第2話 ヒューマン・バンク

 僕は飛び降りた。

 別に空を飛ぼうとしたとか、そういう夢のある理由なんかじゃない。

 平たく言うなら、飛び降り自殺というやつだ。

 死ぬ理由? そんなのどうだっていいだろ?

 学校でいじめられていた? 人生に嫌気が差した?

 そんなの、興味ある奴で勝手に想像すればいい。どんなに突拍子もない変な理由を付けられたとしても、それでいいよってことで僕は頷いておく。

 とにかく、それなりの理由があって、僕は近所のマンションの屋上から飛び降りたのだ。

 二十階もある建物のてっぺんから落ちれば、否が応でも全身の骨が折れる。ひょっとしたら頭が割れて中身が飛び散るかもしれない。

 まあ、結果として死ねれば格好なんて何だっていいんだ。

 首吊りだと時間はかかるし、溺死しようにも近くに深い川なんてないし。刃物じゃ余程上手く刺さないと致命傷にならないって何かの本で読んだことがある。人間って存外しぶとい生き物らしいから。

 だから、飛び降りるのが一番手っ取り早くて確実なんだ。

 ……そう、思ってたのに。


「むやみやたらに自殺なんてするもんやないで?」


 どういうわけか僕は無傷のまま地面に到着して、今は目の前に佇む奇妙な男の話を聞くに至っている。

 聞く……というか、聞かされている、と言った方が正しいか。

 中途半端な関西弁で喋るその男は、僕を問答無用で受け止めて助けた挙句、名乗りもせずに勝手に演説めいた話をし始めたのだ。

 その場を離れようにも、妙に力の入った目で見つめてくるものだから、逃げるにも逃げられず。

 とりあえず彼の話を聞く以外の選択肢が、僕にはなかったのである。


「命は粗末にしたらあかん。せっかく授かったモンなんやからな、有効活用せな」


 自殺志願者を説得する奴が口にする、ありがちすぎる単語を並べながら、彼は『命の尊さ』についてを力説していた。

 それで自殺したい奴が自殺を思いとどまって改めて人生を謳歌する……なんて話は、悪いけど聞いたことがない。

 一度死のうとした人間は、何らかの理由で助かっても、人生に希望を見出せない奴の方が多いのが現実だ。

 だってそうだろう? 生に希望を見出せないから、死に希望を見出して、そうして死んでいくのだから。

 彼の話を上の空で聞き流しながら、僕は胸中でナンセンスだと呟く。

 早く何処かに行ってくれないかな。変な関西弁を喋る奴ってだけで胡散臭さ満載だし、係わり合いになりたくないのだから。

 ──その願いが、通じたのかどうかは分からないが。

 彼は唐突に語りをやめると、半分困ったようにこめかみの辺りをぽりぽりと掻いて小首を傾げたのだった。

「んん……何や、どうも自分は説明苦手でなァ……上手いよう話できひんわ」

「……話できなくていいですよ。無理して僕に関わらなくたっていいじゃないですか」

「そういうわけにもいかんて」

 さり気なく何処かに行ってくれるよう申し出てみるも、案の定受け流されてしまった。

 どうやら、僕は相当厄介な奴に命を拾われてしまったらしい。

「せっかく見つけた逸材なんやし。逃すのはもったいないっちゅーか……んん」

「……逸材?」

 ……と思ったが、どうやらそうでもないらしい。

 気になる単語に、僕は眉を顰めて思わず問い返していた。

 言うまでもないが、僕とこの男は初対面である。見た感じ年齢もそこそこ離れているようだし、接点は何もないように感じられる。

 まさか、君は選ばれた勇者なんだ的なお花畑展開が待っているわけでもあるまいし。

 僕が興味を示してしまったのが運の尽きだったのだろう。彼はますます僕との距離を縮めてくると、この場での説明は完全に諦めたようで、単刀直入に言ってきたのだった。


「近くに自分の家があるんよ。そこで改めて説明したるさかい、ちと一緒に来てくれへんかいな?」


 誘拐犯じゃないことを証明したいのか、彼は僕が同行を承諾するなり『神木』と名乗った。

 もっとも、それが本名である証拠など何処にもないので、僕の中の彼に対する胡散臭さが減ったわけではなかったが。

 あの場所にいたのはたまたま通りかかったからで、僕を助けたのも全くの偶然だったのだとか。

 まあ、そんなことはどうでも良かった。

 僕は、どうしてこの男に付き合って無駄な時間を生きているんだろう?

