アンチエシクス・ノート

高柳神羅

第1話 『嫌い』を排除したセカイ

 この作品、本当クソだわ。せっかく異世界転移してチート貰ってるのに無双できない主人公ってありえないでしょ。こっちは絶対無敵の力で悪党を一掃してスカッとする話を期待してるのに、その辺にいるようなドラゴン相手にあっさりピンチになってるって、そんなのチートじゃないじゃん。読者の期待裏切るなんて作者としてありえないって思わないの?

 こんなのが受賞して書籍化されてるなんて、最近の出版社のコンテストも質が落ちたもんだね。自分だったらこんな駄作は絶対に一次選考で落としてるわ。

 もうこの作品は読まない。無料でも御免だね。知り合いにもこの作品は読む価値ないって教えとくわ。一日も早く書店から撤去されるのを期待してるよ。


 コメントを送信して、彼はふうっと息を吐いて椅子の背凭れに身を預けた。

 小さなアパートに借りた部屋の中にある、いつもの静かな環境。

 本棚に無造作に突っ込まれて放置された表紙がくしゃくしゃの本の数々に、床に脱ぎ散らかされた部屋着。

 雑然とした無音の環境の中で、彼はぽつりと呟いたのだった。

「……はぁ、ほんっとムカツクわ……」


 彼は、現実世界では地味で目立たない大人しい青年だった。

 常に無表情を貫き、極力他人とは関わらない。そこにいるんだかいないんだか分からないような地味な存在。まるで究極のモブキャラを実体化させたかのような男だった。

 だがWEB世界においての彼は、それとは全くの別人だった。

 彼は、WEB世界内ではかなりの知名度を誇る存在だった。

 ソーシャルゲーム界隈においても、WEB小説界隈においても。彼の名を知らない者はいない。その名を目にしただけで誰もが震え上がり、彼とは決して関わり合いになるまいと目をそらして距離を置いた。当然接触してくる者など一人もいなかった。

 彼は、自分が気に入らないものは徹底的にその世界から排除しようとする、筋金入りのクレーマーなのだ。

 作品に対する批判を言うのは当たり前。時には暴言を吐き、悪評を書き連ね、その作品の評価を貶め、挙句の果てには作者を直接誹謗中傷して作品を公開停止に追い込むことも平気でやった。その中には、商業作品として今まさに世に羽ばたこうとしていた作品も数多くあったという。

 無論彼の行っている行為は運営サイトにとっては立派な迷惑行為に当たる。彼は行動を起こす度にサイトの利用者たちに通報されてアカウント凍結されてきたが、それにも懲りることなく様々な偽名と多くのメールアドレスを駆使して再度アカウントを取得し、同じことを繰り返してきた。


 世間的には彼の行為は立派な『悪行』ではあるが、彼当人にしてみれば自分が生きやすい世界を作るための『善行』以外の何物でもなかった。

 彼は、常日頃から考えていた。

 どうにかして、この世から自分が気に入らないと思ったものをなくしたい。嫌いなものを全て排除して、自分にとって生きやすい世界で嫌な思いを何ひとつしないで生きていきたい。

 WEB世界上だけではない、いずれは、現実世界でも。

 書店から自分が駄作認定したくだらないライトノベルは排除したいし、口に合わないハンバーガーばかりを新商品として売り出しているファーストフード店も潰したい。

 推しだの何だので騒いで気持ち悪いカップリングのBL漫画ばっかり描いて喜んでる腐女子共も一人残らず絶滅すればいいと思ってるし、推しのアイドルを応援するためだけに同じCDを何百枚も購入しているオタク共も破産してその辺の畑の肥やしにでもなればいいと考えている。

 グラビアアイドルの写真集を見て喜んでる男たちは……まぁ、存在を認める程度ならばしてやってもいい。男が美人の女に欲情するのは男にとっては生理現象のようなものだと分かっているからだ。本能には逆らえない、それは仕方がない。

 歩き慣れた駅前の道を歩きながら、彼は溜め息をつく。


 本当に、この世界は、生きづらい。

 どうして、自分は、こんなクソみたいな世界に生まれてきてしまったんだろう?


