花の魔女はかく語りき

コトリノことり(旧こやま ことり)

花の魔女はかく語りき


私はたったいま、この手があたたかい、大切なものを包んでいることに幸福を感じていました。

私たちは孤児でした。自分の足で歩けるようになるくらいまでは、孤児院にいたはずですが、いまとなってはその孤児院のことは名前も覚えておりませんし、他にどんな子がいたかも覚えておりません。この先もきっと思い出すこともないでしょう。もし私がこのまま何事もなく今いる場所にいたら仕事のために訪れることはあるかもしれませんが、それが私がいた孤児院だと気づくことはできないでしょう。それよりも私の一番小さい頃の記憶、もっとも古い記憶は鞭で手を叩かれた時です。これは分解された銃を元通りに組み立て直すという練習で他の子たちよりも完成が遅れたために、当時の教官から罰を受けた時のことです。もしも次も最後だったなら、最初に銃を完成した子が私の胸を撃つことになるでしょう、と指導をうけたことを覚えております。私はまだまだ小さく、他の子たちも似たり寄ったりといえども自分の手にあまるほどの銃をうまく扱えなくてとても苦労していました。ですが、手に受けた鞭の痛みは鋭く、また白い肌に赤々とその跡を残していて、今だにその手を思い浮かべる度に痛みを思い出せるほどです。銃弾を胸に受けるということはきっとそれよりも痛いだろうと思い、次の練習の際には必死に取り組みました。銃弾を受けることも鞭で打たれることも嫌だったため、どうしても最下位にはなりたくありませんでしたので、一番優秀だった子の朝食に、気づかれぬように一等汚れた便器の水をいれておきました。その甲斐もありまして、その子は調子を崩して最下位になり、私は無事に一番早く銃を完成できました。一番になれたのなら愚策を行わなくてもよかったのかもしれませんが、念には念を入れること、下準備をしておくことはそこではとても大切な教えとしておりましたし、その子がお腹の調子を悪くしたのも朝食の味や匂いの異変に気づかないほうが愚かなことであり、切り捨てられるべき存在なのです。匂いに気付きにくするように、彼女が歩いている時に水をかけて、風邪気味になるように下準備もしておりましたが。あの頃はとてもとても寒い時期だたので、宿舎まで水に濡れた服で歩くことは小さい体もありとても大変だったことでしょう。ですがもちろん自分の体を整えることもそこでは大切なことのひとつでしたし、やはり下準備をしておいた私のほうがそこの理念に乗っ取っているのです。手先が器用なことを教官がたからよく褒められていた子でしたが、そんなことよりもいついかなる時も油断せず、自分の勝利を盤石にすべきだということを見抜けなかったその子は結局そこにはふさわしい存在ではなかったのです。もちろん教官たちは私が労した子策を見抜いていたことでしょう。ですが、そこにおいてふさわしい理念を体現したのは私のほうです。その子がどうなったかというと、誰よりも早く銃を完成させ手元に握っていた私に教官が頷いたので、その子に向かって撃ちました。ただやはり小さな体ですので、狙いはうまくいかず首の横をえぐり抜く形になりました。そのため彼女はすぐには死なず、ひゅーひゅーとか細い息とだらだらと血を流しながらしばらく地に伏していました。他の子たちと一緒にわたしたちはその子が死ぬのを待っていました。すぐにとどめをさすこともできたのですが、生きて苦しんでいる状態から確実に死んだ状態に変わりゆくさまを見届けることもこの先に役立つこととなる、と教官たちの言葉で、ただ無言でその子を囲んで待っていました。ひたすらに、その子の死にいたるまでの道を。だってそのあとの片付けも私たちの仕事、いえ、仕事の練習なのです。私たちはその練習のためにも彼女の死を見届けていました。その子の最後の顔がどんな風だったかは、まるで覚えていませんけれども。

それからの記憶は、そう、物心がちゃんとできてから過ごしていた日々の記憶を形作るものは、全て彼女のものと言ってもいいでしょう。彼女の名前はスズラン。私の一番の友であり、理解者であり、そして所属する組織に絶対の忠誠を誓わなければいけない立場の私が、この世界で最も優先すべき彼女。

私の容貌はよくおとぎ話の妖精のようと揶揄されていました。淡い金髪はゆるく波打ち、目は翡翠の色をして、陽を一度も浴びたことのないほどの肌の白さと肉付きの少ない体型のためです。黒髪や茶色い目が多い中で私は確かに浮いておりましたし、私が自分で言うのも恥ずかしい限りですが、他者から見て容姿の美しさと愛らしさという理由もあったのでしょう。隔絶されたその組織においても、世間の教養を知るためにそうした童謡のような絵本も読む機会はありました。だから他の子たちは私のことをいつもフェアリー、と呼んでいました。私に与えられた名前ではなく。

ですが彼女は、スズランは違いました。スズランだけはいつもキキョウ、と私に与えられた名前を呼んでくれました。スズランはわたしとは全く違い、日に照らしても闇のような黒髪に、その髪の黒さに似たこげ茶の瞳を持っていました。けれど陰鬱かというと全く違い、彼女はいつも髪を一本にまとめ、快活に笑っていました。彼女は私の髪をお日様みたい、と言ってくれたことがありましたが、いいえそんなことはありません。スズランのほうがよほど太陽のような女性でした。それは私自身の特別の思いだけではなく、他の子に聞いても同じでしょう。

