第44話

 さっと血の気が引いていくのが面白いくらいに分かった。それと同時に、ああ、もう駄目だろうな、という諦めに似た感情も広がっていく。私はぎゅっとドレスを握りしめながら、顔を俯かせた。


「……どうして、言ってくださらなかったのですか? アンネリーゼが、僕の義妹だから? 甘やかして見逃すとでも思いましたか?」


「っ……その逆です。私のせいでお二人が長年築き上げた関係性が崩れるのが怖かったっ……」


 ましてやアンネリーゼ様にとっては、リヒトさんは想いを寄せる相手なのだ。そんなリヒトさんから責められようものなら、アンネリーゼ様は一体どれだけ傷つくだろう。思わず両手で顔面を覆った。


「関係性が崩れるようなことをしでかしたのは、アンネリーゼの方でしょう。そこでなぜ、エナ様が怖気づくのですか?」


「だって、私はこの世界の人間じゃありません! 私さえ、この世界に来なければっ……お二人はっ……」


 私さえ、いなければ。この世界に来て何度そう思ったか分からない。望んでこの世界に来たわけでもないのに、私の登場で次々とこの世界の人たちの関係が変化していくことが怖かった。この気持ちは、リヒトさんには分かりようがない。


「人間関係なんて、日々移ろいゆくものです。昨日と全く同じなんてことはあり得ない。それに……アンネリーゼがああいう気性である以上、エナ様が現れなくてもいずれ誰かに同じことをして、いつかは露見していたでしょう」


「それはっ……」


 反論したいが、もっともだと思う自分もいる。人と人との関係なんて、私のいた世界でも常に移ろいゆくものだ。それに、私の存在は変化の要因であって、変わることを決めたのは当人たちだと言われればそれまでなのだとも分かっている。でも、それでも耐えきれない。私の周りで起こるすべての不幸が、私のせいだと言われているようでならない。ある意味、一種の妄想なのかもしれないが。


 顔面を覆った手の指の隙間から、陽の光に輝くブレスレットが見えた。見れば見るほど贅を凝らした一品で、公爵家の令嬢でなければ付けられないような代物だと分かる。


 そこに、リヒトさんの瞳の色と同じ宝石を組み込んだアンネリーゼ様はどんな気持ちだっただろう。長年、この宝石をリヒトさんから贈られたいと願いながらも、結局他の人間から奪いとるような形でしか身に着けられなかったことに、一抹の寂しさを感じたはずだ。でも、それでもいいから身に着けたいと考えるほどに、アンネリーゼ様はリヒトさんが好きなのだ。


「……アンネリーゼ様は、どうなったんです……?」


 消え入りそうな声で問えば、リヒトさんは淡々と答えを返した。


「王国の最北にある修道院へ送ることにしました」


「っ……そんな」

 

 その修道院の噂は、この世界に来てまだ2か月ほどの私でも知っている。そもそも人が住まうような土地ではない極寒の地にあるその修道院は、かつては生贄を捧げるために使われた場所だというくらいに厳しい環境にあるらしい。今はもちろんそのような残酷なことは行われないが、それでも毎年一人か二人が凍死するという噂も聞く。アンネリーゼ様のようなうら若き乙女が行くような場所じゃない。


「そんなの……公爵閣下が許さないでしょう……?」


「決めたのは、アンネリーゼです」


 リヒトさんはテーブルの上に投げ出されたブレスレットをつまみ、小さく息をついた。


「僕にだって、彼女を許すつもりはなくても最低限の情というものはあります。それに、彼女は公爵家令嬢。今の王家の血もそれなりに入っているのですから、無下に扱うわけにもいかない」


 リヒトさんはブレスレットに繋がれた空色の宝石を黒手袋の指先でなぞった。金色の鎖が、しゃらりと音を立てる。


「だから、もうこのようなつまらない嫌がらせなどをしないよう、然るべき家に嫁がせようと考えました。結婚すれば、彼女も少しは大人になるだろうと期待を込めて。……その方が公爵家のためにもなりますしね」


