第3話
それから、わたしは水野さんのことをよく考えるようになった。理学部棟の喫煙所に必ず彼の姿を探すようになったし、バイト先からアパートに帰ってくると彼の部屋に電気がついているか気になった。
ときどき、アキがうちのアパートの駐輪場で休憩していることがある。赤い首輪に鈴をつけられた茶トラの猫に寄っていくと、彼女は一度こちらを見て興味なさそうに一度大きくしっぽを振った。
「アキ、水野さんは?」
わたしはそう言いながらアキの前にしゃがみ込んで彼女の喉もとを撫でる。アキはゴロゴロと喉を鳴らして高い声でニャと小さく鳴いた。
「何言ってるかわかんない」
わたしは少し笑って言う。アキはそのうち撫でられるのに飽きたのか、わたしから少し距離を取ってまた寝そべった。
アキは人間が嫌いというわけではないけれど、過剰に人に懐こうとしない。理学部棟に棲み着いた野良猫たちに比べたらそんなに人間に媚びを売らなくても満足に生きていけるからかもしれない。彼女も水野さんに拾われる前はずっと野良猫だったのだろうけど、その頃はどうだったんだろう。知る由もなかった。彼女と話をすることはできないのだから。
「アキ」
名前を呼ばれた彼女はまたしっぽだけでわたしに応えた。
アキという名前は、茶トラ柄の彼女によく似合った。彼女の毛皮はふわふわとしている。しなやかな身体のラインと、ピンと立った耳、小さな額、丸い金色の瞳、桃色の鼻、長く伸びた鍵しっぽ。わたしはアキの隣で、じっと彼女の姿を見ていた。
世界中が、このやわらかくて気まぐれな生き物で満ちているのを想像してみる。
中には人の言葉を話すものと、猫の言葉を話すものがいる。声をかけてみなければ、その辺りに座って休憩している猫が人間なのか本当の猫なのかわからない。
そんな世界に一人でいる。
水野さんはひとりで大丈夫だという。そんな世界が当たり前だという。本当にそうなのだろうか。寂しいに決まってるじゃないか、そんなの。
彼の目に、人の姿で映りたいと願う。わたしは、自分の爪に視線を落とした。最近マニキュアを変えた。桜の色が綺麗で気に入っていた。でも、水野さんがそれを知ることは決してないのだと思うと胸がじくじくと痛む。
寂しいのは、わたしの方なのかもしれない。
アキはひとつあくびをすると、わたしの前を通過して自分の家へ向かっていった。わたしも立ち上がって、鞄から鍵を取り出す。
最近ずっと、こんな調子だ。
「その先輩が好きになったわけね」
一年の頃から仲良くしている哲学科の美咲はわたしの話を聞いて「ふうん」と相槌をうち、愉快そうに笑う。
わたしの部屋で一緒に作ったカレーを食べながら、わたしは彼女に水野さんのことを話していた。同じゼミの院生の先輩であること。いつも大体一人でいるけれど優しい人であること。おばあちゃんみたいに何でも褒めてくれること。
「佳奈ちゃん、野村くんに振られてから一切男っ気なかったから安心しました」
「安心しましたって。でもわたし告白する気ぜんぜんないよ」
わたしは苦笑を漏らしてそう言った。美咲は首を傾げる。
「なんで? 一緒にご飯行ってくれるくらい仲良いならワンチャンいけるでしょ」
「いやー、なんて言ったら良いのかな」
わたしは水野さんが見ている世界のことを目の前の友人に話していいものか躊躇する。少し考えてから、
「例えば、美咲の目にわたしが人間として映ってなかったら、どう思う?」
と言った。唐突な質問に美咲は一瞬虚を突かれたような顔をしてから、少し首を傾げた。
「具体的には?」
「人間以外の動物に見えちゃうとか」
「あー、萩尾望都のイグアナの娘みたいな?」
「多分……わたしそれ読んでないから何とも言えないけど」
わたしの応えに、美咲は少し考えるような間を取って困ったように割る。
「どう思うって言われると難しいけど……」
「人間じゃないんだよ。自分とは別の生き物なんだなって思わない? 恋愛対象にならないんじゃない?」