スズランは訓練や既に卒業している先輩がたの仕事の補佐についているとき以外は、常に笑っているような子でした。声にはひとつもかげりがなく、むしろその声は影すらもおびえて消えるように透き通っていました。ある意味で彼女も浮いていました。明るい場所とは決して言えないその組織において、彼女はそれこそ太陽のように明るかったのですから。

ですが、その明るさは他の子たちからも好ましく思えたのでしょう。いつも彼女の周りには人がいました。寒々しく、一つ何かを間違ったら二度と帰ってこれない暗闇に落ちることになる、暗雲に閉ざされた薄氷の上に暮らすような私たちにとって、スズランは太陽のようにあたたかい存在に感じ、そのぬくもりを求めて彼女の周りにいたのです。それ以外によすがのない子供たちのことですから、それは仕方のないことといえるでしょう。だって、私を含めて他の子たちも、世間では家族と呼ばれるぬくもりの記憶をひとつも持っていなかったのですから。

スズランも含め、私たちはほぼ孤児でした。特に親にすぐに捨てられ、頼りとなる記憶を持たない子たちでした。そういう子たちをその場所では集めていたのです。帰る場所がなく、生きていくためにその場所に、組織にいるしかないように囲う為です。私たちは自分の詳細な年も、誕生日も、本当の名前も知らなかったのです。名前はすべて組織が与えたもの。いわゆるコードネームでした。たいていは何かの花になぞらえてつけられていました。そのためなのか、先にそうだったのかはしりませんが、私たちを指導する教官たちは、私たちのことを総称して「花」とも呼んでいました。

さて、私たち「花」は大体十五歳と思われる年までは女だけで集められ、訓練されてきました。銃器はもちろん、刃物、剣術、体術、諜報術、房術、また毒の知識や、他の武器の使い方まで。特に念入りに行われていたのは自死するための訓練だったでしょうか。もちろん実際に自死をするわけではありませんが、何かあった時に即座に死ねるように、また生に執着せず組織のために死ぬことを選べるように、叩き込まれました。もちろんすぐにそれを受け入れることができない子たちもいましたが、教官たちは何度も誰かが拷問される映像を見せてきました。爪をはぎ取ったり、ペンチで歯をぬいたり、切り付けた傷に火を押し当てたり、重いハンマーで手をつぶされたり、性器の一部を切り取ったり、逆に刃がついた異物を押し込まれたり、まだまだこれは軽い部類ですが、そうした映像を見せてこの拷問を受けるような立場になる前に自死しろと教え込まれました。拷問を受けて絶対に秘密を守れるようなものなど少数であることも、私たちは拷問されるその人たちの映像で学ばされました。軽い痛みで裏切るものは生きたいがために行いますが、たいていは拷問の苦しさから逃げるために、死にたいがために結局は裏切るのです。だから、そんな立場になる前に死ななくてはならないのです。私たち花は、常に死と隣り合わせでした。

とはいっても、その頃はまだ外にでることもありませんので、死ぬとしたら訓練に失敗したり、切り捨てられる時です。耐えきれなくて自ら死を選ぶ子もいましたが。そういう子は遅かれ早かれ外に出たら死ぬのですから、賢明な判断と言えるでしょう。もちろん、その後始末は私たち花の仕事です。仕事というよりかは、実際に仕事をするときの練習ともいえるでしょう。全く、死体というものはなぜ死んだらああも重く、動かしずらいのでしょうか。それに慣れるまでには時間がかかりました。死体に対する忌避感よりも、力のない身で死体を動かすことのほうが億劫でした。まあ死体に対する恐れなど、そこで数年過ごした花たちは持っておりませんが。

そうした場所でしたので、決して過ごしやすい場所とは言えませんでした。肉体的にも精神的にも追い詰められるものです。かくいう私も、訓練が厳しい日は食事を食べることすら億劫なこともありました。けれども、私が自死することを選ぶでもなく、ただその訓練に、いつか卒業し本格的に花としての仕事をするための日々に耐えれたのは、全て隣にスズランがいたからでした。

スズラン。私がこの世界に存在するただ一つの理由。どれほど疲れても、刃物を持った十人相手に木刀一つで挑む訓練をしても、毒に耐性をつけるためにあえて致死量に達さない毒を飲んで体が動かない日も、スズランが「キキョウ」と声をかけてくれれば、私は一歩も動けないと思っていた体が軽くなったものです。

スズランはよく私にいつか外に出たらあんなことをしたいね、こんなことをしたいねと、話してくれました。それをするときはキキョウも一緒だよ、と笑ってくれました。私はスズランさえいれば何だっていいのですが、彼女が語る未来に私がいることが嬉しくて、いつも、そうだね、楽しみだね、と答えていました。

スズランを好ましく思う子たちは他にもいましたが、スズランと一番一緒にいるのは私でした。スズランも私を好ましく思ってくれていたからです。親友というんだよ、と彼女は言ってくれました。スズランは他の子たちには話さないちょっとした愚痴や些細な話を私にだけしてくれました。他の子たちとは違うという、その優越感に私は常に嬉しくなったものです。本当は他の子たちと話してほしくもありませんでしたが、スズランの快活さを私の我儘で閉じ込めるのも嫌でしたので、そんなときはじっと一人でその姿を眺めてました。スズラン以外の子とも交友はありましたが、私がスズランに執着といえるほどの感情を抱いていることはみんな知っていたので、特に深い関係になることもありませんでした。大体、いつ死ぬかわからないその子たちに深い情を持つことなど意味がないと思っていました。

