中編

 学校が休みの日の土曜日、突然、連絡も無しに俺の家に訪問して来て、部誌に載せる小説を書くなどと言って頑固にもそこに居座ろうとし、ついに居座り切って仕舞った傍迷惑はためいわくな幼馴染、松原奈々美まつばらななみ

 旧知きゅうちのと言う意味で旧友きゅうゆうであり、俺の通う県立東浜高校でのクラスメートと言う意味で級友きゅうゆうでもあるそんな彼女を、俺は家族全員が出掛けて誰も居無い我が家へと置きっ放しにしたまま、奴に家の中を荒らされるのでは無いかとの不安を抱えつつも、同じくクラスメートである有栖川すみれの家のバイトへと出勤した。


 そして、その日の夕刻──。

 いつもの様にバイトが終わり、俺はその送り迎えをしてくれる有栖川ありすがわいえの車に乗せて貰って、降りるべき家の近くの適当な場所まで向かっていた。

 その車と言うのは、シルバーメタリックの外装をしたカローラ・スポーツである。

 やはりと言うべきか、今日のバイトの勤務時間は当初予定していたよりも1時間ほど長引いて仕舞い、当然の如く、午後4時半には家に着くはずだった俺の帰宅時刻も、その分、遅れて仕舞っている。

 バイトの最中、終了予定時刻間近で僅かな休憩時間が与えられたので、上司に許可を取って自分のケータイを見て見ると、今朝早くから俺と同じ学校の体育系クラブであるGSBC女子ソフトボールクラブの練習に出掛けた妹の香織からは、午後3時半前後の段階に、帰宅を知らせるメールが来ていた。

 その妹からのメールへは、家の戸締りをしっかりする様に返信して置いたので、今日の俺の帰宅がもう少し遅くなったとしても、多分、問題は少ないだろう。

 今朝、妹と時を同じくして早くからパートに出掛けた俺の母親の方からも、たった今、メールが来ており、その内容としては「近所の奥様連中と、ちょっとその辺の喫茶店で話し込んだ後に、買い物をしてから帰る」などと言うものであった。

 なので、この分だと、母親の帰宅は大分遅い時間になると言う事になる。

 最近の俺の母親の考えとしては、手間の掛かった末っ子の香織もようやく高校生になり、それから暫く時間が経過して新しい学校生活にも慣れて来たので、自分もそれに合わせて、家事やパートと言った仕事と自分の時間の配分、いわゆるワークライフバランスを重視した、悠々自適なライフスタイルへ、徐々に切り替えて行く積もりらしい。

 俺としては、それはそれで結構な事だと思っているのだが、しかし、母親が出掛けたその近所の奥様会の小規模な集まりと言うものがどれほど重要な事なのかは、主婦などやった事の無い俺には分から無いが──休日とは言え、香織の様な女の子を1人残して夜中まで遊び歩くと言うのは、一般論の観点から見ると、あまり関心し無い行動だ。

 もっとも、家に置いて来た奈々美から、俺の母親の方に連絡が入っていて、香織の面倒を見る様に留守番を頼んである可能性もあるので、それが分から無い今の段階では、そんな自分の母親の事を強く責める気持ちにはなれない。

 別に、そうする事で香織に何かあったと言う訳でも無いしな。

 ケータイの受診履歴を見た所、一悶着ひともんちゃくの末、そのまま家に置い来た奈々美からの連絡は無かったので、彼女はまだ、自分のいえには帰って無いらしい。

 そんな風に、有栖川の家の車の後部座席で自分のケータイをチェックしながら、同様に仕事を終えた有栖川と適当に話していた俺は、やはり母親からのメールの文面が気になったので、香織と、まだ家に居るであろう奈々美にメールを送って見る事にした。

「悪い、ちょっと、家に連絡する」

 そう断りを入れて会話を中断し、まず俺は、奈々美宛てのメールを書いて送信する。

 もし奈々美が自分の家に帰って仕舞うと、それまで香織を1人にして仕舞うので、俺が帰るまで家に居るように要請して置くのである。

 こう言う時なのだから、今日1日、エアコンが利いていて涼しい俺の家に居候いそうろうをさせてやったその恩返しとして、その自称・留守番クイーンの本領を今、発揮して貰わねばなるまい。

 と、ケータイの画面に表示されている時計を見ると、現在時刻は午後5時10分過ぎであり、この分なら、日没の2時間程前には何とか家に辿り着けそうな気配だ。

 時間が伸びはしたが、今日も無事に課せられた仕事を終える事が出来たので、そんな成り行きに安堵しつつ、俺はカローラ・スポーツの機能美あふれる後部座席のシートに自分の疲れた身を納め、楽な姿勢を取りながら会話を再開する。


 所で、俺が有栖川の家に雇われて、その家業かぎょうのお手伝いさん的な作業をしている──と言う事になっているバイトだが、その表向きは「誰にでも出来る簡単なお仕事」と言う風にはなっているが、その実際の仕事内容としては、どこの誰に出来るとは言い難い内容だ。

 その作業内容のバリエーションは極めて広く、その時々の予定により、椅子などに座ってする作業から、機械などの操作、屋外で体を動かす作業までがある。

 困難な作業に習熟し、かつ、多くの仕事を幅広くこなす必要があるが、決まった作業を繰り返す様なルーチンワークとは無縁の変化に富んだと内容なっており、仕事内容はそれなりに面白い。

 勤務時間もさほど長く無いし、その費やした労力の見返りである待遇としても、特に作業せずとも貰える月々の基本手当が5万円、時給も昼間で1時間当たり千円と、この辺りの地域の高校生が出来るバイトとしては極めて破格だ。

 しかし、そんな風に退屈せずに金を稼げる反面、時間的に割の良い仕事の殆どに共通する事柄として、その日の作業内容によっては、激しく体力を消耗する場合があるのが、このバイトの唯一の欠点である。

