第53話
しばらくそうして兄の後姿を見送っていると、芝生を踏む足音が近づいてくる。少し離れていたところで控えていたカミラが戻ってきたのかと思い振り返ると、そこには穏やかに笑むリヒトさんの姿があった。その笑みを見るだけでも、ちくりと胸が痛んでしまう。
「リヒトさん……おはようございます」
私は胸の痛みを誤魔化すように微笑むと、リヒトさんは少しだけ意外そうに目を見開いた。そうおかしなことは言っていないはずなのに。
「……どうかされましたか?」
リヒトさんの様子を問いただせば、彼は取り繕ったような笑みを見せた。
「……いえ、近頃はエナ様からお声をかけていただくことなど、滅多にありませんでしたので」
意識したことは無かったが、言われてみればそうなのかもしれない。もっとも、それは殆ど「元の世界に戻れない」という絶望から日々をぼんやり過ごしていたせいなのだが。
「それは失礼いたしました。他意があったわけではありません」
にこり、とリヒトさんを安心させるように笑んだつもりだったのに、どうしてかリヒトさんの表情に疑念の色が強まる。その表情の変化に戸惑いながらも、今日がリヒトさんと過ごす最後の日だということ思い出して、気づけば私は口を開いていた。
「もしよろしければ、一緒にお茶でもいかがですか? 今日はこんなにお天気もいいですし」
一歩だけリヒトさんと距離を詰めて私は彼を見上げる。リヒトさんは相変わらずどこか浮かない表情をしていたが、彼が私の誘いを断るはずもなく、すぐに端整に微笑んだ。
「光栄です、エナ様。是非、ご一緒させてください」
そのまま私は、もう二度と会えなくなる初恋の人との時間を惜しむように、結局夕暮れまでリヒトさんと共に過ごした。このところずっとリヒトさんと一緒にいたけれど、やはり今日だけは意味合いが違う。リヒトさんの笑顔、些細な言葉、手の温もり、その全てを忘れないように、私は自らの記憶に彼の姿を出来得る限り刻み付けた。
その後で、やはり気にかかるのはアンネリーゼ様のことだ。この世界に私が来たことで不幸にしてしまった最たる人だろう。だからこそ、私は夕焼けの中で、そっとリヒトさんの手に触れて告げた。
「リヒトさん、お話があります」
「何でしょう?」
甘い笑みを浮かべながら、リヒトさんはそっと私の手を握り返してくれる。ただその温もりだけに集中したい気持ちを堪えて私はリヒトさんの空色の瞳を見上げた。
「……どうか、アンネリーゼ様が苦しい思いをなさらないよう、気遣って差し上げてください」
「……いくらエナ様のご命令でも、それは……」
「いいえ、これはただ私個人からのお願いです。アンネリーゼ様とは……確かにいろいろありましたけれど、やはり不幸になってほしくはないのです」
綺麗事だと笑うならそれもいい。ただ私に出来るのは真摯な態度でリヒトさんにお願いするだけだ。命を諦めてもいいくらいにリヒトさんに恋をしたアンネリーゼ様ならば、リヒトさん本人に言われない限り、きっと考えを改めることは無いだろう。
「お願いです、リヒトさん」
リヒトさんの瞳に、一瞬だけ苛立ちのような色が浮かぶのを私は見逃さなかった。やはり、何度も同じ話をされていい気分はしないだろう。私だってしつこいのは嫌いだが、それでもやはりこれだけは譲れなかった。
「……本当に、あなたという人は……」
リヒトさんが私の頬に手を添える。僅かに爪の先が皮膚に当たって、そのまま掠るように彼の指が動いた。ぞわり、と背筋に嫌な汗が伝う。
「エナ様は、相変わらず聖女のようなお方ですね。……いいでしょう、心に留めておきますよ」
どことなく不穏な指先の動きとは裏腹に、リヒトさんはふっと穏やかに笑んで見せた。その笑顔に、妙な緊張の糸が切れる。
「あ、ありがとうございます!」
思わず満面の笑みで礼を述べると、リヒトさんは慈しむように私を見ていた。こういう表情をされると、彼の方が何歳も年上なのだなと実感させられる。
ふと、私たちの足元に伸びた長く細い影を見て、夕暮れも終わりに近づいていることに気が付いた。少しばかり吹き抜ける風の温度も冷たくなっている。
「……今日も一日、エナ様と過ごせて光栄でした」
リヒトさんは私の頬にかかった髪をよけて、どこか寂し気に微笑む。いつだって別れの挨拶をするときにはリヒトさんはどこか切なそうな表情を見せるが、今日は私の心境がそうさせているのか、一層儚い笑みだった。
先ほどの兄との別れもそうだったが、この時間ほどつらいものはない。油断すればすぐに涙を零してしまいそうな目を必死に瞬かせて、私は笑みを浮かべ続けた。
「ええ、私も……私もリヒトさんと過ごせて楽しかったです」
思いがけず、本当の別れの言葉のようになってしまった。だが、そう不自然な流れでもないだろう。言いたいことは沢山あるが、これ以上伝えると勘の良いリヒトさんは、私の計画に気づいてしまうかもしれない。だから、この先も永遠に私の胸に秘めておこう。
「お部屋までお送りいたしますよ」
リヒトさんは紳士的にそう申し出てくれたが、私の方が限界だった。私室までの道のりで、きっと涙を流してしまう。
「いいえ……カミラと少し約束をしておりますので、ここで」
カミラを巻き込んだ嘘に、リヒトさんは納得したようだった。私とカミラの中の良さを、リヒトさんはよくわかってくれている。それを追求するような無粋な真似はしなかった。
「分かりました。では、僕はここで」
また明日、と呟きながら私の頬に口付けるリヒトさんの声がやけに切なくて、たまらずリヒトさんに腕を回してしまった。そうしてお返しをするように、私もリヒトさんの右頬にそっと口付ける。思えば私からするのは初めてだ。リヒトさんの香りを一層近くに感じるこの行為に何度も耐えられる気がしないから、これが最初で最後になったのは結果的に良かったのかもしれない。
「……エナ様?」
このくらいの触れ合い、リヒトさんからしてみればなんてことないと思っていたのに、彼は空色の瞳を目一杯見開きながら私を見ていた。よく見れば、耳の端が夕焼けに染まったかのように赤い。そんな反応をされると思っていなかっただけに、私もどうしていいのか分からなくなってしまった。
胸がきゅっと締め付けられるような甘い痛みを感じながら、私はリヒトさんの頬に手を伸ばした。温かい、愛おしい、手放したくない。
でも、これが私たちの終着点だ。
「……良い夢を、リヒトさん」
リヒトさんにとっては、私の方が夢のように形の無い不安定な存在になるだろうに、我ながら皮肉気なことを言ってしまったかと思ったが、それもいいだろう。私にとっても、リヒトさんが夢のような存在であることに変わりはないのだから。
私はリヒトさんから指先を離すと、一歩引いて王妹らしい優雅な礼をした。この世界に来て、一番綺麗にできた気がする。その姿を、リヒトさんの目に収めてもらえて本当によかった。
そのまま私はリヒトさんと夕焼けに背を向けるようにして、ゆっくりと芝生の上を歩き始めた。少し先には、慎ましく礼をして私を待つカミラの姿が見える。一歩一歩、リヒトさんが夢の姿になるのを感じながら、私は夕焼けに隠れて一粒の涙を流したのだった。
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