十三日の金曜日、仏滅

日車文

十三日の金曜日、仏滅

「そういえば今日は、十三日の金曜日、しかも仏滅ね」

 うだるように暑いとある八月の十三日。クーラーがガンガンに効いたリビングで母が思い出したようにつぶやいた。彼女の箸は修介が取ろうとした鯛の刺身を横から滑り込んですぱっと強奪していく。最後の一枚が彼女の胃袋へ消えていくのを恨めし気に見つつ、唐突に出てきた母のつぶやきに修介は疑問を覚えた。

「十三日の金曜日で仏滅?」

「そう。カレンダーに書いてあるわよ」

 なるほど確かに、カレンダーを見れば十三日の欄に薄い文字で「仏滅」と書かれている。なんとも不吉だ。十三日の金曜日で、仏滅。こんな偶然があるだろうか。

「十三日の金曜日って、ジェイソンの映画から有名になったんだろ? でもあれは映画だからそんなに信憑性がない気がする」

「でも昔、看護師やってた友人が言ってたんだけど、」

 そう言って、母は言葉を切った。

「十三日の金曜日、仏滅って毎年あるわけじゃないのね。何年かに一度あるらしいんだけど、その日はやたらと急患が多いんだって。救命の方の人なんか大騒ぎで、全然救急車とか医師とか足りないらしいの。やっぱり何かあるのかしらねぇ」

 冗談だと思ったが、本当らしい。それなら今も現役の母の友人は今頃修羅場なことだろう。金曜日はともかく、十三という数字は昔から外国では不吉とされる数だ。確かに何か、不吉なようにも思える。

 修介は、背筋をぞぞっと悪寒が駆け抜けるのを感じた。

 食事を終えて、修介は自分の部屋に戻った。散らかったベッドの上に無造作に放り投げられた自分の携帯の着信を知らせるランプがちかちかと光っている。確認すると、それは親友である新山湧からのメールであった。いつもの通り、他愛もない内容だ。

 それに対してこちらも同じように他愛もない内容で返し、送信ボタンを押そうとして指を止めた。どうせならさっき聞いたことも教えてやろう。そう思い、追伸に十三日の金曜日で仏滅の件を書き込んだ。


***


 深夜。何かが鳴る音がして、ふっと意識が浮上した。闇の中にサブディスプレイが光る携帯がぼわんと発光していた。どうやら誰かからメールがきたらしい。

 自分の知り合いで深夜にメールしてくる輩はそういない。ふと気になったので確認すると、湧からだった。

 件名は「ふろ」。

 内容は、「たすけ」。

 湧は風呂に入る際に携帯を持ち込む癖があったので、深夜に風呂に入っていたのだろう。そこまでは分かった。だが、この途切れた内容は何だ?

 助けて、と打とうとしたのだろうか。携帯を打っていて湯船に沈んだか。色々考えてみたが、今から彼の家に行くわけにもいかないので、あまり気にせず携帯を閉じて布団の中に潜り込んだ。急に眠気が襲ってきて、まぶたが重くなる。意識が落ちるその瞬間、天井に映ったサブディスプレイの光がゆらいだ気がした。


 翌日だった。

 彼が、新山湧が死んだことを知ったのは。


***


 いつものようにクーラーに護られた、平凡な昼下がりだった。一本の電話がかかってきた。いつもの通りに母が出た。電話主に対する母の返答の雲行きが怪しくなってきた。ちらりと母の顔を見ると、その瞬間、言葉通りざあっと血の気が引いた。あんなに遠目で分かるほど露骨に血の気が引いたのは初めて見た。母が受話器を置いた。そして、修介に言った。

「湧君、亡くなったって」

 その後のことは、ほとんど覚えていない。


***


 何も手がつかず、一週間が過ぎた。その間に湧の通夜、葬式が済んでしまった。終わってみればそもそも彼の存在自体がなかったように思えるくらい日常は変わらず、気を抜けば自分まで新山湧の顔を忘れてしまいそうだ。

 彼は自殺したらしい。深夜に、風呂場で、手首を切って。

 おかしい。

 絶対におかしい。

 彼は自殺するような人ではない、とはいわない。いくら親友とはいえ、修介には分からない湧の悩みがないとは限らないのだから。そんなことを言いたいのではない。修介が言いたいのはあのメールだ。

