灰猫のクオリア

村谷由香里

第1話

 その人は、猫とヒトの区別がつかないのだと言った。


 三年生になって数学科のゼミに配属され、最初の授業で全員が自己紹介をした。周りの同回生も先輩たちも、研究内容や趣味などの当たり障りのない情報をひと言ふた言述べる。そんな中、彼だけが少し、違っていた。

「大学院一年生の水野浩樹といいます。目が悪いので、もしかしたら迷惑をかけるかもしれません」

 少し掠れた声で彼は言って、

「僕には、猫と人の違いが、あまりわからないんです」

 そう続けた。自分の発言に困惑したみたいに笑うと、彼は「以上です」と言って席に着く。新しくゼミに入ってきた三年生はみんな不思議そうな顔をしていたけれど、上級生は慣れたようにその話を流していた。水野さんは不健康そうな顔で、窓の外に視線を向ける。

 それが、彼との初対面だった。


    *


 大学のあるこの街は四方を山に囲まれた盆地で、春は気候が安定しない。連日雨が続いていて、今日もさっきから降ったり止んだりしている。桜はすっかり散ってしまっていた。

 昼休みに売店でパンを買って外に出ると、理学部棟の喫煙所で水野さんが煙草を吸っているのが見えた。相変わらず寝不足のような不健康そうな顔をしていて、背だけがやたらと高く、どこにいても目立った。

 わたしは立ち止まって彼の方をぼうっと見ていた。その足もとに、大学に棲み着いた猫が寄っていく。

 いつもちょっと不機嫌そうな顔でひとりで煙草を吸っている水野さんには、ひとつ癖があった。猫が寄ってくれば、必ず「こんにちは」と声をかけるのだ。水野さんは今日も足もとに寄ってきたキジトラの猫に声をかけていた。猫は顔を上げて、言葉の意味を測りかねるように首を傾げる。

「猫か」

 と、呟く声が聞こえた。彼は煙草をもみ消すとしゃがんで猫の首元を撫でる。

 わたしは彼の方に寄っていって、

「こんにちは」

 と、声をかけた。

「こんにちは……原田さん」

 水野さんはわたしの目をじっと見てから、少し思い出すような間を取ってそう言った。

「そうです。原田です」

 彼はわたしと四年生の先輩をしょっちゅう見間違えるのだ。わたしと彼女はまるで似ていないのに。

「何か用事?」

「いえ、ちょっと声をかけたくなっただけです」

「ははは、そうなの」

 水野さんは、あまり自分から積極的に人と関わり合うタイプではない。でも、近くに寄ってくる人の話を楽しそうに聞く姿をよく目にする。別にひとりが好きというわけではないみたいだった。人に対しても、猫に対しても、彼は優しいまなざしを向ける。彼の住んでいるアパートはわたしの住むアパートの向かいにあるのだけれど、窓際で飼い猫を撫でている姿もたびたび見かける。

 猫と人の区別がつかないと言った不思議な先輩のことを、わたしはずっと気にしていた。二人で話をしてみたいと思っていたのだ。

「水野さん、猫に絶対挨拶しますよね」

「え、見てたの」

「見てました」

 わたしが言うと水野さんは「はずかしい」と苦笑を漏らした。

 彼に撫でられていた猫は、飽きたのか身体を起こしてその場を去っていく。わたしはそれを見送りながら、再び口を開いた。

「……前に言ってた、猫と人の違いがわからないって話と、関係あるんですか?」

 不躾かと思ったけれど、オブラートに包む方法もわからないのでそのまま問いかける。水野さんは少し驚いたように目を見開き、それから少し笑って「そうだよ」と頷いた。

「話しかけて、応えてくれるのが人間。応えないのが猫。ざっくりしてるけど何となくそれで判断してるから」

「そんなに同じように見えるんですか? ほら、ええと、歩き方とか」

「同じように見えるよ。何だろう。俺が言ってる猫と、原田さんが見てる猫がそもそも別物って可能性もあるし」

「……なるほど?」

 聞けば聞くほど正直よく分からない。まるで現実感のない話のように聞こえた。短い沈黙のあと、水野さんは短くなった煙草を灰皿でもみ消しながら、

「原田さんは綺麗な灰色の猫に見えるよ」

 と言う。

「……灰色の猫」

「そう。四年の山口さんも似たような灰色の猫なんだ。だからしょっちゅう二人を見間違える」

 彼は新しい煙草に火をつけ、

「わけわかんないでしょ」

 と言った。わたしは少し視線を泳がせる。わかんないです、と言って笑ってしまえばこの話は終わりになるのだろう。でも、彼の話が嘘だとは思えなかった。こんな嘘をつく必要性なんてどこにもないはずだし、冗談を言うような口調ではないこともわかっている。

「……野沢先生はどんな猫なんですか?」

 わたしは、自分たちのゼミの担当教官を思い出しながら問う。野沢先生は年齢不詳の女性数学教授だった。二十代にも五十代にも見える不思議な雰囲気の人だ。声がやわらかく、一年生のうちは大体彼女の授業を聞いていると寝る。

「野沢さんは白。真っ白」

「……似合いますね」

 わたしはやわらかな声で数学の授業をする白猫のことを想像してみた。

 人が猫に見える。

 あるのだろう。そんなことも。わたしは彼の言葉を改めて胸の奥に落として、頷く。でも、その世界を想像してみるのは難しいことだった。人が人に見えないというのは、どういうことなのだろう。彼には猫がどんな風に見えているのだろう。現実に広がる風景と彼の見る景色は決して重なり合わないはずだ。そのことでどれくらい、齟齬が生まれてきたのだろうと想像する。想像がつかない。

「なんか……聞いてしまって大丈夫なんですか、その話」

 わたしは不安になって尋ねる。自分から話を振っておいて今更だけど、彼の人間性の根幹に関わるようなことを易々と聞いてしまって良かったのかと心配になった。水野さんは煙草の煙を吐き出しながら、

「まあ公言してるのは俺の方だしねえ」

 と応える。

「どうしても変な言動が目立っちゃうでしょ。上手な嘘も思いつかないし。事実を言っても信じてもらえなければやっぱりこいつ変な奴なんだなって思われるくらいだし」

 ね、とわたしを見て彼は笑った。

 水野さんはとても優しくて、人好きのする穏やかな笑顔を浮かべる人だけれど、一人でいることがとても多い。自分からは滅多に人に話しかけることはなく、いつもぼんやりと辺りを見ている。

「ずっとそうなんですか?」

 わたしの問いに、彼は曖昧に頷いた。

「そうだね。生まれたときからずっと」

 話だけ聞くと、それはまるでおとぎ話で語られる呪いのように聞こえた。百年眠り続けるお姫様だとか、カエルに姿を変えられてしまった王子様だとか。でも、きっとそんな単純なものでもないのだろう。

 ひとつだけ引っかかって、わたしは尋ねる。

「……水野さん自身は人間なんですか」

「そうだよ」

 わたしの問いに答えると、彼は薄く笑った。

 猫しかいない世界に、彼はひとりでいる。その光景を想像してみると、それはとても、寂しいように思えた。

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