ただ、もちろんスズランは違います。私はスズランを死なせたくはありませんでした。だから必死にどんな厳しい訓練も耐えました。スズランを守れるように。スズラン自身も優秀でしたので、私とスズランは同年代の中で上位の実力を持っていました。私は特に暗殺と尋問が得意でした。私は結局体格は成長しませんでしたので、小柄な自分でも扱える針と毒物を愛用していました。人間の体は経絡、ツボというものがあり、私の針はどんな身体であっても一瞬で私が狙うべき弱点を刺せます。全く痕を残さず殺すこともできますし、逆に身体を麻痺させて動けなくすることもできます。毒物も同じ理由で、私は薬学を学び、自分だけの毒物を作り出して、それを自由自在に扱うことができました。経口摂取はもちろん、匂いや、触れただけで効果が発揮できるものなど、様々です。もちろん効能は即死に至らせるもの、精神を狂わせるもの、身体の力が入らなくなるもの、多様にあります。これは教官たちにも大層評判がよく、訓練とは別に調合し、渡してました。卒業した先輩たちの仕事に使うのでしょう。

私ほど毒をうまく使えるものは同年代にはおりませんでした。そしてまたかつて妖精と呼ばれた容姿は、更に磨きがかかり、彫刻のような美しさを呈していました。人間離れしているといえばいいのでしょうか。子供にも、大人にも見える私の顔は周りから憧憬よりも畏怖の感情を持たせました。私の表情が豊かでないせいもあるのでしょうけど。それも相まって、私はフェアリーと呼ばれるよりも、魔女と呼ばれることが多くなりました。

もちろん、スズランだけは私のことを「キキョウ」と呼んでくれましたけれど。

さて、私が魔女と呼ばれるようになってから、十五歳となりました。もちろん本当の年齢ではないのですが、一緒に入った時期の子たちとまとめて十五歳として、それまでいた訓練所から別の場所に移ります。それまでの訓練所は人里離れたという表現がぴったりで、外はただただ高い木が生えているだけで、獣道すらないような場所でした。私たちはそこを出て、別の場所に移ります。

それはある意味、いわるゆ高校、といってもいいでしょう。同じく山の中にある、どこにいけば街にでるのかもわからないような場所にありましたが、教養として知っている高校に近いものです。全寮制の学校のような形をしておりました。授業も一般的な高校とやらが行う学問も学びますが、もちろんそれ以外に今までと同じ訓練も行われます。しかし制服というものが与えられ、クラスというものが分けられ、三年制になっておりました。

けれどそれまでいた場所と一番違うものは、そこは同じ立場の男もいたということです。

花は女だけで構成されています。なのでそれまで同年代の男子、というものを私たち花は知りませんでした。彼らは「鳥」と呼ばれる、同じく孤児であり組織に囲われ訓練を受けた男たちでした。

教官がたがいうには、外で仕事をする時に世間のことを何も知らないのは失敗に繋がる可能性があるということで、一般的な高校の真似事と異性と過ごす空間を作ってるということらしいです。確かに潜入調査を行うこともある私たちですから、あまりにも世間とかけ離れ過ぎていたら怪しまれるというものでしょう。また、異性に関しても同じことです。異性に慣れていないままでは仕事に差し障りがあるでしょう。ただし私たちはその真似事の高校に入る前に、房術の一環として処女というものは失っておりますので、全く異性を知らないというわけではないのですが。

花たちは最初同年代の男子に戸惑っておりましたが、そのあと浮つくようになりました。それは鳥たる男子たちも同じです。お互い最初にどう接すればいいかわからないようでしたが、自然と同じ授業を受けてるうちにお互いを仲間と認識し、そして異性を認識するようになりました。やれ誰がかっこいいだの、いやいや先輩にいい感じの人がいるなど、寮の部屋ではそんな話が行われるようになりました。それが全て教官がたの思惑だと知らずに。

厳しい規律が多い組織ですが、異性不純交遊なる恋愛というものに関しては何も禁止されておりませんでした。それを組織は恋愛を推奨しているのではないか、と解釈するものたちも出てきました。それは少し当たっており、また、外れているものです。

そこに入ってから半年ほどでしょうか、恋人というものを持つ花や鳥が増えてきました。外との出会いがない私たちが閉鎖空間のそこで恋人というものを持つものが出たとしてもおかしくはありません。そしてそれ自体はいいのです。それよりも大事なことがあるのですから。

ある日、一人の花と一人の鳥の死体が仲よさそうにぶらぶらと正面玄関の天井から吊らされておりました。体中が切り裂かれ、手は紫色に膨れ上がり、足はなくなっていました。ですが顔だけは無事でした。誰かがわかるように顔だけは無事にしていたのでしょう。その二人は一年生の恋人同士であった二人でした。そして二人がそこに並んでいる理由は彼女と彼の胸に張り紙がされていました。ようは、二人はここから逃げようとしたのだと。そのために処置が行われたのだと。

恋人を持つまではいいのです。問題は、組織と自分たちの将来に不安を持ち、二人で逃げようとすることです。愚かしいことですね。一人だと逃げることはできないと思うのに、愛し合う二人ならなんとかなると思うらしいのですから。

そしてようやく一年生たちは知るのです。恋愛をすることはよくとも、組織よりもそれを優先することが間違いなのだと。何よりも優先すべきは組織であるのだと。そして、組織は全てを見ていて、それらを知った上で彼女たちの児戯をあえて見逃していただけなのだと。

