無表情な彼女

@Takamachiyuu

無表情な彼女

 ぼくの彼女は美人だ。

 でも、ものすごく無表情だ。

 付き合い始めて三ヶ月経ったけれど、どんなときでも表情が全く変わらない。

 ニコリともしないだけでなく、怒ったり、嫌がったり、悲しんだりしているようにも見えない。

 しかも口下手だから、彼女に話しかけても、ほとんどの人は会話が全く続かない。

 彼女の、美人なだけに凄みのある無表情な沈黙に耐えかねて逃げ出す人が多いらしい。

 ぼくはたまたま彼女とは隣の席だったので話すようになったけれど、彼女の、ワンテンポどころかツーテンポもスリーテンポも遅い返事に、最初は大いに戸惑ったものだ。


 たぶん、彼女はとても生真面目な人なのだと思う。

 例えば、こちらが何か質問を投げかけたとする。「好きな食べ物は?」とか。

 すると彼女は、全く表情を変えないまま、約一分間の沈黙に入る。

 何もせずにただ待つには、一分という時間は結構長い。

 普通の人はその時点で、無視されたかと思ってムッとするか、あるいはすごすご去っていくか、はたまた聞こえなかったのかと思って同じ質問を繰り返すか、といった反応をするみたいだ。

 ぼくは、彼女が答えを考えていることを知っているので、彼女の長い睫毛や、きれいな弧を描く眉や、形の良い唇なんかを見つめながら、静かに待つ。

 するとやがて、ぼんやりと宙に向けられていた彼女の瞳が真っ直ぐにぼくの方を向き、唇が動いて「苺のたくさん乗ったショートケーキ」などという答えがようやく返ってくる。

 どうして彼女がそんなに長く黙るかというと、それは、彼女が必死に「正確な」答えを考えているから、らしい。

 今の例えでいうと、質問をされた瞬間にケーキが頭に浮かんだとしても、彼女は他に、もっと好きなものがないか考えるのだという。

 わざわざ好きな食べ物を訊かれているのだから、「一番好きなもの」を探して答えなければ相手に失礼だと思うらしい。

 しかし彼女には、特に嫌いな食べ物はない。

 どの食べ物もそこそこに好きだ。

 食べ飽きないという点で言えばご飯と味噌汁が一番だが、一番好きと言うならもっと特別な食べ物を挙げたい。

 寿司は好きだ。

 中華料理も好きだ。

 スパゲティも、カレーも、鶏の唐揚げだって好きだ。

 冬の鍋物も捨てがたい。

 だがやはり、今までの人生で、食べたとき一番幸せになったものは、誕生日に両親が用意してくれたショートケーキだ……。

 そんなことを無言で考えた末、結論だけをぽつりと言う。

 ぼくはそんな彼女の生真面目さを愛おしいと思うのだが、大抵の人は、そんなちょっとした話題にそこまでの「正確さ」を求めてはいないし、そんなに長い間、答えを待ったりはしないものらしい。

 もったいないなぁと思う。

 独特のテンポ感にさえ慣れてくれば、彼女との会話は結構面白いと思うのだけれど。

 ちょいちょい予想外の答えが返ってくるのが楽しいし、何より、どんな些細な質問にも真剣に考えて答えてくれるところが、たまらなく可愛い。

 それに、返事を待っている間は、彼女の顔をどんなに見つめていても嫌がられないしね。

 ――もっとも、たとえ嫌がられていたとしても、ぼくには分からないのだけれど。


 彼女は特に、彼女の「気持ち」に関係する話題になると返事が遅くなる傾向にあるようだ。

 最初に話した時はたしか、ぼくが名乗って、彼女も名乗り返してくれて、お互いの出身中学を言い合ったのだったと思う。

 そういう「事実」を言うときは、さすがの彼女も悩みはしないらしい。せいぜい十五秒くらいで答えてくれた。

 なぜそれが三秒とかにならなかったのかというと、話しかけられた喜びを噛みしめて、ぼくの名前を覚えるために心の中で復唱していたかららしいと、後で彼女から聞いた。

 彼女は小学校でも中学校でも、美人で有名だったらしい。

 しかし同時に、「何を考えているのか分からない」と言われて敬遠されていたようだ。

 積極的にいじめられたりしたことはなかったけれど、休み時間に自分だけ外遊びに誘ってもらえないとか、丸一日誰とも話さず家に帰ったりとか、そういうことが悲しかったと、彼女はある時ぼくに話してくれた。

