第3話 深窓の王子と白猫の魔女

 それは、日差しが穏やかで風が心地良いある日のこと。

 自室の窓から外の景色を眺めている、一人の青年がおりました。


 日差しを浴びて水晶のように輝くプラチナブロンドの髪。

 灰色の瞳に、白くて傷ひとつない綺麗な肌。

 群青色の礼服を身に着けて、頭には金細工の髪飾りを着けています。


 彼は、この国の王子でした。

 年齢は二十一。十五歳が成人であるこの国で、二十歳を過ぎてなお独身を貫いている男性はとても珍しいものであると言えました。

 眉目秀麗である彼ならば、周辺国の王族や貴族たちから是が非とも我が娘との婚姻をと申し出が数多にあるでしょうに。

 家臣たちも、王国の民たちも、彼が何故この年齢になっても妻を娶ろうとしないのかを大層不思議に思っておりました。


 彼が窓の傍に立っていると、一匹の白猫が突然部屋の中に飛び込んできました。


 それは首輪のない猫でした。

 左はサファイア、右はペリドット、左右で異なる色の瞳。それ以外に特徴らしい特徴のない猫でした。

 思わず彼が白猫に視線を移すと、白猫はその場をくるりと一回転して。


 次の瞬間、白猫は一人の女性へと姿を変えていました。


 数多の宝石をあしらえた宝飾品で全身を飾った、踊り子を彷彿とさせる露出の高い紫の装束。手には大きな水晶玉を先端に誂えた杖を持っています。

 ウェーブの掛かった真っ白な髪はまるで蜘蛛の糸を束ねたかのよう。

 オッドアイは、猫の瞳そのまま。瞳孔が縦長で、奥に妖艶な光を讃えています。

 真っ赤なルージュを引いたその女性は、自分のことを不思議そうに見つめている王子に言いました。


「妾は北の森に住む魔女じゃ。単刀直入に申すが、そなた、妾の夫になってはくれんかの?」


 それは魔女からの愛の告白でした。

 王子の魅力は、世の貴族たちだけではなく、人の世俗から離れた魔女すらも魅了していたのです。

 何故、自分と面識のないこの魔女が自分のことを知っていて、恋慕の感情を向けているのだろう?

 王子は訝りましたが、すぐに思い当たることがひとつだけあったことを思い出しました。


 時には晴れた昼下がりの庭先で。時には父王と共に出かけた城下町のある一角で。時には月明かりが幻想的な夜の闇の中で。

 そこで、一匹の白猫が物陰に隠れながら自分のことをじっと見つめていたということを。

 何のことはない。魔女は、今までに何度も自分の傍に訪れては、自分のことを観察していたのです。

 その時王子は、偶然見かけた白猫を「綺麗な猫だな」くらいにしか思っていませんでした。

 嫌悪感を感じるものではありませんが、気に留めるほどのものでもない、その程度の存在でしかありませんでした。


 だから、正直に言ってこの申し出には困ってしまいました。

 だって、自分には誰とも結婚する気などないのですから。

 結婚できない理由が、彼にはあったのです。

 何故なら……

 申し出を断れば、魔女は間違いなく落胆することでしょう。

 しかし、自分にその気はないとはっきりと告げなければ、お互いのためにはなりません。

 意を決して、彼は魔女に告げました。


「悪いけど……僕は、誰とも結婚するつもりはないんだよ。君の申し出は嬉しいけれど、それには応えられない。帰っておくれ」


 その言葉を口にした時。

 魔女の顔から、すっと笑顔が姿を消しました。

 のっぺりとした仮面のような表情へと変化した魔女は、手にした杖の先端を彼へと向けました。

 美しく磨かれた、水晶玉。その底には、ぼんやりと何かの魔法陣のようなものが宿っているのが見えます。


「妾は欲しいと思ったものは必ず手に入れてきた魔女じゃ。妾がそなたを夫に欲しいと思ったら、その時点でそなたは妾のものなのじゃ。そなたに拒否権などないということを、身をもって知るが良い」