一度の警告で全てを理解したものたちは大人しくなりました。恋人がいるものは隠すようになりました。ですがそれ以降、度々一人ずつの死体が吊らされていることが起きました。理由は同じです。逃げようとしたため。組織に反抗の意思を持ったため。ただし、そこに吊るされているのは一人なのです。花であれ、鳥であれ。恋人となるものはそこに並んでおりませんでした。そこでようやく、本当にようやく、彼女たちは知るのです。組織が罠をかけている、と。

組織が特定の花と鳥に命じ、色恋に興じる真似をして、組織に忠誠を誓わないものたちを炙り出しているのだと。

そんなハニートラップをかける花と鳥は、影で「蜂」と呼ばれるようになりました。

それからは花も鳥も、互いに疑心暗鬼になりました。相手は蜂かもしれないと、安易に恋愛感情に耽けることはなくなりました。むしろ互いに色恋の雰囲気を醸し出しながら、この閉鎖空間の中で同朋を罠にはめようとする蜂は誰かを見極めようとするようになりました。裏切り者、と彼女らや彼らは思っていたのでしょうね。裏切り者とやらは組織に忠誠を誓っているからこそそんなことをしているというのに。

なぜ私がそれを最初から知っていたかといえば、それは私が彼女たちがいう「蜂」の一人だったからです。私は魔女と呼ばれておりますから、普段はそれほど周りに人はいません。けれど容姿はどの花よりも美しいのです。だから組織から言われたターゲットに近づき、ほんの少し隙を見せたら簡単に男子は落ちてきました。そして彼らは言うのです、こんなところにいるのはだめだ、逃げようと。私はそれに感激する演技をしたあとで、組織に報告し、処置してもらっていました。

組織が私を選んだ理由は私の容姿もありますが、私がスズラン以外に興味がないこを知っていたからです。私が男たちとの恋愛遊戯に耽けることはないと評価されていたのです。私の立場が同朋たちに知られれば、卑怯者と呼ばれ自分の身が危なくなる危険性もありましたが、それでも私は組織の命令に従いました。だって、それを行えばスズランの身は守ってくれるというのです。スズランを罠にかけることはしないと。むしろ安全な男をつけると言われていたのです。

そう、スズランは密かに恋人を作っていました。周囲には隠していましたが、私にだけは打ち明けてくれました。ああ、なんて可愛いのでしょう、スズラン。私にだけ秘密を打ち明けてくれるなんて。キキョウにだけは知っておいてほしい、そしてキキョウなら大丈夫だってわかってるから、と言いながらはにかむような笑みを浮かべた姿を私は今生で忘れることはないでしょう。けれど私は最初から知っていました。だってその相手は、鳥は、私と同じ蜂だったからです。

組織から命じられ、組織から逃げようとする花を炙り出す命令を受けているその鳥の名前は「ツバメ」と言いました。ツバメはスズランに取り入り、恋人になったのです。これは他の鳥と関係を持つよりも、最初から逃げる意思を持たないツバメが恋人となることで、スズランに万が一にも迷いを生じさせないためです。スズランが逃げるわけなどないと私はわかっていましたが、恋愛感情というものは理性を崩しやすいものだということもわかっていましたので、そのことについて組織の行いに意見することはしませんでした。

スズランは恋人のことを語る時、それはそれは愛らしい顔をしていました。頬を染め、たどたどしく喋る姿は普段の快活さとは違うもので、私にはとても新鮮であり、そしてその表情をさせるツバメをひどく妬ましく思ったものです。ツバメにとってスズランの恋人役は組織の命令で行なっている、仮初めのものです。そんなものでスズランにこんな顔をさせるツバメに負けたようで、私は時折全ての真実を叫びたくなりました。ツバメはスズランのことを愛してるわけじゃない、命令で行なっているだけなんだと。けれどそんなことはできません。私自身の命がなくなることもそうですが、スズランは私が蜂だと知らないのです。同朋を欺き、顔で、言葉で、体で、鳥を落として組織への忠誠を試す、そんな存在だということを。それを知られて、彼女に侮蔑の目を向けられることを恐れていたのです。

とはいっても、蜂の役目は長続きしませんでした。花も影も、どんどん相手をだしぬく術を身につけるために恋愛遊戯に興じるようになったからです。ある意味、多くの花や影が蜂のようになったともいえるでしょう。いつ何時、気を許したと思った相手が自分を裏切るかもしれないと、密やかに恋愛を隠れ蓑にして相手を見極め相手を自分の主導権におさめようとする技術を身につけていったのです。恋愛の真似事は、そのための技術だと。そしてそれこそが組織が望んだものでした。色恋というものは今まで学んできた技術と同じで、利用するもので溺れるものではないのだと。卒業する年には、ほとんどの花や影は恋愛に溺れるような馬鹿な真似をせず、むしろ何も知らない一年生たちがその域にまだ達していないのを嘲笑し、高みの見物をするようになっていました。

そう、卒業というものがあるのです。その高校にも。卒業する頃には花も影もこの高校は外にでた時に恋愛という愚かしいものにうつつを抜かさないようにするために作られた場所であったことはわかっています。異性に憧れなど抱かず、誰かがこの環境から救ってくれるなどという妄想を抱かず、組織に忠誠を誓う以外に道はないのだと骨身に染み込ませるための場所であったということを。結局は全て仕事をするための訓練であったのだと。

卒業後の進路はいくつかありました。組織の用意する施設に入るもの、または外の普通の、とても普通の大学に入るものなど。

そう、ついに外に出られる機会を得るのです。これもまた本格的な仕事のために、世間に馴染むためのものです。場合によっては政界や警察などに入る道を命じられてるものもいますので、当然とも言えるでしょう。だって全て虚像の経歴だけでそうした機関で過ごすことは難しいのですから。だからあえて組織が運営しているわけではない、ふつうの、一般の子供たちが入学する大学にはいるということはその下準備というものです。

