第51話

 みずみずしい早朝の風の中に、可愛らしい小鳥の声が混じる。昨夜から開け放したままの窓から軽く身を乗り出すようにして、私は雲一つない青空を見上げた。


「おはようございます、エナ様……って、どうされたのです!?」


 カミラはいつもとぴったり同じ時間に私の寝室に訪れた。このところ、ベッドからなかなか離れられずにいた私が窓際で風に当たっているのが意外だったのだろう。


「おはよう、カミラ。いい朝ね」


「は、はい……。それは、そうですが、まさか眠っておられないのでは……?」


 カミラは眉尻を下げ、酷く心配そうに私を見ていた。昨夜までの私の様子からして、そう考えるのは無理もない。だが、その予想を裏切って私はたっぷり6時間は眠っている。フィーネさんが帰った後、すぐにベッドに入ったのだから。


 久しぶりに、穏やかに眠ることが出来た。それはもう、夢を見ないほどに、ぐっすりと。


「大丈夫よ、カミラ。きちんと眠ったわ」


 指輪にひびが入る前のような心地で、カミラにそっと笑いかける。その笑みに、カミラは拍子抜けしたような表情をしていた。


 だが、私の調子が良いことに安心したのか、やがてカミラも表情を和らげる。カミラのこんなにも穏やかな顔を見るのは久しぶりだ。


「安心いたしました。では、早速お召し替えをいたしましょう。今日は何色のドレスがよろしいでしょうか」


「そうね……」


 カミラと共に他愛のない会話に花を咲かせる。忘れかけていたが、これが私たちのテンポだった。改めてカミラとかわす会話の楽しさを味わうとともに、一抹の寂しさも感じる。


 この世界で過ごす、最後の朝が幕を開けたのだ。







――明日の夜、日付が変わる前に中庭で落ち合おう。誰にも見られてはいけないよ。


 昨夜、フィーネさんは城から出られない私のためにそのような提案をしてくれた。フィーネさん曰く、私の指輪の状態を見る限り、いつ壊れてしまっても不思議はないそうだ。そのため、なるべく早く作戦を決行せねばならないという。


 私としても、気持ちが決まってしまえば早い方が良かった。この世界でこれ以上思い出を積み重ねても、却って辛くなるだけだ。今夜決行してくれることに、感謝の気持ちが強まるばかりだ。


 フィーネさんはどのような方法で私を元の世界へ戻してくれるのか教えてくれなかったが、私が準備することは特にないのだという。あれだけ捜しても見つからなかった帰る手段がどんなものなのか気になって仕方がないが、「怖がらせるといけないから、決行のその瞬間まで秘密だよ」と悪戯っぽく笑われて誤魔化された。今の私には、元の世界に戻れなくなることよりも怖いことなんて、何も無いというのに。


 私が今夜この世界を発つことは、もちろん誰にも内緒だ。カミラにも、伝えてはいけないとフィーネさんは言った。カミラのことは十分信用に足りるが、どこの誰が盗み聞いているか分からない、と。確かに、万が一、この計画が兄やリヒトさんの耳に入ったら、間違いなく私は指輪が割れるまで軟禁されるだろう。


 でも、この息苦しさとも今日でお別れだ。兄やリヒトさんのことを嫌いになったわけではないが、やはり私に対する仕打ちはあんまりだったと思う。今日限りで、彼らのことは私の心の中の住人にすると決めたのだ。そのうち綺麗な思い出ばかりが蘇るようになって、お伽噺のようなこの世界を懐かしむこともできるようになるだろう。リヒトさんに対する恋心だってきっと、元の世界へ戻れば消えてくれるはずだ。


 そう、消えてくれるはず。


 私はぎゅっと、空色のドレスの胸元に手を当てた。最後のドレスは結局、リヒトさんから贈られた空色のドレスにしてしまった。随分と未練がましいことをすると、我ながら自嘲気味な笑みが零れる。


 リヒトさんへのこの気持ちは、確かに恋だった。生まれて初めての恋だった。元の世界に残してきた思いと天秤にかければ、もしかすると釣り合うくらいの大きな感情だ。


 でも、二つを選ぶことはどうしてもできない。私の努力でカバーできる問題ではないのだから、仕方がないのだ。二つに一つの道を選ばねばならなかったから、リヒトさんの手を離すことに決めただけ。こんなこと、きっと元の世界でも往々にしてあるだろう。今は辛く苦しくても、きっといい思い出だったと笑える日が来る。


 元の世界に帰るとなった途端にこれだもんな、と自分の浅ましさを恥じた。リヒトさんに貰ったチョーカーの宝石部分にそっと触れながら、私はふと、昨夜フィーネさんが言っていたことを思い出す。


――君の兄上からは確実に逃してあげる。でも、君の恋人からは逃げ切れるか分からないよ。それでもいい?


 はい、と言うしかなかった。その言葉の真意も何も分からなかったが、今思えば私のこの往生際の悪い恋心を見抜いた上での発言だったのかもしれない。流石、東の森の魔女だ。私のような小娘ではとても敵わない。


「エナ様、本日はどのようにお過ごしになりますか?」


 紅茶を嗜みながら感傷的な気分に浸っていると、傍に控えていたカミラが穏やかな笑みで訪ねてきた。この笑顔とも、今日でお別れだ。それを私だけが知っていることをもどかしく思いながらも、元の世界へ戻っても決して忘れないように、と目に焼きつける。


「……そうね、カミラと一緒に中庭を散歩でもしたいわ」


 これ以上、思い出を重ねてはいけないと知っているのに、これが最後と思うと誘わずにはいられなかった。カミラは穏やかな笑みを崩すことなく、慎ましく礼をする。


「承知いたしました。すぐに準備いたしますね」


 にこりと、優し気な笑みを私に向けると、カミラは準備のためにいったん私から離れて行く。その後ろ姿さえも名残惜しく思いながら、私はそっと窓の外の景色を眺めた。澄み渡る空の色に、どうしても彼のことを思い出してしまう。


 きっと私はこの先も、空を見上げる度に思い出すのだろう。そんな予感に、ちくりと胸が痛むのを確かに感じたのだった。

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