「……相当お悩みのようですね、貴方」


 不意に、背後から誰かが声を掛けてきた。

 何となしに振り向くと、そこには、黒いビジネススーツを身に着けた若い女が立っていた。

 髪はセミロングのストレート。顔は、不細工ではないが美人でもない、何と言うか平均的な日本人らしい顔立ちをしている。何の特徴もない女だ。

「……誰だよ、お前」

 彼が眉間に皺を寄せて言うと、女は無表情を全く崩すことなく、淡々と言葉の続きを述べた。

「私には、貴方の気持ちがよく分かります。自分が気に入らないものを、この世から全てなくしたい……綺麗に『掃除』された素晴らしい世界で暮らしたい。私も、常日頃から同じことを考えてきました。つまり、貴方と私は同じ人種なのです」

 いきなり近付いてきて訊いてもいないことを勝手に喋り出す女のことは不気味だと思ったが、彼は彼女の言葉を大人しく聞いていた。

 聞き逃せない言葉があったのだ。

 自分が気に入らないものを、この世から全てなくしたい。

 それは、まさに、自分が日頃から胸中に抱いてきた願望。

 それと全く同じ気持ちを、この女は持っているのだという。

 女の言葉は続いた。

「貴方には、権利があります。私が現在暮らしている『街』で住民として暮らすことができる、権利です。私が貴方を招待して『街』の住民たちがそれを認めれば、貴方も晴れて私たちの仲間となれるのです。無理にとは言いませんが、如何でしょうか。全ての『嫌い』が排除された、貴方にとっての理想郷とも呼べる世界で、共に暮らしませんか」


 それは、夢のような誘いであった。

 自分にとっての嫌なものが一切存在しない世界。あれを見て嫌だと腹を立てることも、これを見て憂鬱だと落ち込むこともなくなるのだ。

 本当にそんな嘘のような世界が存在しているのか。

 半信半疑ではあったが──

 彼は、頷いていた。


「まるで狐に化かされてるみたいな話だけど……いいぞ、乗ってやるよ。その話。是非とも連れてってくれよ、あんたが言うその『街』とやらに」

「分かりました。では、正式に貴方を私たちの『街』へと御招待します」

 女は彼に自分の後に付いて来るように言うと、通りの人混みの間を縫うように何処かへと向かって歩いていく。

 彼は置いて行かれまいと必死になってその後を追いかけた。

 そのまま十分ほど通りを進んだ後、女はある場所で立ち止まる。

「この道が『街』へと繋がっています」

 そう言って指差したのは、古びたビルの間にある細い道。

 薄暗く、道にはゴミが落ちている。野良猫が好んで身を潜めていそうな、人一人がようやく通れるかといったくらいの幅しかない道だ。

 彼女は彼の反応も待たずに、その細道へと入っていく。

 この道が『街』に繋がってる道だって? どう見ても単なる抜け道じゃんか。

 こんな場所なんか、通ったってビルの反対側に出るだけだろうに……

 訝りつつも、此処まで付いて来て今更女の姿を見失うわけにはいかないと、慌てて細道へと足を踏み入れる。

 何だか奇妙な臭いがする暗い道。そこを通り抜けて、日が差している広い通りへと出る。


 そこに広がっている光景を見て、彼は言葉を失い目を丸くした。


 そこは、普段から見慣れている地元の風景ではなかった。

 通りに沿って並んでいるのは、綺麗に外観が整えられた家。焦げ茶の屋根に、クリーム色の壁の、明らかに民家と分かる一軒家だ。それもひとつではない、何軒も何軒も全く同じ形のものが、隙間なくブロックのように並んでいる。

 道路に電柱は一本もなく、電線が全く存在していない景色。道幅は広く、黒、緑、赤と三色に塗り分けられていてカラフルだ。

 女は、道路の端の方に立って彼のことを待っていた。

「ようこそ、私たちの『街』へ。これから貴方の移住手続きをするために、役所の方へと御案内します」

「凄いな……此処、住宅街なのか? こんなに綺麗に同じ家が並んでる光景って初めて見たぞ」

「この『街』は、主に居住地区と商業地区に分かれています。商業地区以外の場所では、店を営業することが許されていないのです。此処は居住地区なので、民家以外の建物はありません。ですから、同じ外観の建物しかないのです」

