第50話

「この世界から……連れ出す?」


 思ってもみない申し出に、一瞬息が止まるような衝撃を受けた。極限まで目を見開いて茫然とする姿は、この目の前の女性の目にそれは情けなく映っただろう。だが、そんなことを気にする余裕もないほどに、私は戸惑っていた。


「そう、この世界から連れ出してあげる。逃げたいんでしょう? こんな息の詰まる毎日から」


 女性は私の目の前のテーブルに軽く腰掛けると、意味ありげに笑ってみせた。座った拍子に豪華な青のローブがはだけ、意外にも地味な色合いのスカートの生地が覗く。貴族のご令嬢が身に着けるものというよりは、街に降りたときに見かけた平民の人々の服装に近い。


「それは……願ってもみないことですけれど、でも……」


 私はぎゅっと指輪を握りしめる。本当ならすぐにでも食らいつきたいほど魅力的な誘い文句だが、一応の警戒心は残されていた。しかし、まるで救世主のように現れた彼女の機嫌を損ねるわけにもいかない。私は足りない頭を懸命に働かせた。


「ま、まずはお茶でもいかがです? ……蝶々さんなら、花の蜜の方がよろしいのかしら」


 何分、正体が知れないのだ。蝶の姿と人の姿、どちらが彼女の基本形態なのかもわからない。だからこそ大真面目に尋ねたのだが、彼女はお腹を抱えて笑い出した。


「はははっ、花の蜜か。君は本当に面白いな、妹に聞いていた以上に魅力的なお姫様だ。だが、人を呼ばれると厄介だからお茶は遠慮しようかな」


 はー、おかしいと目尻に溜まった涙を拭うと、女性はテーブルに腰かけたまま改めて私に向き直り、茶目っ気溢れるウインクをしてみせた。


「私は、フィーネ。訳あって家名は捨ててるんだ。まあ、そんなつまらない挨拶よりも、カミラの姉って言った方が感動的かな?」


「か、カミラのお姉さまっ……!?」


 もうこれ以上驚くことなどないと思っていたのに、更に予想外の事実を告げられてキャパオーバーになりそうだ。確かに髪色や瞳の色はカミラと同じで、顔立ちもどことなく似ているけれど、まさか姉妹とは思わなかった。


「そう、カミラの姉。東の森に住む魔女ともいう」


「ま、魔女!? あ、あなたが……魔女様……」


 次々に明かされる驚愕の事実に、ただ相手の言葉を復唱することしか出来ない。カミラの姉が噂の魔女だなんて思ってもみなかった。だが、言われてみれば魔女狩りの話が上がった際に、噂などさして気にも掛けぬカミラが彼女らしくない動揺を見せていたのを思い出す。彼女が妙に魔女と呼ばれる人々に同情的であるのも、全てはこのフィーネさんという実の姉の存在があったからなのだろう。


「魔女様なんて大仰だな。国の決まりに則れなかった外れ者ってだけなのに」


 美味しそうだね、一個頂戴、とフィーネさんはホットミルクの傍に置いてあった小皿からお茶菓子をつまむ。まるで自由気ままな蝶を体現したような人だ。


「君のことはね、カミラから手紙でよく聞いていたんだ。心優しい姫君に仕えることになったって、喜んでたんだよ。ありがとね」


「わ、私の方こそ、カミラさんには日ごろからお世話になっていますし……。お礼を言うのはこちらの方です」


 小さく会釈をすれば、フィーネさんは再びくすくすと笑ってお茶菓子をまた一つ摘まんだ。美味しそうに食べるその姿を、カミラに見せてあげられないことが何だか残念だ。


「なかなか苦労をしたみたいだね。君を半ば強制的にこの世界に閉じ込めるなんて、王も酷いことをするよなあ。実の兄妹なんだろう?」


 華奢な体に見合わず、さばさばとした口調でフィーネさんは問う。文通をするような仲睦まじい妹をもつフィーネさんからしたら、私の兄の横暴は信じられないことなのかもしれない。


「ええ……兄は自分の思い通りにならないと気が済まないんです」


「そんな完璧主義者が初めて失敗したとき、どんな顔をするのか見てみたいね」


 フィーネさんはどこか意地の悪い笑みを浮かべながら、ずいっと私の方へ身を乗り出す。


「それに、君はカミラの大切な友人だ。何とかして君を救ってあげたいんだよ」


「フィーネさん……」


「東の森に来てもらったときは悪かったね。君の恋人がすぐ傍まで迫っていたから、私の家まで案内するわけにいかなかったんだ。……でも、あの茨を見れば諦めてくれるだろうと思って悠長にお茶していたのに、勇猛果敢に挑んできたときには流石に焦ったよ」