 助けて、と打とうとして打てなかったあのメール。湧は明らかに修介に助けを求めていたはずだ。彼は気配りがきく人間だったから深夜にメールはそうそう送ってこなかった。そんな彼が風呂の変換すら惜しんでメールしてきたのだ、よほどのことがあったはずだ。

 自分が助けに行けばよかったのか? だが深夜だったし、修介の家から湧の自宅は遠い。助けに行くのは無理だったろう。

 それを悔やんでも仕方がない。

 そんなことより、知りたいのは、湧は本当に自殺したのか、ということ。あのメールをふまえると、湧が自殺した可能性は低いように思われる。ならば仮に湧が自殺でないと仮定して、残る可能性は事故か殺人である。事故で手首を切ったとして、死ぬほど深くは切れるだろうか? 手首で動脈まで達するには骨が見えるくらいまで切らなければならない、とどこかで聞いたことがある。修介には事故でそこまで深く切れるとは到底考えられなかった。

 となれば、残る可能性は殺人、つまり事件。だが、深夜に彼の家に誰かが忍び込んだという話は聞いていない。それに、殺人犯(空き巣かもしれないが)が忍び込んだとして、わざわざ風呂に入っている湧だけを殺し、その両親は殺さないなんて、いくらなんでもおかしすぎる。

 考えれば考えるほど謎は膨れ上がり、修介は頭を抱えた。もう夏休みの宿題どころではない。いてもたっても居られず、気が付くと修介は自宅を飛び出し、湧の家へ向かっていた。

 電車をいくつか乗り継ぎ数十分、駅から数分歩いたところに有る何の変哲もない、これといって特徴さえないふつうのマンション。往々にして、凶悪な事件、猟奇的な事件はこういった普遍的な場所で起こる。推理小説の常套だ。このマンションに新山湧の母親は今は住んでいないらしい。やはり引っ越してしまったのだろう。最初の頃こそ黄色い立ち入り禁止のテープが幾重にも張り巡らされていたが、湧の死が自殺と判断されてからの警察の撤退は早かった。一週間経った今ではあの黄色い残像は一切の跡を残していない。どうやら湧の部屋にも入れそうだ。

 マンションの管理人に交渉すると、あっさりと部屋の鍵を渡してくれた。子供で親友だというのが警戒心を解くのに大いに役立ったらしい。管理人は死人が出た新山家の部屋を気味悪がっているようだった。

 不気味なほど音が全くしないエレベーターで四階に上がり、勝手知ったる湧の部屋へと迷うことなく突き進む。何度か彼の家にはお邪魔したことがあるので、修介には湧の部屋の間取りもだいたいは分かっている。

 表札はまだ新山のままだった。鍵を差し込み、ひねる。かちりと軽い音がして、これまたあっさりとドアは開いた。

 そっとドアを開くと突如濃厚な血の匂いが鼻をついた。一週間経ってもこの強烈な匂いはとれていないようだ。吐き気を催すほどに強い鉄錆びた匂いに修介は顔をしかめつつ、湧の家へあがる。正直、ことが起こった直後のようなこの匂いの中には長時間いたくない。修介は全ての部屋を調べるつもりだった予定を変更し、湧が死んでいた浴室だけを捜索することにした。

 浴室へのドアは容易に見つかった。洗面台や洗濯機などの水周りが集められた、ごく普通の洗面所の先だ。修介は浴室の擦りガラスのドアを開けた。

 吐き気すら引っ込むほどの、あまりに激烈な鮮血の腐臭。視界がその匂いだけで鮮やかな血の色に染めあげられる。

 修助はドアを開けた瞬間に微かな違和感を覚えた。白いタイル張りの壁には一切の血痕がない。拭き取られたかと思ったがそれも違う。天井にも、バスタブにも、血痕は全く見あたらない。

 ただ紅いのは、床。

 床一面が赤茶けた血の跡に覆われている。拭き取ったのだろうが、それでも。それでも、ここで人間が一人死ぬくらいの血液が流れ出たということが分かるくらいに、血の跡はべったりとそこに遺っていた。