 今日の様に相応の体力と根性が必要とされる作業内容が設定されていた日には、学校でする体育の授業を、全力で、それも3時限ほど連続で受けたのと同様、それが終わる頃には、歩く足元が覚束おぼつか無いほどに完全に体力を失って仕舞う。

 もっとも、体力が必要な作業の多くは、その作業の目的上、俺の様な作業者の体力が余る事が無い様にわざわざはからってあるのだから、それは当然と言えば当然なのだが……。

 更には、そんな並々ならぬ体力の必要な仕事が、しばらく後に控えている高校生活最後の夏休みの最中に、一定期間集中して設定されている。

 今日行った作業は、そんな夏休みに向けての前準備とも言える内容だ。

 それにしても、こうも毎週、続けざまに限界までの体力勝負を強いられていると、きちんと支給されている疲労回復用のサプリメントを飲んでいても疲労が溜まり勝ちになる。

 なので、体調を崩さ無い様に、良く気を付ける必要があるな。

 特に、これから10日ほど先に控えている、期末試験の直前などは、要注意だ。

 ──そんな事を考えながら、目的地に到着するまでのあいだ、俺は自分の腕や肩、足と言った、今日の作業で酷使した部分の筋肉をマッサージしながら、車の後部座席に同乗しているバイト仲間の有栖川と、他愛も無い話をして過ごした。


 さて、走行中の車には、俺と有栖川、そして、GJジージェイさまの3人が乗っている。

 車を運転しているGJ様は、その見た目の年齢にして30代前半、割と筋肉質な体型を持った男性で、俺達二人の上司だ。

 運転席にいるGJ様は、後部座席に乗っている俺と有栖川が適当に交わす会話には殆ど加わる事無く、ドライビングに意識を集中している。

 その髪は非常に短く、ほぼ丸刈りのクルーカットである。

 無論、GJと言うのは彼への単なる呼び名で、その見た目の風貌と、聞かされている名前は、どう考えても日本人のものだった。

 その名前も本名かどうかはまでは分から無いが、とりあえず、俺の中では彼への呼び名はGJで統一されている。

 更に、彼を呼ぶ時に下に付ける敬称は、一般的に職場の目上の人に対して使われる様な「さん」では無い。

 それよりも1つ格上の呼び方、そう、「さま」である。

 と言うのも、以前、俺が彼と初対面で話をした際、迂闊うかつにもその名字にさん付けで呼んで仕舞い、それを彼がとがめだてした結果、様付けで呼ぶ事になったのである。

 だから、それから以降、GJを呼ぶ時は、~様と言う様に様付け以外はあり得無いのであった。

 今年の4月の後半、高校3年の1学期が始まって少し時間が経過した辺りで、俺が有栖川の所のバイトを開始し、この寡黙かもく強面こわもての上司と知り合ってから既に数カ月が経つが、その間、GJが笑った所を1度も見た事が無い。

 GJ様は終始、不機嫌そうな顔付きをしているので、もしかすると顔面を動かす筋肉の総称である表情筋に何か障害を抱えている人なのかとも最初は思ったが、この事に付いて有栖川に聞いた話と、その後、しばらく自分の目で観察した結果によれば、どうもそうでは無いらしい。

 GJ様がいついかなる時にも下げているその不機嫌そうな仏頂面は、多分に、何事にも厳しく無駄な事をし無い、彼のその性格に由来している様である。

 見た目通り、GJはその性格も極めて武骨ぶこつと言うか、仕事中だろうとそうで無かろうと、必要の無い会話は一切し無いと言う、非常にとっつき難い人物なので、俺は彼に話し掛け無ければならない用事でも無い限り、極力、自分の方からは関わら無い事にしていた。

 作業が終わってるので、職場のコミュニケーションの一環として適当な話題を投げるとか、そんな事をしたら、余計な話をするなと俺は彼に怒られて仕舞う事だろう。

 例えて言うなら、GJの立ち振る舞いは、紐や鎖などで所定の場所に繋がれてい無い猛犬、そう、ドーベルマンやら大型の闘犬である土佐犬などと同じなのである。

 その機嫌が悪いタイミングで下手に刺激して噛み付かれでもしたら、かなわ無い。

 つーか、実際問題として、前に1度、そんな事があったので、尚更、俺はそうする用事も無いのに、彼に話し掛ける事は無いのだった。

 俺が思うに、どうもGJ様は、他人とのあらゆる接触にストレスを感じる性格の様で、会話し無ければなら無いシチュエーション全てを嫌っている様に見える。

 この車に乗っている3人の共通の上司である、有栖川の父親と言う事になっている人物を含め、周囲から殆ど無視されている状態にあると言うのが、GJが一番安心出来る状況の様だ。


 ──と、車を停めるべき適当な場所に着いたらしく、乗っている車の速度が徐々に下げられる。

 場所は、俺の家にも近い、駅の近くの住宅街にある公園の側だ。

 街の中心地である大きなバスターミナルのある駅近くにも関わらず、少し距離があり閑静な場所であるせいか、辺りには殆ど、他の車や通行人は見え無い。

 片側一車線の車道の端に車を停めると、GJはウィンカーを戻し、サイドブレーキを掛けた。

 そして、彼はハザード・ランプを点灯させると、これまで岩か何かの様に押し黙っていたその口を開いて命令を発する。

「おい、着いたぞ。成海、お前はここで降りろ」

「あ、はい。送り迎え、有難う御座いました」

「礼はい……。それと、これは毎回言っている事だが、ドアを開ける直前に、十二分に周囲を確認しろ」

「はい」

 車内から全員で辺りの状況を確認した後、運転手を務めるGJ様から手を使った無言の降車サインが出されたので、俺は荷物である鞄を取り、ゆっくりと後部座席のドアを開け、車を降りた。

