第56話

 あてもなく走るという行為は、思ったよりも精神を抉ってくる。リヒトさんが張ったという強力な結界の中で、私はどこへ行けるだろう。真っ先に椅子で窓を割ろうと試みたが、やはり無駄だった。その間にも、リヒトさんはゆっくりと歩いて私を追いかけてきているようで、圧倒的な力を見せつけられ余計に恐怖が増していく。


 今のリヒトさんは絶対にまともじゃない。一種の錯乱状態にあるとでもいうべきだろうか。そんな状態にさせてしまったのは恐らく私なのだけれども、今更私が何を言ったってリヒトさんが止まってくれるとは思えなかった。


 どうしたら、どうやったら逃げられるのだろう。心臓はもうこれ以上ないくらいに暴れている。走りすぎたせいでいつからか吐息に血の味が混ざっていた。


 私は本棚の影に身を潜めて、両手で口を押さえて何とか呼吸音が聞こえないように努めた。だが、その努力を嘲笑うかのように、冷え切った足音が迷うことなく私に近付いてくる。


「そんなに痛くされたいですか? ここに来てまでこんなに必死に逃げられると、流石に傷つきますね」


 どこの世界に刃物を持った相手から逃げ惑わない人間がいるだろう。相手が想い人とは言え、刺殺されるなんて御免だ。私はガタガタと震える足に鞭打って、近づいてくる足音から逃げ惑う。


 どこに、一体どこに逃げれば。


 本棚のあるエリアから抜け出して、再び大きな窓の前に走り出したとき、何かのはずみで落ちていたらしい本に躓いて倒れ込んでしまった。滑らかな床なので擦り剥きはしないが、摩擦で薄皮が破れる感触があった。


「っ……」


 痛みに顔を顰めるのも束の間、追い詰めるように近づいてくる足音に私は咄嗟に体を起こそうとした。


「っ……!?」


 上体を起こそうと床に着いた右手に鋭い衝撃を感じた。それはほとんど同時に痛みに変わり、やがて焼けるような熱さへと変わっていく。


 バランスを崩して仰向けに倒れた私の間の前では、月の光を受けたリヒトさんが端整な笑みを浮かべていた。リヒトさんが右手に持つナイフの先には、少量の血液が付着していた。


 右手を、斬られたのだ。それも出血量はそこそこあり、脈打つたびに赤があふれ出てくる。あまりに痛みに両目一杯に涙が浮かんだが、それでも私は逃げることを諦めていなかった。


「もうおしまいにしましょう、エナ様。ほら、逃げないでください」


 リヒトさんは笑みを崩すことなく、軽く私に覆いかぶさるような姿勢でそう囁いた。それと同時に、腹部に信じられないような激痛が走った。


「っ……ああああああああああああああああっ!!!!」


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い。内臓を抉るような冷たい刃先に気が遠くなる。僅かな吐き気と共に咳き込めば、口から大量の血液が流れだした。乱れた呼吸のせいで口の中の血液を吸い込んでしまい、余計に咳き込んでしまう。


「痛いですね、お可哀想に。でも、エナ様が逃げるからこういう目に遭ってるんですよ?」


 リヒトさんは私の腹部からナイフを抜き取ると、間をあけずに今度は胸部に突き刺した。その衝撃に声を上げることも出来ず、ただただ涙だけが溢れて行く。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い嫌だ、息が、息が胸から漏れ出て行く。肺が、肺が上手く膨らめないって泣いてる。私と一緒だね、痛い、苦しいよ、リヒトさん。


「あまりに苦しそうなお声を聞くのは忍びないので、声帯も切っちゃいますね」


「っぐっ……!」


 ああ、最後に出す声は随分醜かったな。腹部と胸部の痛みが激しすぎて、ナイフの刃先でゆっくり喉を切られたというのに、あまり痛みも感じなかった。もちろん声ももう出ない。


 ひゅって喉から息が抜けていく。こんな時にぼんやりと文豪作品を思い浮かべる私はどうかしているのかも。あの主人公は、弟を、おとうと? わたし、にいさんしかいない、にいさん、かいにいさん、たすけて、くるしいよ。


「へえ……そんな状態になっても助けを求めるのは僕じゃないんですね。あなたは本当に僕を嫉妬させるのがお上手だ」


 そう、私、お話を読んでいるだけ、そう、これは全部お話。私、おひめさまだったの、ずっと、ここで、わたしは。りひと、光、綺麗だね、綺麗、わたし、なにをまちがったの。


「随分と眠そうですね、エナ様はもうお休みの時間ですか?」


 返り血と月の光を浴びるリヒトさんは、まるで本当に私がベッドに横たわっているのではないかと思わせるくらいに穏やかに笑んでいた。リヒトさんの大きな掌が、血を吐き続ける私の口元を拭い、そっと頬を撫でる。その光景を認識してはいるのだけれど、もう、それに対する反応は起こらず、ただ脳内はぐちゃぐちゃに溶けるようにぐるぐると回っていた。ぐるぐるぐるぐるぐるって。

 

「思いがけず右手は傷つけてしまいましたからね……。左の前腕部にしようかな……」


 リヒトさんはぐったりとした私の左腕を掴むと、躊躇いもなくナイフの刃先を沈め、何かを描くように動かし始めた。その光景を見ても、痛みも恐怖も感じない。ただ、時折体がぴくぴくと痙攣するのを感じながら、酷い眠気に襲われていた。


「死んだって、僕からは逃げられないことを、ここに証明して差し上げますね」


 リヒトさんは用が済んだのか私の左腕をそっと床の上に降ろすと、再び私の頬を撫でた。もう、視界が歪んで何も見えない。ただ不思議なくらいにリヒトさんの耳障りの良い声だけははっきりと聞こえていた。


「さて、そろそろ終わりですかね。ご安心を、僕もすぐに後を追いますから」


 リヒトさんの大きな手に、前髪を掻き上げられる感触がある。露わになった額に、柔らかいものが触れた。それは瞼に、頬に、唇の端に、と繰り返される。


「……一番の楽しみは、取っておくことにしましょうか」


 どこか愉し気にリヒトさんが囁くのと同時に、一瞬だけ視界が明瞭になる。


 きらり、とリヒトさんの首元から伸びる細やかなチェーンの先に、空色に光る何かが見えた。だがそれも一瞬のことで、すぐに視界は歪んでいく。


 リヒトさんは再び私の耳元に顔を寄せると、場にそぐわぬ甘い声で囁いた。


「それでは、この世界では左様なら。……昨日も今日もこの先も、ずっと愛していますよ、エナ様」


 呪いのような愛の言葉と同時に、私の意識はふっと遠のく。まるで得体の知れない闇に取り込まれるような感覚で、深い深い眠りについた。


 遠くで響く0時を告げる鐘の音は、まるで私の街の時計塔の物のような優しい響きだった。

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