 水晶玉が眩い光を放ちます。

 王子は光に捕らえられ、あっという間に水晶玉の中へと吸い込まれてしまいました。


 彼女は、全知全能の才能に恵まれた、天才と揶揄された魔女でした。

 あらゆる知識と魔法の力を駆使して、彼女が望んだことは何でも彼女の思うがままに実現させてきました。

 欲しいものを手に入れることは、彼女にとっては至極当たり前のことのひとつ。

 何百年も若かりし日の容姿を保つことすら可能にした彼女にとっては、一国の王子を手中にすることくらい、造作もないこと。


 水晶玉の中に閉じ込められ、困惑した様子で辺りを見回している小さな王子に向かって、彼女は言いました。


「そなたが妾の夫になると心の底から誓いを立てたその時は、外に出してあげよう。その時まで、その中で大人しくしているが良い」


 くすりと微笑んで、魔女は白猫へと姿を変えると、そのまま来た時と同じように窓から外へと飛び出していきました。


 王子の姿が城内から消えていることに、臣下の者たちはすぐに気付きました。

 即刻捜索隊が組まれて、草の根を掻き分ける勢いで王子の行方を捜しました。

 しかし、何ひとつ手掛かりとなるようなものは見つかりませんでした。

 まさかその辺に普通にいるような白猫が、王子を誘拐した犯人であるとは──誰も、夢にすら思っていなかったのですから。


 森の奥深くに魔法で隠された魔女の家。

 水晶玉に閉じ込められた王子は、そこで魔女と共に暮らすことになりました、

 魔女は、王子を水晶玉から解放することだけはしなかったものの、献身的に王子の身の回りの世話をしました。

 食事は一日に三度、人間の口に合うような美味しい御馳走を山のように用意して与えました。

 時間が来れば寝心地の良い寝床やお風呂を魔法で作り、王子が尿意を催したと訴えればその世話も嫌な顔ひとつせずにしてあげました。

 王子が退屈な思いをしないように、娯楽となるものも与えました。

 魔女は、自分が見聞きしてきた様々な体験に基づいた昔話を、王子に語って聞かせました。

 秘密の花園に暮らす妖精たちの話。人間の少女に恋慕して人間のふりをして人里に下りた狼男の話。太陽に憧れて昼間の世界に飛び出していき、そして灰となっていった吸血鬼の話──

 王子はそれらの話に、相槌を打ちながら耳を傾けていました。

 自分は滅多に外には出られない身の上だったから、外の世界の話を聞けるのは楽しいと、笑っていました。

 もっとも、それが心の底からの笑顔だったのかどうかは、魔女には分かりませんでしたが──


 王子が魔女と暮らすようになって、六日目。

 それまで自分から話しかけてくることをしたことがなかった王子が、口を開きました。


「明日は……僕の誕生日なんだ」


 誕生日。そのような記念日など魔女の世界には存在していないどころか、長年一人で暮らしてきた魔女にとっては、誰かに自分のことでお祝いされるという経験などありませんでした。

 ですが、誕生日という特別な日を祝う習慣が人間の世界に存在しているということを、彼女は知識として知っていました。

 彼にとっての、特別な日。その日を誰にも祝ってもらえず、淋しく過ごすのは流石に悲しかろう。

 魔女は、王子のことが流石に可哀想になりました。

 一日くらいなら、外に出してあげても良いだろう。どうせ家の周囲には結界が張られていて自分以外の存在は自由に出入りできない上に、森の中には恐ろしい獣たちがうろうろとしているのだから、王子が此処から逃げ出すことなど到底できやしまい。

 彼女は言いました。


「それならば、明日は一日そなたを自由の身にしてやろう。妾の傍から逃げることは許さぬが、家の周辺を散歩したり、日の光を浴びたりすることくらいならば許してやっても良い。妾からの誕生日の贈り物じゃ」