私とスズランは同じ大学に入りました。そこそこ有名な私立大学です。ちなみに試験はきちんと受けました。受ける経歴も名前も全て偽造したものですが、試験は実力で受かりました。簡単すぎて驚いたものです。組織で学んでいた学問は、進学校と呼ばれるものよりも高度なものだと聞いてはいましたが、こんな試験、花からすれば落ちれば価値なしと判断されて命がなくなるような程度のものでしかないからです。ただ事前に目立ちすぎないように、と言われていたので、首席にならないように点数を計算しながらわざと間違うことのほうが苦労しました。

それにしても驚いたのは、何一つ薄暗いことのない、一般家庭で育った同年代の学生たちの姿でした。彼らは刃物の扱い方も、気づかれぬように潜んで人を殺めることも知らないものたちなのです。その屈託のない姿といったら。組織が下準備としてこうした普通の子達と過ごす機会を作るのも納得できるというものです。私たちはこうした普通の子に溶け込むようにしなければならないのですから。彼ら彼女らの感性を振る舞いを真似て、普通の人間のふりをして過ごすこと。わかってはいても驚くことが多かったです。だって彼らは身近な人間が死んだら泣くというのです。実際に祖母だかが寿命で死んでしまってひどく落ち込んだ学生を、周りの子達が励ます姿を見て、私も顔は共感と同情の表情を作りながら、心の内ではとても驚いてました。誰かが死んだために泣くなどという感情、花にはないのですから。

アパートで一人暮らしというものもはじめました。部屋がひとつあるだけで、キッチンとバストイレがついているだけの、決して広くはない部屋です。ベッドは部屋の置くに設置するしかなく、その対面にクローゼットがあります。平均的な大学生の一人暮らしの部屋というところでしょう。ただし組織の監視カメラはもちろんついております。スマートフォンも内容は全て組織に見られています。逃亡防止ももちろんですが、組織の情報を外部に漏らされることを恐れてのことです。こちらからしたら、ここまで組織の中で生きていて、それで裏切る真似をするような愚か者などそうそういないと思うのですが。

大学に入る場合は大抵複数人の花と影も同じく入学します。相互監視を兼ねているのもありますし、何かあった際に対応できるようにです。そう、スズラン以外にも同じく入学したものがいます。ツバメです。

ツバメは卒業するまでスズランに嘘の愛をささやき、恋人役をつとめていました。私は大学に入ればそれも終わるかと思っていたのですが、なんと恋人役はそのまま続いていたのです。

スズランは、本気で彼を愛していました。スズランはあの恋愛遊戯の空間でそれを行わず、ただ優等生でありつづけました。他の鳥の誘いにも乗りませんでした。他の花や鳥からは警戒心が強いのだろうと言われていましたが、それは違うと私だけは知っています。スズランはツバメがいたから他の男とそんな真似事をできなかったのです。

スズランは実力は高いですが、そうした駆け引きは得意分野ではありませんでした。だから組織はツバメをつけることで裏切りを起こさせないようにしたのです。ある意味、ツバメは組織が用意した人質です。そして私は、スズランがツバメを愛しているうちは、スズランが人質にとられているようなものでした。組織は私の能力を高く評価していてくれました。蜂の仕事もそうですが、暗殺術や毒物の知識が私特有の価値として評価していたのです。だからこそ、私が一番執着するスズランをツバメという組織の手飼いで囲むことで、私が組織に殉じる以外にないようにしたのです。

大学にはいってからツバメは、必要もないのに他の女子生徒と遊ぶようになりました。蜂の仕事でもないというのに。組織はそれを咎めることはありませんでした。女たちを御すことができるかどうかも実力を測る一つということでしょう。ツバメは蜂ができるほどには容姿は魅力的な男です。花のような訓練を受けていない女生徒を落とすことなど造作もないことでした。

そして蜂の仕事をしているときは隠していましたが、大学で一般人と遊ぶようになっては、隠しきれるものではありませんし、ツバメもそれを隠そうとはしていませんでした。また、特定の恋人はいないと嘯いていました。実際、ツバメに本当の恋人はいません。ですが、スズランは彼が恋人だと信じているのです。また、ツバメもスズランにはスズランだけが本当の恋人だと、他はお遊びでしかないと、いつか仕事をするときに有利になるように人脈を作っているだけだと言っていました。

大学にはいってからも私はスズランと一緒にいました。私の顔は目立ちすぎるので、化粧で地味な顔になるように隠していましたが。時折、先輩方の仕事の手伝いをすることもありましたが、スズランの腕は日々精彩を欠いていきました。

ある日のことです。一晩かけての仕事が終わり、朝焼けが眩しい海が見える道路を歩いていました。海。それは外に出てから初めて見たものです。普段のスズランならば、この見事な橙色から黄金色に変わりゆく海にはしゃいだでしょう。けれど彼女はそれが見えないかのようにため息をつきました。

スズランは、ツバメはなんで他の女とあんなに遊ぶのかと、気に病んでいたのです。ああなんていうことでしょう。私が散々愚かと称していた恋愛感情というものに、彼女は取り憑かれてしまっていたのです。目の前の美しい景色が見えないほどに。私が隣にいるというのに。

