第2話
ゴールデンウィークが明け、辺りはすっかり初夏の装いだった。理学部棟を囲うように植えられた桜の樹は青々とした葉を太陽に向けて一身に光を浴びている。気温は三十度近くなる日もあって、今から夏が思いやられた。ゼミ室で水野さんと雑談をしていると、
「年々春が短くなっていくのはどうにかなんないのかな」
と彼は言う。水野さんは既に半袖を着ていて、この人は夏場どうやって暑さと戦うつもりなのだろうと思う。わたしはまだ七分袖で耐えている。
「水野さん虚弱体質っぽいから夏苦手そうですよね」
「偏見甚だしくない?」
わたしの言葉に水野さんは眉間に皺を寄せたあと、
「まあそうなんですけど」
と言って笑った。色の白い水野さんはいかにも夏が似合わない。
「あとみんな毛皮着てて暑そう。原田さんはまだ灰色だからいいけど黒猫見てるともう可哀想……ってなっちゃう」
「毛皮なんか着てないんですよ、本当は。今日だってわたしはカーキの七分袖のシャツですよ」
彼の言葉に軽口で応えると、水野さんは少し口を尖らせる。
「夏場に猫見てるだけで暑いでしょ」
「あーわかる。わかりますよ。大変ですね」
「大変なんだよねえ、本当に」
彼の言葉にあははとわたしは笑う。
彼と初めて喫煙所で話をしてから、約ひと月が過ぎようとしていた。水野さんを見かけるたびに声をかけていたらいつの間にか随分仲良くなって、ごく普通に親しい先輩として接するようになっていた。
「わたしはそろそろ帰ります」
時刻は午後二時を回ろうとしている。わたしは今日午後が全休なのだ。レポートを書こうと思って開いていたノートパソコンを閉じ、リュックにしまう。
「俺も帰ろうかな」
水野さんは時計を見てそう言った。わたしはリュックを背負いながら、
「じゃあ一緒に帰りましょう」
と応えた。
大学の近くは学生の住むアパートが何軒も建っている。わたしは大学通りにあるスーパーの路地を少し入ったところにある1DKの部屋を借りていた。二階の角部屋。西向き。夕方、西日のせいで室温が跳ね上がる以外は概ね良い部屋だった。
向かいにある水野さんの住むアパートは非常に古い造りで、ペットを飼うことも許可されている。水野さんは一階の角部屋で、拾ってきた茶トラ柄の猫と一緒に暮らしている。大学二年生の秋に飼い始めたからアキという名前だそうだ。
家に帰ってからベランダで布団を干していると、窓辺に座ってアキが外を眺めているのが見えた。
水野さんは、猫が好きだ。
理学部棟に棲み着いた猫によく食べ物をあげているし、アパートの近くで怪我をしてうずくまっていたアキのことも放っておけずに病院に連れて行ってそのまま引き取ってしまった。自分以外の他者が全て猫に見える環境で、彼は、猫にとても優しい。
ぼんやりとアキを眺めながら布団を叩いていると、水野さんが窓を開けてアキを抱き上げた。
「水野さーん」
わたしは声をかける。水野さんはこちらを見上げて、
「やあ、布団干してるの偉いね」
と言った。家事を褒められたわたしはふふふと笑って、
「水野さん、暇だったら夕ご飯一緒にどうですか?」
そう続ける。水野さんは少し驚いた顔をしてから、ちょっと笑って「いいよ」と応えた。
大学の近くの洋食屋さんは、安いのに美味しいので積極的に利用させていただいている。マスターのおじさんがひとりで切り盛りしているから料理が出てくるのにやたら時間がかかりはするのだけれど、大学生なんて基本的に時間が有り余っているのだから大した問題ではない。わたしはチキンハンバーク、水野さんはクリームコロッケの定食を注文した。
向かいに座った水野さんは「吸っても大丈夫?」と尋ねる。もちろん、と応えると愛用している黄色いパッケージの煙草に火をつけ、
「原田さん」
とわたしの名前を呼んだ。何でしょうと応えると、彼は、
「またレポートで煮詰まってるのでは?」
少し笑ってそう言った。ウッとわたしは声を上げた。図星である。
「何故それを」
「さっきゼミでレポート書こうとしてたでしょ。画面が真っ白だったから」
水野さんは応える。よく見ていらっしゃる……と絞り出すようにわたしは言った。
高校生の頃数学が好きだったからあんまり考えずに数学科を選択したものの、大学数学はわけのわからない何かだった。公式とか計算とか、もうそういう次元の話じゃないのだ。概念だ。それでもまあ、選択してしまったのはどうしようもないのでこうしていろんな人に……まあここひと月は主に水野さんに助けてもらってどうにか授業に追いついている。
「今度レジュメ貸してくれたらざっとまとめて解説してあげるよ」
「神様だ……今日は奢らせてください……」