「ほい。着いたで」

 閑静な住宅街の一角にある小さな建物の前で、神木は立ち止まった。

 お洒落なカフェテラスのようなガラス張りの建物で、玄関の両脇には綺麗に手入れされた植物のプランターが並べられている。

 呼び鈴の上には『神木』と書かれた小さな表札が掛かっており、玄関扉の上には横長の看板が設置されていた。


 『神木総合外科医院』


「……病院?」

「せや」

 どう見ても病院のそれとは思えない建物を見上げて呻く僕に、深々と神木は頷く。

「自分、此処の院長してますねん」

 ……全然そうは見えない。

「ま、今日は休診日やから誰もおらんし。お茶出したるさかい、遠慮せんと入って」

「……とか言って、無理矢理診察とかして代金要求する気なんじゃ」

「せえへんて。ほれ、入った入った」

 半ば強引に押し入れられるように、僕は建物の中に足を踏み入れた。

 中は、待合室だろうか。やはり外観と同じようにカフェテラスの雰囲気を湛えた空間になっていた。それでもちゃんと病院であることを証明する品が、カウンターの奥の方に並べられているのが見える。

 神木は部屋の奥──本棚の隣にひっそりと存在していた木製の扉の前まで行くと、持っていた鍵を錠前に差し込んで、扉を開いた。

「こっち。専用の客室があるんや」

 開かれた扉の奥は、窓がないのか真っ暗で、何も見えなかった。

 僕がそちらに足を運ぶと、神木はさっさと中に入っていった。とりあえず入室するなり閉じ込めようとか、そういう気はないらしい。

 ……まあ、今更怖いものなんてないんだけど。

 僕が部屋に足を踏み入れると、スイッチが入れられたのか辺りが一瞬で山吹色の光に包まれた。

 そこは東南アジア系の民芸品が並んだ、微妙にアンニュイな雰囲気の漂う小さな部屋だった。中央に小奇麗なテーブルと椅子が置かれており、一応神木の言葉通りに客室として使用されている場所なのだろう。

