第4話

 その日の夜、夢を見た。

 わたしは水野さんの家を訪ねている。そこに彼の姿はなく、二匹の猫がいた。一匹は茶トラのメス猫だ。アキだとすぐにわかった。アキはわたしの方を見ると特に興味なさそうにしっぽを振って窓の外に視線を投げた。もう一匹は少し大柄なブチ柄の猫だった。猫は聞き慣れた声で、

「やあ、いらっしゃい」

 と言った。水野さんだと、そこで気付いた。わたしは驚いて立ち尽くしている。

「どうかしたの?」

「水野さん、猫に……」

「猫?」

 わたしの言葉に、水野さんは不思議そうに首を傾げる。そのとき、わたしは「ああこれは夢だ」と思った。彼のことが猫に見える夢を見ている。

「何でもないです」

 わたしは笑って、彼の隣に座る。落ち着かなかった。猫の水野さんは、いつもよりずっとわたしと別物の生き物のように思えた。しなやかな身体のブチ柄の猫は、若草のような緑色の目でわたしの手を見て、

「爪綺麗だね」

 と言う。綺麗にしてて偉いねえ、と水野さんはおばあちゃんみたいな口調で続ける。ああ、見えているんだと思った。水野さんには、この夢の中では、わたしがちゃんと人間に見えているのだ。ずっとそうなってほしいと思っていた。ずっとその一言が欲しかった。それなのに、神様はなんでこんな残酷な夢を見せるんだろう。わたしには、水野さんが水野さんに見えない。ずっと遠く見えてしまう。酷く寂しくなって、彼のやわらかそうな手を握った。あたたかさだけが救いで、あとはもう全部、絶望だった。

「好きになんかなれないですよね」

 わたしは言う。目の前のブチ柄の猫は、少し不思議そうに首を傾げる。

「自分と全く違う生き物を、好きになんかなれませんよね。あんまりに遠すぎるから。違いすぎるから。わたしには、あなたの見ている世界が、理解できないから。あなたにはわたしが、見えないから」

 顔を上げれば、猫は酷く傷ついたような顔をしていた。

 わたしは取り返しがつかないことを言ってしまったような気がして、必死に取り繕う言葉を探そうとする。でも何も言えないまま目が覚めた。酷い気分だった。


    *


 これは、全部わたしの後悔の話だ。

 あの夢を見たあと、わたしはあまり彼に関わらなくなった。彼からわたしに話しかけることはほとんどなかったから、わたしから積極的に近寄っていかなければ、距離は自然と離れていった。わたしは恋心を忘れようと必死になっていたのだと思う。それでも、理学部棟に棲み着いた猫が相変わらず彼のそばに寄っていくのを見かけると胸が苦しくなった。一度好きだと思ってしまったこの気持ちを簡単に捨てることなんてできずに、わたしは宙ぶらりんな日々を送る。今日も、同じように。

 空は、今にも雨が降りそうな重たい曇り空だった。気付けば初夏は終わり、季節は梅雨へと移り変わっていた。太陽光の降り注ぐ夏のような青空は姿を隠し、灰色の雲ばかりが頭上を覆っている。肌寒い日が続き、一度はタンスにしまった長袖のシャツに腕を通すことも多くなった。

 わたしはいつものように喫煙所の前を通り過ぎようとする。けれど、今日は、耐えきれなかった。彼の隣に立った。人の少ない時間、その場所に誰もいないのを見計らって。

「こんにちは」

 彼はいつものようにわたしに声をかける。それに応えず、わたしはじっと彼の隣で身を縮めていた。そうしているとそのうち、水野さんの大きな手がわたしの頭に伸びる。

 水野さんはわたしを、人間ではなく猫だと認識したようだった。軽くわたしの頭に触れた手は、大きくてあたたかい。

「……君によく似た子がね、いるんだ」

 小さな声で、ぽつりと水野さんが言う。

「明るくて、人なつっこい子でね、俺は随分、助けられていたんだけど……」

 そのあとも彼の独り言は続いたけれど、聞き取れなかった。水野さんが誰の話をしようとしていたのかわたしにはわからない。わたしによく似た灰色の猫が他にいるのかもしれないし、もしかしたら……それは、わたしのことだったのかもしれない。「実は原田でした」と冗談みたいに名乗ってしまおうかと一瞬だけ考えた。でも、そんなこと今更できるわけもなかった。

 わたしは何がしたいんだろう。

 急にどうしようもない気持ちになって、逃げるようにその場を去った。こんなことをして、何になるのだろう。水野さんの声に言葉を返すことも、猫のように喉を鳴らすこともできない。自分の気持ちに整理をつけることも、真っ向から向き合うこともできない。ただ彼の手があたたかかったことだけ頭から離れなくて、余計に寂しくなった。

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