 そう告げた瞬間。

 王子は微笑みました。


「ありがとう……嬉しいよ」


 その笑顔は、魔女にとっては今までに一度も目にしたことのない、どんな美しい宝石よりも輝いたものでした。

 こんな笑顔を見せてくれるなんて。

 自分の判断は間違いではなかったのだと、彼女は思いました。


 明日は特別な記念日。自分の愛しき人の生誕を祝う、素敵な日。

 家中を美しい花で飾り付けて、極上の御馳走を山のように用意して、魔女の間に古くから伝わる祝いの歌を歌ってやろう。

 森から生き物たちも呼ぼう。小鳥に兎、小鹿に蝶たち。普段は姿を見せることがない妖精たちも、声を掛ければ来てくれるだろうか。

 その日は、明日のための準備を一生懸命になって行いました。

 もう一度、あの笑顔を見せてくれるのならば。そのためならば、こんな苦労など苦労のうちにも入らない。

 彼女は、明日の訪れをとても楽しみにしながら、夜の眠りに就きました。


 翌朝。魔女は、普段よりも早く目覚めました。

 早速ベッドの横に立て掛けてある杖を手に取り、水晶の中を覗き込むと──


 その中には、床の上にうつ伏せに倒れている王子の姿がありました。


 傍にはちゃんと寝床を用意してあるのに、そこで寝ないでこんな場所で倒れているのは普通じゃないと魔女はすぐに察しました。

 彼女はすぐに、杖に魔法をかけて王子を水晶の中から外に出してあげました。

 王子は、ぐったりとしていました。瞼は固く閉ざされ、体は冷たい。まるで人形のよう。

 そして、手の甲に浮かび上がっている、黒い痣──

 その痣は、遠目からでもはっきりと分かるほどに目立つものでした。

 昨日はこんなものなどなかったはず。もしもあったらすぐに気付いているはずです。

 魔女は王子の体を自分のベッドへと寝かせると、王子が身に纏っている礼服を脱がせました。

 留め具を外して布地を捲ると、そこにあったのは、全身に蔦が絡み付くように刻印された魔法文字の存在。

 文字が連なってひとつの紋様を形成している、そういうものでした。

 彼女は、これの正体が何なのかすぐに気付きました。


 これは、魔法を掛けた対象の生命力を抽出して術者に若さと寿命を齎す魔法。

 この魔法を施された者は、長き年月をかけて徐々に寿命を削り取られていき、最終的には死に至る。

 魔女の間では『外法中の外法』として禁呪指定されてきた若返りの魔法でした。

 王子は──何者か、自分ではない別の魔女に目をつけられて、魔法を掛けられていたのです。

 それも、もう何年も昔から。


 魔女は、ようやく理解しました。

 何故、王子が「自分は結婚できない」と言っていたのか。

 自分が誘拐同然に此処に連れて来たというのに、逃げ出す素振りも一切見せずに、自分の相手をしていたのか。

 彼には、分かっていたのです。

 二十二歳の、誕生日の日。その時に、自分は全ての生命力を魔法に奪われて死ぬのだということを。


「……何故じゃ」


 魔女は俯いて、拳を握りました。


「何故、それならそうと言わぬのじゃ。そうだと教えてくれれば、このような自由を奪うような真似などしなかったというのに! すぐにでも、この魔法を解く方法を探してやったというのに! 何故じゃ! 何故言わぬのじゃ! 何故何もないふりをして、笑っておったのじゃ!」


 王子は何も言いません。

 穏やかに、そこで眠っている。それだけです。

 彼女は王子の体に縋り付きました。痣のように刻印された魔法文字で雁字搦めにされた王子の裸体に抱き付いて、涙を零しました。


「妾は、そなたから向けられる笑顔が、愛が、欲しかったのじゃ……そなたの空っぽになった体なぞ手に入れても、嬉しくない……お願いじゃ、もう一度、あの笑顔を見せておくれ。笑って、おくれ……お願いじゃ、のう……」


 せっかく家中を飾り付けた花も、用意した料理もケーキも、全て無駄になってしまいました。

 でも、その程度のことなど彼女にとっては些細なことでしかありませんでした。

 もう、自分からどんなアプローチを掛けても、この王子は何の反応もしないのです。その残酷な現実を認めて、受け入れるのが、彼女にとっては何よりも辛いことでした。

 幾ら全知全能の力を持っていても、死者を蘇らせることだけは不可能です。

 何が天才なのだと、彼女は自分で自分を責めました。

 たったひとつしかない掛け替えのないものを守ることすらできないような力など、最初から持っていないものと同じだと、悔やみました。


 しかし、どんなに後悔しても。己を呪っても。

 これまでに彼女が王子に対してしてきたことはなかったことにはなりませんし、時間が巻き戻ることもないのです。

 全ては、終わってしまった。それが現実なのです。


「……許しておくれ……」


 彼女は涙で濡れた顔を上げて、王子の骸に魔法を掛けました。

 王子は淡い山吹色の光に包まれて、彼女の目の前から、姿を消しました。



 それから、幾度も四季は巡り。

 人の世は移ろい、姿を変え、相も変らぬ様子で発展と衰退を続けています。

 その様子を高い空の上から見下ろしながら、彼女は呟きました。


「……人間とは、本当に見ていて飽きぬものじゃな。何度痛い目に遭うても、前進をやめることはせぬ。その心の強さを、少しは見習いたいものじゃの」


 のう、と言って彼女が目を向けたのは、彼女が腰を下ろしている杖の先端に付いた水晶玉。

 その中には、両手を広げて翼を広げた鳥のような格好をした青年の像がありました。

 透き通った水晶でできたそれは、空からの光を浴びてきらきらと輝いています。


 ──魔女が王子に掛けた最後の魔法。それは、王子を水晶へと変えてしまう『呪い』でした。

 魔女は王子の骸を永遠に朽ちぬ水晶へと変えて、己の杖に封じ込め、あの日以来片時も手離すことなく持ち歩いているのです。

 それは、彼女が王子に対して示した、彼女なりの精一杯の愛の形でした。

 自分だけは、永遠に貴方を愛し続ける。その想いを、彼女なりの方法で体現したのです。


 永遠に等しい時を生き永らえる魔女。死してその身を朽ちぬ水晶へと変えられた、彼女に愛された人間。

 そこに、通う心はないのかもしれません。しかしそこには、確かにひとつの愛の物語が存在しているのです。

 この小さな物語は、魔女が天に召されて王子に掛けられた魔法が解けるその時まで、人知れず続いていくことでしょう。


「さて、次は何処に行くとしようかの」


 杖に乗った彼女は風のような速度でその場を翔けていき、あっという間に空の彼方へと消えていきました。

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アンチエシクス・ノート 高柳神羅 @blood5

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