私は聞きました。昔、私の髪をお日様みたいだと言ってくれたのを覚えてくれているかと。スズランはぽかんとして、そんなことあったっけ、と答えました。ああこうして、彼女はツバメのことで頭がいっぱいになって、過去のことなど忘れてしまうのだと、私のことなどどうでもよくなってしまうのだと確信しました。

そんなこと、許されるはずはありません。

その朝焼けを見ながら二人で歩いたその晩です。

私がツバメと寝たのは。

なにやら言い訳を色々していても、結局女遊びをしたいだけなのだと知っていると、それならば私が代わりに身体を差し出すから女遊びをやめてくれと、取引をしたのです。勿論、スズランには秘密で。

ツバメはそれはそれは嬉しそうに、そしていやらしく笑いました。魔女を自分のものにできるなんて光栄だと。花はもちろん大学の女生徒たちも私の容姿には敵いません。その私を好きにできるというのです。特に私は組織から評価も高く、他の花や鳥からは陥落不能と思われてるほどの花でしたから、彼の自尊心を満たすには十分でした。

それからは度々私はツバメの家に赴き、身体を差し出しました。房術も習っていますし、男を喜ばすための演技をすることもできましたが、私は事を行なっている最中は無表情をつらぬきました。そのほうがツバメのような男は喜ぶと知っていたからです。その彫刻のような顔を自分の手で歪ませたいのだと、彼は殊更に私に対して執着してきました。

そして取引通り、ツバメはスズラン以外の女と関係を持つことをやめました。そして今までのことをスズランに謝り、これからはスズランだけだとツバメは言いました。もちろんそうするように指示したのは私なのですが。その謝罪を受けたスズランはそれは嬉しそうに私に報告してきました。朝までその恋人に弄ばれていた私のことなど知らずに。

でもそれでよかったのです。スズランは憂いがなくなり、前と同じように、太陽のように明るく笑うようになりました。そして仕事の手伝いも今まで以上に正確に行えるようになりました。あのままではスズランが使えないものとされ、処分される可能性があったのですから、それでよかったのです。

たとえ私がスズランを騙してスズランの好いた相手と寝ていることも、ツバメがスズランを含めてどんな女よりも私が一番具合がいいと言っていることも、スズランは知らずに私に笑顔を向けてくれていることに痛みを感じても、それでよかったのです。

スズランを大切にするようにツバメには願い出ていました。だから彼はスズランのことも家に呼び、抱いていました。心地いい睦如を耳に囁いて。

私はそれでよかったのです。ツバメは組織を裏切らない。その男を愛する限り、スズランも組織を裏切ることはない。そしてその男に愛されていると思っているスズランは昔と同じように笑っていました。たとえその笑顔が私がもたらしたものではないとしても、私はスズランに笑っていてほしかったのです。

そう、ただ、私は彼女に笑っていてほしかっただけなのです。

陽に当たる場所で今は暮らしていても、結局は影に囚われている私たちの、氷で覆われた水の中で凍てつくような寒さを感じる私の、その氷越しに見える唯一の太陽なのですから。

だからその太陽が雲で覆われてしまうことは、許せるわけがありません。

私がスズランを騙しながら、どれほどツバメに身体を提供していたときのことでしょう。ツバメは唐突に、もうスズランを切ろうか、と言いだしました。

私はそれを必死に止めました。スズランは彼を愛しているのですから。そんな彼が彼女に別れを切り出したのなら、彼女はどれほど傷つくでしょうか。そんなことは看過できませんでした。

ツバメはスズランが鬱陶しい、もともと組織に命じられただけの関係なのだから無理をして関係を続ける必要もないと言いました。

私はスズランを裏切るならこの関係ももうやめる、と言いました。ツバメは私の身体に執着していましたから、それに渋々ながら頷きました。きっと彼はスズランとの仮初めの関係を清算して遊ぶ女は私だけにしようと思ったのでしょう。彼は自分自身で気づいていませんが、彼は自分が蜂のころそうしていた相手のように、彼は私自身に溺れていたのです。そうなるように仕向けたのは私ですが、彼は自分の能力を過大評価しすぎだったのです。私が飲んでいるから平気だろうと思い込んで私のお茶を彼は自分も飲んでいたのですから。私が毒物、薬に長けている魔女だと呼ばれているというのに。お茶に軽い興奮剤を混ぜることで、彼は私との行為が特別なものだと感じて、そのまま私自身が特別だと思うようになっていたのです。私は解毒剤を別に飲んでいるので私にはききませんが。

でもそれは、私とスズラン以外の女に目を向けないようにするためです。仮初めであろうとも、彼にはスズランを愛する役をやめてもらうわけにはいきません。

だというのに、彼は禁忌を犯したのです。

彼も訓練された鳥の一人です。組織がつけた盗聴器以外について敏感でした。けれど、自分が使用したあとの避妊具の袋に盗聴器がまぎれてるとは思わなかったようです。ツバメのゴミの片付けの周期も私は知っていましたし、精子がまとわりついた紙屑と混ざったそれを生理的に避けていたのでしょう。

だからツバメの部屋で、スズランとしていた会話を聞くことは容易でした。

ツバメはスズランがまとわり付くのがわずらわしいと、スズランに対して言い放ちました。しばらく距離を置きたいとも。スズランはそれに対して泣き出しました。そう、スズランが、あのスズランが、私のスズランが、泣いたのです。