「それじゃあ、成海君。また」

 後部座席で俺の隣に乗っていた有栖川は、そのそこそこ目鼻立ちの整った顔に屈託の無いスマイルを浮かべながら、肩の横で軽く手を振る。

「ああ。また来週、学校で」

「おい、成海」

 俺がドアを閉め掛けると、GJが声を掛けて来た。

「あ、はい」

 俺は返事をして、その話が良く聞こえる様、車内に上半身を入れて耳をそばだてる。

「さっきも言ったが……今日は、このまま真っ直ぐ家に帰れ。どこにも寄り道すんじゃねえぞ?」

 GJ様はいつもの不機嫌そうな顔で俺の顔を見据え、厳に帰宅命令を寄越す。

「分かりました。それでは、失礼します」

 俺はそう返事をすると、軽く会釈してから、エンジンが掛かったまま停車している車のドアを閉じた。

 すると、座席のドアがロックされる音に続いて、後部座席後ろのロックを外す音が聞こえて来る。

 俺は車の後ろに回り、そのラゲッジ・ルームのハッチの中央真下にある取っ手に手を差し入れて、それを跳ね上げる様に開ける。

 ハッチの中の黒い壁に囲まれた空間には、一台の自転車が横倒しの格好で寝そべっており、俺はその車体を自分の両手で掴み、持ち上げた。

 この自転車はフレームがアルミ合金で出来ているので、大した重さは無い。

 俺は自転車をラゲッジ・ルームから外へと出し、アスファルトの上にスタンドで自立させると、先程開けたハッチを勢い良く閉める。

 そして、停まっているカローラ・スポーツの車内に、最後にもう一度軽く会釈した。

 それを見届けたのか、数秒後、俺を乗せていたカローラ・スポーツは点滅していたハザード・ランプを消して、ウィンカーを瞬かせながら車道の中央に出て速度を上げて行った。

 俺は自転車のハンドルを握ったまま、そんな風に走り去って行った有栖川の家の車を見送り、自分もまた帰路に就く事にした。

 ここから家までの道のりは、今しがた降ろした自転車に乗って行く事になる。

 この自転車は、自前で買った物では無く、バイト先である有栖川の家から、交通費代わりに支給された物である。

 だが、ほぼ新品のせいか、なかなか軽快に走行する事が出来、その上、デザインもそれなりに洒落しゃれているので、俺としてはかなり気に入っている物だ。

 車体を構成している部品のほぼ全部が、アルミ合金と天候に強いステンレス、そして樹脂で出来ているとは言え、近くにある海からの塩分を含んだ風が吹けば、自転車の心臓部とも言えるギアやチェーンに錆が浮か無いとも限ら無い。

 こないだは雨も降ったし、そろそろブレーキを除く各部を掃除して、注油でもして置こうか──。

 そんな事を考えつつ、俺はキツいバイトをこなして疲労した身体に鞭打って、まだ3ヶ月ほどしか使用歴の無い、ペダルの軽い真新しい自転車を漕いで行った。


 家に帰ると、バイト中に読んだメールにあった通り、妹の香織が今朝方出掛けたGSBC……女子ソフトボール・クラブの練習から帰って来ていた。

 キッチン兼リビングに居た香織は既に普段着に着替えており、グラスに注いだ麦茶を飲みながらテレビを見ている。

「ただいまー。今、帰ったぞ」

 俺はそんな事を言って帰宅を知らせると、玄関のドアを閉めてロックを掛けた。

「あっ! にーやん、お帰りっ!」

 香織は帰宅したばかりの俺の方を見るなり、弾んだ声で出向かえる。

 俺はキッチン兼リビングまで歩いて行き、そこの椅子を引いて鞄を置いた。

「今日のソフトボール部の練習の具合は、どうだった? 阿部も来てたんだろ?」

「うん! いつもみたいに特に問題無く始まって、普通に終わったよっ」

「阿部の様子はどうだった?」

「えっとね、まず、投げる時に腕をぐるっとさせるウィンドミルの練習で田中さんとちょっと揉めて、それから喧嘩になり掛かったんだけど、途中で田中さんが折れて、そのまま後は普通に練習メニューをこなして解散」

「そうか。そりゃ、阿部は野球とは言え、中学時代からサウスポーとしての実績があるからな……。田中さんはどちらかと言えば、球投げをするピッチャーよりも、打って走るバッターの方が得意だろ。それで引き下がったんだろうな」

「そっか。うん、そうかも」

「あいつも田中さんも、今のGSBCをまともに試合に出られる程度には強くしようと頑張ってるんだ。もし衝突しそうになったら、お前が間に立って、その仲を取りなしてやるんだぞ?」

「うん、分かった。もし、そうなったらやってみる」

 俺はキッチンのシンクでうがいをして、それから香織と同じ様に、自分のグラスに麦茶を注いだ。

 って、そう言えば、あいつ、どこ行った?

 俺は二口ほど口を付けたグラスをテーブルの上に置き、香織に問う。

「なあ、香織。うちの中で、奈々美を見無かったか? 今日、あいつんのクーラーが壊れたとかで、昼から客間に居させといたんだが」

 仕方無く済し崩しに置いたままバイトに出掛けたが、推小研の部誌『クォーツ』の次号に載せるべき作品、その第1稿の一応の締め切りは明後日だ。

 奈々美の奴、ちゃんと手書き原稿の脱稿と入力作業は終わってるんだろうな?

「奈々美ちゃんなら、いるよ」

「何だ、いるのか。客間には居無いみたいだったが、どこにいるんだ?」

 俺は周囲を見回す。

「えとね、さっき、ちょっと横になるって言って、にーやんの部屋に入ってった」

 げっ!