畳みかけるように続けるわたしが鬼気迫って見えたのか、美咲は驚いた顔をして、
「そうねえ……」
と再び逡巡した。それからすぐに、はっと何かを思い出したように顔を上げた。
「わたし、聞いたことあるかもしれない」
「え?」
「うちの院生の先輩が言ってた。理学部の友達に、人間がみんな猫に見えてしまうやつがいるって……」
その人なの? と、美咲がわたしの目を覗き込んだ。頷く。そっか、と神妙な顔で彼女は息を吐いた。
「疑わないんだね」
わたしは、俯いた美咲にそう言った。彼女は顔を上げる。
「え、なにが?」
「人が猫に見えるってこと。わたし最初に聞いたとき、ちょっと疑っちゃったから」
だから美咲が素直に水野さんの話を受け入れたことに驚いたし、その柔軟性を羨ましいとも思った。
そう言うと、美咲は眉を下げた。
「すんなり信じるのは難しい話だと思うよ。わたしはただ、自分の先輩が言ってたからワンクッションあったってだけ。その先輩、本当に真面目で冗談とか一切言わないんだけど、自分の研究のためにその友達にたくさん話聴いたって言ってたから」
わたしは頷く。優しい友人の言葉に甘えて自分を許しながら、
「……だからね、自分と全然違う世界で生きてる水野さんのことを、好きになっちゃいけない気がするんだよね」
そう続けた。美咲は再び怪訝そうな顔をする。
「それがわかんないんだよね。なんで?」
「彼にとってわたしはいつも灰色の猫で、ここにいる原田佳奈の姿は見えてないわけでしょ。わたしが知ってる、わたしじゃないんだよね、水野さんが見てるのは。なんかね、それがね、寂しいなって思って。わたしは、これ以上近づいたらいけないよなって」
空になったカレー皿に視線を落としながらそう言うと、美咲はなるほどね、と頷いた。
「まあ、わかるけどね。佳奈ちゃんの言いたいことは。でも、そんなの、大なり小なり人間はみんなそうだよ」
「みんなそうって?」
「うーん、例えばね、」
美咲はかけていた眼鏡を外す。
「こうしてしまえば、佳奈ちゃんが普通に見えているものが、わたしには全然見えなくなるでしょ」
美咲は眼鏡をかけ直すと、
「同じものを見てるって信じてる人たちも、相手の目で世界を捉えることなんかできないんだから、それが本当に同じものかなんて誰にもわかんないんだよ。佳奈ちゃんの見ている赤色がわたしにとって青色でも、わたしも佳奈ちゃんも一生それに気付くことはできない、みたいな話」
そう言ってわたしの目を見た。
「クオリアってあるでしょ」
「はじめてきいた」
わたしは応える。医学用語で、哲学でもしょっちゅう出てくるワードなのだと彼女は言った。
「どういう意味?」
「感覚質。世界をどんな風に受け取るか。悲しいって思うとき、嬉しいって思うとき、沸き上がるあの感覚。赤を赤と、猫を猫と捉えるときのあの感じ」
美咲は一度ゆっくりと瞬きをした。彼女の目に映っている世界とわたしの目に映っている世界が別物であるということを、わたしは想像しようとする。言われてみれば、それはそうなのかもしれない。
「みんな一緒だよ。誰も彼もみんな、自分の世界にひとりぼっちで、それは一生変わらないの」
「悲しい話だね」
「それでも、誰かと手をつなぐことはできるでしょ」
美咲はわたしの右手を一度強く握り、それから空になったカレー皿を持って立ち上がった。洗ってくるね、と台所に向かう美咲にお礼を言いながら、わたしは自分の手を見下ろした。見慣れた五本の指。桜色のマニキュアを塗った爪先。この形もこの色も、水野さんには見えない。それなら、手を繋ぐということは、なんて寂しい行為なんだろうと思った。
そんな風に、思ってしまうわたしは馬鹿なんだろうか。
「好きにならなかったら」
わたしは呟く。皿を洗っている美咲にはわたしの声は聞こえていない。
「好きにならなかったら、こんな風に勝手に寂しくなったりしなかったのにな」
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