 そんな話をする頃には、ぼくは彼女とそこそこ親しくなっていた。

 彼女の方も、ぼくが自分の話を聞いてくれるということが嬉しかったのかもしれない。ぼくが質問すると、割と突っ込んだ話題でも正直に、ぽつりぽつりと話してくれたのだ。

 でも、その話をする彼女はやはり無表情なままで。

 本当に悲しんでいるようには見えなくて。

 ……それでも、彼女が嘘を言っているとは、ぼくには思えなかった。

「そうなんだ……」

 と相槌を打つと、彼女は一分くらい黙った後、

「……信じてくれて、ありがとう」

 ぽつりとそう言った。

 ぼくは、彼女が愛おしくてたまらなくなって、

「ぼくがいる限り、君が誰とも話さず家に帰るなんてことは絶対にないよ」

 なんて、我ながら恥ずかしい、クサいセリフを口にした。

 彼女は、

「うん」

 と――彼女にしては驚異的な反応速度で――頷いた。

 それでぼくは、今しかないと思い、

「だから、ぼくと付き合ってください!」

 と、言った。

 たっぷり三分は待ったと思う。

 さすがのぼくも八割方玉砕を覚悟したところで、

「……私でいいの?」

 あくまで無表情に、彼女は言った。

「もちろん!」

 珍しく食い気味に答えると、彼女は二、三度目を瞬き、

「じゃあ、よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

 真っ直ぐな長い髪が、さらりと肩を流れた。

 表情はやっぱり全然変わらなかったけれど、初めて彼女の感情がしぐさに表れていたような気がした。


 それから三ヶ月。

 彼女はぼくとの会話に慣れてきたのか、感情が絡まない話題では、返事がくるまでのタイムラグがかなり短くなってきていた。

 最近は、彼女の方からぼくに話しかけてくることも増えた。

 初めて彼女から先に「おはよう」と言ってもらえたときは、感動で震えたものだ。

 何回かデートもしたし、教室でお昼も一緒に食べるようになった(おかげで、クラスメイト達からはだいぶ冷やかされた)。

 夏休みに入る頃には、手をつないで歩くことも、だんだん自然にできるようになってきていた。

 でも、間違いなく距離は縮んでいるというのに、ぼくの心には少しずつ、不安が広がってきていた。

 彼女が何を考えているのか分からない。

 ――分かっている。そんなのは、最初からずっとそうだ。

 だけど、付き合うようになればあるいは、もっと分かるようになるんじゃないかと、ぼくは期待していたんだ。

 それなのに、そうはならなかった。

 例えばデートが終わって別れる時、彼女が、

「ありがとう。楽しかった」

 と言う。

 ぼくは素直にそれを信じればいいと、分かってはいる。むしろ最初の頃は、それがちゃんとできていた。

 でも、いつまで経っても彼女の表情が一ミリも動かないから、実はその「楽しい」は本心じゃなくてただの社交辞令なんじゃないかと、疑心暗鬼に駆られそうになることがある。

 そんなはずはないって、分かっているはずなのに、一度そう疑い始めると、どんなに否定しようとしても、ふと油断した隙に疑惑が頭をもたげてきてしまう。

 ――本当に楽しかったなら、笑顔を見せてほしい。

 ぼくはそう言いたくてたまらなくなる。

 ほんの少しでいいんだ。

 その目元に、口元に、ほんの少しでも笑みを浮かべてくれさえすれば……。

 きっとぼくは贅沢になっているんだろうと思う。

 かなり縮んだ彼女との距離を、もっともっと詰めたくて、なのにそれがうまくいかないから、焦っているんだ。


 夏休みが終わろうとしているある日、耐えきれなくなったぼくは、

「キスしてもいい?」

 と彼女に訊いた。

 デートの後の、帰り道。

 夏の太陽も沈んでからだいぶ時間が経っており、辺りは暗く、人の姿がなかった。

「え」

 呟いた彼女は、きょとんとしているようにも、不快に思っているようにも見え、ぼくは緊張した。これが原因で別れるって言われたらどうしよう。

「いい、っていうのは……」

 彼女は無表情のまま、微かに首をかしげた。

「行動の評価を求めてるの? それとも許可を?」

 やけに堅苦しい感じの質問で返された。

