第47話

 淡々と、日々が過ぎていく。


 中庭の木にもたれかかかりながら、私はぼんやりと空を眺めていた。


「あ、ちょうちょ……」


 青空を横切るように、羽の透けた蝶がぱたぱたと飛んでいく。ステンドグラスのような羽の美しさに、蝶が見えなくなるまで見惚れていた。


「きれい……」


 陽の光が当たり、目を瞑ればうたた寝でもできそうな日和だ。こんな風に、その一瞬だけを楽しむように日々を過ごせば、いつの間にか日は暮れていく。


 どのくらい、こんな生活を続けているだろう。もう何日も、銀細工を作っていない。マナーや教養の先生にも会っていない。最後に本を開いたのは、いつだったっけ。


「エナ」


 木の陰から不意に名前を呼び止められて、びくりと肩を震わせる。恐る恐る顔を上げてみれば、公務のときよりずっとラフな格好をした兄が私を見下ろしていた。


「……兄さん」


「こんなところで一人で何をしているんだい?」


 にこにこと、元の世界にいたときと何ら変わりない笑みを見せながら、兄は私の目線に合わせるように膝をつく。ぼんやりとした意識の中では、兄に対する怒りもよく思い出せなかった。


「……わたし、ここで……何してたんだっけ?」

 

 そう言えば、傍にカミラもいない。どこかへ置いてきてしまったのだろうか、と辺りを見渡す。


「れっきとした姫君が、地面に座り込むなんて感心しないなあ」


 そう、私、お姫様なの。兄は私の頬にかかった髪をよけると、優しく微笑んだ。そんな風に兄に笑いかけてもらえると、何だか嬉しくなってしまう。


「ほら、エナの好きな花を摘んできたよ」


 そう言って兄に手渡されたのは、薄紅色の花束だった。甘い香りが脳の奥底まで染み渡るようだ。私、この花好きだったっけ。ああ、でも、兄さんが言うなら間違いないんだろうなあ。


「ありがとう、兄さん」


「エナはやっぱりそうやって笑っていた方が可愛いよ」


「ふふ……嬉しい」


 暖かな日差し、質の良いドレス、優しい兄。私には、何でも揃っているような気がした。薄紅色の花弁を指先で撫でながら、私は小さな笑みを浮かべる。


「可愛いエナ、ずっとそうして笑っておいで」


 兄の手が、そっと私の頭を撫でた。その心地よさに軽く目を瞑り、幸せを噛みしめる。まるで猫にでもなったような気分だ。そのまま兄に甘えるように頭を寄せる。


「エナも、こうして兄さんと一緒にいられると幸せだろう?」


「うん……幸せ」


「ずっとこのままでいいね?」


「この……まま……」


 あったかい、ふわふわとしていて気分がいい。ずっとこのままだったらどんなに幸せだろう。


 それと同時に、なぜか妙に鼓動が早くなる。訳の分からぬ焦燥感に、胸の奥が焼けるようだ。


 このままではいけないのだと、本能が叫んでいた。その理由はなぜかわからないのに、酷く胸が苦しくなる。それは次第に呼吸にも現れ、いつの間にか私は過呼吸でも起こしたかのように息を乱していた。


「……っ、兄さん」


 思わず傍にいる兄に助けを求めるも、兄は先ほどまでとは打って変わって酷く冷え切った目で私を見下ろしていた。


「まだ駄目か……。もう少しで上手くいくと思ったんだけどな」


 その瞬間、私の周囲で魔法陣のようなものが光ったかと思うと、一瞬で消え去った。兄は私に興味を無くしたような目をして、人を呼んでいる。


「本当にエナは強情だな。ここにいれば、幸せになれるというのに」


 私は上手く息が出来ないまま、その場に蹲った。息を吸っても吸っても上手く呼吸が出来ない。それどころか、吸うたびに苦しくなっていく。指先が痺れ、私は成す術もなくその場に崩れ落ちた。


「っエナ様!?」


 兄の声を聞いて駆け付けたのか、よく聞き慣れた声が私の名を呼んだ。彼は迷わず私を抱き起すと、酷く焦ったような表情で私を見つめる。


「っ……この魔力の残り香は……! 陛下、エナ様に何をなさったのです!?」


「別に、ちょっとした術をかけようとしただけだ。……もう少しで、同意が得られそうだったのに残念だよ」


 あとは頼んだ、と言い残して兄は去って行く。リヒトさんはどこか悔しそうに、兄の後姿を視線で見送っていた。


「……エナ様、大丈夫ですよ。ゆっくり息を吸って」


 リヒトさんの手が私の首元にあてがわれる。同時に、温かな魔力の流れを感じた。鎮静効果でもあったのだろうか、乱れた息はすぐに収まり、私は薄く汗ばんだ体を脱力させながら、ようやく息をつくことが出来た。


「リ……ヒトさん、ありがとう……」


 かなり体力を消耗したせいで上手く笑えなかったが、何とか礼を述べることは出来た。リヒトさんはそんな私を見て、ひどく苦しそうな顔をする。


「可哀想に、苦しかったでしょう、エナ様」


 そう言ってリヒトさんは私の肩口に顔を埋めるようにして、私を抱きしめる。まるで壊れ物に触れるかのような手つきは相変わらずだ。


「……エナ様を苦しめるのは、僕だけで充分なのに」


 ぽつり、と呟いたリヒトさんのその言葉に、どうしてか私は笑ってしまった。本当に、どうかしているとしか思えない。こんな状況でも、よくわからない独占欲を持ち出すのか。我ながら、自分を取り巻く人間関係の歪さに笑いが止まらなくなりそうだった。


 私は、このまま歪んだ愛に絡めとられて、逃げ出すことも叶わないのだろうか。この世界に、兄に、リヒトさんに囚われたまま、生きていくしかないのだろうか。


 リヒトさんの肩越しに、改めてひびの入った指輪を眺める。日に日に深くなっていくそのひびは、まるで私を嘲笑っているようだ。


「……死にたいわ、いっそのこと」


 囁くだけの私の独り言は、風に攫われて消えていく。久しぶりに意識が清明になったと思えばこのザマか。


 羽の透けた蝶が、ひらひらと舞う。大空を自由に飛び回るその姿が、今の私には羨ましくてならなかった。

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