【完結】あなたのことが好きではなくなりました
空廼紡
前編
「貴女にアイル様は相応しくないわ」
婚約者の遊び相手に言われた言葉に、リディは心の中で嘆息する。
それは、鈍感だと言われているリディにも気づいている事だった。
瞼を閉じて、婚約者の姿を思い浮かぶ。
秋に実る麦畑のように輝く黄金の髪。優しげで透き通って見える碧眼は、実はヴェールを覆ったかのように本心を隠しているのを、どれ程の人が知っているだろうか。
均整の取れた顔に、形のよい鼻筋、黒子も傷も、ニキビ跡もないきめ細かい肌。
残酷にも鮮明に浮かぶ眼差しは、一見優しいが温もりはない。表面上繕っているのが、リディにも分かったのだから、きっと他人にも気付いているに違いない。
瞼を開けて、目の前にいる女性を見る。
女性は女性から見ても美人で、全体的に均整が整っている。群青色の髪は艶があって、光沢を放っている上に、華やかだ。
対してリディは、不細工というほどでもないがぱっとしない顔立ちで、ちんちくりの体型で、どこにでもいる栗色の髪。
女性から放たれる光に押し潰されそうになりながらも、リディは女性を見据えて、微笑んだ。
「ええ。その通りですね」
予想外の返事だったのだろう。女性が僅かに目を見開いた。
訝しげにリディを見据える女性に、リディは心の中で自嘲する。
泣いて否定すると、思っていたのか。そうできたらどんなに良かったことか。
それは僅かでも自信と自尊心があるから、反撃できるものだ。もう既に粉々に砕かれ、否定すればするほど惨めで無駄なことだと、悟っている身としては一蹴してやりたいとも思った。
リディは繕った笑みを浮かべながら、いつもの言葉を並べる。
「ですが、私に言っても無駄なことです。これは私の父と彼の父が決めたこと。謂わば政略結婚なんです。いや、結婚はしていませんから政略婚約でしょうか?
どちらでもいいですね。ですから、私たち子供が嫌だと言っても、余程のことがない限り聞き入れてはくれません。
これでも貴女が納得してくれないのなら、私の父と彼の父に直接抗議してください。もちろんアル様と一緒に。
そちらのほうが破談にしやすいでしょうから」
ああ、それから、とさらに付け足す。
「貴女が四人目です。今月に入って、貴女と同じことを言ってきた女性は。あの人は、遊び相手を本気になったことはありません。
一人一人の夜を覚えているかどうかも怪しいですね。あの人の愛しているを信じてはいけませんよ。これは私の経験上、いえ、今まで本気になってあの人に捨てられた方々を見てきた私の助言です。
ですから、さっさと見限って、別の良い人をお探しください……貴女は逃げられる場所にいる。ですから逃げられる内にどうか、お逃げください」
言いたい事は速やかに言って、リディは踵を返す。
返事は聞かない。これを聞いて、怒るか嘆くか受け入れるのか。決めるのは女性で、リディが関与することではない。
怒られると面倒なので、女性が唖然としている間、さっさと退場するに限る。それも経験から学んだことだった。
リディ・アメリアの婚約者は、女好きの遊び人だ。優しさを盾にした、残酷な男である。
リディの婚約者は、アイル侯爵の長男、アルフレッド・アイル。リディより二つ年上の十九歳、外面だけは美しい青年だ。対するリディは、伯爵令嬢で地味な少女だ。伯爵だが、知名度が低く、発言力もない。
二人が婚約している理由は、政略結婚である。リディはアルフレッドの事が好きだが、アルフレッドはリディの事を体の良い断りの理由でしか思っていない。
夜会の時は、リディを一人にして自分は未婚の令嬢と楽しげに話したり、踊ったりしている。エスコートだけして、一曲も踊ってくれない。視線も送ってくれない。
日常にも関与してこない。用がある時だけリディが住んでいる屋敷に来て、一言挨拶してからさっさと帰ってしまう。
会話も最低限しない。口を開けば、リディを罵る。
「付いてくるな。邪魔だ」
「そんな華美なドレスは、地味なお前に似合わないぞ。ドレスが可哀想だ」
「お前、本当に可愛くないな。 嬢とは大違いだ」
他にも色々と言われた。
慣れたこととはいえ、とても辛かったし悲しいことには変わりない。
(それでも、昔みたいに心は動かないわ)
昔は彼が遊ぶたび、彼から冷たい目を向けられるたび、一晩中泣いていたのだが、今は悲しく辛いけれど、涙は出なくなっていた。
これは、慣れ、というものだろうか。それとも諦め、期待しなくなった、ということだろうか。リディには分からないし、分かろうとする気力も起こらない。
ただ日常の一部として、受容しているだけだった。
(小さい頃は良かったなぁ……あの頃は、周りに女がいなくて、わたしだけのアル様だった)
思い出すのは、幼かった日々。今の自分にとっては羨ましくて、甘く苦い初恋の記憶。
初めて会ったのは、彼の家の庭。お前の未来の旦那様だよ、と父が紹介されたのが最初。リディが八歳で、アルフレッドが十歳のときだ。