 ……もしかしたら、彼女も緊張しているのかもしれない。

 そう思ったら、少し気が楽になった。

「どちらかといえば、許可かな……。ぼくとキスするの、嫌かどうかって話」

 彼女は黙った。

 だからぼくには、彼女が自分の気持ちについて考えていることが分かった。

 固唾を呑んで見守るぼくの前で、彼女の唇が開き、

「……さあ」

 出てきた頼りない声に、ぼくはずっこけそうになった。

「さあ、って」

「だって。……したことがないから、分からない」

 今度はぼくが黙った。

 なるほど、生真面目な彼女らしい答えだと思った。

「分かった。とりあえず、やってみよう」

 ぼくは宣言し、彼女の両肩に手をかけた。

 彼女は逃げることも、ぼくの身体を押し返すこともなく、おとなしく目を閉じた。

「……どう?」

 唇を重ねるだけの短いキスの後、恐る恐る訊いたが、彼女はじっと黙っていた。

 久し振りに三分ほど沈黙が続き、余裕を失っていたぼくは、

「え、やっぱり嫌だった?」

 と、つい重ねて訊いてしまった。

 彼女は激しく首を振った。

「あのね、何と言うか……、うまく言えないんだけど……」

 彼女の中で答えがまとまっていないのに、こんな風に話し出すのは、実に珍しいことだった。

「甘くて、柔らかくて、ふわふわして……、でもちょっと切なくて、泣きたくなるような……そんな気持ちなの」

 ぼくはドキリとした。

 その感情を一言で表現したら、「好き」という言葉になるのではないだろうか。

 だってぼくも、彼女に対して同じような気持ちを抱えているんだから。

「……じゃあ、お返しにぼくの気持ちを教えてあげようか」

 彼女の瞳を覗き込んで、ぼくは言った。

 彼女が頷く。

 ぼくは力いっぱい彼女を抱きしめ、叫んだ。

「……大好きだ!」


 九月に入り、彼女の誕生日になった。

 ちょうど日曜日だったので、ぼく達は一緒にお昼ご飯を食べて、一緒に映画を見て、その後喫茶店で、一緒にケーキを食べた。

 もちろん、ぼくは事前に、苺多めの美味しいショートケーキを出す店を調べていた。

 彼女がそのショートケーキを頼み、ぼくがチョコレートケーキを頼んで、一口ずつ交換したりもした。

 彼女は何度も「嬉しい」と言った。

 僕が感じていた不安を察してくれたのかどうかは分からないけれど、最近は以前と比べると信じられないくらいこまめに、その時感じていることを話してくれる。

 言葉に詰まることもあるけれど、きちんとまとまっていない感情も、考えていることの途中経過も、なるべく口に出そうと努めているようだ。

 相変わらずの無表情だけど、その分、言葉やしぐさで、彼女なりにぼくに対して感情を伝えようとしてくれているのが分かる。

 おかげでぼくはもう、不安にならずにすんでいた。

 彼女はとても正直だ。

 ぼくはただ、彼女の言葉を信じていればいいんだ。

 改めて、ぼくはそう決意していた。

 なのに――。


「あの、ごめんなさい。土曜日は、ええと、ちょっと用事があって……。できれば日曜日がいいんだけど」

 ある日の昼休み。土曜日にデートをしようと言ったら、断られた。

「あ、そうなんだ。じゃあ、日曜日にしようか」

 彼女に予定があることは珍しいので、ぼくがやや驚きながら言うと、彼女は素直に頷いた。

「うん。どこへ行く?」

「どこがいい?」

「ええと……」

 近頃、この「ええと」が彼女の口癖になりつつある。

 その一言があるだけで、ぼく以外の人にも彼女が考えているということが伝わるようになった。

 ある程度気の長い人なら、彼女との会話も成立するようだ。

 ぼくはそれが嬉しくもあり、同時に少し寂しくもある。

 ただ、ぼく達は既にクラス公認のカップルだったから、そういう人達は大抵、

「おまえの彼女、随分丸くなったな」

 とか、

「あなたの彼女、最近話しやすくなったね」

 とか、ぼくに対して言ってくれる。

 今のところ、彼女を誰かに取られる心配はなさそうだ、と、ぼくは思っていた。

「……あなたが一番、行きたいところがいいな。私は、あなたと一緒ならどこでも楽しいから」

 沈黙の末に彼女が出した結論は、……なんて可愛いんだろう!

