大人デートのはじめかた
フカイ
掌編(読み切り)
ゆったりとした夜の密度が増して、上着を脱いで歩きたくなる時分の頃。
彼と彼女は上等な板張りのカウンターに肩を寄せ合い、板前の手さばきを見つめている。
銅色の鍋のなかで、金色のごま油。ぼってりとした衣をつけた野菜や魚が、油のなかにそっと落とされては、はぜる、泳ぐ。
鉄の菜箸がつまんだそれらを、カウンター越しに、和紙の敷かれた取り皿に並べてゆく。
天ぷらの衣では、まだすこしだけ、シュウシュウと油が泡立っている。
そこに塩をふりかけ。そっと、口へはこぶ。
キスはほっこり甘く。
タケノコはみずみずしく。
ほろ苦い菜の花と、香ばしいアスパラ。
ナスのぼってりと、蓮根のしゃっきり。
互いの家族の話をして。子どもの様子。仕事のこと。
通りいっぺんの当たり障りのない話題も、心躍る天ぷらと一緒にいつしか伏せ目がちな打ち明け話へ。
壁にはやまぶきの生け花。
寡黙な板前と、華やかな香りの酒。
何年ぶりだろう、と彼は思い、さてどうしたものかと彼女は思う。
互いが隠すのは、小さな胸の高まり、期待のざわめき。
何杯目かの酒を、目配せで乾杯。小首を傾げて飲み干して。
互いの気持ちを探りあいながら、上手に会話を運んで。
知られたい、知られたくない。
もどかしくも、くすぐったい、不思議な時めき。
コースがしまいまで出尽くして、知らぬ間に
勘定して暖簾をくぐれば、二一時の東京日本橋は、
もう一軒、と誘えば、きっとついてくる。
でももう一杯酒を重ねれば、きっと色々なことにがまんが出来なくなる。
もどかしくも、くすぐったい、不思議な気持ち。
五月の夜は、既婚者のふたりにはまことに心苦しい、あまやかな風を運んで。
恋に臆病になるのは、思春期だけではないのだと、思い返した一瞬。
どちらかの手が、どちらの指先に触れれば。
きっとどこまでも歩いてしまえそう。
罪の手前の、大人デートのはじめかた。
大人デートのはじめかた フカイ @fukai
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