「えっ、何だって……!? それって一体、どれぐらい前だ?」

 香織はキッチン兼リビングの時計を見上げて言う。

「んーとね……にーやんが帰って来る、30分前ぐらい。5時前頃」

「そ、そうか」

 それを聞いた俺は、テーブルの上に飲み掛けのグラスを置き、急いで自分の部屋へと向かう。

 あいつめ、男子の夢が隠されている、俺の学習机の鍵が掛かる引き出しを、自前の道具か何かでこじ開けてはい無いだろうな?

 廊下を移動し、開けっ放しになっている自分の部屋のドアから中を覗き込むと、そこに座っているであろうと思われた俺の学習机の椅子には、果たして奈々美の姿は無かった。

 と、反対側に目を向けると──そこには、俺のベッドに身を横たえ、静かに寝息を立てる奈々美の姿があった。

 その寝顔を見て見ると、奈々美は日なたで寝転がっている猫の様な、実に呑気のんきで平和そうな薄笑いを浮かべている。

 良く見ると、奈々美はその口から少しよだれを垂らしているが、一応、彼女の持って来たタオルがその顔の下に敷いてあり、俺の布団に直接それが到達していないのが幸いだ。

 やはり昨夜のオンラインゲームのハードなレベリングに加え、あの後行った執筆作業で疲労困憊したのか、流石の奈々美もスタミナ切れを起こして仕舞ったようである。

「おい、奈々美、起きろ──って、うわっ!」

 と、奈々美を揺り起こそうとした俺は、その異変に気付き、彼女の肩に置こうとした手を止める。

 何か違和感を感じた奈々美の全身、特に下半身の方に目をやると、どうやってそんな事になったのかは知ら無いが、何と、奈々美が履いているデニム地のボトムスの中央上部にある留め金が、派手に外れて仕舞っている。

 流石にジッパーまでは下がってい無いが、奈々美がそのボトムスの下に履いている下着の一部が、少し覗いている。


 全く、何てこった──。

 このまま俺が寝ている彼女を起こして仕舞うのは、シチュエーション的に色々と危険だ。

 そんな状態で奈々美を起こせば、何を思ったのか、卑猥な行為をされ掛かったと勘違いした奈々美から、痴漢とか変態とか、後は桃色学生などなど、破廉恥な行為をした者に対する罵声を、彼女の思い付く限り浴びせられかね無い。

「お、おい、香織……!? ちょっと、こっちに来てくれ無いか?」

「え? 何? にーやん」

「良いから来るんだっ」

 すると、香織は素直に、自室の前にいる俺の側まで歩いて来る。

「よし、良く来てくれたな。済まんが、ちょっと、そこで寝てる奈々美を、俺の代わりに起こしてやってくれ無いか?」

「え? この寝てる奈々美ちゃんを起こすの? 私が? 何で?」

「俺が奈々美に用事があるからだ。つーか、そろそろ起こさ無いと、きっと夜まで寝るぞ、こいつは」

「じゃ、にーやんが起こせば? どうして私が奈々美ちゃんを起こさ無いと行け無いの?」

 心底、不思議そうに首を傾げる香織。

「良いから、やるんだ。そうだ……お前も奈々美も、同じ女だよな?」

「え? そ、そうだけど……うん。フフーン」

 何を自慢に思ったのか、香織は胸を張る。

 俺は奈々美の顔を指さして言った。

「じゃあ、レディのたしなみを教えてやるから、俺の言う事を良く聞くんだ。良いか? こう言う熟睡してる奴を起こすとか、そう言うリスクある行為はな、基本的に同じ性別の奴がするのが常識なんだぞ? 寝てる方が男なら、まあ、同じくらいの年齢の女が起こしてやっても悪い気はし無いだろうが、相手が女性なら、それは逆の結果になる」

 途端に、香織は驚いた表情を浮かべる。

「えっ!? そうなの!?」

 実は殆ど半分嘘だが、この際、そんな役に立た無い真実は他所よそに置いておく。

「そうだ。だから、女の奈々美がこうして寝ていて、それを起こさなければなら無い場合、母さんが用事で出掛けてるこの家の中では、お前が最適任になるな。だから、女のお前が男の俺の代わりに、こいつを夢の世界から優しく目覚めさせてやってくれれ。な?」

「う、うん。分かった……」

 自分の部屋だと言うのに、そこには何とも立ち入りがたく、俺は廊下から事の成り行きを眺める。

 気が進ま無いのか、香織はためらいながら奈々美に近付くと、かがんで奈々美の顔を観察した。

「ねえ、にーやん。奈々美ちゃん……寝てるよ?」

「だから起こすんだっ。さっきも言っただろ! 既に起きてるなら、わざわざこれから起こす必要は無いだろ! 良いから、早く起こせっ」

「うん……。って、あれ」

「今度は何だっ?」

「ね、にーやん。奈々美ちゃんのズボン、ボタンが外れてるよ?」

 そこに注目するなっ。

 つーか、それはズボンじゃ無くてショート・パンツだ。

 俺は昔、姉の持っていたファッション雑誌を読んだ事が何度かあるから、その辺の事は良く知っている。

「ああ、そうだな。だからこそ香織、お前を呼んだんだっ。ここで俺が奈々美を起こして見ろ。こいつのボトムスがこんな風になってるのに、そんな事をしたらな、最悪、俺は痴漢で警察に捕まるんだぞ?」

「えっ!? にーやん、捕まるの!?」

「そうだ。最悪の場合は、だがな。それは、お前も嫌だろう?」

「うん……。って言うか、にーやん、ボトムスって、ロボットか何か?」

「いや、それは違うが……。ボトムスと言うのはな、ズボンも含めて、このショート・パンツとか言う半ズボンみたいな服とか、スカートとか、そう言う下半身に着る衣服全般の総称だ。今、お前が履いてるその学校指定の半ジャージと言うかハーフ・パンツも、ボトムスの一つなんだぞ?」