「へぇ……景観維持のためとか、そんな理由でもあるのか? 確かに同じ建物しかないと綺麗に揃うから、見ていて気分がいいよな」

「気に入られたようでしたら何よりです。……では、参りましょう」

 女は道の端を、赤く塗装された場所に沿うようにして歩き出した。

 ああ、道路が色分けされてるのは車道と歩道が分かるようにしているのか。そんなことを独りごちながら、彼も真似をして同じ場所を辿るように付いて行く。

 途中、何人かの住民と思わしき人間とすれ違った。

 車道を挟んで反対側の歩道を反対方向に向かって歩いていくその者たちは、皆黒いビジネススーツを着ていた。女が着ているものと大差はないが、彼らは男なので袖や裾の作りが若干違う。

 きっちりと短く散髪されて整えられた髪に、きりっと引き締まった、しかし表情がなく何処か無愛想さを感じる面持ち……何処かの大手企業に勤めるサラリーマンか何かなのだろうか。時間的にサラリーマンがこんな何もない場所を鞄も持たずに歩いているのは奇妙に感じたが、そういうこともあるものなのかもしれないと、彼はその時は男たちの存在をそう深く気には留めなかった。

 やがて、人通りの多い賑やかな場所に出た。

「此処から商業地区です。役所はすぐそこにあります」

 女はそれだけ説明を述べて、さっさと先に進んでいく。

 商業地区は道幅が広い分、歩道は車道よりも一段高い煉瓦の道で構成されていた。

 煉瓦の道を、大勢の老若男女が往来していく。

 その姿を目にして──彼は、絶句する。


 道行く人々、その全てが。

 全く同じビジネススーツを身に纏い、全く同じ髪型、全く同じ顔をしていたのだ。

 年齢によって肌のたるみや白髪の混じり具合など若干の差はあるが、基本の形は変わらない。目も、鼻も、口の形も同じなのだ。

 男は先程の通りですれ違ったのと同じ、きちっと整えられた短い髪型のエリートサラリーマン風の容姿をしており。

 女は、現在彼を案内している者と全く瓜二つの姿をしていた。


「……な、何だこれ! 全員同じ顔って、何なんだよこの街!」

 慌てて走って女の隣に並び、問いかける。

 彼女は表情ひとつ動かさずに彼の方を向くと、当たり前のように答えた。

「私たちの『街』は、不快な存在を徹底的に排除するために様々な工夫をしています。容姿の統一化もその数ある政策のうちのひとつなのです。男女ごとに『理想とする容姿』を定めており、それ以外の容姿を持つことは原則として認められていません。住民は満三歳になると整形処置を受け、『街』の規定に沿った容姿を保つことを義務付けられるのです」

「……それって、流石にやり過ぎじゃないのか? 顔の形まで決められるってのは……同じ顔しかいないって、そんなの量産型のロボットと同じじゃんか」

「様々な容姿が存在すると、そこから容姿に対する好みの差が発生して、それが果てには嫌悪感や不快感を呼び起こす材料となってしまうではありませんか。それを防ぐために容姿を規定で定めているのですよ。奇妙なことを仰いますね。嫌いなものを徹底的に排除したいとお考えの貴方でしたら、この政策には何も疑問を感じることなどないと私は思ったのですが」

 これが当たり前なんだ、とでも言わんばかりに、それ以上は何も言うことなく彼女は前を向いた。

 何だよこの街、明らかに普通じゃない……

 彼はそう思ったが、それでも彼女に役所へと案内されることを途中で拒否はしなかった。


 その時点でやっぱり帰ると元の場所に帰っていれば、彼の未来は今とは違ったものになっていたのかもしれない。


 彼にとって奇妙だと思える点は、それだけではなかった。

 例えば、食材を販売する店。あるのは八百屋や精肉店、魚屋など、いわゆる『専門店』ばかりで、スーパーのような色々な品物を販売している店は全く存在していなかった。

 曰く、スーパーは複数のジャンルの食材を纏めて大量に扱うから粗悪品の数も大量に発生してしまい、それが無駄になって良くないからと撤廃されてしまったのだそうだ。

 例えば、書店。扱っているのは学問の参考書や辞書、図鑑のようなものだけで、一般大衆向けの雑誌や小説、漫画にカテゴリされるような本は売られていなかった。

 曰く、『街』の政策の一環で独自の思想を持つことは禁じられているらしく、漫画や小説のような作者独自の空想や思想を描いた作品は悪書として認定されているのだそうだ。これらの本を所有することは無論のこと、例えそれがノートの端に書くような走り書きのようなものでも書くことは禁じられているとのことだった。

