第45話

 あのあと、泣き疲れてベッドの横になった私は、真夜中になってから目が醒めてしまった。調度日付の変わるころで、普段ならば眠る支度を終え、カミラに「おやすみ」と告げてベッドに入る時間だ。


 カミラはずっとそばに居て、私の様子を見守ってくれていたらしい。夕方、兄が様子を見に来たと言うが、その気配にも気づくことなく私は熟睡していたという。「まるで夢に逃げるかのようだな」と兄は笑ったと聞いて、最早怒る気にもなれず、自分の肩を抱きしめるようにして体を縮めた。


「……ごめんなさい、カミラ。もう下がっていいのよ」


 本来ならばとっくに仕事を終えている時間だ。カミラだって、就寝準備にそれなりに時間を要するだろう。これ以上、彼女の迷惑になりたくなかった。


「私がエナ様のお傍にいたいのです。ホットミルクでもいかがですか? シェフが上質なはちみつが手に入ったと教えてくれましたので、そちらを入れてみましょうか」


 その包み込むような優しさに触れて、再びじわりと涙が滲みそうになった。普段ならばただ甘やかされるばかりは辛いと思うのに、今夜だけは自分の年齢も世間体も忘れてこの優しい友人に甘えていたかった。目尻に溜まった涙を欠伸に見せかけて誤魔化しながら、私は弱々しく微笑む。


「……ありがとう。カミラも一緒にどう? あ、カミラはお酒の方がいいのかしら……」


 この国の法律では、飲酒に年齢制限はないので私たちのような年代の少女にもお酒はずっと身近なものらしい。生まれてからずっとこの国で暮らしてきたカミラならば、寝る前の一杯が習慣になっていてもおかしくはない。


「いえ、私もミルクをいただきます。実は私、お酒はとっても弱いのです」


「……そうなのね。うん、カミラは何だかそんな感じするわ」


 ちょっとしたことに赤面したり、私に起こった出来事を自分のことのように喜んでくれる、どこか無邪気な彼女がお酒に弱いのはイメージ通りといえばそうだ。カミラはふふっと笑うと、少しだけ声を潜める。


「ビアンカはとっても強いらしいですよ。……何でも、騎士団に入っている恋人よりも飲めるとか」


「なあにその話、面白そう」


「ふふ、今、ホットミルクをご用意いたしますね。詳しいことは、それからお話して差し上げます」


 カミラは努めて明るい笑顔で受け答えてくれていた。恐らく、敢えて愉快な話題を提供してくれているのだろう。その心遣いに、今の私がどれだけ救われているか分からない。


「……ありがとう、カミラ」


 様々な意味を幾重にも重ねて、私は彼女に感謝の意を述べた。カミラはホットミルクを用意することに対する礼だと受け取ったのか、悪戯っぽく微笑むと「すぐにご用意いたします」と告げて寝室を後にした。




 それから私たちは2時間ほど、他愛もない会話をして過ごした。カミラのこと、ビアンカのこと、好きな食べ物、行ってみたい場所、本当にどれも取り留めのない話だったが、舞踏会でご令嬢たちと交わすような、私が一方的に賞賛されるばかりの会話よりもずっと心が癒された。


 ホットミルクを飲んだ後、「もう一度横になってみるわ」と告げたのは、カミラを休ませるための口実に過ぎなかったが、それでも真夜中の御茶会のお陰でいくらか心は軽かった。この世界は、苦しいことばかりではないのだと再認識する。月の光に煌めく指輪の赤い石を眺めながら、私はそのままぼんやりと夜を明かした。




 



 それからまた朝がやってきて、真夜中に起きてから一睡もしていない私は、せめて陽の光を浴びて体内サイクルを戻そうという試みのもと、中庭を散策していた。何となく一人になりたい気分だったので、カミラには私の部屋で仕事をしてもらっている。中庭であれば人の目がある上に、衛兵などもすぐに駆け付けられるので私一人でも問題ないと判断したのだろう。


 今日の私のドレスはワインレッドよりも淡い桃を思わせる色の生地がメインで、ふわふわとしたレースやリボンが風に揺れていた。陽の光は眩しいくらいだが、室内にいるよりずっと気が晴れる。


「……いい天気ね」


 誰ともなしに呟いて、思わず自嘲気味な笑みが零れた。昨日のカミラとのお茶会で少しは癒されたと思っていたのに、こうして聞くと私の声は驚くほどに覇気が無かったからだ。


 きっと、だんだんと、私は疲れ始めているのだろう。帰ろうと足掻くこと、私がいることでこの世界の人々に与える影響を最小限にとどめること、何より、リヒトさんや兄と分かり合おうと努力することに。


 木々が風にざわざわと揺れる。雨の降る日が極端に少ないようにも思えるが、この国の人々は大丈夫なのだろうか。それも、魔法でどうにかなるのだろうか。


 私は、何も知らない。この国の気象条件も、歴史も、人々が崇める神様のことも。もともと、帰る手段が見つかるまでの繋ぎだとしか思っていなかったので、最低限の教養しか身に着けていないのだ。そんな日々が今や日常になりつつあることに、訳もなく焦燥感を覚えた。


 陽に透けた葉の緑を眺めながら、アンネリーゼ様の宝石のような緑色の瞳を思い出した。アンネリーゼ様は、いつ修道院へ旅立つのだろう。まさか昨日の今日で修道院へ送られるようなことにはならないと思うが、リヒトさんの性格上、彼女に長い猶予を与えるとも思えない。


 小さく息を吐いて、私はそっとチョーカーの宝石部分に触れた。決して物理的に重いようなアクセサリーではないのに、近頃はこれが息苦しくてならない。もっとも、これをつけなければ会話も儘ならないので結局は頼らざるを得ないのだけれども。


「そのチョーカーがどうかしましたか?」


 振り返らずともその甘い響きのある声が誰のものなのか分かってしまう。私は改めてチョーカーに括りつけられた宝石をぎゅっと握りしめてから、力ない笑みを浮かべて振り返った。

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