 思わず彼女を抱きしめると、

「こらー、教室でいちゃつくなー」

 という野次が飛び、続いて笑い声が起こった。

 しまった。ここは教室だった。

 慌てて離れると、彼女は恥ずかしいのか下を向いてしまった。

 ……正直に言えば、一番行きたいところと聞いてぼくが最初に思い浮かべたのは、彼女の家、だったりする。

 彼女の家族にも――挨拶すると思うとかなり緊張はするが――会ってみたいと思うし、彼女が育った環境や、彼女の小さい頃の写真なんかを見てみたい。

 とはいうものの、急にそんなことを言ったら迷惑だろう。

 ぼくは自分の願望を押し隠して、無難なことを口にする。

「まだ行ったことないのは、動物園とか、水族館とかかな」

「……あなたが、行きたいのは?」

 ぼくの言葉の裏に隠れた微妙なニュアンスを聞き取ったのか、彼女が確認してくる。

 こういうところは、本当に鋭いと思う。

「いや……、本当は君の家なんだけど……、でも急だし、ご家族に迷惑だろう?」

 じっと見つめられて、ぼくはつい本音をもらしてしまった。

「ううん。そんなことはないよ。たぶん母は喜ぶと思う」

 彼女はふるふると首を振った。

 彼女がそう言うからには、そうなんだろう。

「え、じゃあ本当にお邪魔しちゃうよ? 君の彼氏だ、って自己紹介していいんだよね?」

「もちろん」

「……あれ、そういえばお父さんとか、兄弟は?」

「私は一人っ子だよ。父は休日がずれてて日曜は大抵仕事だから、たぶんいないと思う。でも、あなたのことは両親にも話してるし、もしいても大丈夫」

「そうなんだ……」

 彼女がぼくのことを家でどんな風に話しているのか、ちょっと気になる。

「……私も、楽しみにしてるから」

「え、う、うん」

 彼女がさりげなくぼくの手を握って言うので、ぼくはどぎまぎした。

 早く日曜日にならないかな、と思った。


 しかし、土曜日に、ぼくは予想外の裏切りにあった。

 翌日彼女の家へ持っていく手土産を選ぼうと駅前商店街をうろうろしていたら、ばったり会ったクラスメイトが驚いた顔で言ったのだ。

「お前、一人か? 彼女と別れたのか?」

「なんでだよ。ぼく達だって、休みの日もずっと一緒にいるってわけじゃない」

「いや、でもさっき彼女、男と一緒に歩いてたぜ? かなり仲良さそうだったぞ」

「まさか」

 ぼくは即座に否定したけれど、彼が嘘をついているようにも見えなかった。

「まさか……ね」

 その時点ではまだ、ぼくは彼の言葉を信じていなかった。

 きっと彼の見間違いか、勘違いだろうと思っていた。

 でもその後、ぼくは彼の言ったとおり、黒い服の男と親しげに歩いている彼女の後ろ姿を見つけてしまった。

 時折見える横顔は、間違いなく彼女のものだった。

 男が彼女の肩に左手を置き、右手でどこかを指差すと、彼女はそちらを向いて、男に何か言う。すると男は笑う。

 彼女は相変わらずの無表情だが、男に触れられても嫌がる素振りは見えない。ぼくの思い込みかもしれないが、むしろ楽しげにしているように思えてくる。

 ぼくは混乱した。彼女が今日、誰かに会うなんて話は聞いていない。

 しかもまさか、それが男だったなんて……。

 ――いや、でも、きっと何か事情があるに違いない。

 ぼくはそう自分に言い聞かせたが、どうしても彼女達から目が離せず、ついつい後をつけてしまった。