 静脈を切ったなら止血すればなんとかなる。動脈は切れると一瞬だ。湧は血を見て動転して止血できなくなるような男ではなかったから、きっと切れたのは動脈だ。だが、動脈が切れれば血はあたり一面に飛び散るはず。

 それなのに。

 それなのに、血が飛び散った痕跡は見られない。ゆっくりと床に血の池を作ったような、そんな血痕。ますますわけが分からない。

 謎が増えたもやもやと共に吐き気と胸のむかつきがいい加減耐えきれなくなってきたので、修介は探索を打ち切り、外へ出た。鍵を管理人に返し、マンションの敷地外に出る。

 ちょうど入り口の真横に、入ったときにはいなかった一人の警察官がいた。何か聞けるかもしれないと、藁にもすがる思いで修助は彼に話しかけた。

「あの、」

「ん? なに?」

「このマンションに住んでいた、新山湧についてお聞きしたいんですが」

 警官は少し迷うような様子で顎に手をあてた。ふっと彼の瞳が曇る。

「君、自殺した子の友達?」

「湧は自殺なんかじゃない」

 思うより先に口をついて言葉が出ていた。警官は修介の語気に気圧されたようで、きょとんとしている。

「多分死ぬ直前、に、湧からメールが届いたんだ。遺書とかじゃない。助けてって、書いてあった」

「……それ、今見せられる?」

 修介は彼に湧からの最期のメールを見せながら、はっきりと強く言った。

「これを見る限り、湧は自殺なんかじゃない。自殺する人が助けてって言うはずがない。だから俺は、真実が、知りたく、て」

 ひと思いにまくし立てているうちに目頭が熱くなって涙がこぼれそうになったが、耐えた。泣いている場合ではない。この警官から、何でもいい、情報が欲しい。

 一通りこのメールを捜査資料として保存し終えた警官はおもむろに口を開いた。

「それで、聞きたいことは?」

 修介はぱっと顔を上げた。

「質問の内容によっては答えられないのもある。でも、答えられるものなら答えよう」

 そして修介は警官に様々な質問を浴びせた。湧の素性を知っているだけに、自然彼の質問は捜査によって警察が得た情報に関してのものが多くなった。当然だいたいは守秘義務だか何だかで答えてもらえなかったが、いくつかは教えてもらえた。だが、そのどれも謎を深めるばかりで収穫にはほど遠い。

 むしろ謎が増えた。あまりにも不気味なその死に様。極めつけは、これだ。

「新山湧は検視の結果多量出血による失血死・・・・・・だけど、おかしいんだ」

「おかしい?」

「彼の体についた傷は右手首の傷のみ。これはカミソリでついたものなんだが、どうみても傷が浅すぎる」

「? つまり?」

「この程度のちょっと太い血管を切った程度じゃ普通死なない。だけれど彼は失血死している。他のところからの出血もないし新山湧は健康体。つまり、」

 背筋に、冷たい氷がねじ込まれるような感覚。


「新山湧は死ぬはずのない傷で死んでいる」


***


 結局、新山湧は世間には自殺で片づけられた。それは修介にとってあり得ないことだが、彼の死でもっとあり得ないことが起きていることを考えるとなにも言うことはできない。

 死ぬはずのない傷で死んだ親友。

 理解不能の血痕。

 どれもこれも全て、あの浴室の鮮烈な血の匂いとともに頭に焼き付いている。

 修介は高校生から大学生になった。湧もなるはずだったが、彼はもういない。不可解な不審死を遂げた彼は今も高校生のままだ。

 あれから数年、湧の死の真相への手がかりを完璧に失った修介は悔しいながらも真相の解明を諦めるしかなかった。

 あんな劇的な死に方をした彼は、未だに頭から消えない。

 まだ耳の奥で、彼の声も聞こえる。

 奇しくも今日はあの日と同じ、十三日の金曜日、仏滅。数年に一度、最小公倍数の巡り合わせでやってくるこの日は、死神と最も距離が近くなる日。

 この日なら何か手がかりが掴めるのでは、真相が分かるのでは。そう思って丸一日大学を休んで探し回った。あのマンションにも行った。新山家の部屋はまだ空き部屋だった。

 だが結果は再び空振り。日がとっぷり暮れてあたりが闇に染まる頃、一人暮らしのボロアパートに戻ってきただけだ。無駄骨だったか、とため息をついて、修介は風呂へと入った。

