光の中で
宮元早百合
光の中で
寺島は小説を書いていた。その小説には宮元早百合という登場人物がいたが、ある日強姦された挙げ句に死んでしまった。
宮元早百合に実在のモデルはいない。強いて言えばそれは寺島の中にある女性性の象徴だった。寺島は彼女をこれまでにいくつかの小説に登場させてきた。私小説の作者として登場させたこともあった。あるものは宮元が実在するならば友人になりたいと言ったこともあった。
はじめ、その小説の題は決まっていなかったので、仮に小説Aとしておく。小説Aにおける宮元の役割は初め大きなものではなかった。せいぜい主人公の大学の友人といったところで、主人公とは直接的な接点すらなかった。
寺島の作品はここ数作ほど好評つづきだった。寺島は前の小説を発表した日の晩、すぐに小説Aに取り掛かった。プロットはすぐに完成した。それは部活合宿の直前に恋人を殺してしまった大学生の物語だった。Aの主人公は合宿の間、つねに恋人の幻覚に悩まされ続け、合宿の終わりの晩に首を吊った。物語の最後に、実は主人公が恋人を殺していたことが明かされる作りになっている。
殺された恋人の友人の一人が宮元早百合だった。これまで寺島が小説の中で築いてきた宮元早百合の人物像は今作の悲劇のヒロインには似合わないように思われた。彼女は一言二言、主人公と会話を交わすだけでその出番を終えた。
寺島は数日後に飲み会の席で、次回作にも宮元早百合を登場させるつもりだと言った。寺島の予想以上に、あるいは予想通りにそれは好評をもって迎えられた。寺島はその飲み会で普段以上に飲み食いをして皿の上に嘔吐した。
帰宅して自分の小説を読み返すと、一連の悲劇は宮元早百合の一言がきっかけで始まったように思われた。寺島は既に書き終えた小説Aの終わりころに、主人公と宮元早百合が出会うシーンを書き足そうと考えた。
寺島が酔っ払うほど酒を飲んだのは初めてのことだった。彼は自分の部屋の薄い布団に転がって宮元早百合をどのように活躍させるか考えていた。そのとき寺島の部屋に朝日が差した。彼は小説Aの一行目に『光の中で』と書き足して眠りについた。
その日から寺島は小説が書けなくなった。そのかわり、飲み会で親しくなった友人をたびたび家に招いてはテレビゲームをしていた。その友人が初めて読んだ寺島の作品は、彼が宮元早百合を私小説の作者として登場させた小説だった。その小説の作者名こそ宮元早百合であった。だからその友人は宮元早百合を初め実在の人物と考えていた。
初めの一ヶ月ほどは友人も、新作に期待していることをたくさん言った。しかし寺島は小説が書けなくなっていたから返事は曖昧だった。だんだんと友人も惰性で寺島とゲームをするためだけに部屋に来るようになった。小説はほとんど忘れられようとしていた。
その間に寺島は酒に強くなった。次に飲み会があったとき、彼は同じ量を飲んでも顔色を変えなかった。話題も尽きた頃に彼は言葉少なながら、近日の怠惰を告白していた。
反応のほとんどは宮元に関するものだった。そこで寺島は改めて自分の小説世界における、宮元早百合の存在の大きさを認識したのだった。部屋に帰ると再び小説を書き始めた。
『光の中で』の物語は主人公と恋人の性行為から始まっていた。彼は恋人の名前を宮元早百合に置き換えた。
それは実際、単調で機械的な置き換えの作業だった。その果てに宮元早百合が殺されたとき、寺島は少し驚きさえした。彼は手を止めて小説をはじめから読み返した。恋人の友人であった頃の宮元早百合に関する記述があり、矛盾を残していた。寺島はそのくだりを削除した。
完成した『光の中で』を友人に見せると友人は不満な顔をした。寺島は宮元早百合が偶然死んでしまったことや、その経緯を面白そうに話して聞かせたが、期待していたほどの反応はなかった。友人はただ宮元早百合が死んだことに不満そうにしていた。寺島にとって大事な友人だったから、彼は小説を書き直すと約束した。
やはり死ぬのはもともといた恋人にしようと寺島は考えた。再び登場人物の名前を書き換えながら、宮元早百合の出番をもっと増やせないかと考えた。宮元早百合は主人公の愛を奪う役になった。そうすると殺人の動機も変わることになる。もともと寺島はもっと若者の微妙な感覚を根源とした殺意を描こうとしていた。しかし考えてみればそれは些細な問題であるように思われた。
書き換えはそのように進み、最後の場面になった。主人公が部屋を訪れた宮元早百合を殺すとき、彼女は大きく抵抗しなかった。死に際に彼女が何を考えていたのか、その表情や動作からおしはかることはできなかった。その姿が彼の目にありありと浮かんできた。彼はそれを書き換えることができなかった。読み返せば殺されるのが宮元早百合でも大きな矛盾はないように思われたが、少々唐突であるような印象は拭えなかった。
主人公と宮元早百合が隠れて会うようになってから、恋人はかえって頻繁に主人公の家に来るようになった。しかし彼はテレビゲームをして彼女との会話をかわすようにしていた。寺島はそう小説に書き足した。
ある日、彼が大学への道を歩いていると、通行人の女が彼を見て何かを言ったように見えた。それは錯覚に過ぎなかったが、確かに「よくも私を殺したわね」と言ったように寺島には思われたのだった。彼は走って女の横を通り過ぎた。寺島はそのことも小説に書き足した。
そういう日々があって、あるとき寺島は最後の場面をより凄惨にしたほうがいいのではないかと思って、小説を書き換えた。宮元早百合は残酷な暴力を受けて死んだ。そのとき彼女は涙を流した。彼はもっと酷く彼女を傷つけようと思っていたが、その涙を見て手が止まったのだった。
とつぜん寺島にはこのまま主人公が死んでしまうことは何か恥ずかしいことであるように思われたのだった。主人公の首吊りの場面は死んだかどうか曖昧になるようにしていたから、じつは生きていたことにしても問題はなかった。寺島は最後に場面を書き足すことにした。主人公は死ぬことをやめた。奇跡的に、逮捕される直前に彼は宮元早百合の葬式に出ることができた。彼は前の人の真似をして焼香をあげた。葬式が終わろうとするとき、彼は部屋の出口のまえに立って「すみません」と声を上げた。
「彼女を殺したのは僕です」彼は言った。親戚たちが彼の方を向いた。
「僕はこの小説の作者です」と彼は続けて言った。親戚たちの表情はわからなかった。彼らは何をするでもなくただ彼の方を向いていた。彼は部屋を出てトイレに入った。
蛍光灯の光が緑色のタイルの壁に反射していた。薄暗いトイレで彼は顔を洗った。
寺島がトイレで顔を洗っていると、鏡のすみの暗がりに宮元早百合の顔が浮かんでいた。
それは儚く、今にも消えそうだった。彼が振り返る間にも消えてしまいそうだったから、彼はどうすることもできずにただそれを見ていた。
いいんだ、と口を動かして宮元早百合は消えた。寺島はその言葉の意味を考えていた。
光の中で 宮元早百合 @salilymiya
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