第48話

「エナ様、今日も良いお天気ですよ」


 応接室のソファーの上、私はリヒトさんに後ろから抱きかかえられるようにして、窓の外を眺めていた。今日も今日とて外の世界は晴れ渡っていて、リヒトさんの瞳の色と同じ清々しい青が一面に広がっている。時折吹き込んでくる穏やかな風が、私の黒髪を揺らしていた。


 リヒトさんの指は、絶えず私の髪を梳いていた。いつの間にかリヒトさんの手から黒手袋は取り去られており、あの生々しい二筋の傷も無くなっている。どうやら私との約束を守って治療を受けてくれたようだ。


「気分が良ければ、後で中庭にでも出てみましょうか」


 私の頭にそっと顔を寄せながら、慈しむようにリヒトさんは言った。その好意にも、何の感慨も覚えない。まるで人形にでもなったような気分だ。――実際、リヒトさんも私を人形のように扱っている部分は否めないので、その表現は全くの間違いというわけではないだろう。


 私が兄と庭で会って過呼吸を起こしたあの日から、リヒトさんは私とこうして一日を過ごすようになっていた。公爵家の仕事はどうしたのだろうと思うが、リヒトさんは朝から夕暮れまでずっと私を抱きかかえたまま、こうして一方的に話しかける生活を繰り返している。


「……大丈夫。僕がエナ様を守って差し上げますからね」

 

 そう言って私に回す腕の力を強めるリヒトさんの脳内には、兄の姿が浮かんでいるのだろう。私が過呼吸を起こしたあの日、兄は私にこの世界から出られなくなるような術をかけようとしていたらしい。それは禁術に近いもので、もう何百年も前に、術者と術をかけられる者の双方の同意が無ければ発動しないような仕組みに書き換えられたという。だからあのとき、兄は私がこの世界に留まることを是とするような発言を誘導していたのだ。本当に、兄は恐ろしい人物である。


 リヒトさんは、どうやらそれが許せなかったらしい。リヒトさんからすれば、私がこの世界に留まることになる展開は好ましいはずなのに、それが兄の手によってもたらされた結果であるというのは不服なようだ。本当に、妙なところで独占欲を発揮するものだとまるで他人事のような感想を抱いてしまった。

 

 まるで何かから守るように私を抱きしめ続けるのも、きっと兄から私を守るためなのだろう。こうしていないと落ち着かないのだとリヒトさんは言っていた。抗う気力も体力もない私は、こうしてされるがままになっているという次第だ。正式に婚約しているような間柄でもないのだから、褒められた行為ではないと思うが、カミラもビアンカも黙認していた。公爵家跡取りのリヒトさんに、強く出られないのだろう。


 窓の外で揺れる木々の緑を見て、ぼんやりとアンネリーゼ様の緑色の瞳を思い出す。彼女は今、どうしているだろう。リヒトさんが上手いこと情報操作をしているのか知らないが、私の耳にアンネリーゼ様の情報は一切入ってこなかった。もっとも、アンネリーゼ様だって、リヒトさんにこうして甘やかされている私に自らの近況など知られたくないだろうけれど。


「エナ様、あなたのご友人がエナ様のお口に合うものを、と一生懸命考えたお菓子のようですよ。召し上がりませんか?」


 リヒトさんはティーカップの傍に置いてあった小皿から、一口サイズのクッキーをつまむ。近頃食欲のない私のために、カミラがあれこれと工夫してくれているのは知っていた。だが、どうしても食べる気になれないのだ。リヒトさんは私の口元までクッキーを運んだが、一向に口を開けない私を見て、諦めたようにクッキーを皿に戻した。


「エナ様……ちゃんとお食事を召し上がらないと、倒れてしまいますよ。また……痩せたのではありませんか?」


 リヒトさんの手が私の手首に添えられる。もう何日もまともな食事を摂っていないせいか、確かに手首も一回りほど細くなったような気がする。リヒトさんは人差し指と親指で輪を作るようにして私の手首の太さを確かめると、小さく息をついた。


「……こんなエナ様も悪くはありませんが……少し、寂しいものですね」


 ぽつりと独り言のように呟いたリヒトさんは、再び私の髪を梳くことに専念した。私はぼんやりと、ひびが深くなっていく指輪を見つめる。近頃は、いつの間にかこうして指輪を眺めていることが多い。未練がましい行為に、思わず自嘲気味な笑みが零れた。


 いっそ、何もわからなくなりたい。そんなことを願えば、きっと兄は嬉々として叶えてくれるだろう。兄にとって、私の心など邪魔なものでしかないのだから。


 リヒトさんは、どうだろうか。歪んだ愛ばかりを向ける彼だったが、少しは私の心を求めてくれてくれているのだろうか。正直、これだけ長い時間を過ごしていてもリヒトさんのことはよくわからないままだ。どうして私にこれほどの執着を見せるのかも、私のどこを好ましく思っているのかも。聞いたところできっと、いつかの夜会のようにはぐらかされてしまうだけなのだろうけれど。


 まあ、いいや。いや、もういいか、と、私は軽く目を閉じて、リヒトさんに寄りかかる。こうしていればいつの間にか微睡んで夢に逃げることが出来るのだ。リヒトさんの鼓動を聞きながら、ゆっくりと目を閉じるこの瞬間だけは、幸せに似た温もりを感じられる。それが、数少ない救いとなっていることさえ、きっと、リヒトさんは知らない。

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