 壁際に並んでる変な像とか、揃ってこっちを見てて結構落ち着かないけど……

 神木は部屋の隅の方で、木彫りのカップに飲み物を入れていた。ジャスミン茶か何かだろうか。独特の芳香がする辺り、日本ではマイナーな飲み物なのだろう。

 皿に小さなケーキを載せて、それらを携え、彼はこちらに戻ってきた。

「ほい、お茶入ったで。席はそこ。遠慮せんと座ってな」

「……失礼します」

 僕が席に座ると、神木はカップとケーキの皿をテーブルの上に置き、僕の正面の椅子に腰を下ろした。

「一応音楽とかもあるけど。かける?」

「いえ。いいです」

「そう?」

「……それで。僕を此処に連れてきた目的の『話』はいつ聞かせてくれるんですか」

 神木が暢気に自分の分の茶を啜り始めたので、気分がだれないうちに僕は本題を切り出した。

 僕としては、此処に長居する気はさらさらない。

 本当は今すぐにでも此処を出て、次の──

 そんな僕の胸中を見透かしたのだろうか、神木はカップをテーブルに戻しながら、眉間に微妙な皺を寄せたのだった。

「何や。せっかち君やなぁ……そんなに死に急がんと、待てば海路の日和あり、ってな」

 とりあえず茶を飲め、話はそれからだ。

 言うので、僕は大人しくカップに口をつけた。

 この男のことだから、茶を飲まないと此処から帰してくれなさそうに思えたのだ。

 僕が一応素直になったからだろうか、神木は満足そうに頷くと、その辺の棚に手を伸ばして一枚の紙切れを引っ張り出した。

 こんな部屋から出てくる物だから、奇妙なイラスト満載のチラシのようなものなのかと思ったが──違う。

 それは、企業の資料のように整然とした文書だった。文字の大半は細かくて此処からだと読み取れず、現時点で分かるのは題目に書かれている一文だけ。

 パソコンで作った文書なのだろう。見慣れた書体で、そこにはこうあった。

「……『ヒューマン・バンク』?」

「せや」

 神木は頷くと、自分の分のケーキに小さなフォークを立てながら説明をし始めた。

「ざっくり言うとなァ……ドナー契約者の個人情報を扱っとる極秘の情報機関やねん」


 神木の説明は本当にざっくりすぎるので、改めて僕が目を通した文書から得た情報を分かりやすく纏めると、こうだ。

 ヒューマン・バンクとは、自らドナーになる意志を持った人間の情報を登録管理している機関らしい。

 病院側からの要望を受け、必要に応じて適正のあるドナーを紹介し、臓器移植手術を支援する活動をしているのだという。

 神木は機関の創設者でもあり、表向きはただの病院経営者だが、裏では機関の人間として他の病院に情報を提供をしたりと色々行っているのだとか。

 僕を「せっかく見つけた逸材」と言っていたのは、こういう理由があったらしい。

 と、いうのも。

 この機関に登録しているドナーは、一般のドナーとは異なるのだ。

 此処にドナーとして登録している人間は──その殆どが、僕と同じ自殺志願者。何らかの理由で自殺しかけた人間を拾ってきては、この機関を紹介し、ドナーとして登録させているのだという。

 無論、登録は両者の合意の上で行われている。そもそも自殺志願者が、自分の内臓を取られることに抵抗を示すはずもない。殆どの者が、喜んで此処に名を連ねていることだろう。