「え、そうなんだ!? にーやんって、物知りだね!」

「そうだな。じゃあ、これから俺があっちの部屋の外の方に行くから、そうしたら、香織は奈々美を起こしてやってくれ。なっ?」

「う、うん! 分かった、じゃあやってみる……」

 不承不承ふしょうぶしょう、香織は寝ている奈々美の腕を掴むと、それを軽く揺すぶって声を出した。

「ね、奈々美ちゃん、起きて……」

「うーん……」

 香織の奈々美はウシガエルの様に唸ったが、まるで目を覚ます気配が無い。

「おい、香織。もっと耳元で、大きな声で起こせ」

「うん……」

「ねぇ! 奈々美ちゃん! ほら! 起きて! もう5時半だよ!?」

 香織は言われた通りにし、更に激しく奈々美の身体を揺り動かした。

「んぐぐ……。あ?」

 すると、奈々美はそんな疑問形の声を発し、目を覚ました。

 そして、その半開きの目のまま、俺のベッドの上でむくりとその上半身を起こす。

「うーん……良く寝無かった」

 お前は寝起きに何を言っているんだ。

 そして、彼女は相変わらずよだれは垂らしたままの顔と寝ボケまなこで、誰ともなしに質問する。

「ん……何? もう、ご飯?」

 俺は目を覚ましたばかりの奈々美の様子に溜息を吐きながら、廊下から会話を投げ掛ける。

「はぁ? お前は何を言っているんだ……。何だ、やっぱり、眠っていたのか?」

「そうよ。ご飯が出来たら起こして……むぅ……」

 如何にも眠たげな声でそう言い、奈々美は元の様に再び俺のベッドへと横たわる。

「お、おい……折角起きたのに、お前はもう1度寝るなっ!!」

 そんな再び寝入ろうとする奈々美の行動に、俺は思わず自室に足を踏み入れ、もはや涅槃仏ねはんぶつの姿勢を取って目を閉じる奈々美の体を揺さぶった。

「もう、止めてよ……。折角、ご飯までひと眠りする積もりだったのに……あと15分は寝させて」

「全く、お前は何をたわけた事を言ってるんだ? めしが食いたいなら、さっさと起きて、帰って自分のうちで食えっ!」

「もう! 奈々美ちゃん! 起きて! ね! ご飯あげるから!」

 香織が起こし作業に加わり、涅槃仏ねはんぶつ・奈々美の足の方を揺さぶると、彼女はそこでようやく気が付いたのか、ガバと半身を起こした。

「はっ!? あれ? カオリン? それと、隆一までいるし……。私んに何の用で……って、あれっ……? ここ、私のいえじゃ無いわね」

 そんな事を言いながら、奈々美は目を見開いてキョロキョロと辺りを見回す。

「にーやん。奈々美ちゃん、起きたよ?」

「ああ、どうやらその様だな。よし、良くやった香織。お前の役目は終わったから、もう、俺の部屋から出てって良いぞ?」

「うん! あ、奈々美ちゃん。私、ご飯、取って来るねっ!」

 香織はそう言うと、俺の部屋から小走りに出て行った。

 そんな妹の背中に、俺は声を飛ばす。

「おい、香織! こっちには、ご飯を持って来無くて良いぞー!?」

 そんなやりとりを見ていた奈々美は、やがて納得した様に言った。

「ああ、そうか。分かったわ。これは夢ね! なーんだ、思わず、びっくりしちゃったじゃなーい……」

 そう言うなり、奈々美はニンマリと笑いながら、俺のベッドに倒れ込み、再び横になる。

「──って、奈々美! お前は何、寝ボケた事を言ってるんだ? 寝言は寝て言え! つーか、そろそろ本当に起きて、その目を覚ましたらどうだ? 本当に勘弁してくれよ」

「ああ、やっぱり夢じゃ無いみたい……」


 奈々美は体を起こすと、俺のベッドを上であぐらをかいて座る。

「うーん、まだ頭がボーッとする……」

「なあ、まさかとは思うが、奈々美、お前もしかして、記憶喪失とかになっているんじゃ無いだろうな?」

 俺は半分本気でそう聞いた。

「え? ち、違うわよ! そんな訳無いでしょ……。ええと、待って、今思い出すから。えーと、えーと……ああ、そうよね。そうだったわ、うん」

「寝る前の事、ちゃんと思い出せたか?」

「ええ、大丈夫よ。全部思い出したから」

「本当に大丈夫なんだろうな? 昨日、一緒にプレイしていた俺が言う事じゃ無いが、深夜まで夜更かししてゲームをするのも、ほどほどにして置いた方がいぞ?」

「大丈夫。って、つーか、深夜までって何よ? たかが午前2時過ぎぐらいで。私の親みたいな事言わ無いでよ」

 枕にしていたタオルで自分の目や鼻をこすりながら、ブツブツと奈々美はグチをこぼす。

「午前2時は、世間では充分、深夜だっ」

 奈々美の顔に、自信ありげな表情が戻る。

「フフッ、知ら無いのね、隆一。本当の夜更かしって言うのは、午前3時を過ぎてからなのよ」

「はあ? 3時? 学校やバイトがあるのに、そんなに遅い時間まで、ネットゲームなんぞに付き合える奴がいるか! つうか、そんなんで、良くお前はバレー部の朝練や学校に遅刻し無いな?」

「その場合は、1回も眠ら無いで徹夜するから大丈夫だし……。って言うか、あんたが出掛ける前にも言ったけど、私ってもう3年生だし、バレー部の活動の方も半分引退状態だから、平気なのよね」

