雨天録

馬田ふらい

第1話 台風

 近ごろあまりにも平然と日々を過ごしすぎており、ただでさえ忘れっぽい自分だから本当に心に留めておくべきことまでもつい忘れてしまいそうになるので、書く次第である。


 四国や近畿で猛威を振るった台風21号。第二室戸台風規模らしいが、その時代を自分は知らないのでなんとも言えない。しかしあれほどまでにが豹変するとは、誰が思っただろう。


 9月4日。

 前日から臨時休校の案内は出ていたが、事前予報が嘘のように、朝方はまだ青空に強い日差しが刺さっていた。今にして思えば嵐の前の静けさだったのだろう。しかし当時はまるで休校の喜び半分文化祭準備の滞りに気を揉むのが半分で、直後の惨事など予想するはずもなかったのである。

 轟々と風が鳴り始めたのは昼過ぎであった。大きな窓はシャッターを閉じ、小さい窓はカーテンを閉め、極力窓から離れる。物が飛んできて割れると危険だからである。それでもやはり気になって窓外の景色を見やると、いつのまにか空は重い鉛色に変わっており塵芥が空中を舞っていた。また白い筋が動くのも見えた。あまりに風が強いので雨粒が線状に集まり、そこだけ白く見えるのだ。風の勢いはますます強くなり、しまいには近所の家の壁を吹き飛ばされ、赤い鉄骨が顕になるほどであった。


 ほかの地域はさらにひどく、その様子はテレビで流れる衝撃映像が物語っている。


 自分の住む地域にも影響はままあったが、幸い停電などのインフラの障害は起こらなかった。友人たちは大変だったようだ。特にマンション住まいのは、電気で水を汲み上げているものだから停電と同時に断水も発生し、復旧までの3日間まともにトイレも使えなかったらしい。その彼はアイドルオタクであったので、夜はサイリウムを明かりにして過ごしたという。いざというとき何が役立つかわからない。


 翌日、通学の電車が運転を見合わせていたので、この日も休校になった。

 思いたって公園に行くと、入り口になんとなく緑が多い気がした。倒木だった。その台風の威力たるや、樹々をめくり上げ、重い図体ずうたいを根本から横倒しにしたほどだったのだ。丸裸になった根っこにはそこに纏った土に加え、コーラ瓶のキャップとか、ストローなんかが混じっている。こういうのが何本もある。倒木の根本周辺は土がぷうんと匂い、蠅がたかっている。かと思うと、枝葉の方になると青果店のような瑞々しい香りが漂っていた。これは、倒木だったり風に吹き飛ばされたりした未熟な楕円体型の果実が踏まれたり啄ばまれたりして放つ芳香と思われる。辛うじて持ちこたえた樹にしても、木肌の苔た部分は大抵風に吹き剥がされていたから、多くの幹が斑ら模様になっていた。ともかく、酷かった。

 これでも公園の人が深夜奮闘したらしく、とりあえず生活に必要な通路は確保されていた。しかし今なお通行止めにされている箇所も多い。自分は授業が早く終わるテスト帰りなんかには公園の池のほとりにあるベンチに座って、木漏れ日に包まれながら鷺や鴨を眺めることも多かった。その池もまだ入れない。


 変貌した通路を注意深く歩いていると、はてここに樹が生えていたかとか、こんなに角度がついていたかとか、自分の記憶の曖昧さに気づく。更地になった場所や知らない間に出来たコンビニの土地なんかは、一旦変身してからだと、元の姿を思い出せないことがあるが、その感覚と似ていた。台風一過の悲惨な光景は、取り戻せなくなった原型は、今ここにものたちの不安定さを思い知らせ、そんな普段の自分の不注意さを責め立てた。


 通る人はみなため息を漏らす。裂けた樹の幹に。剥き出しの樹の根に。

 しかし、そんな中で雀やからすはそんなことは別段気にも留めないまま、網目状に大量に折り重なった木の枝の中に消えていく。元の姿を惜しんだり、悲しんだりせず、あまつさえ思い出そうとすらせず、現状のあるがままを受け入れて生活をする。小学生たちもそうだった。おおよそ、電車が止まって先生が来られないとかで休校になったのだろう、半袖Tシャツの元気な子たちはきゃっきゃと台風がくれた新しい遊び場を走り回る。失われたものに気を取られない、こういう強さがあれば、もう少し楽に暮らせるのだろうか。


 いや。もはや自分には、存在の不安定さた怯えながら生きていくほかないのである。だけど、その細やかな抵抗として、自分は、本当に心に留めておくべきついては、その存在を記すのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨天録 馬田ふらい @marghery

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