 彼女達はしばらく辺りをぶらぶらと歩いていたが、やがて駅へと入っていった。

 そのまま駅の改札前でしばらく話していたが――。

 ふいに、男が彼女に抱きついた!

 ぼくは驚いたし、飛び出していって男をぶん殴りたい衝動に駆られ、物陰から出ようとした……のだが。

 彼女が男を振りほどくどころか、優しく抱きしめ返したのを見て、足が止まってしまった。

「まさか……。そんな、はずは……」

 ぼくは愕然と呟いた。

 これが現実とは思えなかった。

 でも、ほっぺをつねったら痛かった。夢じゃ、ない。

 最近の彼女は、表情がない分を言葉やしぐさで補っている。その彼女が抱き返したということは、彼女はあの男と、そういう関係にあるということなのだろう。

 ――つまり、ぼくは彼女に、裏切られていた……?

「……っ!」

 ぼくはそれ以上見ていられなくて、その場から逃げるように立ち去った。

 ぼくには、彼女の表情から感情を読み取ることができない。

 だから彼女の言葉を信じようと思っていたのに。

 その彼女が嘘をついていたのだとしたら、ぼくはもう、何を信じればいいのか分からない。


 翌日。

 ぼくは約束の時間より少し遅れて、待ち合わせ場所である公園まで行った。

 そこから彼女の家までは、徒歩で五分ほどだと聞いていた。

「あ……」

 そわそわと辺りを見回していた彼女が、ぼくに気付いて小さく声を上げた。

「良かった……」

「何が?」

 聞き返すぼくの声は、自分でもハッキリと分かるくらい、いつもよりも冷たかった。

「あなたが時間に遅れてくるなんて珍しいから、何かあったのかと思って……」

「たった十分やそこら、ぼくだって遅刻することはあるよ」

「……どうしたの? 何か、怒ってる?」

 彼女はぱちぱちと瞬きした。

「君が、ぼく以外の男とも親しくしているなんて、思ってもいなかった!」

 抑えようとしてもつい、声が荒くなった。

「え?」

「バレないとでも思っていたの? でも、ぼくは見たんだ。君が昨日、駅の改札で、男と抱き合っているのを」

「え、ちが――」

 彼女が否定しようとする。

 でもぼくは、これ以上彼女に嘘をつかせたくなかった。

 彼女の言葉を遮ってまくしたてる。

「まさか兄弟だなんて言わないよね? 君は一人っ子だって言ってたもんね」

「うん、あの――」

「いいから、黙っててよ。……ごめん。ぼくにはいつまで経っても、君が何を考えているか分からないんだ。だからぼくは、君の言葉を信じるしかなかった。ずっと、信じてきたよ。それなのに、君に嘘をつかれたら、ぼくは何を信じたらいいか分からなくなる。だから……」

 感情に任せて、ぼくは一気に喋った。そうしなければ決意が鈍りそうだったから。

「だから、別れよう」

 ぼくがその言葉を口にした瞬間も、彼女の表情は変わらなかった。

 ぼくは彼女に背を向けて、その場から去ろうとした。

 けれど。

 ぼくの腕を、彼女がぎゅっと掴んだ。

 振り返ったぼくは、信じられないものを見た。

 彼女が、泣いていた。

 顔はあくまで無表情のまま、だが、その目からつぅ……っと涙を流していた。

「え!?」

 ぼくは焦って、オロオロした。

 その間も、彼女の目からは次から次へと涙が流れてくる。

 どうして。

 だって彼女は、嘘をついていたのに。

 いや、それが間違いだったのか?