 どうせ捨てようとした命なのだから、誰かのために有効活用してみないか、というキャッチコピーなのだ。

 臓器移植手術を望む患者は世界中に数多いる。しかし、臓器提供者はそれとは反して殆どいない。特に日本では、他の国と比較してもその数は著しく低い。

 そんな者たちを助力するためにこの機関を立ち上げたのだと、神木は言った。

 通常のドナーとこの機関に登録したドナーとの違いは、他にもある。

 此処に登録しているドナーは、全てを余すことなく提供素材として活用されるのだ。

 各部位ごとに分割され、心臓はあの患者に、肺はこの患者に、という形で個別に運ばれ、使われていく。

 当然、完全にバラされた人間が生きているわけがない。ドナーとして指名された時点で、その人間の人生はそこで終わるのだ。

 人の役に立ち、感謝されながら死んでいく。自殺志願者にとって、こんなにも理想の死に方はないのではなかろうか。

 そう。この機関は、臓器移植手術を望む患者の希望の場所になるだけではない──自殺志願者たちの心を救済し、安息を与える希望の場所にもなっているのである。


「登録に必要なのは、本人の意思だけや。他には何もいらん……どうやろか。無駄に飛び降りなんかで命散らすくらいなら、こういう場所で人のために命捧げてみいひん?」


 ……胡散臭いなんて言って悪かったよ。

 神木は、高説垂れるだけの偽善者なんかじゃなかった。

 僕みたいな、真剣に人生のことを考えて結論を出した人間の気持ちを、真っ向からぶつかって汲み取ってくれる人間だったんだ。

 僕は、頷いて、神木と固く握手を交わした。

 彼の言う通りに……無駄に人生終わらせるくらいなら、最後の最後くらいは、誰か人のために命を遣ってみよう。そう、思えたから。


 その日、僕の名前はドナーの一人として機関の名簿に名を連ね、『三〇三』の登録ナンバーを受け取ったのだった。


 ドナーとしての『指名』があると、機関に名前を登録した時に一緒に教えた連絡先に神木から連絡が入る。

 当然、それまでは勝手に身投げしたりしてはいけないので、日常生活に戻らなければならないのだが、その我慢はそう長く続くものではないらしい。

 簡単に言うと、ドナーはそれこそ何人いても足りない状況なのだとか。

 無論、適正等の問題もあるので、ドナーがいれば良しという話でもないのだが。

 それでも、提供者の数が多ければ多いに越したことはない。

 ……話が逸れたが、そのくらい需要が多いので、遅くても一週間もすれば御指名が入るという現状らしいのだ。

「機関を創設した理由?」

 残りの人生を悔いがないように過ごせ、と神木は言うのだが、そう簡単にすべきことが浮かぶわけもなく。

 そもそも、問答無用で飛び降りしようとした身なのに、今更そんなことを言われても……

 そんなわけなので、僕は、神木と出会ってから好奇心を抱いた物事を処理することに残った時間を使おうと思い立ったのだった。

「そんな話、聞いてどうするんかいな。あぁ、ひょっとして冥土の土産が欲しいとか、そういうことなん?」

「話したくなかったら、話さなくていいです。単に僕が気になったから訊いただけなんで」

「ん。まあ別に構わへんよ。教えたるさかい」

 神木は飲んでいた紅茶のカップを目の前に置くと、左腕の袖を捲り始めた。

 肘くらいまでを露出させたところで、掌を上に向けてそれをこちらへと突き出してくる。

 日焼けしていない、骨ばって痩せた腕。

 その手首の部分には、醜く刻まれた何本もの赤い傷痕があった。

 ……これって、ひょっとして……

「自分もなァ、君と同じくちやったんよ。若い頃に自分で自分の命にとどめ刺そうとしたことがいっぺんだけあるんや」

 神木はへらりと力の抜けた笑みを浮かべながら、語り始めた。


 中学生の頃……ひょんなことから人生に嫌気が差した神木は、自殺しようと家の台所にあった包丁を盗んできてそれで自分の手首を切った。

 それこそ手首を丸ごと落とさんとする勢いで、何度も切ったのだという。

 だが、死ねなかった。彼がリストカットしている現場を親に発見されて止められて、頬を張られてしこたま説教される羽目になった。

 どうしてこんな馬鹿なことをしたんだ、とか親より先に死ぬなんて何て親不孝なことをするんだ、とか。そういう内容の話を無理矢理聞かされ続けたのだという。

 自分は生まれてきたくなんてなかったのに。どうして生かされているのか、その理由すら分からないのに。

 自分の命なのに、どうして自分の好きなように扱うことを許されないんだ。

 親の『説得』に納得できなかった彼は、その日のうちに家出した。

 当てもなく街を彷徨い、どうせ死ぬ気だったのだから空腹を満たすためのパンを買う小遣いすら持っておらず、しかし空腹感を我慢することができなくて公園で水を飲んで気を紛らわせた。

 此処は都会だから、道路には多くの車が走っている。駅が近いから電車も通っている。高層ビルなんてその辺に幾らでもあるし、足を踏み入れるのなんて簡単だ。

 飛び降り。飛び込み。死のうと思えば、それに利用できる手段などそこかしこに転がっている。

 しかし、車に轢かれたり電車に撥ねられたりなんていう方法は、自分と何の関係もない大勢の他人に迷惑をかけることになる。

 それだけは、御免だった。どうせ死ぬのならば、人に迷惑をかけない方法を選びたいというのが彼のこだわりだった。

 どうせだから、強盗でも現れないだろうか。人質に取られて、急所を刃物で一撃。そういう展開ならば少なくとも『自分が』他人に迷惑をかけることはない。

 そんなことを期待しながら、偶然通りかかった書店へと足を踏み入れた彼。

 何気なく目についた雑誌を手に取って、適当にぱらぱらとページを捲って流し読みをして──

 その時目に留まったのが、ある一文。日本の臓器移植希望者とドナーに関する実情を綴った記事だった。

 現在の日本には、ドナーの数が患者数に対して絶対的に不足している。そのことを彼はこの時に知ったのだ。

 ドナーとは、自分の臓器を──言わば命の一部を、患者に提供する人材である。

 その行為は、極論を言えば合法の上で命を削っているようなもの。結果として死んだとしても誰からも責められることはない。何故ならこれは『他人の命を救う善行』なのだから。

 もしも。

 彼は考えた。


 もしも、自分の全てを余すことなく使ってくれる、そんな臓器提供の場が存在していたら──今の自分のように、自殺を願っている者たちは悩みや苦しみから解放されるのではないか?


 その日以来、彼は自殺することをやめた。

 必死に勉強して医学の道を志し、外科医としての資格を取得して医者となり、自らの病院を設立した。

 その裏で臓器提供とドナーに関する勉強をして、ヒューマン・バンクを設立した。

 ドナーの臓器を全て摘出して、結果的に殺してしまうことになる臓器提供の仕組みと場所。無論そんな存在が現代日本において認められているわけがない。

 故に秘密裏に存在する非合法の機関という形にはなってしまったが、彼はようやく少年時代に思い描いた『理想の場所』を手に入れることができたのである。

 これからは、自分がかつての自分と同じ悩みを抱えている自殺志願者を一人でも多く救済する。

 そして、いつか。自分の後継者となってくれる存在が現れたら。

 その時は、自分のことも──


「自殺志願者にとっての救済は、死ぬこと。それ以外にはありはせんのや。生きることの素晴らしさを力説したところで、その人間にとっちゃ単なる雑音以外の何でもないねん。余計に悩んで苦しむ羽目になるだけ。そんなことをしてまで長生きしたところで何になる? ……せやったら、同じ苦しみを味わった人間として、彼らの『心』を救ってやろうと、そう思ったんや。そのために、自分はこの機関を作ったんよ」

