第46話

 振り返った先には、予想通りリヒトさんの姿がある。


リヒトさんは黒手袋を着けた手を伸ばし、ごく自然な仕草で私の手の甲に口付けた。以前はそれだけでも顔が赤くなったのに、今は驚くほどに何も感じない。少しずつ感情が麻痺し始めている気がする。


 リヒトさんの今日の服装には所々に深緑があしらわれており、アンネリーゼ様の瞳を連想させた。もし本当にアンネリーゼ様を意識してその服を身に纏っているのであれば、悪趣味にもほどがある。ただでさえ、今もリヒトさんに対する息苦しさが愛情を超えるか否かという微妙なラインだというのに、そんなことをされたらいよいよ顔を合わせる度に呼吸困難になりそうだ。


「……リヒトさん、こんにちは」


 リヒトさんの問いかけに答えることも忘れて、私は何とか微笑みを貼り付けて礼をした。


「……また、寝不足ですか? 青白い顔をされてますよ」


「あのあと眠ってしまって、真夜中に起きてしまったものですから……。だからこうして、お日様の光を浴びて夜眠れるようにしているんです」


「良ければよい睡眠薬を手配しましょうか? 王室直属の薬師に頼めば、今夜までには届けられると思いますが」


「……眠れないと、カミラが甘やかしてくれるんです。今は、それに甘えていたくて」


 あの真夜中の御茶会は、本当に楽しかった。ここが私の生まれた世界でないことも忘れて、カミラとの会話に夢中になっていた。


 最初から、ああいう心持ちでいれば、こんな葛藤を抱かなかったのだろうか。世界が違っても、人と人。帰れないのならばそれはそれで仕方がない、この国で生きていく、と、そう思えていたのなら私は今も笑っていただろうか。兄との再会を喜ぶだけの、無邪気な少女でいられただろうか。リヒトさんとの縁談に頬を染める、可愛らしい「妹姫」でいられたのだろうか。


 後悔してももう遅い。私は、無邪気でいるには既に壁を作りすぎた。


 自らを嘲るようにふっと息をつくと、不意に陽の光に目が眩んだ。意識を失うほどではないが、思わずよろめいてしまう。


「エナ様っ!?」


 慌ててリヒトさんは私の手を掴み、私は彼の左手に捕まるようにして何とかバランスを保つ。だが、その瞬間、リヒトさんの表情が僅かに歪んだのを私は見逃さなかった。


「大丈夫ですか、エナ様。……あまり陽に当たりすぎるのもよくありませんよ。そろそろ部屋へ戻りましょう」


 リヒトさんは黒手袋の手で私の手をそっと握ると、エスコートする仕草を見せた。だが、私は足を踏み出さず、ただ嫌な予感に脈を早める。


 リヒトさんが黒手袋をつけ始めたのは、昨日からだった。普段は舞踏会や夜会のときにしかしていないのに。


「……取ってください」


「え?」


「手、見せてください」


 そう言って、私はリヒトさんの左手を取ると、手袋の生地をつまむ。光沢のある上質な生地で、リヒトさんの手にぴったりなことからもオーダーメードなのだろう。そのまま手袋を取ろうとすると、リヒトさんの右手が私の手首を掴んだ。


「っ……エナ様にお見せするわけには……」


「私が手を握ったとき、痛そうにしていました。怪我をされているのでは……?」


「大した傷じゃありませんよ」


「いいから、見せてください!」


 少しだけ声を荒げて訴えると、リヒトさんは渋々と言った調子で私の手首から手を離した。私はそのまま黒手袋の生地をつまみ、するりとリヒトさんの掌から引き抜く。


「っ……」


 そこには、想像以上の光景が広がっていた。


 明らかに鋭利な刃物で裂いたような深い線状の傷が二本、手首に至るまで走っている。しかも手当てされたような形跡はなく、今も傷口が塞ぎ切っていなかった。私が先ほど強く握ったせいか、僅かに血も滲んでいる。