 例えば、飲食店。提供されているのはどの店も全く同じ料理で、しかも一品だけしかなかった。店の内装も、価格設定も何処も同じだった。

 曰く、メニューの多様化や価格競争は消費者に少なくないストレスを与えるとかで、『街』が栄養面等を考慮して定められた料理以外は提供することを禁止されているのだそうだ。自宅で自炊する分にはどんな料理を作ろうが咎められることはないが、店の商品として販売する時は消費者側が一切の不快感を感じないように提供するサービスを一律にするように定めているらしい。


 確かに、これはある意味理想の世界の姿なのだろう。

 自分にとっての『嫌い』を徹底的に排除した、皆が平等、皆が同じ世界。

 姿も、考えも、何もかもが同じ。与えられる選択肢も同じ。選ぶという行為が存在しない、一本道の人生。

 自分が常日頃から考えていた理想を体現したら、きっとこうなる。この『街』は、それを一足早く誰よりも先に実現化させただけにすぎない。

 理想郷、なのだ。此処は。


 でも……


 考えている間に、役所に到着した。

 煉瓦造りの大きなビル。その一階に設けられた受付の一角で、彼は椅子に座らされ、一枚の書類を目の前に提示されていた。

 それには『移住認定書』と大きな文字で書かれていた。その下には名前や性別、年齢、現在の住所を書く欄と、小さな文字でこういう書類にはお決まりとも言える宣誓文のようなものが書かれていた。

 移住が認められ此処の住民として認定されたら、街の規則には従う。政策には反対しない。自分はそれに同意して生涯それを守りますといった内容のことがつらつらと記されている。

 この書類にサインをすれば、自分は正式にこの『街』の住民として迎え入れられる。

 その代わり、『街』の規則には従わなければならなくなる。

 同じ髪型、同じ顔になることを強制され、好きな漫画やライトノベルを読むことが一生できなくなる。宣誓文の一部にはインターネットに接続できる環境を持つことも禁止する的な内容のことも書かれていたから、おそらくパソコンやスマートフォンを持つことも許されなくなるだろう。それらを所持しているだけで犯罪者扱いされてしまうのだ。

 嫌いなものは、確かに此処には存在しない。目にすることもない。だが、娯楽となるようなものも一切ない。

 それは、本当に、自分にとっての理想郷、なのだろうか?


 いや。

 人間、生きるために娯楽は必要だ。何もなくただ仕事だけして生きていくだけなんてつまらない人生なんて、送りたくはない。

 漫画やパソコンを持つことが政策で禁じられていても、それはあくまで表向きのものだ。陰で周囲にばれないように人目を忍んで何かしらやっている住民だって少なからずいるはず。

 日本の法律で飲酒は二十歳になるまで禁じられているが、親の酒をこっそり盗んで飲んだりしている子供だっている。要はそれと同じことなのである。

 バレなければいいのだ、バレなければ。

 インターネットの環境を整えることができないから、パソコンを持つことは流石に無理だろう。だがスマートフォンならば、人前に出さなければ隠し持つことはできる。漫画だってこの街の書店には売られていなくても、街の外にある書店でならば普通に手に入る。中身が見えないように鞄に入れて隠せば、外の街の店で買ってきたことはバレない。

 容姿に関しては、自分が気にしさえしなければそれで済む問題だ。整形にかかる費用は『街』が全額負担してくれると言っているのだから、自分が損をすることはない。

 大丈夫だ。自分は此処で立派に生きていける。上手くやれる。

 ネットの中で幾つもの顔と名前を使い分けて今まで上手く生きてこれたように、この『街』でもやっていけるはずだ。

 何も心配はいらない。此処でこれから、自分は新しい人生を送るんだ……!


