後編

 頬に当たるちくちくとした痛みで、リディはゆっくりと覚醒した。目を開けると、目の前には草があり、この草が頬に当たっていたのか、と寝起きの頭で分析する。

 おもむろに身体を起こして、周りを見渡すが、既に黒薔薇とタビはいなかった。

 夢だったのだろうか、と不安に思い、胸に手を当てる。目を閉じて、アルフレッドの姿を思う浮かべるが、胸に痛みが襲ってこなかった。


 いつもなら、アルフレッドを思い出すたびに涙が溢れてきて、どうしようもない痛みと悲しみで体中がいっぱいになるのに、全くそんなことはない。

 目をぱちくりしたのち、リディは歓喜で身体を震わせた。



(本当だわ……本当に、想いを封じ込めてくれたんだわ!)



 これで、アルフレッドのことで泣くことも悲しむこともない。鍵は絶対に開けられることがないと確信している分、喜びが体中に駆け巡る。

 試しに、婚約解消した時のことを想像するが、胸に痛みが走らない。アルフレッドの隣に他の女がいる様子を思い出すが、それでもなんともなかった。



(なんて、気持ちいいの!)



 アルフレッドのことが好きではない。たったそれだけのことが、こんなにも清々しくて、明るくなるだなんて、気絶する前の自分が嘘みたいだ。

 嬉しくて、空を見上げた。


 澄み渡る青い空に、リディは感銘を受けて、ほぅ、と溜め息を漏らす。

 久しぶりに空を見たような気がする。最後に見たのは、アルフレッドの浮気が始まる前のことのように思える。


 あれから、リディはアルフレッドの顔を見ないように、俯いてばっかりだった。それが勿体ないことだったと、今更ながらにリディは痛感した。

 こんなに綺麗な青空を見る回数を減らしていただなんて、なんて勿体ないことをしてしまったのだろう。



(こんなに素晴らしいことは、二度とないわ!)



 どんより曇り空だった心が、この夏空のように澄み切った青空になっているのを、リディは感じた。







 アルフレッドがアイル侯爵と一緒に、リディがいる屋敷に訪れたのは、社交シーズンが終わった後だった。

 改めて謝罪したいということだった。婚約解消の話はその後だろう。

 アルフレッドが来ると知らせが来ても、リディの心は波打たなかった。むしろ、早く来てほしいと思った。

 今の気持ちを伝えたら、彼も喜んでくれるだろう。それが分かっているから、早く伝えたかった。


 彼への気持ちは封じ込めたが、だからといって情が全くなくなったわけでもない。幼馴染みの情くらいは残っている。

 もう恋していなくても、彼が喜ぶ姿を見るのは、嬉しいものだ。



「お嬢様、お二方がお越しになりました」



 応接間から空を見上げていると、二人が来たという知らせが来た。振り向かず、リディは侍女に返事をする。



「通して。あと、お茶も用意してくれる?」

「はい」



 侍女が応接間から出て行く。

 それから間もなくして、二人が入ってきた。リディは空から二人に視線を移した。

 アイル侯爵と目が合い、淑女の挨拶をする。



「お久しぶりでございます、アイル侯爵。お元気そうで何よりですわ」

「あ、ああ。リディも元気そうで何よりだよ」



 戸惑うアイル侯爵に、リディは笑みを刷る。

 思っていた以上に元気だったから、不意を食らったようである。

 アイル侯爵から視線を逸らし、アルフレッドに視線を向ける。

 アルフレッドは不機嫌を隠さず、リディを睥睨している。リディはそんなアルフレッドに笑みを浮かべた。



「アルフレッド様も、お元気そうで何よりですわ」



 明らかにそちらが悪いのに、睨むほどの元気があるのは良い事なのか悪い事なのか。元気なのは良い事なのだが、そこら辺は少し複雑だ。

 すると、アルフレッドの目が見開かれた。アイル侯爵も、リディを凝視している。



(あまりにも平然としているから、びっくりしているのかしら)



 最後に会った時のことを思えば、当たり前の反応だ。

 しかし、あの時のリディと今のリディは違う。生まれ変わったといっても、過言ではないくらいに違うのだ。



「リディ……? どうしたんだい? 以前に比べて、その、とても明るくなったというか」



 口を開いたのは、アイル侯爵だった。彼は驚きを隠せない様子で、リディを見つめる。

 その視線を受けながら、リディは満面の笑みを浮かべた。



「あら? 分かりますか? 実はとても良い事があったんですよ」

「ほう。良い事とはなんだい?」

「それはですね……」



 アイル侯爵から、再び視線をアルフレッドに戻す。そして、満開の笑顔で告げたのだ。



「アルフレッド様、朗報です」



 アルフレッドは、胡乱げにリディを見据える。



「わたし、あなたのことが好きではなくなりました!」



 応接間にそんな明るい声が、響き渡る。

 しぃん、と静まり返る中、リディは首を傾げた。

 予想では、この言葉を聞いたアルフレッドは、疑いの目で見るはずだ。そして、遅かれ早かれリディの言葉に納得して、満足すると思っていた。


 それなのに、どうしてだろう。

 どうして、置いていかれた子供のような、そんな顔をするのだろうか。
















「その鍵を持っているのは、封じ込める想いの相手。つまり、あなたの婚約者さんね」



 その言葉にリディは、困った表情を浮かべる。



「それでは、すぐに鍵を開けられませんか?」

「大丈夫。もし、あなたが言っていた通り、彼があなたのことを心底嫌っていたら、鍵を開けられることは決してないわ」

「それはどうしてですか?」



 問うと黒薔薇は、自信に満ちた微笑みで、その理由を告げた。



「その鍵はね、彼の心によるものだからよ」

「アル様の?」



 リディは首を傾げた。

 心によるとは、一体どういうことなのか。ますます分からなくなった。



「あなたの想いの花が姿を解き放つ鍵……それはね、彼からの愛の告白よ」

「あ、愛の告白!?」



 リディは仰天した。

 アルフレッドからの愛の告白。それを想像しようとしたが、止めた。そんなの、虚しいだけだ。

 でも、愛の告白なら、たとえ本心ではなくても言えるものだ。それで、本当に大丈夫だろうか。



「心配しないで」



 黒薔薇はまるでリディの心情を見ているからのように、優しく告げた。



「心の底からの愛の告白じゃなかったら、鍵は開かないわ」



さらに黒薔薇が付け加える。



「鍵が開かない限り、再び彼のことを好きになることはないわ。別の人のことを好きになることがあるけど、ね」



 それなら安心だ。

 原因は分からないが、アルフレッドはリディの存在自体を疎んでいるみたいだから、そんな人がリディに本気の愛の告白をするわけがない。



「以上が説明だけど、それでも想いの花を封じる?」

「お願いします」

「分かったわ」



 神妙に頷いて、黒薔薇はリディに手を差し伸べる。その手はリディの額に向けられた。そして、額を人差し指で軽く突く。



「ああ、そうそう。これも言っておかないと」



 黒薔薇は、付け加えるように言い募った。



「花はね、枯れるものよ。もしかしたら、封じ込めている間に、花は枯れてしまうかもしれない。

封じ込められている間は、その花を見ることが出来ないから、花が枯れているかどうか、あなたにも私にも分からないわ。

花が枯れているか、それとも咲いているままなのか。

それは解かれてからのお楽しみということで」



 鍵を開けられることはないですよ。だって、あの人がわたしを愛することはないのですから。

 と返そうとしたが、既に意識が遠のき始めて、その言葉を口にすることは出来なかった。


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【完結】あなたのことが好きではなくなりました 空廼紡 @tumgi-sorano

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