 徹夜の何が大丈夫何だ。

 どうやら昨日はそれに近い事をして、さっきまで寝ていた様だが、そんなお前の様子は、ちっとも大丈夫そうに見え無いな。

「ああ、そうか。お前自身はそんな事をしていても全く平気なんだろうがな。しかし、俺のベッドで勝手に寝る所まではともかく、平日の授業に差し支える様な真似だけは止せ! ただでさえ、しょっちゅう宿題を忘れて来るお前が、それに加えて授業中に居眠りまでする様になったら、本当にまずいぞ!? そんな事が頻繁にある様になったら、学校からお前の親御さんに連絡が行き、お前が注意されて、そのとばっちりでこっちまで親から怒られるんだ。ゲームの世界に入り浸ってリアルを大事にし無いお前の不摂生ふせっせいのせいで、俺までゲームへのログインを禁止されたらどうする、ログインを禁止されたら!?」

「そんなの、しらばっくれて適当に誤魔化しとけば大丈夫でしょ。あ、そうだ、隆一。ちょっと聞いて置くんだけど、あんた、私の寝てる所を見て……何か、変な事考え無かったでしょうね?」

 と、奈々美が妙な事を聞いて来るので、俺は逆質問をしてそれに対抗する。

「は? 変な事って、一体何だ?」

「そうね、嫌らしい事と言うか……。そう、端的に言えば、エッチな事よ」

「ああ? お前は何、馬鹿な言い掛かりを付けてるんだ? この俺が、お前を相手にか? お互いに幼少の頃からの付き合いなのに、そんな事があり得るか! そう言う阿呆な事は、休み休み言うんだな。そもそもだ、俺の周囲には、お前なんかよりよっぽど魅力的な美女が、そこら中に幾らでも転がってるだろうが。そこにある阿部が置いてった漫画雑誌の巻頭カラーに載ってるグラビアモデルとか、テレビとかで良く見るグループアイドルのメンバーとかと、お前自身を比べて見ろっ。全く、自意識過剰も加減かげんにするんだな」

 すると、奈々美はまるで瞬間湯沸かし器の如く怒り出した。

「はぁああっ!? 何、その言葉ァ! 言うに事欠いて、グラビアモデルにグループアイドル!? 何それ!! 全っ然、意味分かん無いし! って言うか、幾ら何でも今を時めく芸能人とか、比較対象のレベル高過ぎィ!! もっと大人になれ! このピーターパンッ! もうっ、分不相応に高望みしちゃってぇっ! 全くぅ!」

「いや、別に高望みとかじゃ無くてだな。俺はただ、お前に対する……」

 しかし、奈々美は俺の話が全く耳に入っていない様だ。

「もう、グラビアモデルと結婚とか……そんなアイドルオタクの夢みたいな事言って無いで、隆一は現実を見ろー!! 私は7組にいる江崎えさきさんじゃ無いのよ! そう言う隆一の方こそ、加減かげんにしろーっ!!」

 アイドルと結婚だとか、そんな事は想像の上でも考えてい無いし、別段、口にした覚えも全く無いのだが、そう奈々美に捲し立てられた俺は、それに負けじと言い返す。

「はぁああああ? お前の方こそ、何、変な勘違いをしてるんだ? ああ、そうだ! この際だから、一応、これを機に、はっきり否定して置くけどな!? 大抵の男子ならそう言うのが普通なんだろうが、俺は別に、モデルやらアイドルやら、それから江崎えさきさんにぞっこんって訳じゃあ無いんだぞ!」

「は? え……? そうなの?」

 と、奈々美はキョトンとした意外そうな顔。

「あ? いや……ま、まあ、そうだが……。とりあえず、もしお前がそんな事を考えてたのならな、それは奈々美の完璧な誤解だっ」

「うわっ、意外……。もしそうなら、あんたって、女の子の好みとか、ちょっとその辺の感覚、ズレてるわよ?」

 そんな調子が狂う反応をされて、俺は奈々美と何を話したら良いのか、良く分から無くなる。

「はぁ? そうか? まあ、江崎さんがグラビアアイドルも務まりそうな人なのは分かるが……」

「フフッ、でしょう? あの人って、顔も綺麗だけど、色々と凄いわよね! 初めて見た時、あんな人が学校にいる何て、本当に驚いたもの」

 何だか、ズレているのは俺の感覚では無くて、話の中身のような気がするが、俺は奈々美の話に言葉を合わせる。

「そりゃあ、驚くかも知れ無いな。確かにあんな人は、俺も他には見た事が無い。お前と一緒だった中学にも、ああ言う人は居無かったな」

 すると、段々とその起き抜けの頭が冴えて来たのか、呂律ろれつが回って来た奈々美は、俺の知り合いの江崎えさき雪重ゆきえさんに付いて、嬉しそうに話し始める。

「でしょ、でしょ? あの人って、割と小柄な体型なのに、部活とか文化部会とか、色々と頑張ってるし……。顔も可愛いし……。それから、極め付けはそう! そんな小柄なボディに不釣り合いな、あのセクシーダイナマイトな胸っ……! こないだ、みんなでプールに行った時、間近まぢかで見て思ったけど、私の目測だと、あれはゆうに、胸囲として90センチ以上はあるわね、うん!」

 ああ、6月の中盤から何回か行った、あの学校の公開プールの事か。

 あの時、お前が何に注目していたのかは知ら無いが、俺からすれば、水着に身を包んだ江崎さんや有栖川の身体付きとか、そんな色っぽい事よりも、阿部と俺を覗き魔にしようとした、あの東浜高GSBC女子ソフトボール・クラブのリーダーを務める1年生の田中さんの方が、よっぽど強く記憶に残っている。