あの頃のアルフレッドは人見知りだった。けど、年上でお兄さんぶりたかったのか、余裕ある態度で接しようとしていた。
『はじめまして、ぼくの名前はあるりゅれっあ』
自分の名前で噛んで顔を赤くしたアルフレッドに、緊張しているのは自分だけではないと安心して、笑ったものだ。
でも、それが初恋の始まりではない。そのときはただ親近感が湧いただけだった。
恋に落ちたのは、それからしばらく経った頃。
「……どうでもいいことね」
誰もいない私室で呟く。
起伏のない声が、部屋の静寂に響く。虚ろな残響に耳を傾けて、リディは瞼を閉じる。
瞼の裏に浮かび上がるのは、まだ幼かったアルフレッドの屈託のない笑顔だった。
「ほんと、馬鹿馬鹿しい」
それは婚約者を蔑ろにするアルフレッドに対してか、それとも幼い記憶に縋りついてまだ彼のことが好きな自分に対してか。
心が痺れているリディには分からなかった。
アルフレッドの父親、アイル侯爵に呼ばれ、リディがアイル邸に呼ばれたのは、アルフレッドの遊び相手に呼び出されてから、一週間後のことだった。
いずれこの家に嫁ぐのだから、アイル家の歴史を学んだらなどうだろうか、ということらしい。
きっとそれは建前で、アルフレッドと仲直りするため交流の場を設けようとしているのだろう。
昔は仲良かった二人が、今はお互い避けているのだ。人の良いアイル侯爵がなんとかしようとするのも仕方ないのかもしれない。
アイル侯爵の後ろを付いていくと、談笑している声が聞こえてきた。
男たちの声の中に、アルフレッドの声が混じっている。男友達だろうか。
「アイツはまた勝手に……」
アイル侯爵が苦虫を噛みしめたように顔をしかめた。どうやら家主である父親になにも言っていないらしい。それが頻繁にあるようだ。
アイル侯爵がリディを一瞥する。きっと息子を叱ろうか、自分をまず執務室に入れて巻き込まないようにするか迷っているのだろう。
先に執務室に向かいます、と言おうとするとある言葉が聞こえてきた。
「アルフレッド。また一人女を泣かせたって? いい加減、婚約者が可哀想だぞ」
聞き覚えのある声がした。この声は、たしかアルフレッドとよく一緒にいる友人の一人ではなかったか。
「関係ないだろ」
鬱陶しげに言い放ったのは、間違いなくアルフレッドだ。
声が、喉の奥で絡まる。
「女遊びは程々にしとけって。後が面倒になるぞ」
別の友人が苦言を申す。彼のことを心配しての台詞だと、声色から伝わってくる。
だが、アルフレッドは一蹴した。
「後のことなんて、どうでもいいだろ」
不機嫌を隠せないようで、リディと接している時と声色が一緒だった。
「どうでもよくないって。婚約者から、信用も信頼もされないぞ。けっこう、辛いぞ」
「さすが。経験者の重みは違う」
「反省しているんだから、ズバッと言うなよ……」
なるほど。元女遊び仲間か。アルフレッドとよく一緒にいる友人は、誠実で婚約者をとても大事にしている、と聞いたことがあるので、きっと色んな友人が集まっていて、この会合は類は友を呼ぶ的な会合ではないのだろう。
「それはお前が婚約者のことを、憎からず想っていたからだろ」
「なんだよ、お前は違うっていうのかよ」
「違うな。アイツのことなんて、どうでもいい。むしろ邪魔だ」
即答された言葉に、心臓が一気に冷えていく。
分かっていたことだ、気付いていたことだ。彼に愛されていないところが、邪魔扱いされていることを。
それなのに、どうして、こんなに痛いの。
身体が、心が、貫かれたように、悲鳴を上げる。
彼は、彼の友人たちは、未だにリディ達に気付かない。
「アイツが俺のことを、好きなのは分かっている。それが煩わしくて仕方ないんだ。
俺のことを好きじゃなかったら、煩わしくないんだがな。女から離れる時に良い言い訳にはなるが、それ以外の使い道がない」
使い道って、あんまりではないか。
好きなこと自体が迷惑以外なかったのか。
「婚約解消を親に求めても、婚約者に好かれていいじゃないか、と聞いてくれない。ほんとうに、忌々しい」
舌打ちが聞こえた。
どんどんと身体が冷えて固まっていく。
早くここから立ち去りたい。それなのに、身体が動いてくれない。体中が氷漬けにされたみたいだった。
アイル侯爵も、息子の発言に驚いて固まっている。
さらに、アルフレッドは追い打ちをかけた。
「アイツ、前にクッキーを焼いてきて貰ったんだが、俺甘いの好きじゃないだろ? それだけでも迷惑なのに、アイツ、アル様のために焼いたの、と押し付けてきた。蟻の餌にしてやった」
鈍器にぶつけられたような衝撃が走り、頭の中が真っ白になる。
覚えている。五ヶ月前のことだ。
アルフレッドとの関係を少しでも良くしようと、思い出のクッキーを焼いたのだ。
「あんな不味いクッキー、食えるか」
不味いなんて。そんな、だって。
『リディが作ったクッキーは、美味しいね』
そう言って笑ってくれたのは。
『とても優しい味がする』
貴方じゃないか。
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