最終話

 それからも、わたしは彼に話しかける勇気を持てないまま、長い梅雨を過ごしていた。今年の梅雨は例年より長く、各地で豪雨による自然災害が起きている。この街は特に大きな災害には見舞われなかったけれど、盆地のせいもあるのか、雨が降ると嵐のように強い風が伴った。

 そんな大雨の日に、猫しかいない彼の世界は突然、終わりを迎えた。


 それが、彼にかけられた呪いの終わりならばどんなに良かっただろう。彼の目にかけられた呪いがとけて、水野さんはごく普通の世界を取り戻して、わたしに「やあ、原田さんはそんな顔をしていたんだね」といって笑ってくれたらどんなに良かっただろう。

 交通事故だったそうだ。

 水野さんは道路に飛び出した子猫を助けようとして車にはねられたのだと聞いた。雨で道路が滑りやすくなっていたこともあり、運転手が急ブレーキを踏んでもトラックの速度は落ちなかった。即死だったそうだ。

「猫を庇って死ぬなんて」

 と囁くように噂する人もいたけれど、水野さんの見ていた世界を知っている人はただ、目を伏せるばかりだった。


 猫のアキは、水野さんの家から荷物が運び出すときにどこかへ行ってしまったそうだ。美咲の哲学科の先輩が里親になろうと水野さんのアパートを訪れたときには、彼女の姿はどこにもなかったらしい。もう水野さんがどこにもいないことを、アキはちゃんとわかっていたのだろうか。それともいなくなった水野さんを探しに行ってしまっただろうか。わたしには知る由がない。彼女はもうどこにもいないし、彼女と話をすることも最初からできなかったのだから。

 葬儀を終えて、わたしは、昨日作った肉じゃがの残りを冷蔵庫から取り出す。肉じゃがを作るときは、合い挽き肉とにんじんと玉ねぎと、たくさんのじゃがいもを入れて大量に作る。三日分くらいの量になる。翌日に味の染みこんだ肉じゃがコロッケにするためだ。煮汁を捨てて、具材をボウルに移して潰す。じゃがいもはそこそこ原型を残しつつ、ある程度潰したら手で形を整える。小麦粉と卵とパン粉にくぐらせて、熱した油に入れた。


――コロッケって家じゃ作らないよねえ。

――わたし結構作りますよ。肉じゃがのあととか。

――余った肉じゃがコロッケにする人なんだ。

――コロッケにする人です。

――凄い。偉い。


 他愛もない、いつかの会話が蘇る。あのときわたしは、余ったら持っていってあげますと、褒められていい気になって言った。結局一度も、彼にコロッケを振る舞う機会はなかった。褒めてくれただろうと思うのだ。あの優しい口調で「美味しいよ。偉いねえ」と、いつものように。

 水野さんに、会いたいと思った。

 コロッケをキッチンペーパーに上げながら、わたしは泣いた。彼が言ってくれたことを、彼が話してくれたことを、なぞるように思い出す。


――原田さんは綺麗な灰色の猫に見えるよ。


 もう、その猫もどこにもいない。

 わたしと重なりあっていた灰色の猫は、彼と一緒に消えてしまった。さいごに水野さんに会った日、わたしは猫の振りをした。彼のそばに寄り添った灰猫。消えてしまった猫。自分の一部が消えてしまったような気がした。見えない世界だったはずなのに。わからなかったはずなのに。どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。

 コンロの火を消した。そのまま、耐えきれずにしゃがみ込む。記憶は涙と一緒に、雨のように降ってくる。


――話しかけて、応えてくれるのが人間。応えないのが猫。

――こうして話ができるだけで、嬉しいよ、俺は。


 もう、何もかもが遅い。今更のように、わたしは思う。


 灰猫の目の色を、聞いておけばよかった。


 わたしがどんな色の目で彼を見てたのか、聞いておけばよかった。どんな風に、わたしは、彼を見ていたんだろう。話ができたのに。言葉は通じたのに、あのときどうして、どうしてわたしは、猫の振りをしてしまったのだろう。聞こえないふりをしてしまったのだろう。彼に挨拶を返さなかったのだろう。見ているものがわからないから、見てもらえなくて寂しいから、寄り添えないと思っていた。でも、もう二度と会えなくなるくらいなら、わからない世界を、わからないまま、大事に思えたらよかった。彼にはこの世界が、どんな風に見えるのか聞いておけばよかった。もっと数学の話を聞いておけば良かった。話を聞いて、あなたのことが好きだと、言えばよかった。


 もう、全部遅い。

 遠くで、猫の声が聞こえたような気がした。それは縋り付くような寂しい声で、何度も何度も、誰かを呼ぶように鳴いている。

 それもやがて、降りしきる雨の音に掻き消されて、聞こえなくなった。

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灰猫のクオリア 村谷由香里 @lucas0411

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