 思えば、あの時が、妹の香織と田中さんがなかむつまじくなる接点だったのだろうか──などと考えていると、奈々美はまだ江崎さんの事に付いて話していた。

「アンダー70のトップ90だとすると、最低でもFカップだから……あ、もしかするとGカップはあるのかもっ! 幾ら3年生でも、バスト90センチオーバーのGカップとか、ほんとに凄過ぎィー!」

 まるでアイドルの追っ掛けをしている女性ファンの様な輝いた顔付きで、奈々美は嬉々として、延々と江崎さんのボディスタイルに付いて語る。

 それを聞いた俺の脳裏に、その飄々とした顔立ちの下で制服を不格好に押し上げている、あの江崎さんの慎ましいとは全く言い難い、人並み外れたサイズの胸元の膨らみが思い浮かぶ。

 あんな大きな物が2つも上半身にくっついていて、肩とかは凝ら無いのだろうか。

 そんな下世話な考えをして、気恥ずかしさにちょっと頬が熱くなった俺は、その原因である下ら無い話を滔々とうとうとし様とする奈々美に釘を刺す事にした。

「お前は何、急に他人のボディスタイルの話で独りで盛り上がってるんだっ。俺の知り合いである江崎さんに付いて、そう言う下世話な話をするな。彼女は俺達の推小研とも、関係がある人何だぞ? 全く、その範囲は学校内に限られるとは言え、いみじくも全ての文化部の管理運営に付いて絶大な権限を持つ管理組織、東浜高文化部会の会頭である江崎さんを、お前は何だと思っている?」

「わ、私だって分かってるわよ、そんな事っ! って言うか、元々、いま推小研の部長をしている高梨君は、江崎さんのいる文芸部に入ってたんだし……」

「だったら、その余計な事を言う口はつぐんでおくんだな。江崎さんが陰口を叩かれたのを恨みに思って、推小研の活動を睨むようになったらどうする? 無思慮に叩いたお前の軽口のせいで、我が推小研は一巻の終わりだぞ? 全く、春先の事件の時の事を忘れたのか? 原因は違うが、あの時は、危うく活動停止になり掛けただろ」

「べ、別に良いじゃ無いのよ、隆一と私の仲なんだしっ! ちょっとぐらい、話してもぉ!」

「まあ、他の連中に隠れて、俺だけに話すならまだ良いがな……念の為、一言注意して置くが、江崎さんに付いて、他所よそでは絶対に今みたいな変な話はするなよ? そうで無くても、他人ひとの身体に付いておおっぴらに話題にする何て、社会人となるべき高校3年生のする事としては、基本的には論外だっ。今度、もしそんな真似をしたら、江崎さんの方はともかく、この俺が許さ無いぞ」

「……え? これぐらい、女の子同士の会話では、別に普通だけど?」

「ん? そうなのか?」

「そうよ! 男子は違うって言うの? って言うか、江崎さんの話題に対する、その激烈な反応……。隆一、やっぱりあんた、江崎さんの事、好きなの?」

「あぁ?」

 そう聞かれて、俺はドギマギする。

「おい、それに付いては、さっきも言ったろ!」

「ふん、どうだか」

「いや、正直な所、別に嫌いって程でも無いが、まだ、何回か話をした事があるだけだしな。別に、俺の方としては、正直、今の所彼女に付いて、そこまでの感情は無いな、うん。まあ確かに、美人でスタイルが良くて、おまけに有能で、中々、あこがれる存在ではあるが……。そもそも、お互いの性格が合うかどうか分から無いし、まだその辺の所は判然とし無い感じだ。って言うか、その相手がどれだけ美男美女でも、大抵の場合、そうじゃ無いのか?」

「んー、そう? 何か、怪しいわね……。案外、隆一みたいな真面目なのは、美女にコロッと騙されるタイプだから」

「ああ!? おい、誰が俺を騙してるんだ、誰が!? お前はあの江崎さんが、あたかも男を手玉に取っている悪女の様な事を言うなっ! あの人って、そんな人か!? つーか、あの江崎さんと自分を比べてる時点で、お前は自信過剰だっ! 鏡の前で、自分のその顔と身体を良く見て見ろ、そのルックスとボディスタイルを!」

「そ、それはそうだけど……って、何よそれ! 私は魅力無いって言う気ィ!?」

「流石にそこまで言う積もりは無いが……。じゃ、逆に聞くけどな? 例えば、お前はこの俺を見て、興奮したりするか?」

「え? えーと、えーと、それは……うーん……。うん、確かにそうね。別に男として見られ無い訳じゃ無いけど、一目見ただけでムラムラ来るとか、そこまででは無いわ。て言うか、私達みたいな関係だと、大体それが普通だと思うけど。お互いに幼馴染みだし」