 彼は意を決して書類にサインをした。


 書類を受け取った役所の女性が、内容を確認して深く頷いた。

「確かに、書類を受理しました。これで貴方は正式なこの『街』の住民として認定されました。おめでとうございます」

 その言葉を合図に、何処からか役所の役員と思わしき男性たちが数人やって来た。

 彼らは彼を取り囲むと、席を立つように促した。

 早速新住民に対する説明会でも開かれるのかと、その言葉に従って席を立つと。

 彼は役員たちに両腕を掴まれて、引き摺られるようにその場から強引に何処か別の場所へと連れて行かれてしまった。

「な、何だよ! 痛いって! 離せよ! 一体何処に連れて行く気だよ!」

「貴方は、他所の土地から来た『移民』です。この『街』の住民として相応しい姿になるために、処置を施さなければなりません」

 彼を無理矢理連行しながら、役員の一人が前を向いたまま説明する。

「これより、貴方には手術を受けて頂きます。貴方がこの『街』の住民として暮らしていくためには必要な処置なのです。御了承下さい」

「そんなの、説明されたから知ってるよ! 顔を整形するんだろ! 今更逃げたりしないっての!」

「それも無論ありますが、そちらの処置よりも先に、貴方には道徳矯正手術を受けて頂かなければなりません」

「……は?」

 道徳を矯正する。

 それって一体どういうことだと訝っていると、その明確な答えを役員は述べた。

「現在の貴方の脳は、他所の土地で長年暮らしてきたことによって不要な欲や感情で汚染されている状態なのです。手術によって貴方の脳を切開し、その汚染物を完全に洗浄し、除去します。その後新たにこの『街』によって作られた正しい道徳を移植して、この『街』の住民が持つに相応しい状態に仕上げます。それが道徳矯正手術です。御安心下さい、痛みは全くありませんし、二時間ほどで処置は済みますので」

「……ちょ、ちょっと待ってくれよ。脳味噌を、弄るって、何言ってるんだよ。あんたら、それって幾ら何でもおかしくないか。此処は日本なんだぞ、そんな洗脳紛いのことをするなんて堂々と言っていいのかよ」

「この『街』の住民は全員この処置を受けております。れっきとした法の上で行われていることですし、これは『街』が定めた規則なのですから、住民の貴方には従って頂かなければ困ります。拒否すれば貴方は一級政治犯として逮捕され、明日には有無を言わさず処刑場送りですよ? 流石にそれは嫌でしょう。この『街』の政策は素晴らしいと、貴方、絶賛していたではありませんか」

「そんなことなんて言った覚えないぞ! 離せよ、こらっ!」

 一体誰がそんなデタラメなことを言ったのか──ひょっとして、自分を此処に案内してきたあの女だろうか? 街の景観が綺麗だと褒めたことをあいつは聞いていたわけだし。それを曲解されておかしな風に解釈されてしまったのだとしても何ら不思議ではない。

 とにかく、脳味噌を弄られて洗脳されてしまうのなんて御免だった。早く此処から逃げなくては。

 しかし数人がかりで押さえ込まれた体は、どんなに暴れようがびくともしなかった。

 役所を出た彼は、そのまま玄関口の前に停車していた黒い車の中に強引に押し込まれてしまった。

「離せ! 離してくれよ! 助けて、誰かっ……!」

 ばたん、とドアが閉まる。

 そのまま彼と役員の男たちを乗せた車は走り出し、大通りの向こうへと、姿を消した。



 その後、彼がどうなったのか。それを知る者は存在しない。

 だって、顔も服装も考え方も同じ、いわゆる量産型のロボットのような人間の群れの中から特定の人物を探し出す方法なんてものは、ありはしないのだから。

 此処にいる限り、誰からも攻撃されることはない。

 此処にいる限り、誰からも否定されることはない。

 何故なら、それは。

 その行為は、他ならぬ自分自身を咎めることと同じなのだから。

 自分で自分を責めるなんて、何とナンセンスな考えなのだろう?


 自分にとっての『嫌い』が一切存在しない世界。

 もしも、この世に自分以外の人間がいなくなったら、きっとそこは自分の好きなものしか存在しない世界になる。

 ああ、何て、それは。


 素晴らしき、世界なのだろう?

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