「これ、どうしたんですか!?」


 傷ついていない部分の彼の掌を包み込むようにして握りながら、間近でリヒトさんを見上げる。空色の瞳が、戸惑うように揺れていた。


「……転んだだけです、何もありませんよ」


 いつかの私と同じ言い訳をしながら、リヒトさんは私から視線を逸らす。公爵家跡取りであるリヒトさんは、それはもう周囲の人間から丁重に扱われているはずだ。少なくとも、こんな怪我をして放っておかれるはずがない。それに、リヒトさんは傷を治せなくても痛みを消すことは出来るはずだ。でも、先ほど顔を歪めたということは、痛みを消す処置すらしていないということだろう。それらを総合して考えると、行きつく答えは一つしかない。


「……自分でやったんですか?」


 どうして、リヒトさんがこんな真似を。近頃は苦しめられるばかりだと言っても、いざ目の前で大切な人が傷を負って痛みに顔を歪めるのを見ると悲しくてたまらなくなる。


 リヒトさんは言い逃れできないと悟ったのか、小さく溜息をつくと軽く視線を伏せて口を開いた。


「……あの夜会の夜、エナ様に傷を負わせてしまったことを深く悔やみました。防ごうと思えば防げたはずなのに、エナ様の手に傷を負わせてしまった」


「そんな……あれは私が無理やりナイフを奪ったからですし、それに、私の傷はリヒトさんや兄が治療してくださったからすぐに治ったではありませんか!」


 現に私の掌には傷一つない。リヒトさんが自分を責める必要などどこにもないのに。


「でも、痛みを感じた時間はあったでしょう。それに、ナイフを握っていたのは僕です。……深く反省するためには、エナ様と同じ――いや、それ以上の痛みを知る必要があると考えました。……本当は片腕一本くらい切り落とすのが妥当でしょうが、周りの者が騒ぐだろうと考え、この程度に留めてしまった次第です」


「この程度って……。まさかご自分で傷つけた後、何の治療もしてないとか言いませんよね?」


「自分で傷つけたのに、治療する必要性がどこにあるんですか」


 どうして、この人は。ゆっくりと、視界が滲み始める。近頃の私は涙脆くていけないが、これは別だ。私は睨むようにリヒトさんを見上げる。


「っ……二度とこんなことしないでください」


 震える声で、何とか涙を決壊させないようにしながら私は訴えた。リヒトさんの瞳が再び動揺で揺れる。


「……どうして、エナ様が泣くのです」


「私をどれだけ非情な人間だと思っているのですかっ……。目の前でリヒトさんが傷ついているのに……泣くなという方が無理な話です」


 零れ落ちそうな涙を指先で拭いながら、私は軽くリヒトさんに寄りかかった。リヒトさんが分からない、怖いとも思うのだが、感情を向ける矛先を間違ってしまうリヒトさんの不器用さが私は不安だった。一見すると非の打ちどころのない人に見えたのに、中身はまるで、人の愛し方も、正しい反省の仕方も知らない子供のようだ。目を離したらいつか、取り返しのつかないことをしてあっさりと消えてしまいそうで恐ろしい。


 もっとも、リヒトさんは私のこの感情の一片も理解していないのだろうけれど。言葉で伝えない私も悪いのかもしれないが、それを出来ない事情があるのだから、もっと察してほしいのに。これは全部私の我儘だと分かっているが、何だかやるせない気持ちで一杯だった。


「そうでしたね。エナ様は、聖女のような慈愛に満ちたお心をお持ちなのでした」


 リヒトさんは妙な方向で納得すると、そっと私の頭を撫でる。もう、弁明するのも厄介だと、私はリヒトさんに寄りかかったまま静かに泣いた。


「……兄の元へ行きましょう。兄なら治せるはずです」


「この程度の傷で陛下に見ていただくわけには参りませんよ。それこそ、この城にいる薬師に頼んでみます」


「……絶対ですよ」


「エナ様は本当に疑り深いお方だ。大丈夫、約束しますよ」


 そう言ってリヒトさんは私が落ち着くまで私の頭を撫で続けていた。悔しいが、不思議なくらいに心が安らぐのが分かる。このところの息苦しさも葛藤も全て溶けてしまいそうな感覚に陥った。本当に、恋というものは恐ろしい。






 そして、リヒトさんとの散歩を終えたその日の夕方。


 私は、指輪の赤い石にひびが入っていることに気づいた。


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