第52話
「綺麗ね……」
「エナ様はこの噴水がお気に入りなのですね」
カミラと共に中庭に足を踏み入れた私は、今夜フィーネさんと落ち合う場所の下見をしていた。カミラからすれば、私はただ噴水を称賛しているようにしか見えないだろう。私は水しぶきに見惚れている振りをしながら、改めて辺りの様子を観察した。
噴水は、中庭の中央にある。周囲には延々と芝生が広がり、所々に花が植えられている整備された庭だった。木々は城壁を隠すように植えられており、噴水からはかなり距離がある。つまり、この噴水はとても開けた場所にあるのだ。夜とはいえ、ある程度目立ってしまうだろう。フィーネさんはここで私にどんな魔法をかけるのだろうか。
フィーネさんの魔力は、やはり魔女というだけあってとても強大なものだった。魔法などろくに学んでいない私でも感じるほどなのだから、余程素晴らしい魔法を使えるのだろう。だが、そんな強大な魔力の持ち主の存在に兄が気付かないなんてことは考えにくい。それこそ、時間の問題であるような気がした。私を元の世界へ帰すのにどれだけ時間がかかるか分からないが、フィーネさんの存在がバレないことを祈るばかりだ。
「エナ様、あまり噴水の傍に寄るとお召し物が濡れてしまいますよ」
食い入るように噴水を見つめていたせいか、いつの間にか靴の先に水しぶきが跳ねるような距離まで足を進めてしまっていた。やんわりとカミラに注意されてようやく私は足を止める。この友人は、どんな時でも私を見守ってくれているらしい。僅かに振り返って彼女の姿を視界に収めると、私と対になる銀のブレスレットが陽の光に煌めいた。
私がいなくなった後も、カミラはそのブレスレットをつけていてくれるだろうか。そうであればいいと願いながら、私は数歩カミラの方へと歩み寄る。
その瞬間、不意にカミラが最上級の礼を見せた。私に向かってするには随分大袈裟だ。私の背後に誰かいるのかと思い、半身振り返ってみる。
そこには、質の良い黒の上着を羽織った兄がいた。少しフォーマルな印象を受ける服だから、これから公務にでも行くのだろう。人目がある以上、私も兄に向き直り、ドレスを摘まんで散々叩き込まれた礼をする。
「今日のエナはいつもより顔色がいいな」
兄は躊躇いもなく私の目の前まで歩み寄ると、そっと私の頬に手を伸ばした。温かい兄の手に、胸に渦巻く様々な感情とは裏腹に安心してしまう自分がいる。こうして触れられるのも最後かと思うと、余計に振り払う気になどなれなかった。
「昨日はよく眠れたのよ」
「それは何よりだな。エナに暗い顔は似合わない」
慈しむように私の頭を撫でる兄の手は、優しかった。手段が歪なだけで、兄は私をとても大切に思ってくれている。自ら兄と別れる道を選んだものの、兄の愛だけは忘れないでいようと心に誓った。
「兄さんもお庭を散歩していたの?」
敢えて無邪気な風を装って私は兄を見上げる。私と同じ黒色の瞳に、小さな私の姿が映りこんでいた。
「出かけようと思ったら、エナを見かけたから寄っただけだよ」
確かに中庭に面した城の渡り廊下には、従者らしき人々が何人も控えている。服装から予想した通り、兄はこれから仕事に行くようだ。
「そう、じゃああまり引き留めてもいけないのね」
何気なく言った言葉だったが、兄は妙に気を良くしたようで珍しく他意の無い笑みを見せた。子どものころ、そう、兄がまだ世界に退屈していなかったあの頃に、何度も見せてくれたあの笑みだ。私の、一番好きな兄の表情なのだ。
懐かしさと再びその笑みを見られた嬉しさに、私もつられて笑ってしまう。
「エナは可愛いことをいうね」
「……恥ずかしいわ、兄さん」
「恥ずかしがることなんてあるものか。エナはいつまでも俺の可愛い妹だよ」
兄がそう大真面目に言うものだから、自然と恥ずかしさよりも嬉しさが勝る。いつの間にか私たちの間には余計な確執が芽生えてしまったけれど、根本的な部分は何も変わらない。
「さて、本当に顔を見に来ただけだからそろそろ行かないといけない。体調がいいからと言って、調子に乗ってはしゃぎすぎるんじゃないぞ」
くしゃくしゃと私の頭を大きな手で撫でると、兄は渡り廊下で待つ従者たちのもとへ踵を返した。その後ろ姿を見て、たまらず私は兄の腕にしがみ付いた。
「……エナ?」
これで、終わりでいいはずがない。再びこの世界で出会ってからこの方、私は私の本当の気持ちを兄に何一つ伝えていないじゃないか。もっとも、伝えられないような状況に仕立て上げたのは兄本人なのだけれども、この際そんなことはどうでもいい。どうでもいいと思えるくらいには、私はもう解放されつつあるのだ。
「……兄さん」
私はそっと兄に寄りかかるように体を預ける。すぐに兄の手が背中に回った。このところ、ぼんやりとした意識の中で兄に甘えることが多かったせいか、何の疑問もなく兄は私の行動を受け入れたようだ。
「どうしたんだい、エナ」
私を抱きしめながらも兄は宥めるように再び私の頭を撫でた。以前も思ったことだが、まるで猫にでもなった気分だ。何もかも忘れてしまうくらいに居心地が良い。
兄の香りも、温もりも、全てが私を安心させてくれる。懐かしさと目前に迫った二度目の別れに、目頭が熱くなった。
「……私にとっても、兄さんはいつまでも大切で大好きな兄さんよ」
あらゆる複雑な事情を取り払って残るのは、きっとたったそれだけの単純な思いだ。この香りを、この温もりを、この声を、決して忘れずに生きて行こう。今度こそもう二度と会えない人なのだから。
「妙な言い回しだな」
「ふふ、だって、兄さんのことは兄さんとしか呼びようが無いもの」
「それもそうか」
「ええ、そうよ」
今一度、兄の姿をこの目に焼きつける。私と同じ黒い髪、黒い瞳。元の世界に戻れば写真はあるのだからその姿を忘れることはないのだけれど、それでもこうして温度のある姿を見るのはきっと最後だ。
兄もまた、じっと私を見下ろしていたが、やがて大きな手で私の頬をゆっくりと撫でた。それを最後の合図にして、再び背を向けてしまう。兄の指先が頬から離れて行くのを未練がましく思いながらも、その背を追うことはしなかった。
「……さようなら、兄さん」
声にもならないような私の囁き声を、風が攫って行く。渡り廊下から一度だけ私を振り返って手を振った兄に大きく手を振り返しながらも、私は心の中で二度目の別れに涙したのだった。
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