夏へ乞う

苗床

行きましょうか。


生暖かい夏だった。


暑くも寒くもない、出会いはどんより鈍い空の下。

花壇の陰で泣いていた僕は彼に声を掛けられた。


泣いていた理由は忘れてしまった。忘れてしまうくらいにきっと大したことでは無かったのだろう。


代わりに覚えているのはぽたぽた僕の目から降る雨が地面の土色より一回り濃く染みていったこと。その様子を見つめていたらまた悲しくなってしまって涙が止まらなくなってしまったことだ。


泣き止もうとしても涙は流れる。

その事実は時間が経つにつれ、何故か酷く僕を気持ち良くさせた。

こうなると、水分を吐き出すことが、この心の痛みこそが僕の本来の生きる意味だったのではないかとさえ思えてしまう。ああ、きっとそうだ。


そうだそうだと夢中で悲痛を貪り続けてどれ程経った頃だったか。

いつからそこにいたのか、僕の隣に彼はしゃがみこんでいた。


「夏は君を生かしたのに、君の涙は蟻を殺してしまうよ。」


初めてかけられたのは、確かそんな風な言葉だったと思う。

彼が首を傾げる様にして僕の顔を覗き込んできたのに僕の体は驚きのあまり固まってしまい、それなのにどくどくと内側の鼓動だけが煩かった。


ふーっと息をついてから落ち着いてもう一回。ゆっくり彼を見回した。

背丈はそれ程僕と変わらず、着ている服もありふれたものだ。

けれども彼には僕と決定的に違う所がある。それを表す言葉を僕は未だに持たない。

例えば、彼の濃い黒髪がやけに軽く滑らかで、夕空の橙に美しく透けていること。

見る度に気の滅入る僕の黒とはまるで違う。

瞬きをすればきっと消えてしまう。そう思わせるような危うい儚さが彼にはあった。


暫く黙って眺められていた彼だったが、飽きたのか今度は僕の方に身を乗り出してきた。

指の腹で自分の目尻を拭う仕草をしながら彼は口を開く。

「そんなに泣いたら乾いてしまうから。」

「あ、え。」

すっかり彼に気を取られて忘れていたが、まだ僕の涙は止まっていなかったのだ。

途端に僕の汚い嗚咽が耳について、この空気を邪魔しているように感じてしまう。


どうしようもない、胸の痛みの再来した僕の両肩を彼はがしりと掴んできた。

「痛いよ。」

細い指からは考えられない程の力が肩に食い込む。


君は呟いた。


「青い、まだ青い日だ。」

「そうだね。」

真面目な口調で発された、彩度の低いその言葉がやけにすとんと嵌ったもので、僕の耳はたちまち彼の言葉に覆われた。

僕に対してというより彼自身に言い聞かせているように聞こえたそれに、本当は何と返すのが正解だったのか。

考える間もなく誘われる。


「どうせなら夏に行こう。」

額を突き合わせそう囁いた彼は何を思ったのかべっ、と出した舌で僕の流す澱みを拭った。

気持ち悪さはない。

「温かいねえ。」

そう、ちろちろと拙く頬を撫でる洗練はけれども何より僕を清めるのだった。


彼と知り合ってもう十年余。

二人の夏と言えば、今でも出会ったあの日ばかりが鮮明に思い出される。



今日こんにちまで時は流れた。

凡庸な僕はこの年月で果たして、少しでも彼を理解することが出来たのか。


僕らは今、あの日とそっくりに背の高い緑に隠されていた。

ここはとうもろこしの畑だ。茂った葉を掻き分けて目的の地を目指す。

「遠いなあ。」

「そりゃあね。」

うだるような暑さの中、体力の限界が近付くにつれて口数も減っていく。

土と草の匂いに僕らの汗が混じってぽたぽたと痕跡を作っても、ただ黙々と歩き続けた。


そして足の感覚も曖昧になってきた頃、前触れもなく視界は唐突に開けた。


びゅうびゅうと吹き付ける向かい風。ついにこの畑を抜けたのだ。挑むように顔を上げると、目の前の光景に思わず吐息を漏らした。


「ああ...」


原始の青が果てなく広がっていた。

だばだば溢れるその鮮烈さは細胞を突き刺し、記憶の夏を一気に書き換えていく。

濃い、濃い。

まるでこの世の全ての熱、風土草の匂いや青色を集結させた様だった。

僕らなんかよりよっぽど生を感じさせる余りに鮮やかなその光景に、例えば今ここから出て世界が灰色になっていたとしても納得してしまうだろうと思った。


五感が過呼吸になる程の受け止めきれないこの衝撃を彼も感じてくれているだろうか。

横を向いてみると、そこには目を見開いて広がる光景を静かに見つめる彼がいた。

濡れた頬がやけに印象的だった。


僕の視線に気付いた彼は照れ臭そうに笑う。

こんな顔も出来るのだと初めて知った。けれどそこで何の会話が生まれる訳でも無い。たとえ話しかけた所でこの風では到底聞こえないだろうが、とにかく僕らの間にもう言葉は要らなかった。


彼に手を引かれて青の中へ降りて行けば、ひやりと足先から冷たい水が染み込む。

僕からあの日流れた涙はこうして還ってきたのだった。



腰まで水に浸かった僕らは、両腕を痛くなるほど大きく広げて空を仰ぐ。



何に代えてもこの夏が欲しいのだ。

どうか、僕と彼を受け入れてくれ。


呼吸も忘れてしまう程に強く強く願った。



正に、夏へ乞う。







突然、ぐるぐると旋風が巻き起こった。

それは僕らを中心として、まるで願いを聞き届けたとばかりに。


やがて訪れるのは閉塞。

花は蕾に環ったように花弁を畳んでいく。




熟れた夏に沈め。群青の泥を纏え。天へ圏を閉じろ。

さあ、さあ、さあ、さあ、さあ。







どぷり。


「ああ、夏に来た。」

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夏へ乞う 苗床 @vena

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