「……それが、先生が見つけた生き甲斐ってやつなんですか」

「うーん……生き甲斐、なんやろか。よう分からんなぁ。自分かて自殺志願者やめたわけやないしな。この歳までずるずる生き永らえてきてしもたけど」

 神木は微苦笑して、差し出していた左腕を引っ込めた。

「でも、そこまで悪い人生でもなかったで。ドナーたちに感謝されて、生きたい願う患者の命も救えるいうんは。自分のこの手でドナーの体にメス入れる時、実感するんよ。ああ、自分はようやくこの子の心を救ってやることができたんやなって。自分が医者になったんは間違いやなかったんやなって、思うんやわ」

「そうですか」

 僕は食べかけだったケーキの残りを口に運んだ。

 神木はケーキを食べるのが好きだった。故に休診日はこうして駅前の喫茶店に繰り出して紅茶とケーキを堪能しているのだが、今日は僕もそれに付き合っている。

 僕は、ケーキはあまり好んでは食べない方だ。だが菓子が苦手な奴でも美味いと思える一品だと神木が選んでくれた抹茶のムースケーキは、素朴な味がしてそこそこ美味しいと思えた。

 不思議なものだ。ちょっと前まで死ぬことしか考えられなかったこの僕が、喫茶店でお洒落なケーキを食べて、それを美味しいと思っているのだから。

 これも……全て、神木のお陰なのだろう。彼が差し伸べてくれた手を掴んだから、僕はこうして穏やかな気持ちでひと時を過ごすことができている。

 本当に、感謝してもしきれない。

 と。唐突に軽快な某大喜利番組のテーマソングが鳴った。

 神木のスマートフォンの着信音だ。

 結構大音量だったので、周囲の客の何人かが笑いを堪えきれずに噴き出している。何とも微妙な表情をしている者もいる。

 ……そりゃそうだよな。物静かで優雅な音楽がゆったりと流れていた環境の中に、いきなりこれだもんな……

「ん、すまんな。電話やわ」

 神木は腰のポケットからスマートフォンを取り出すと、通話に出た。

「もしもし。神木です。何や緊急かいな? ……うん、うん、ほう、で……」

 通話時間は三分ほどだった。

「了解。丁度一緒やし、今から伝えますわ。ああ、いや構わんて。そっちこそ、休診日やってのにすまんかったのう。ほな、そういうことで」

 通話を終えて沈黙したスマートフォンを元通り腰のポケットに突っ込んで、神木は真面目な面持ちをして僕の方へと向き直った。

「成瀬君。今、機関からお達しがあったんや。君の臓器の提供を望む患者が現れたってな。何やら急を要する状況らしくてな、二日後に手術してほしいゆうて依頼されてしもた」

「……はい」


 彼のその言葉に、僕は全身が引き締まるのを感じた。

 いよいよ、その時が来たのだと。実感した。


「二日後……自分の病院に来て欲しい。そこで手術して、君の人生も終わる。せやから、心残りは綺麗に片付けておくんやで。後で恥ずかしいもんが見つかったら黒歴史になってしまうからのぅ」

