たときよりだいぶ痩せて、綺麗だった髪に白いものが混じっているけれど、間違いない。その優しい声の響きとその姿はお母さんだ。
「っすぐにドクターをお呼びします!」
看護師さんは、慌ててベッドの傍に伸びたボタンを押しながら何やら連絡しているようだった。一方で母はふらりと私に近付くと、まるで祈るように床に膝をつきながら、そっと私の手を握った。
「……瑛奈?」
まるで幻を見るかのような母の表情に思わず笑ってしまう。もっとも、夢を見ているのは私の方なのだけれども。
「……お、かあ、さん……」
呼んでみたはいいが、口の中も喉もカラカラで上手く発音できない。のどの渇きまで鮮明に再現されるなんて、リアルな夢だなあ、と一人感心してしまう。
どうせ夢ならば、お父さんにも会わせてくれればいいのに。そんなことをぼんやり考えてしまう。
これが夢ではないと気づくのは、それから3日後のことだった。
結論から言うと、私は元の世界へ戻ってきたようだ。
看護師さんによる包帯の交換を受けながら、私は状況を整理する。
目覚めて一週間が経ち、劇的な回復を見せた私は殆ど通常と同じレベルで思考を働かせることが出来るようになっていた。まだ許可は出ていないが、体だって動かせそうだ。
何度思い返しても、私はリヒトさんに殺されたはずなのに、どうして戻ってこられたのだろう。一週間、その疑問に対して懸命に考え抜き、そして私なりの一つの結論に達した。
それは、二つの世界を行き来する方法は、命の危機に晒されることが条件だったのではないか、というものだ。
あの花火大会で私が負った怪我は相当ひどいもので、頭も打っていたため命の危険があったそうだ。目覚めずにこのまま死んでしまっても、何ら不思議はない、という程度には。
特に、この数週間は何度も両親が呼ばれ、今日明日中が山だというような事態が続いたらしい。それは私の指輪の石にひびが入った時期と重なるのだ。
リヒトさんはあの指輪があるうちはこの世界に戻ることが出来ると言っていた。それはつまり、この世界にある私の体が生きているうちは、ということだったのではないだろうか。
そう考えると、私をこの世界に戻してくれると言っていたフィーネさんが「怖がらせるといけないから」と言って元の世界に帰る方法を教えてくれなかったのも、一応の納得がいく気がした。苦しまないように死を迎えられるような魔法でもかけてくれるつもりだったのかもしれない。
今となってはフィーネさんと落ち合えなくて良かった。もしそのままフィーネさんが私の命を奪っていたら、きっと兄はフィーネさんを許さなかっただろう。死刑より酷い結果になっていてもおかしくない。
今となっては全て推測の域を出ないが、混乱した頭にある程度の折り合いをつけるには充分だった。そもそもあの世界の出来事自体、この世界に戻った今、本当のことだったと証明する術はないのだから。長い夢を見ていたのだと言われればそれまでだ。実際、そうかもしれないと私自身思い始めていた。
「次は左腕の包帯を替えますね」
担当の女性看護師さんは優しい人で、おかげで私は退屈をしていない。毎日両親や小百合が会いに来てくれるのだが、仕事や学校のある彼らはずっと私の傍にいられるわけではないのだ。母も、私が落ち着いていることに安心したのか、今日は街の方へ必要なものや、私が退屈しないための本やら漫画やらを買いに行っている。
泣きながら私が目覚めたことを喜ぶ両親の姿を見たときには、本当に戻ってきてよかったと思った。ごめんね、と繰り返しながら泣きじゃくる小百合の姿には少しだけ胸が痛んだけれど、今ではもう普段通りの私たちに戻っている。
これで、良かった。あれほど焦がれていた優しい世界に戻ってきたのだ。
それなのに、胸のどこかにぽっかりと穴が開いたように感じるのは、ある意味で失恋をしたからなのだろうか。最後にはあんなにもひどいことをされたのに、それでもなお恋しく思っているなんて、私も救いようがない。何よりも、夢の中の人物に恋をするとは、私もなかなか乙女な部分もあったものだ、と小さく微笑んでしまう。
「……あら? こんなところに傷があったかしら……」
ぼんやりと考え事をしていたが、看護師さんの声にふっと我に返る。看護師さんは処置の手を止めて、私の左腕前腕部の火傷の跡を食い入るように見つめていた。
そこに浮かび上がる比較的新しい切り傷に、私は目を見開いた。
「っ……これ……」
私は看護師さんが驚くのも構わずに、自分の左腕を顔の前に掲げた。筋力の落ち切った体ではこんな動作もまだ辛いものがあったが、そんなことはどうでもいい。
――満月の夜、時計塔でお会いしましょう。
それは、慣れない言語の勉強の中で、幾度となく目にした御伽噺の一文だった。この世界の人からすれば、ただ不規則な切り傷に過ぎないのだろうけれど、あの世界の文字を知っている私には、ちゃんと意味のあるまとまりとして読み取れた。
瀕死の傷は消えているのに、なぜこの傷だけ残っているのか。そう思ってふと、あの世界へ行ったときのことを思い出す。思えば、左半身に負った火傷は跡形もなく消えていたのに、くじいた足首の痛みだけは残っていた。命に支障のない傷は、持ち越す仕組みになっているのだろうか。
そんな仕組みを見越したうえで、リヒトさんは私のこのメッセージを残しのだろうか。この傷を残したのは他でもない、リヒトさんなのだから。リヒトさんが私に刃物をむけていたあのとき、確かに最後に私の左腕に何やら描くようにナイフを沈めていた。あれが、このメッセージだったなんて。
嬉しいのか感動なのか、それともあの時の恐怖を思い出してなのか分からないが、気づけば私の両目からぽたぽたと涙が零れ落ちていた。看護師さんがぎょっとして私を見つめている。
私は涙を拭いながら、そっと看護師さんに笑いかけた。
「あのっ……次の満月っていつか分かりますか?」
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