距離をおくのは組織に仲が深すぎるのを邪推されないようにするためにスズランから言いだしたことだと、私には話しておけとツバメは言い放ちました。スズランから距離をとったことにしたならば私との約束を破ったことにならないだろうと考えたのでしょう。スズランが私を騙すような真似をツバメは、あの憎たらしい薄汚れた鳥はそそのかしたのです。

それにスズランがすぐに頷かないでいると、ツバメはさらに言葉を重ねました。そこまで嫌がるなら言うことを聞かないなら、いっそあの魔女を抱こうかと。

スズランの金切り声が聞こえました。キキョウにだけは手を出さないでと、泣いて震えながらもはっきりと叫びました。

距離を置くことにも納得する、キキョウにも自分から話すと、スズランは言いました。

その時の私の心情を、どんな言葉で言い表すことができるものでしょうか。

ツバメが私を騙すためにスズランが私を騙して利用するその腐ったやり方への憎悪、スズランを泣かせたことによる怒気、そんな中で私の身を守ろうと鳴き叫んでくれたスズランに対する歓喜。

濁りきった感情が渦巻いた私の頭は、感情とは裏腹に冴え渡っていきました。

私は自分が取るべき行動と、そのための準備のための計算を行なっていました。はたしてその行動でこの身が破滅しようとも、もうどうでもよかったのです。

ああ愛しい、私のスズラン。

私を形作る全て。私の存在理由。私が守るべき唯一絶対の女性。

ツバメとスズランの会話を盗聴した次の日の夜には、私はツバメの家を訪れていました。

大学の講義を終えたばかりだったので、まだ宵闇には程遠く、日が暮れ始める頃でした。

私からツバメの家を自主的に訪れることはなかったので、ツバメはそれは喜んでいました。ツバメも帰宅した直後だったようで、鞄が乱雑に置かれているだけで、服もクローゼットに戻した様子はありません。

私はベッドに腰掛け、自分の鞄からお茶を取り出して飲み始めました。これはいつもと同じです。そしてツバメがその横に腰掛けて、そのお茶を取り上げて自分で飲み始めるのも。

彼は私がいきなりきたことを喜びつつも訝しんでいましたが、いつもより薬を多めにいれていたお茶のおかげか、性急にことを運びたがりました。

私はそれに否と言わず、むしろ積極的に応えました。いつもはしないようなことも、しました。

そして興奮していく彼に対して、私はいくつか問いかけていきました。

スズランのことをどう思っているか。それに対してツバメは組織の命令で恋人役をやっただけで、なんの気持ちもない、と。私がいてくれたらそれでいい、と。

私が蜂をやっていたことを知っているか。もちろんそれは知っている、あの仕事はおかしくてたまらなかった、馬鹿な花は簡単にひっかかる。スズランもそうだった。お前も同じだろう、馬鹿な鳥を落として笑っていたんだろう、と。

私が取引してから、この行為が何度目か覚えているか。ちょうど四十九回目だ、次は五十回目だ、記念だなと。

いいや、今日が記念だよと、私はいままでの四十八回の行為の中で一度もしたことがなかった、彼の上に乗って腰をふってあげることをしてあげました。彼は薬で頭がよく回っていないようでしたが、簡単に身体は快楽に追い詰められていきました。

そして彼が絶頂に達するその時、私は彼の首に針を刺しました。

ツバメの体はどこにも力がはいらなくなり、壁にもたれた形のままだらりと手足を投げ出しました。死んだわけではありません。彼の意識は動いていますし、耳も聞こえています。私が刺したのはただたんに身体を麻痺させる場所です。

私は体の中に入っていた憎らしいツバメの男根を引き抜き、裸のままベッドからおりました。そして対面のクローゼットを開けました。

そこには身体を震わせて座り込んでいる、スズランがいました。

ツバメが帰ってくる前にクローゼットの中に潜んでおくように、そして私が開けるまで決して音を立てずにそこにいてくれと頼んでおいたのです。なんの為にかは説明しませんでしたが、彼女も花ですから、ツバメが帰宅する前に侵入することなど容易いことです。なぜそんなことをしなければいけないのかと、理由を問われた時は、ただ私を信じてくれと言いました。そしてスズランは、私の可愛い可愛いスズランは、私のことを信じて実行してくれました。

そして暮れなずむ窓の外から、血の色にも似た橙色の夕焼けがさして、私の裸身と、スズランの泣き顔を赤く染め上げています。

信じてくれたスズランを、全て裏切る行為を行なった私にふさわしい、赤の色。

そして私が招いたために、彼女は泣いています。初めて、私は彼女を泣かせたのです。

私は震えているスズランの前に跪き、その頬を両手で包み、その涙に口付けました。

彼女はびくりと反応して、まだ涙が滲んでいる目で私を見つめてきました。

それに対して、私は笑みを浮かべました。

ああ可愛い、可愛い私のスズラン。

ツバメが卑怯な行為を行おうとしたその時に、私は彼に制裁を与えることを決めました。

そして、私自身への制裁も。

私がスズランを騙したとしても、スズランも私を騙すような、そんな騙し騙されあう関係などまっぴらごめんだったのです。だから全ての真実を、ツバメが蜂であってスズランとの恋人も命令で行なっていたことも、私が彼と取引をしてずっと身体の関係を持っていたことも、全て明らかにしたかったのです。

私はツバメを許せなかった。でも簡単に消しただけでは消えたことにスズランは落ち込んでしまう。それならば最初からツバメが裏切っていたことを知ってほしかった。そしてスズランのためといえども、私が身体を差し出し、スズランの愛する男と寝ていたことも。それをスズラン自身の目で見て欲しかった。