 湯船にお湯をため、髪を洗い、そして体を洗おうとしたそのとき。

「いっつ!」

 スポンジを取ろうとして位置がずれてしまい、隣のカミソリが置き台から転げ落ちた。そしてカミソリが偶然左手に当たり、すっぱり手首が切れてしまった。とたんに傷口から真っ赤な血が溢れ出す。

 少し動揺しながら、修介は手近のタオルを取って傷口を押さえた。血が次から次へと溢れだしてくる。風呂で血行が良くなっているせいもあるだろう、いつもより血がよく流れる。だが傷口を見るに、かなり浅いのでほどなく止まると修介は思った。

 ふと、修介の脳裏に昔母が言ったあの言葉が浮かぶ。


「十三日の金曜日、仏滅には急患が多いんだって」


 そして次に浮かんだのは、今日ひたすらに探し回った、新山湧。神のいたずらか、湧と同じ部位をけがした。

 死ぬはずのない傷で死んだ――。

 嫌な予感がした。そっと左手首の傷口を覗くと、血は止まるどころかいよいよ勢いを増しているようだった。

「おいおいっ、」

 思わずタオルを投げ捨ててしまったが、止血は全く仕事をしていなかった。

 ぼとり

 妙な音がした。何か、ほどよく柔らかいものが、床に落ちるような音が。

 どこから音がしたかなんて一目瞭然だった。恐る恐る傷口を見ると、そこから血が、「這いだして」くるところだった。

 長さ、大きさ共に芋虫くらいだろうか。傷口から深紅の血の芋虫がのたくりながら這い出てくる。なんとも気持ち悪い動きで、動くスライムのように、ぶるぶると。出てくる途中で手首からずり落ち、あっけなく体がちぎれてゼリー状の深紅の塊がぼとりぼとりと床に落ちる。床にぶつかるとその体は跡形もなくなり、ただの血痕だけが残る。

 ぼとりぼとり、ぼとっ、ぼとっ。気持ち悪い音を立てて、血がこぼれ落ちていく。己の体から、逃げ出すように。自分の意志を持ったかのように動くそれはあまりに異質で、あまりに信じ難い。だが血の芋虫は止まることなく修介の体から逃げ出そうとする。呆然とする修介は、くらりと貧血を起こしたところで我に返った。

 これだ。

 これが原因だ。これが原因で、湧は死んだ。不思議なくらいその事実はすとんと腑に落ちた。この血の芋虫のせいで、湧は死ぬはずのない傷で死んだ。

 ――なら、俺も、死――

 修介が冷静さを保てたのもそこまでだった。その事実を認識した瞬間、彼は完全に取り乱した。ぼろぼろと落ちていく血の塊を手で受けとめて戻そうとする。だが、受けとめた瞬間、芋虫はただの液体に戻ってしまう。このままでは血を戻せない!

 既に床は己の血で一面真っ赤に染まっていた。あの、強い血の匂いが鼻をかすめる。それでもとめどなく血は落ち続ける。

「う、あ、うあ、あ……!」

 言葉にならない悲鳴をあげ、傷口を押さえて助けを呼ぼうと必死になる。だが助けてくれる者はおらず、押さえた傷口からは血がのたくり這い出る。

 出血しすぎだ。世界がぐるぐる回り始める。気持ち悪い。きもちわるい。はきそう。きもちわる――

 突然全てが真っ白になった。あ、意識落ちた、と気づく前に、修介の精神は暗い闇の底へ落ちていった。耳元で、湧の声が聴こえた。



 ある、十三日の金曜日、仏滅。とあるボロアパートで、一人の青年が死体となって見つかった。風呂場で、紅い血の池に沈み溺れるようにして彼は死んでいたという。

 死因は大量出血による失血死。

 だが、彼、井佐治修介には、これといって致命傷は見あたらず、左手首にカミソリで切ったと思われる浅い傷跡しか存在しなかった。

 どうやら彼は、自殺したらしい。



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