 でも、とリヒトさんは表情の読めない笑みを浮かべて続けた。


「……でも、アンネリーゼは言ったんです。知らない男の元へ嫁がされるくらいなら、最北の地にある修道院で祈りを捧げ、いち早く神の御許へ行った方がずっといい。少しでも情があるのならば、修道院へ入れてほしい、と」


 この恋が敵わないのならば死んでもいい、と思うほどに、アンネリーゼ様にとってリヒトさんへの想いは深く激しかったのか。私の黒髪を馬鹿にし、命までも絶とうとするほどに、私の存在丸ごと憎くて仕方が無かった理由にも納得がいく。


 リヒトさんへの想いが叶わないことを知るや否や、命を諦めるだなんて。プライドばかりが高い、いけ好かない少女だと思っていたが、この上なく誇り高い人でもあったのだ。アンネリーゼ様にはいい思いをさせてもらったことなど一度も無いが、それでもあの美しい少女が自ら破滅の道を選んで歩み始めたことに、気づけば涙を流し始めていた。


 始めは頬を伝う程度だった涙が、やがてドレスに染みを作るほどに大粒になっていく。分かっている。全部私のせいだというのはおこがましくもあるのだし、破滅のきっかけを作ったのも、その道を選んだのもアンネリーゼ様本人だということを。自業自得といえばそれまでだ。


 でも、それでも涙が止まらなかった。アンネリーゼ様の深い恋心を思えば思うほど、一人の同年代の少女として胸を痛めずにはいられない。自ら生の終わりを早める決断を下すのは、どれほど苦しかっただろう。でも、きっとそれ以上に、アンネリーゼ様は、死ぬほど愛したリヒトさんに知らない人との縁談を進められることの方が苦しかったのだ。だから、自ら破滅の道を選んだ。それだけのことよ、と高笑いするアンネリーゼ様の姿が目に浮かぶようだ。


 一方的な憐みでその決定を覆そうとするのは、いっそおこがましいことだというのは分かっている。私が口出しすべきでないとも。でも、子どもみたいに肩を震わせて泣きながら、気づけば私は懇願していた。


「っ……お願いですっ、考え直してっ……。アンネリーゼ様を殺さないでっ……」


 前半の言葉はきっと、ここにはいないアンネリーゼ様に向けたもの。後半の言葉は、アンネリーゼ様の言葉をそのまま受け取って、彼女を破滅が待つだけの修道院へ送ろうとするリヒトさんに向けたものだった。


「エナ様っ……どうされましたか? 大丈夫ですかっ?」


 いつの間にか、部屋の隅に控えていたカミラが私の傍へ駆け寄ってきていたようで、彼女の手が優しく私の肩に触れる。このやり場のない感情をどうしてよいか分からずに、私は思わずカミラに縋りつくようにして泣きじゃくった。本当に子供みたいだ。


「……失礼ですが、エナ様に何を?」

 

 どうやらビアンカも傍に寄ってきていたらしい。リヒトさんに説明を求めるその言葉は、殆どリヒトさんを責めるような意味合いだった。


「これでは僕が悪者のようですね。……まあ、エナ様にとっては実際そうなのでしょうが」


 リヒトさんはどこか自嘲気味な笑みを見せると、席を立つ気配がした。本来ならば立ち上がって見送るべきところだが、嗚咽を漏らすほど泣いているせいでカミラから離れられない。実際、カミラも私に挨拶させようとは思っていないようで、抱きしめるように手を添えてくれていた。


「今日はもう失礼します。僕がいては止まる涙も止まらないでしょう。……また、明日にでも伺います」


 また一つ、誤解が積み重なっていく。リヒトさんが悪者だなんて思っていないのに、リヒトさんを責めるつもりの涙ではないのに。


 でも、結局言葉も表情も、受け取り方次第でしかない。誤解の無いように行動しなかった私が悪い。せめて弁明できればいいのに、それすら出来ない私は本当にどうしようもない人間だ。


 リヒトさんの去った応接間で、ただ泣きじゃくりながら、守るようにカミラに抱きしめられていることが情けなかった。もっと、強くなりたい。アンネリーゼ様の気高い心の、ほんのひとかけらでも私が持っていれば、私はこんな風に泣きわめくだけの少女にはならなかったのだろうか。

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