 でも、ぼくは確かにこの目で見たんだ……。

「違う。彼女は、女の子、だもの」

 彼女が、涙でかすれる声で切れ切れに言った。

「え!? 女……!?」

 ぼくはあの時見た光景を思い出そうとした。

 彼女と一緒にいた黒い服の男……いや、人物は、女性にしては、背が高かった。髪も短かった。男っぽい格好をしていた。

 でも……、それらの事実は、ぼくが彼女の言葉を疑う理由にはならない。

「なんだ……。そうだったのか……」

 全身の力が抜けた。

 一人で勘違いして、怒って、バカみたいだ、ぼくは。

「……ごめん。ぼくは君を疑って、こんなに傷つけた」

 ぼくは掌で彼女の涙を拭いながら言った。

 彼女は首を振った。

「私が、誰と会うか、ちゃんと言ってなかったから」

 彼女はぼくを責めない。

 ぼくは、事実を確認する前に、ぼくの混乱や怒りをそのまま彼女にぶつけてしまったことを反省した。

「あれは、誰なんだい?」

「中学校時代の友達なの。私の、ただ一人の……。今は広島に住んでいるんだけど、土曜日こっちに来るから会おうって言われていて」

「へえ」

 彼女から改めて「友達」という言葉が出てきたので、ぼくは驚いた。今まで聞いた話では、クラスで浮いていた感じしかしなかったのに。

 彼女にも「友達」と呼べる存在がいたという事実には、少しホッとした。

 けれども同時に、ぼくの存在の価値が下がるような、少し悔しい気持ちもあった。

 ぼくも器の小さい男だと思う。

「凄く活動的な子でね、お父さんの転勤で、小さい頃から何度も引っ越しを繰り返していたらしいの。人との距離感が凄く近くて、友達を作るのが上手で、私にも話しかけてきてくれて、だから友達になれたのに、たった三ヶ月でまた転校していってしまったの。お互い、もし恋人ができたら紹介しようねって、約束していたんだけど……」

「なんだ。それなら紹介してくれれば良かったのに。どうしてぼくに言ってくれなかったの?」

「あなたのことは、彼女にも話したよ。いっぱい。でも……」

 彼女はちょっと甘えるように、ぼくの肩に頭を乗せながら言った。

「実を言うと、あんまり会わせたくはなかったの。だってあの子、たとえ相手が男性でも構わずすぐ抱きつくんだもの」

 ……え。

「それって……」

 彼女が友達に会うことをぼくに言わなかったのは、友達をぼくに会わせたくなかったからで。その理由は、友達がぼくに抱きつくのを見たくなかったから……?

「――大丈夫! ぼくは君以外の女の子に興味なんてないから! ぼくは君を愛してる」

 ぼくが彼女の両手を握って言うと――、

 まっすぐにぼくを見つめる彼女の、頬がほのかに色づき、目元と口元が、微かにゆるんだ。

 それはまぎれもなく、ぼくが初めて見る、彼女の笑顔だった。

「……私も」

 彼女は言った。

「私も、あなたを愛している」


「……じゃあ、うちまで案内するね」

 お互いに少し気持ちが落ち着いてきた頃、彼女がぼくの腕を取って言った。

「あ! しまった、お土産を買い忘れてた」

 ぼくが思い出して叫ぶと、

「それなら、少し回り道して一緒にケーキを買いに行こう? 母も私も、そこのケーキが大好きなの」

 彼女がそう言ってぼくの腕を軽く引っ張った。

 彼女の顔にはまた、本当に微かな笑顔が浮かび――、

 それに気付いたぼくを、幸せな気持ちにさせた。



 ぼくの彼女は美人だ。

 でもとても無表情だ。

 それだけに、たまに見せる笑顔がものすごく可愛いんだ。

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