 冗談めいたことを言って笑う神木は、やっぱり微妙に胡散臭い雰囲気を漂わせた中途半端な関西人だった。

「執刀医は自分が担当するさかい、痛いことも苦しいこともないからな。こう見えても腕は折り紙つきなんやで、安心したってな」

「……手術って麻酔してからやるんでしょう。それじゃ痛みも苦しみも分かるはずないじゃないですか。寝てるんだから」

「ま、そらそやな。希望者には局部麻酔にして完全に眠らんように処置してから自分がバラされるところ見学させとるんやけど……どうする?」

 自分が死ぬ瞬間を見学できるなんて、普通じゃまず体験できないことだ。

 何気にとんでもないことをさらりと言ってのけたな、この男は。

 自分がどんな風に死んでいくのか。確かに興味がないとは言わない。

 でも……

「いえ……いいです。全身麻酔にして下さい。感覚がなくても、自分の体が切られてるところ見てるだけで痛いって錯覚しそうなんで」

「そう? これこそ究極の冥土の土産! って感じするんやけどなぁ。まぁ、それが成瀬君の希望やったら、自分はそれで構わへんよ」

 彼はそう言って、僕の右手をそっと握った。

「ほな……二日後に。自分の病院でな」


 二日後に、僕は死ぬ。

 だから、僕は残された時間を使ってできる限りの身辺整理をした。

 部屋の掃除をして、残しておけないなと思ったものは全部捨てた。

 テストの答案用紙。くだらない妄想を書き連ねたノート。写真。貰った手紙。

 僕が急に部屋の大掃除を始めたものだから、母親が不思議そうな顔をして僕のことを見ていた。

 今まで自分から掃除したことなんてなかったのに、急にどうしたんだと言われた。

 僕はそ知らぬ顔をして適当に「そういう気分になったんだよ」と言って誤魔化した。

 こうして親と会話をするのもこれで最後。母親の手作り料理を味わうのもこれで最後。

 ……もしも、僕が死んだことを知ったら。その時両親はどんな顔をして何と言うだろう。

 悲しむ? 怒る? 呆れる? それとも……


 からからと、僕を寝かせたベッドが何処かへと運ばれていく。

 この病院、外観はそれほど大きくはない建物だが、地下があるので実際は相当な広さがあるらしい。手術室や霊安室など、大きな病院に揃っているような設備は一通り揃っているのだという話を聞かされた。

 僕は、まどろんだ意識の中で、ぼんやりと自分の顔を見下ろしている神木のことを見上げていた。

「……そろそろ麻酔が完全に効いてくる頃やな。君が完全に眠ったら手術に入る。いよいよや」

「…………」

 僕はこくりと頷く。

 全身が痺れているように動かない。辛うじて指先や首が動く程度だ。

 この意識がなくなるまでもう幾分もないことを、僕は実感していた。

「最後に……何か、言いたいことがあるんなら聞いたるで。何でもええよ。遠慮なく言い」

「…………」


 最後の言葉。すなわち遺言。

 何か気が利いたことを言えれば良かったんだろうけど、生憎僕はそこまで頭が回るできた人間じゃない。

 今にも眠りそうな意識の中から引っ張り出せる言葉など、種類も程度も限られている。

 だから。


「……先生」

「ん?」

「僕……先生に出会えて、良かったです……僕の人生、本当にろくなものじゃなかったけれど、最後の最後で僕の気持ちを理解してくれる人に出会えたこと……それは、僕にとっての最後で最高の、幸せ、でした」

「何や、そないなこと面と向かって言われるなんて照れるのぅ」

 自分はそんな立派な人間やないで? と言って苦笑する神木に、僕は微笑みかける。

「先生……僕の体、無駄にしないで、使って下さい。生きたいと願っている人を、一人でも多く、僕の体を使って助けてあげて下さい……そうしてもらえれば、僕がこの世に生まれてきたことに意味ができるから……そうなったら、僕が死んだ後、この世を恨むことも、ないだろう……から」

「分かった。約束したる」

 力強く頷く神木の笑顔に、影が差していく。

 もう、時間だ。僕はこれで眠る。

 穏やかに……安らかに。

 瞼を閉ざして、僕は小さな声で呟いた。


「……ありがとう……先生」



 その後──僕から取り出した心臓を移植された患者は、無事に一命を取り留めて、現在も元気に何処かで暮らしているらしい。

 ドナーの個人情報を守るという理由があるため、患者にはドナーに関する情報は一切渡されない。だが神木の気遣いで、その患者には僕が君のことを絶対に助けてあげてほしいと願っていたということだけは伝えられたという。

 臓器提供という形で命を救われた患者。心を救われた元自殺志願者であるドナー。

 神木が自らの願いを元に作り上げたこの仕組みが果たして本当に正しいものだったのか、僕には分からない。

 でも。

 結果として患者の命は救われ、僕は心を救われた。結果的に、どちらも本人が望む『幸せ』を手にすることができたのだ。

 それならば、例え日陰の技術であったとしても、こういう技術が存在していてもいいんじゃないかと、僕は思うのだ。


 今日も、人知れず救われている命があり、奪われている命がある。

 そこにあるのは、人間が生み出す願いと想い。ひょっとしたらそれは究極のエゴなのかもしれない、救済の形。

 いつか、自分自身も救済されるために。

 その日が来るまで、彼は誰にも知られることなくメスを振るい続けている。

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