私はきっととっくのとうにおかしくなっていたのでしょう。支離滅裂なことをしていることはわかっています。だけど彼女が私に手を出さないでと泣き叫んだ声を聞いた時に思ったのです。

私だって彼女を泣かせたい。

彼女の全てを知るのは、私だけでいいのだと。

そして裏切った私を彼女が殺すならば、それでいいのです。彼女の憎悪を感じながら死ねるなど、この機会を持って他にはないのですから。

私の可愛い可愛いスズラン。

彼女が私のことを頭いっぱいにして、私のことを殺してくれるなら、それ以上の幸せはきっとないだろうと、その時は思っていました。

スズラン、と私は彼女を呼びました。

そして用意していた包丁を彼女の手に持たせました。

きっと聡明な彼女は全ての真実をもう理解しているでしょう。さあ、と私は微笑みました。

彼女は手元にある包丁と、ベッドの上でかろうじて息だけはしている男と、私を見ました。

そして叫びました。

キキョウには手を出すなと言ったはずだ、と。

彼女はベッドの上に飛び上がり、ツバメの男性器を刺しました。ツバメは体が麻痺して悲鳴もあげられませんが、痛覚は残っています。瞳孔が大きく開きました。

そのままスズランは致命傷にならないところを何度も刺しました。夕焼けで赤く染まった部屋が、本当に赤い血しぶきで染まっていきました。

ツバメは痛みを叫ぶこともできません。

そしてスズランは最後にツバメの胸に包丁を突き刺しました。何度も訓練でやったように、正確に、心臓の位置に。

包丁を外すとドロリと胸から血が溢れました。スズランはその胸に手を当てて、血が溢れるその胸に手を当てて、手を赤くそめながら、確実にツバメの動悸が止まるのを確認していました。

その目はとても冷静で、花の姿そのものでした。

そしてツバメが完全に死んだことを確認したスズランは包丁をベッドに放り投げ、床に惚けて座っていた私のところまできて、跪きました。

さっきの私たちが逆転したような構図でした。

けれど違うのは、まだ冷め切らないツバメの血が暖かい手のひらで、私の手を握りしめてくれたことです。

そしてスズランは言いました。

ごめんね、と。

私のために、ずっと我慢していたんだよね、ごめんね、と。

違う、私が全部悪いのスズランあなたは何も悪くない、裏切っていたのは私なんだ、と言い募るとスズランは微笑みました。


「あんな男よりも、キキョウが一番大切なんだよ」


そして私は自分の愚かしさに、そして耐えようのない幸福に涙を止めることができませんでした。

私はたったいま、この手があたたかい、大切なものを包んでいることに幸福を感じていました。

愛していた男を殺して、私を選んでくれたスズランのあたたかさが、二人をつなぐ手から感じられて、今まで生きてきた中で初めて身体の中からぬくもりが広がるようでした。

私が愚かだったのです。スズランのことを信じきれなかったのは私だったのです。だからこんなことをしてしまった。けれども、後悔などありません。

だってスズランが、私の全てのスズランが、私に手を出した恋人に制裁を加え、そして私を許すと言ってくれるのですから。あの海で私のことなど忘れてしまうのだと愚かな思い込みだったのです。些細なことなど忘れても、スズランは、私のスズランは、私のことを選んでくれるのです。

それだけで、私は何があっても、この先も、生きていける気がしました。

この後どうしようか、とスズランが聞いてきました。キキョウのことだから、どうにでもできるようにしているんでしょう、と。

そこまで信頼してくれているスズランにまた涙が止まらなくなりました。そう、私たちは常に組織に見張られています。この部屋のことだって監視カメラで組織が見ています。

ですが、私は組織にツバメは外部の人間と接触することで組織から抜ける手はずを整えているようだ、そのために彼に接近して彼を見張る、と組織に上申していました。だから私と彼がいくら身体を重ねても組織から咎められることはありませんでした。そして彼が組織を抜けると疑惑を持たせる証拠の捏造は済んでいます。だからツバメを殺したことは組織から罰せられることはないでしょう。何事もこの組織では下準備をすることが尊ばれるのですから。そもそも、ツバメと私ならば、私のほうが組織に評価されているのです。私が作る薬は人を害するだけではなく、麻薬と同じ効果がありながらも中毒性も脳への被害もない薬も作り出しており、それは上層部に大変気に入られているのです。

だから捏造の疑いがあったとしても、ツバメは結局私という花に負けただけの鳥なのです。

どうする、ともう一度スズランが問いかけてきました。



「ツバメを殺したことは、問題にならない。スズランは、どうしたい?」


「どうしようか、二人で逃げる?」


「逃げることも、できるよ。その準備も、してある。でも、一人用なの」


「一人用?」


「私もここで死ぬと思ってたから、スズランだけ逃げられる準備をしておいたの」


「キキョウは、本当に準備に抜かりがないね」


「スズランが望むなら、逃げられるようにしようと、思って」


「でも、一人用なんでしょう?」


「うん」


「それじゃあダメだね」


「ダメなの?」


「二人一緒じゃなきゃ、ダメだよ」


「い、っしょ」


「そうだよ。私たちはずっと二人で一緒なんだよ。じゃあこの後も変わらないね」


「これからも、このまま、組織で」


「うん。組織で、たくさん人を殺して、騙して、生きてくんだよ。二人で」


「二人、で」


「そうだよ。私のキキョウ。だから」



私のスズランが微笑みながら言いました。

笑って。


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花の魔女はかく語りき コトリノことり(旧こやま ことり) @cottori

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