第54話

『しんあいなるゆうじん カミラへ


 とつぜんのおわかれを、どうか、おゆるしください。

 

 カミラといっしょに すごした まいにちは ほんとうにたのしかったです。


 おねえさまにも、どうぞ、よろしく。


                       あいをこめて エナ・シグレ』


「自信が無いけれど、こんな感じかしらね……」


 私はこの世界でリヒトさんから教わった文字を一文字一文字思い起こし、文法の勉強の際に見かけた例文を参考にしてカミラへの別れの手紙を書いた。誰にも見つからないように、朝、私を起こしに来るカミラだけが見つけられるように、と細やかな模様の入った便箋をふわふわとした枕の上に置く。細かい事情を説明したかったが、生憎、私の言語力が足りない。この手紙だって、きっと子供が書くような拙い文章になっているに違いないが、これが私の全力だった。

 

 便箋の上に、銀細工の中でも特によくできた薄紅色の花をモチーフにしたチャームを置いて、カミラとのお別れの準備は完了だ。久しぶりに意欲的に活動した私の姿を喜んでいたのか、今日はカミラの純粋な笑顔を見る機会が多かった気がする。最後に「おやすみなさいませ」と私に告げる瞬間も、カミラは上機嫌のままで私を疑う素振りなど微塵も見せなかった。


 カミラに何も言わないままお別れするのは心苦しいと思っていたけれど、これでいくらか心残りは減った。私は就寝用の薄手のワンピースから、外出用のワインレッド色のワンピースに着替えて、姿見で確認する。黒く長い髪は洗い晒して櫛で梳かしたまま下ろしているが、フィーネさんに会うだけであるし良いだろう。


 置時計の金色の針は、既に午後11時半を過ぎていた。恐らくもう、フィーネさんは蝶の姿で中庭にいるはずだ。動きやすいヒールの低い靴に履き替えて、私はドレッサーの裏にある隠し扉をそっと押し開けた。


 この扉の存在は、この世界に来たばかりのときにカミラに教わった。王族の私室には大抵こういうものが設置されているらしい。この先は、人気の少ない第三書庫に続いているという。そう、私が王妃様から賜ったあの大きな書庫だ。あの辺りは夜間の見回りが少なく、中庭からもそう遠くない。まさにうってつけの場所だった。


 隠し扉を開け切れば、薄暗い階段が私を待っていた。豪華な城には相応しくない冷たく乾いた風が吹き込んでくる。僅かにかびたような臭いが混じっているのも、いかにも非常用通路らしかった。


 私はベッドサイドに置いてある、蝋燭の入った小さなランタンを手に提げると、改めて約3か月間を過ごした私室を見返した。始めは豪華すぎて落ち着かないとばかり思っていたが、慣れとは恐ろしいもので、いつの間にか愛着を感じる程度には馴染んでしまっている。


「……さようなら」


 ぽつり、とそう呟いたのを最後に、私は隠し扉の先にある階段へと踏み出した。こつり、と薄紅色の靴が音を立てる。誰もいない階段に、私のその靴音は怖いくらいに響き渡っていた。暗い場所が特に怖いというわけではないが、深夜に部屋を抜け出すせいで昂った精神には耳障りなくらい良く響く。


 



 階数にして、3階分ほど下ったときだろうか。ようやく隠し通路の終わりが見えてきた。粗末な木の扉をランタンで照らせば、ところどころささくれだっている。指先に棘を刺さないように注意しながら、私はギギギと悲鳴を上げる扉を押し開けた。


 扉の先は、話に聞いていた通り、第三書庫だ。本を保管している場所ではなく、読書用のテーブルが置かれている辺りに出たようだ。大きな窓から銀色の月明かりが差している。やけに幻想的な景色だった。


 私はランタンの蝋燭を消してテーブルの上に置くと、窓の外から外を見下ろした。ここから噴水は見えないが、中庭の一部は見える。このまま下に降り、少し歩けばフィーネさんと落ち合えるだろう。


 いよいよだ。悪いことをしているわけでもないのに、脈が速くなる。ここまで来たら後は一息なのだ。気を引き締めて頑張らなければ。


「……もう少しよ、あと、もう少し」


 あと少しで、懐かしい人たちに会える。両親や小百合は今頃どうしているだろう。元の世界の私が今、どういう状況にあるのか分からないが、きっと多大な心配をかけたはずだ。


 この世界への未練を断ち切るように、私はなるべく両親と友人たちのことを思い浮かべるように努めた。もうすぐ彼らに会えるのだ。会ったら初めに何を言おうか。会いたかった、はきっとおかしいな。やっぱりごめんね、だろうか。


 きっと涙もろいお母さんは声を上げて泣くんだろうな。お父さんだって、もしかしたら同じ反応を示すかもしれない。小百合はきっと、防ぎようの無かったあの事故のことを詫びるのだろう。親しい人たちのことだ、手に取るようにわかる。


 私はそっと窓ガラスに触れた。夜の冷気のせいで氷のように冷たくなっている。私は目を瞑って、一度だけ深呼吸をした。指先に伝わる冷たさのお陰もあって、少しだけ、昂った気持ちが落ち着いていくのが分かった。


 私はゆっくりと目を見開いて、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。心の内よりずっと毅然としているその顔に、自分で何だか安心してしまう。何も難しいことは無い。この調子で中庭まで行けばいいだけだ。


 だが、その瞬間、ゆらりと窓ガラスに映りこんだ影に私は凍り付く。振り向かなくても、コツコツと響く靴音は確実にこちらへ近づいていた。


「何が、あともう少しなんですか?」


 笑うように紡がれる声。本当に、背筋が凍り付きそうだった。


 恐る恐る振り返った先に待っていたのは他でもない、私の、大切な、大好きなあの人。


「……リ、ヒトさん……?」


 闇に紛れる漆黒の上着を羽織ったリヒトさんは、端整な顔に綺麗な笑みを浮かべてみせた。

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