 あの一部始終を見られていたのか。何だか恥ずかしいようないたたまれないような気持ちになり、私は軽く顔を伏せる。


「それにしても、次に来たときにはきっと家までご招待しようと思っていたのに、なぜあの後来てくれなかったんだい? 君が来てくれないから、私、いつかの夜会の夜に、君の恋人の屋敷でボヤ騒ぎを起こして、どさくさに紛れて君に会いに行こうとしたくらいなのに」


 ライスター公爵家別邸炎上の真相はこれか。リヒトさんが犯人を探し当てられないほどの強力な魔力の持ち主というのもフィーネさんだったのだ。最早驚くこともできない私は小さく苦笑いを零しながら、フィーネさんの問いにどう答えるべきか逡巡する。


「それは……」


 兄とリヒトさんとかわした約束が蘇る。どう説明したものかと迷ったが、結局ありのままを話すことにした。


「……兄は、次に私が城から出るようなことがあれば、私が元の世界にいたころの記憶を消すと言いました。リヒトさんは……私が彼の許から逃げるようなことがあれば、あなたを始め罪のない人々を処刑する、と……」


「君の恋人、そんなこと言ってたの? 怖……」


 恋人ではないと、訂正するタイミングはとっくに逃してしまった。フィーネさんは若干引き気味に私の話を聞いていたが、やがて憐れみの視線をこちらに向ける。


「……ほんとに、なんていうか、大変だね。いや、それが幸せだっていうんなら私の口出すところじゃないんだけど」


 幸せとは、間違っても言い切れない。だが、不幸かと言われるとそれも違う気がした。なんだかんだ言って私の心にいるのは今もリヒトさんであるし、彼と過ごす穏やかな時間は好きなのだ。だが、初対面の相手にそこまで打ち明けるのも憚られるので、ぐっと言葉を飲み込んだ。


「このところ、君の周りを蝶の姿で飛んで観察していたんだけど、見てるこっちがひやひやしたよ。指輪が割れる前に、君が死んじゃうんじゃないかって思った」


「……そうですか、ではあの蝶は全てフィーネさんだったのですね」


 兄と中庭で過ごしたときに見かけた蝶も、何気ない瞬間に視界に入った蝶も、思えば全て同じ姿をしていた。


「……今も、元の世界へ帰りたい気持ちに変わりはない?」


 少しだけ声を低めて、真剣なトーンでフィーネさんは尋ねた。カミラとよく似た亜麻色の瞳がじっと私を見つめている。


 元の世界に帰りたい。それは同じ願いでいて、この世界に来たころとは変わっているのかもしれない。始めは、ただ元の世界に残してきた家族や友人が恋しくて帰りたいと嘆いていたけれど、次第にその願いは私の存在がこの世界の人々に与える影響の大きさに対する恐怖から来るものに変わっていった。


 初めのころと違って、この世界を捨てることに対する未練だって生まれた。それは友人のように接してくれるカミラの存在であり、恋人のような愛をくれるリヒトさんの存在でもあった。だが、それらを総合しても、私は――。


「――帰り、たいです。私は、元の世界に戻りたい」


 この世界は、良くも悪くもまるで御伽噺のようだ。女の子ならば一度は憧れるであろうお姫様として暮らす代わりに、常に夢を見ているような浮遊感がつきまとう。私は、自分の足で行きたい場所へ歩いていくのが性にあっているのだ。


 二度と会えないと思っていた兄に会えたこと、初めて恋心を抱かせてくれたリヒトさんに巡り会えたこと、カミラという新たな友人が出来たこと、素晴らしいことだって沢山あるが、まだ夢だと割り切れる場所に私はいる。でも、元の世界にいる家族や友人のことはどうしても割り切れなかった。


 だからこそ、帰りたいのだ。私は改めて自分の意思を確認して、まっすぐにフィーネさんを見上げる。


「……いい目だ。分かったよ、それじゃあ手伝ってあげよう」


 フィーネさんはにこりと微笑むと、白く細い手を私に差し出した。迷うことなく私はその手を取る。


「ありがとうございます、フィーネさん」


「いいんだ。カミラと仲良くしてもらったお礼だよ」


 相変わらず、フィーネさんの手は温度を感じさせなかった。私の掌に僅かに当たる鋭い爪も、魔女といえば魔女らしい。いくらカミラの姉とは言え、警戒すべきなのかもしれないが、これが恐らく最後のチャンスなのだ。彼女に、賭けてみるしかない。


 私はぎゅっとフィーネさんの手を握りしめながら、目一杯の笑みを向けた。寝不足と栄養不足がたたったこの顔では、大して華やいだ笑みにもならないだろうが、フィーネさんも口元を緩めて手を握り返してくれる。


 お父さん、お母さん、小百合、待っていて。


 私はもうすぐ、あの世界へ帰ります。

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