「あはは。いいよ、気にしなさんな」
彼は空調の風下に向かって煙を吐き出す。
「水野さん、院まで進むって本当に数学好きなんですね」
わたしが言うと、彼は少し視線を落として笑った。
「モラトリアムの延長って言っちゃえばそれまでなんだろうけどね。でも好きだよ、数学は。正しい答えは必ず用意されているでしょ。俺たちにはそれが見えてないだけ。人間の感性や価値観によって答えが変わらない」
水野さんは少し照れくさそうに笑ってから、もう一度口を開いた。
「昔カントの哲学書を読んだらね、人間が世界の物理法則をすべて数式に当てはめるのは、数式を通してでしか人間が世界を認識できないからだって、そんなことが書いてあった。俺は哲学に全然明るくないからわかんないんだけど、俺たちが今見てる世界は全部、数学のような論理学的思考のフィルターを通して存在してるって、まあそんな話らしいよ。原田さんの世界も、俺の世界も同じ」
だから数学は好きだよ、と言って彼はもう一本煙草に火をつけた。難しい話だきちんと理解できた気はしない。けれど「原田さんの世界も、俺の世界も同じ」というその言葉が少し、胸に刺さる。わたしは、彼の目に自分が猫として映っていることを思い返していた。自分ひとりが違う世界で生きている彼にとって、数学という学問はひとつの救いなのかもしれなかった。
「原田さんは、大学で数学やって嫌いになった?」
水野さんの問いかけに、わたしは首を振る。
「今ちょっと、好きになりました」
「そう」
ふふふと水野さんは笑って煙草を消す。話題が途切れても、まだわたしたちの前に料理が運ばれてくる気配はなかった。マスターは忙しなくカウンター席のお客さんの前にポークステーキを置き、セットの豚汁とごはんを並べている。
「ここのマスターは、どんな猫なんですか?」
わたしは気になって尋ねてみた。
「錆柄だよ」
水野さんは応える。わたしは頷いた。錆柄の猫には、白いコック帽がとてもよく似合うような気がする。
窓の外に植えられた木から夕暮れの光が木漏れ日になって射し込み、わたしの向かいに座る水野さんの顔に影を作る。斑模様の光の中で煙草を吸う彼に、
「水野さんは猫ならきっとブチ柄ですね」
というと、彼は一瞬目を見開いてから、目を細めた。
「ありがとう」
彼は応える。なんで、お礼なんて言うんだろう。
胸の奥がしびれるような感覚がした。彼は笑っているはずなのに、日差しのせいか泣きそうな表情に見えた。なんだか見ていられなくて、わたしは視線を落とす。
「水野さんが見てる世界のことを、もうちょっと理解できたらいいのに」
呟くように言ったわたしの言葉に、
「そう思ってくれるだけで十分だよ。俺はひとりで大丈夫」
彼は、優しい声でそう言った。
「こうして話ができるだけで、嬉しいよ、俺は」
何か言葉を続けたいと思ったけれど何にも出てこない。俯いたままのわたしの前に、ちょうどタイミング良くマスターがチキンハンバーグ定食を並べた。
「揚げ物はもうちょっとかかるだろうから先に食べなよ」
水野さんは吸いかけた二本目の煙草をもみ消して言う。わたしは頷いて、切り替えるように息を吐き手を合わせる。いただきます、と言うと、
「ちゃんと挨拶ができるの偉いねえ」
と水野さんは笑う。いただきますを褒められるなんて何年ぶりかと思わず吹き出した。
「水野さんは布団干したりいただきますをいうだけで褒めてくれる……うちのおばあちゃんみたい」
「苦手な数学にちゃんと向き合うのも偉いねえ。佳奈ちゃんは偉いねえ、本当に」
水野さんは本当におばあちゃんみたいな口調で言ってあははと笑う。わたしもひとしきり笑ってから「お褒めにあずかり光栄です」と応えた。チキンハンバーグを一口大に切る。ちょっと箸を入れるだけでほろほろと崩れた。ご飯に手をつけたところで水野さんのクリームコロッケ定食が運ばれてくる。
「コロッケって家じゃ作らないよねえ」
手を合わせながら水野さんが言うので、
「わたし結構作りますよ。肉じゃがのあととか」
と言った。水野さんはコロッケを箸で半分に割る。きつね色に揚がったパン粉に湯気の立つクリームソースが絡む。
「余った肉じゃがコロッケにする人なんだ」
「コロッケにする人です」
「凄い。偉い」
「今日めっちゃ褒めてもらえる」
今度余ったら持っていってあげます、とわたしは言う。水野さんは嬉しそうに「うん」と頷いてコロッケを口に運んだ。美味しそうにご飯を食べる人だなと思って、少し、泣きたい気持ちになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます