中編
その言葉を聞いた後を、鮮明には覚えていない。
アイル侯爵の制止を振り切って、屋敷を出て行ったのは覚えている。
馬車の中では、歯を食いしばり、嗚咽を押さえ込む理性は残っていた。だが、自分の屋敷に戻った後は誰かに声を掛けられたような気がするが、それが誰なのか、返事をしたのか、覚えていない。
自分の部屋に着いた途端、とうとう嗚咽が抑えきれなくなり、涙腺が崩壊した。
食事も摂らず、ただひたすらに泣いた。
落ち着いた頃には、朝日が昇っていた。
翌日、アイル侯爵が来て、昨日の息子の暴言について謝りに来た。当の本人は来てくれなかった。父親から聞かされていないことはないだろう。おそらく、勝手に自分たちの話を聞いたアイツが悪い、と責任転嫁しているのだろう。容易に想像できる自分に、涙が出てくる。
ここでようやく、両家の親から婚約解消についての話が上がってきたのだが、保留になる。
どうやら、子供の関係を含めても、お互いこの婚約以上の好条件な相手がいないらしい。
とりあえず、両者が落ち着いてから今後どうするか決めよう、ということになった。
リディは父親に、領地に戻りたいと懇願した。
今は社交シーズンだが、もうこれ以上王都にいたくなかった。あの人に会いたくない、人を見て笑顔を刷る自信がない、人前に出るのが無理、と切に訴えると、あっさりと許可が下りた。
かくして、リディは住み慣れた、愛する故郷へと帰っていった。
「はぁ……」
憂い気に溜め息をつきながら、リディは侍女を連れて街外れの道を歩いていた。
家にいると気持ちがジメジメするが、街にいると気が滅入ってしまうので、気分転換に人気がない、小麦畑が見渡せる道を歩く。
多少は気が紛れたが、やはり気分が晴れない。
まるでどんより曇り空だ。いくら晴れるのを待っていても、晴れる気配がないし、時々ざぁざぁ雨が降る。雨がいくら降ったところで、晴れない。
いっそのこと、婚約解消したいと父に訴えるか。今なら、すんなりと婚約解消ができるだろう。けど、決意が固まらない。
最悪なことに、あんなことがあったのに、自分はまだアルフレッドの事が好きなのだ。
自分とアルフレッドの間には、一本の細い糸があって、それがかろうじて自分とアルフレッドを結んでいる。
その細い糸を切ってしまったら、自分は立っていられなくなる。彼と結ぶものがなくなれば、彼と会えなくなる。それが嫌だった。
せめて、彼のことが好きがなくなったら。そうしたら、彼が煩わしく思わなくてすむし、自分はまだ彼の傍にいられるのに。
(なんて、矛盾しているわ)
彼のことが好きだから、傍にいたいと思うわけで。煩わしく思われたくないわけで。
彼のことが好きではなくなったら、この想いがなくなったら、傍にいたいとも思わないだろう。煩わしく思われても、気にしないかもしれない。
(本当に、アル様のことが好きではなく、せめて普通になってくれればいいのに)
また溜め息が漏れる。
すると、後ろにいる侍女が声を掛けた。
「お嬢様。ちゃんと前を向いて歩いてくださいませ。転びますよ」
「あ、そうね。気を付けるわ」
いけない。せっかく気分転換しに外に出たのに、思い出したら意味がない。
すると、のどかな風景をぼんやりと眺めようと、前を向くと、騒がしい声が聞こえた。
少年たちの声だ。時々、威嚇している猫の声が聞こえる。
まさか、と思い茂みの中を覗き込むと、案の定少年達が束になって、黒猫を虐めていた。
「こらぁ!! 弱い子を虐めるなぁぁぁぁ!!」
そこからの行動が早かった。
怒声を上げて、ずかずかと少年達を叩く。
「な、なんだよ、おまえ!!」
「領主の娘、リディ・アメリアですが、なにか?」
「げっ」
名乗ると、ちゃんと立場を理解しているのか、少年達の顔が青くなった。
リディは虐められた黒猫に目を向ける。
黒猫だったが、足が白い。東洋にはこういう動物のことを、足袋を履いている、と言うらしいことを思い出す。
黒猫は少年達が付けたのだろう。怪我をしていて、すっかり怯えている様子だった。
「ほら、お前。こっちにおいで。手当しましょう」
手を差し伸ばすと、猫は怯えながらも、リディが危害を加えないということが分かったのか、おそるおそるリディの足下まで近付く。
リディは怪我に当たらないように、抱き上げた。
「お嬢様、だめだよ! そいつ黒猫だから、魔女の手下に違いないんだから」
「あなたたち、それで自分たちよりも小さくて、非力な動物を寄って掛かって暴力を振るったの?」
怒りで、頭に血が昇っていくが、それとは逆にリディの声色が冷たくなっていく。
「だ、だって、魔女は悪い奴だって」
「魔女は悪い魔女もいれば、良い魔女もいる。お伽噺でも歴史書にも、良い魔女がわたしたち人間に幸福を与えてくれたのを、知っている?」
「そ、それは」
「それにね、だからといって一方的に暴力を振るうのは、いけないことよ。それこそ、悪者よ。あなたたちは、とても悪い子。悪者以外、何者でもないわ」
びしっと言い放つと、少年達が俯く。反省しているのか、逆ギレしているのか分からないが、それよりも猫の手当が先だ。
「アリィ。この辺に動物病院はあるかしら?」
「ご案内します」
「お願いするわ」
猫を抱いて、侍女の後を付いていく。
少年達には振り返らなかった。
黒猫は大怪我を負っていたが、外傷だけで内臓と脳には問題ない、ということで一安心した。
黒猫は毛並みがとても綺麗だった。野良だとあり得ないので、おそらく飼い主がいるのだろう。いないとしたら、餌をくれる人がいたに違いない。
飼い主が見つかるまで、黒猫の面倒は、リディが見ることになった。母親と侍女は渋い顔をしていたが、最終的には折れてくれた。きっと傷付いている娘の慰めになるのなら、という気持ちがそうさせてくれたのかもしれない。
実際に黒猫は、リディの慰めになった。侍女たちには素っ気ない黒猫だが、リディには喉を鳴らしながら擦り寄ってくれる。夜は自分が寝るまで待っていてくれていて、それが申し訳ないと思う以上にとても可愛かった。
黒猫を構っている時は、アルフレッドのことを忘れられる。それが救いになっていた。
黒猫の名前は、暫定的に「タビ」と名付けた。足袋を履いている、という東洋の言葉から取ったのだ。
不思議なことに、タビ、という言葉が自分のことだと分かっているのか、タビ、と呼ぶとこっちを見たり、耳をぴくぴくさせている。もしかしたら、本当に名前がタビかもしれない、と思ってしまう程だった。
最初はまともに歩けなかったタビだったが、最近は歩けるようになって、ベッドの上なら楽々と飛び乗ったり降りたり出来るようになってきた。
侍女や母が黒猫の飼い主を探しているが、未だに見つかっていない。
そんなある日、リディは一人で外に出掛けたくなった。
タビのおかげで忘れる回数が減ったが、それでも吹っ切れなくてもんもんとしていた。
一人になりたい、部屋の中では一人になれるが、周りの音が気になってしまう。音が聞こえるのなら、自然の音だけがいい。本当に周りに誰もいなくて、色々と考えたかった。
そう思い立ったら、行動は早かった。
動きやすい外出用の服に着替え、帽子を抱える。人目を盗んで使用人用の出入り口を使って、屋敷を出た。
「にゃぁ」
「あら、タビ」
いつの間にか足下に、タビがいた。置いてきたはずなのに、と思いながらリディはタビに話しかける。
「わたし、これから散歩に行くの。お前も一緒に行く?」
「にゃあ」
返事するように鳴いたあと、タビはリディの足下を擦り寄った後、少し先を歩いてこっちを顧みた。
タビはきっと、人の言葉を理解しているに違いない、と変に確信しながらリディは歩き出した。
しばらく一人になれる場所は、もう知っている。リディだけの秘密の場所である、小さな泉だった。
周りには数本の木しかなくて、泉の水はとても澄んでいる。本当に水が張っているのか目を疑うほどの透明度で、泉の底が透けて見える。水が綺麗すぎると魚は住めないというが、この泉は綺麗すぎるのか、魚一匹もいない。
畔に腰を下ろして、ぼんやりと泉を見る。タビはリディに寄り添うように、丸まって寝てしまった。
優しくて穏やかな、涼しい風が頬と髪を撫でてくれる。周りには風と共に歌う草木の音しかしない。
大きく深呼吸して、風を吸い込む。とても気持ちが良い。
リディがずっと帰りたかったのは、ここかもしれない。それくらいにここは大好きな場所で、とても落ち着くのだ。
(ずっと、ここにいたいな)
ここにいたら、アルフレッドと会わなくてすむ。
そう思うと、胸が痛んだ。
もう、辛かった。夜眠るたびに、このままずっと眠っていたい、と願うのも、朝起きるたびに憂鬱になるのもしんどくて、生きていくのが嫌になってくる。
あの人が微笑んでくれたら、この痛みも悲しみも吹っ飛ぶのに。それがありえないことだから、途方に暮れている。
会いたくない、会いたい、でも会いたくない。
そんな想いがぐるぐると回るのも、嫌になってきた。
今は、夏間近。正午を回っていないこの時間はまだ涼しいが、正午を過ぎると一気に暑くなる。たまに暑さで死んでしまう人がいるくらいだ。
いっそのこと、ずっとここにいたら、自分はずっと眠れるのではないか。
そんな暗い炎が、ふらりと現れた瞬間。
横で寝ていたタビが急に起きて、空に向かって、にゃあにゃあ、と大きく鳴き始めた。
「タビ?」
名前を呼ぶが振り向かない。一心に空に向かって、鳴いている。こんなことは初めてで、リディも空を見上げようとすると。
「見つけたぁ!」
上から少女の声が聞こえた。びっくりして、慌てて上を見上げると、すぐ近くでタライに乗った少女が、空を飛んでいた。
少女は黒い服と黒いとんがり帽子を被っていた。漆黒の髪に、紅い瞳に白い肌。自分と同じくらいの歳で、均整の取れた顔はやや幼いが、艶やかな印象を与える、不思議な面立ちをしていた。
少女に見覚えの無い。だが、格好と空を飛んでいることから、彼女の正体がすぐに分かった。
「魔女さん……?」
「うん、そう」
「軽っ!」
魔女がタライから降りて、リディの傍に近寄る。するとタビが、一目散に魔女の肩に乗った。
ゴロゴロと喉を鳴らすタビの喉を、魔女は愛おしげに撫でる。
「もしかして、この子の飼い主さんですか?」
「そう。はぐれてしまって、ずっと探していたの。あら、怪我の跡が……もしかして、あなたが治してくれたの?」
「いえ、動物のお医者様が」
「でも、この子の世話をしてくれたのね。ありがとう」
魔女が笑む。リディはきょとんとした。
「分かるんですか?」
「タビが懐くのは、自分の世話をしてくれる人だけだからね」
「猫様……ん? タビ?」
リディは首を傾げる。
「その子の名前、タビなんですか?」
「そうよ。足袋を履いているっていう、東洋の言葉から取ったの」
「まぁ! わたしも同じ理由でその子のことを、タビって呼んでいました!」
「ほんとうに? 少し気が合うかもしれないわね、私たち」
「そうですね」
魔女と小さく笑い合いながら、リディは思う。こうして、純粋に笑ったのは久しぶりだ。少しだけ、心が軽くなったような気がする。
「あなた、名前は? 私は黒薔薇って呼ばれている存在」
「リディといいます」
「可愛らしい名前ね」
「あなたは綺麗な呼び名ですね」
「ありがとう」
黒薔薇は綺麗に微笑んだ。
「そういえば、箒じゃなくてタライなんですね」
黒薔薇が乗っていたタライを見ながら、呟く。
黒薔薇は笑いながら答えてくれた。
「だって、箒はバランス取るにはいいけど、お股が痛くなるし、腕が疲れちゃうの。その点、タライはお股が痛くならないし、腕も疲れないし、とても楽ちんなのよ。ま、最近の若い魔女たちが見た目がダサいからって、よく箒のほうを使うけど、昔からいる魔女はタライを使うわね」
「へぇ……」
ということは、この魔女は昔からいる魔女なのだろうか。魔女は見た目に反して、人間よりも長生きで若い姿を保っていると聞くが、黒薔薇もその類いなのだろうか。
「さて、この子を助けてもらったお礼がしたのだけれど」
「いえ、そこまでしていただくても」
「私がいけないの。そうだ! 特別にあなたの願いを叶えてあげる!」
「願いですか? あの、魔女というのは、特別な薬を扱うのというのを耳にしたことがあるのですが」
魔女は魔法を使うが、それは主に薬を作る時に使っているらしい。その事から魔女が作る魔法薬は、特別な効果があり、高値で取引されるという。
「まあ、魔女は魔法薬の専門家だけどね。中には薬に魔法を使わないで、他のことに使う魔女もいるわ。
こういう魔女は、薬を作るのが苦手か、ただたんに他のことのほうが面白いから、というのが多いわね。
あ、私は後者のほうよ。薬は作れるけど、薬は他に任せて魔法を他のことに使う派」
「魔女にもいろいろあるんですね……その他のことが、願いを叶えること?」
「そう。もちろん、対価がいるけど、今回はあなたが私の家族であるタビを助けてもらった。私は滅多に願いを叶えないけれど、あなたは特別。願いを叶えてあげる」
「願い……」
すぐに思い浮かべたのは、アルフレッドの姿。
既にリディの願いは決まっている。
「なんでも、ですか?」
「なんでも、というわけにはいかないわ。大抵のことは叶えてあげられるけど」
「では、想いを消すことは出来ますか?」
黒薔薇が目を瞠る。
そして、笑顔から真顔になって、リディの隣で屈む。
「それは半分叶えられないわ」
「と、いうと?」
「人の想いを変えることは、いかなる魔法使いにも出来ないわ。操ることだったら別だけど。想いを消すのは、本人しか出来ないことよ。でも、想いを封じ込めることはできるわ」
「封じ込める……」
黒薔薇は頷く。
「想いを花に例えるとね、その花を見えないのように、温室を何重にも重ねて作って、閉じ込めるの。つまり、完全に見えないようにするけれど、そこにあることは変わりないの。それでも、消したい?」
「はい」
「あら、即答。だったら、なんの想いを消したいのか、どうして想いを消したいのか、理由を訊かせてもらうけど、いい?」
その言葉に、リディは顔を顰める。泣きそうなその表情に、黒薔薇は苦笑した。
「話したくないのは分かるわ。けど、花の姿が見えないと、閉じ込められないわ。それに、事情を聞いたらより一層私がやる気を出して、すごく頑丈な温室が出来るかもしれないわよ」
一理ある。
散々悩んだ後、リディはおそるおそる頷いた。黒薔薇はそのままリディの隣に座り込み、優しい顔でリディの顔を覗き込む。
リディは話した。婚約者のことを。婚約者が他の女と浮気して、自分にはとても冷たいことを。どんなことをされたのか、一つずつゆっくりと話す。そして、彼の屋敷で聞いた彼の言葉を、全て話した。
自分の気持ちも吐露しながら、語るのは勇気がいるが、吐露することで少しずつであるが心が軽くなっていくのを感じる。
両親に話して、悲しませるのはとても嫌で、侍女に話したら侍女たちの気持ちが重くなりそうで、友人に話すにしてもどうやって話していいか分からない。
今まで誰にも話せなかったというのに、初めて会った魔女には、次々と話せるから、とても不思議だ。
全て話し終わり、リディは黒薔薇を見た。黒薔薇は優しい微笑みを浮かべたまま、呟いた。
「ねぇ……今すぐその男の所に行って、顔が膨れ上がるほど殴ってきてもいい?」
「だ、ダメです!」
「そうよね……それじゃ軽すぎるわね。高い鼻を根元までへし折ってやらないとね」
「そういう問題ではありませんよ!」
タライに乗ろうとする黒薔薇を、必死に止めながらも、リディは嬉しかった。
初めて会ったばかりだというのに、自分の事のように怒ってくれるその気持ちが嬉しかった。
「ちっ……じゃ、止める。その代わり、完璧に封じ込めてあげる!」
「ありがとうございます!」
「ただし、一つだけ約束してね」
「はい」
この想いを見えないようにしてくれるのなら、お安い御用だ。
「まず、私のことは誰にも話さないで。親にも友達にも、皆。それから、この場所で起こったこともね。タビの飼い主に会ったくらいだったら、いいけど」
「分かりました。この場のことも、あなたのことも、皆に話しません。わたしとあなただけの秘密として、胸に秘めておきます」
黒薔薇は満足げに頷いた。
「よろしい。あと、もう一つ。想いを封じ込めた後は気を失うから、これは言っておかないと」
「なんでしょう?」
「いい? 閉じ込めるからには、閉じ込めるための鍵が必要よ。けど、施錠はしてもあなたにはその鍵を持つことは出来ないわ」
「つまり、あなたが持つということですか?」
黒薔薇は頭を振る。
「私にも持つことが出来ないわ。出来るのは他の人。けど、奇跡が起きない限り、鍵が開けられることはないから安心して。閉じ込める前に、その鍵を教えてあげる」
リディは黒薔薇の顔を見つめる。真っ直ぐな視線を受けながら、黒薔薇は妖艶に微笑み、その『鍵』をことを口にした。
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