第49話

「……それでは、おやすみなさいませ」


 私の就寝支度を終えたカミラが、慎ましく礼をして寝室から出ていく姿をぼんやりと眺める。ワンテンポ遅れてようやく私は口を開いた。


「……おやすみ、カミラ」


 扉が閉まるギリギリのところで私の声は彼女に届いたらしく、カミラは口元を緩めて再び礼をした。だが、その笑みには確かな憂いが滲んでいた。このところ無気力に過ごしている私のことを、カミラはまるで自分のことのように心配してくれているのだ。今夜だって、あまり食事を取らない私のために、ホットミルクを置いていってくれた。一口サイズに整えられたマカロンのようなお茶菓子も、カミラがシェフと共に考え抜いて用意してくれたものだと知っている。


 カミラに頼んで開けておいてもらった窓からは、少しひやりとした夜風が吹き込んできた。ゆらゆらと揺れるカーテンの先に、紺色に染まった星空が広がっている。時折木々が騒めく音の中に、白の外を見回っているらしい守衛たちの声が混じっていた。今夜も、この城は平穏に包まれている。


 私は指輪をしている手を窓の方へかざして、改めて指輪の石を観察した。ひびは既にかなり広がっており、いつ割れてしまっても不思議はない。もう、私はこのまま、この世界で生きていく他に無いのだろう。その事実を受け入れられたわけではないが、ぼんやりとそんなことを覚悟するようになっていた。


 いつか王妃様が言った通り、兄の敷いた箝口令は強力なもので、城に勤める者たちの中には、既に箝口令を敷かれたことすら忘れている者までいるのだ。その事実は、さりげなく給仕の者に箝口令のことを尋ねた際に知ったことなのだが、そのときの絶望は今も忘れない。兄の圧倒的な力の前に、私は平伏すしかなかった。


 ほうっと溜息をついて、カミラが用意してくれたホットミルクに手を伸ばす。はちみつを入れているのか、程よい甘さが口の中一杯に広がった。恐らく栄養不足のこの身体には、こんな控えめな甘さでも染み渡る。穏やかに吹き込んでくる夜風に瞼を閉じながら、現実逃避をするようにミルクの甘さに酔った。このまま、深く眠ってしまえたらどんなにいいか分からない。


 再び瞼を開け、ホットミルクのカップをテーブルに置く。温かさと甘さで少しは気分が落ち着いたような気がする。このまま、ベッドに潜り込んでしまおう。


 そう思い、豪華な織物が張られた椅子から立ち上がろうとしたそのとき、私は窓の外から迷い込んだ小さな客人に気が付いた。


「……こんな夜にも健気に飛んでいるのね」


 それは、この世界で何度か見かけたことのある、羽の透けた美しい青い蝶だった。昼間のように光が強くないので、ステンドグラスのような羽の美しさはいくらか霞んでいるが、代わりに淡く発光するような鱗粉を振りまいていた。もともと蝶や虫はそれほど得意ではないのだが、こんな美しい姿を前にするとすぐに追い出す気にもなれない。


「ふふ、誰かに見つかる前にちゃんと逃げるのよ」


 久しぶりに自然と口元を緩め、何気なく発した言葉だったが、私が言うと皮肉もいいところだ。捉えられる前に逃げなければいけなかったのは、私も同じだったのに。


「……あなたは、自由に、好きなところに飛んでいけるのね」


 蝶を羨む身の上になるなんて、思ってもみなかった。ほんの数か月前までは、自分の足でどこへでも行けたし、食べるものも着るものも、自分の意思で決められたのに。すっかり緩んだ涙腺が熱くなり、私は慌てて顔を伏せて涙が流れるのを指で留めた。あまり泣き腫らした目をしていると、カミラまで悲しませてしまうのだ。


「――そう悲観していては、可愛いお顔が台無しだな」


 それは、カミラの声によく似た女性の声だった。思わずカミラが去って行った扉の方を見やるも、そこには人影どころか物音ひとつしない。代わりに背後に膨大な魔力の気配を感じて身震いするよう振り返った。


 振り返った先には、先ほどの青い蝶がいた。だが、その姿を認識できたのも一瞬のことで、蝶は自らが纏っていた青い光に飲まれるようにして姿を隠してしまう。やがてその光は、目を覆うほどの眩さに変わった。


「っ――」


 叫びだしそうになる口元を、不意に押さえつけられる。温度の感じない不思議な手だった。


「おっと、叫ばないでおくれよ。別にお姫様を虐めに来たわけじゃあないんだから」


 再び目を開いたとき、そこには蝶の代わりに、青いローブを纏った美しい女性がいた。ふわふわとした亜麻色の髪を無造作になびかせ、長い睫毛に縁どられた、これまた亜麻色の瞳でじっと私を観察している。その顔立ちは、私の良く知る友人によく似ていた。


「ふふふ。手紙じゃあお姫様のお顔までは分からないかったからね。まだこんなに幼いのに、男運がないというかなんというか……」


 女性はくすくすと笑いながら、食い入るように私を見つめ続けた。見慣れない青いローブを着ている上に、こんな夜中に部屋に現れるなんて怪しいことこの上ないが、カミラによく似た顔立ちが妙な安心感を抱かせる。


「怪しい者じゃないとは言えないけど、叫ばないでくれるかい?」


 私は何度も首を縦に頷かせると、ようやく口元から手が離された。自由になった口で、頭の中に浮かんだ数々の疑問のどれから尋ねようかと逡巡する。

 

 目の前で起こったあまりにもファンタジックな出来事に、何だか胸が落ち着かない。改めて、ここは魔法に満ちた世界なのだと思い知らされた。


 目の前の女性は蝶の鱗粉とよく似た青のローブを揺らめかせながら、目を白黒させる私をどこか面白がるように観察していた。その姿は、本当に自由気ままな蝶のようだった。


「……蝶々さん、あなたは一体……」


 疑問らしい疑問を口にする前に、目の前の女性は吹き出すように破顔した。


「蝶々? ああ、まあね、確かに蝶の姿だったものな」


 女性はくすくすと笑うと、私の頬にかかった黒髪を一筋掬って、まるで芝居の一幕のような大仰な口調で告げる。


「囚われのお姫様、私がこの世界から連れ出して差し上げましょうか?」

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