第55話

「いい夜ですね、エナ様」


 リヒトさんは昼間と何一つ変わらない調子でにこりと笑んだ。私が肩を震わせていることになど気づかない風に。


 どうしよう。


 どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。


 深呼吸をして落ち着いたはずの心が途端にパニックになる。一番見つかりたくない人に見つかってしまった。油断をすれば過呼吸になりそうなほどに大きくなる不安と絶望を何とか理性で抑え込む。


 落ち着かなきゃ、まだ夜の散歩で誤魔化せる段階にいるじゃない。


 そう自分に言い聞かせ、私は張り付けたような笑みを浮かべた。


「え、え……本当に。あんまり綺麗な夜でしたから、お散歩でもしようかと思って……」


「お一人でですか? それは良くないですね」


 リヒトさんは一歩と距離を詰めた。鋭いリヒトさんは私が異様に動揺していることに気づいているはずだ。それなのに、敢えてそれに触れて来ないのが不気味で仕方がない。


「僕も、ここに来ればエナ様にお会いできるかと思って来てしまいました」


 妙に意味ありげな言い回しは、余計に私の不安を煽った。いや、単にリヒトさんは私の部屋の隠し通路がここに繋がっていることを知っていただけかもしれない。そのうえで、私が夜の散歩に出かけるために部屋を抜け出すことを見越して、ここにやってきたのかも。


 半ばこじつけのようなことを考えてふと、私は気づいてしまう。王妃様から賜った第三書庫の鍵は、私が保管しているのだ。


「……どうやって、ここにお入りになったのですか?」


「急いでいましたもので、鍵は魔法で壊してしまいました。申し訳ありません」


 大して悪びれもせずにリヒトさんは笑う。仮にも王族の持ち物である部屋に不法侵入するなど、いくらリヒトさんが由緒ある公爵家の跡継ぎだからと言ってどんな咎があるか分からないのに。


 つまり、そんな罪を厭わないほどに、リヒトさんはこの部屋に入る理由があったのだ。そして、その理由というものは、この状況を鑑みれば誰だって予想がつく。


 リヒトさんは、気づいている。今夜、私がこの世界から逃げ出そうとしていることに。


 私は、目の前に迫るリヒトさんを見上げた。あんなにも綺麗な空色の瞳は、見ているこちらが不安になるほどに翳っている。


 ここで捕まったら、終わりだ。凍り付きそうな恐怖と共に、私は悟った。


「っ…………」


 気づけば、体が先に動いていた。靴を脱ぎ捨て、全速力で書庫の出口を目指して走り出す。こうなってしまったら、リヒトさんに捕まる前にフィーネさんと落ち合って元の世界へ戻してもらうしかない。


 書庫は私の知っている図書館よりもずっと広い。それこそ、高校の体育館と同じくらいかそれ以上の広さがある。元より運動が得意ではない私の体は、このところ走っていなかったことも相まって、すぐに悲鳴を上げた。だが、痛くても足が引き攣ってもここで立ち止まるわけにはいかない。私はただただ全速力で走り続けた。


 努力の甲斐あって、ようやく書庫の出口に辿り着く。装飾の凝った重厚な扉のドアノブに手をかけ、すぐに押し開こうとした。


 しかし、ドアノブがまるで動かない。渾身の力を込めて押し下げようとしても、まるでびくともしなかった。鍵がかかっているのかと思い、ワンピースのポケットの中の鍵に手を伸ばしたが、鍵穴が壊れているのを見てさっと血の気が引いていく。


「無駄ですよ、ついさっき、強力な結界を張りましたから。エナ様はこの部屋から出られません。いくら叫んでも、誰にも気づいてもらえませんよ」


 息一つ乱さないリヒトさんがいつの間にか背後に迫っていた。相変わらずその端整な顔には、笑みが張り付いていたが、確実に目は笑っていない。リヒトさんはそのまま私の目の前に立ちはだかると、開くことのない扉に手をつきながら私を見下ろした。ひどく不安定な印象を受ける目だった。


「……やはり、あなたは僕から逃げようとするんですね」


 いつもの優し気な雰囲気など微塵も感じさせない、どこまでも冷え切った声だった。リヒトさんからすればそう思っても当然の状況であるのに、あまりの恐怖からか勝手に口が開いてしまう。


「ち、違います、私は、ただ、元の世界に戻りたくて……」


「元の世界元の世界、って、子どものようにあなたはそればかりですね。僕にはアンネリーゼをあてがって、それで満足した気でいましたか? あなたにアンネリーゼのことを頼まれたとき、どれだけ僕が絶望したか……。エナ様はきっとそのひとかけらもお判りにならないんでしょう」


「そんなつもりじゃ……」


 ああ、駄目だ。何を言っても言い訳になる。全部、私にとって都合の良い話でしかないのだ。リヒトさんからすれば、私は彼を置いて逃げる裏切者に見えて当然なのに。


「ごめんなさい、リヒトさん、私……」


「ああ、もう、いいです。僕とあなたの間には余計なものが多すぎる。一度、リセットしましょう」


 淡々とそう述べたリヒトさんは、上着の内側のポケットから飾り鞘に収まったナイフを取り出した。恐らく護身用に持ち歩いている物なのだろうが、あまりにも突然の展開に、茫然としてしまう。


「大丈夫。逃げなければ、なるべく痛くないように終わらせて差し上げますから」


 にこりと笑むリヒトさんは、飾りのついた鞘からナイフを引き抜くと、乱雑に鞘を投げ捨てた。大きな窓から差し込んだ月の光が、ナイフの鋭さを示すようにきらりと反射する。


「リ、ヒト……さん? 一体何を……」


 全身から血の気が引いていく。どこか吹っ切れたような笑みを浮かべながら鋭いナイフを手にする姿に、私の体は自然と震えだしていた。


「いっそ、最初からこうすればよかったのかもしれませんね……。いつかはエナ様のお心が手に入るだなんて……僕としたことが、夢を見すぎました」

 

 リヒトさんの長い指が、首筋に纏わりつく。あまりの恐怖に声も出なかった。ただただ身体だけが、今まで味わったことのない恐怖を前に情けなく震えている。


「うーん、どこが一番苦しくないんですかね……。やはり、首を掻き斬るのがいいんでしょうか……。ご希望があれば伺いますが、エナ様は何か――」


 その言葉を聞き終える前に、私はリヒトさんの手を振りほどき、再び駆け出した。行く当てなどどこにもないというのに、ただ、逃げなければ、という本能が私を走らせていたのだ。

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