「そうだろう。俺の方としても、その辺の所は、大体お前と同じだっ」

「あっそ。ふーん……。まあ、見てるだけって言うなら、隆一が想像の世界で何を考えてても、私は別に構わ無いわよ。夢の世界で、存分に妄想しても」

 奈々美は艶めかしいポーズを取り、こちらを見ながらニヤニヤする。

 そんな彼女の仕草を見て、俺は何度目かの溜息を吐くと、最後にこう尋ねた。

「なあ、奈々美? お前、今俺がした話、ちゃんと聞いてたか?」

 すると、奈々美は足をベッドの外に出してそこに腰掛ける様にし、腕を高く上げて、身体を伸ばす。

「あー、もう! どうでも良いわよ、そんな事っ! それより、んん~っ! あー、良く寝たっ!」

 と、俺はそんな奈々美の下半身を見て、忘れていた事を思い出した。

「そうだ、さっき言おうと思ってたんだが……そのズボンみたいなボトムスの留め金、外れてるぞ。家の中を歩き回る前に、直して置いたらどうだ?」

「え? ええっ!? わ、ほんとだっ! ひぃいい、何よこれぇっ! 勝手に外れちゃってえっ!」

 奈々美は外れているボトムスの留め金を中央に寄せて、寝返りを打った拍子で外れたらしいそれをきちんと留め直した。

「ううっ、恥ずかしいっ……!」

「全く、だらしの無い奴だ。寝て起きたなら、身だしなみくらい、きちんとするんだな?」

「ぐぅうう、緩いから注意してたのに……不覚ぅうう……!」

 奈々美は寝相ねぞうであちこちが乱れた服装を直し、悔しがる。

「しょうの無い奴だな。目をきちんと覚ます為に、洗面所で顔を洗って来たらどうだ?」

「はぁ、今度からベルトしよ……。そうね、そうする……」

 ぼんやりとした表情で、部屋を出て洗面所へと歩いて行った。

 引き出しの鍵を確かめる。

 どうやら、この中を探られてはいない様だ。

 余計な事をし無い様に、ネットへの接続を許可しておいて正解だったな。

 途中で引き返して来た奈々美が、顔を覗かせた。

「そうだ、隆一。ついでだし、ちょっと、この家のお風呂貸してよ? バスタオルは私、自分で持って来てるし」

「ああ? 風呂?」

 全く、何でこいつはバスタオルまで用意しているんだ?

 自分のやりたい事だけは、用意の良い奴だ。

 いや、良過ぎる。

 もしかして、こいつ、今日はうちに泊まる気だったんじゃ無いだろうな?

「……別に、風呂に入るのは構わ無いが、実は、うちの風呂は、そろそろ新しい湯に交換するつもりだった。そんな訳だから、入り終わったら残り湯を抜いて、湯船ゆぶねを軽く洗ってから、お湯を張っておいてくれ。俺はバイトして来たんだし、どうせなら、新しい湯にかりたいからな」

 一応、バイト先で毎回シャワーは浴びて来ているが、やはりきちんと湯を沸かした風呂にじっくりと入ら無ければ、身体の疲れは取れ無い。

 バイトからの帰宅後は早めに風呂に入って、自分の部屋で軽食でも摂りながらゆっくりするのが俺のいつもの土曜日の過ごし方なのであるが、今日は仕方あるまい。

「オッケ~! 分かったわ! ありがと!」

「あ、それと、新しい湯を張る前に、ちゃんと底のふたが仕舞ってるか確認してくれよ? もし湯がダダ漏れのまま蛇口を出しっ放しにしてると、水道光熱費が勿体無もったいないからな」

「だーいじょうぶよ! 隆一んのお風呂何て、子供の時から、もう何度も入ってるしっ」

「そうか? なら、良いが、ちゃんと湯の入れ替え、頼んだぞ」

「りょうか~い!」

 俺はそんな風にウキウキしている奈々美に釘を刺す。

「なあ、それと、風呂を貸して置いて何だが、気の許せ無い奴の家で、そう言う思わせぶりな事はするなよ。誘ってるんじゃ無いかと思われて、危険だぞ」

「もぅ、分かってるわよ! それぐらい! 私も自分の肉体的な魅力に付いては、それなりにわきまえてるしっ」

「はぁ……?」

「……ん? 何? 何か変な事言った?」

 それに付いて言及すると何だか面倒な事になりそうなので、俺はコメントを控えた。

「ああ、もう良い。どうでも良い、気にするな。で──推小研に出す原稿の方は、ちゃんと仕上がったんだろうな?」

「ええ、勿論よ。これから読んで貰うから、感想を聞かせて頂戴」

「ああ。──あ、そうだ。丁度良いから、お前が入るついでに、香織も一緒に風呂に入れてやってくれ」

 と、そこで俺はドアの外の廊下に向けて大声を出す。

「おい香織ー! これから奈々美が風呂に入るから、お前も入って置け!」

 そんな風に、キッチン兼リビングに声を掛けると、

「え? あ、うん!」

 香織は見ていたテレビを消し、風呂場へと直行した。

 


「さてと……」

 風呂場の方が奈々美と香織の声で騒がしくなり始めたので、俺は出掛ける前から予定していた行動を実行に移す事にした。

 2人が極楽なバスタイムを愉しんでいる間、俺は客間に行き、或る作業をせねばなら無い。

 作業完了までに掛けられる時間は、今から5分以内、長くて10分以内と言った所だ。

 俺はキッチン兼リビングの椅子から立ち上がると、麦茶の入った飲み掛けのグラスを一応のアリバイの証拠としてテーブルの上に残し、無人の客間へと向かった。

 客間に入ると、そこのテーブルの上に置かれた奈々美のノートパソコンの前に行き、その前に座る。

 まず、筐体の全体を眺めて、電源ボタンの位置などを把握する。

 だが、良く見ると、そこから伸びるACアダプターの付いた電源コードは、コンセントに挿しっ放しであり、キーボードの側にスリープと書かれた緑色のランプが点灯している事に気が付く。

 軽くキーボードに触れて見ると、真っ暗だったパソコンの画面に明るさが戻り、スリープモードになっていたOSが起動した。

 首尾良く奈々美のパソコンの起動に成功すると、俺はこれからやるべき作業を頭の中で整理する。

 さて、プライバシーの問題はひとまず置いておくとして、まず、今日の昼間、奈々美がうちのネット回線で一体どこにアクセスしていたのかを確認せねばなるまい。

 俺は奈々美のパソコンに、持って来ていた自分のUSBメモリを差し込むと、画面に並んだアイコンを眺め、ネットブラウザをクリックする。

 すると、ニュースや占いやらショッピング、オークションなど数々の項目が並んでいる、お馴染みの検索エンジンのトップページが開いた。

 俺はブラウザの設定欄に矢印を移動させ、アクセス履歴を表示して見る。

 特に表示すべき履歴の期間は、本日の午前11時から今現在までの間、即ち、直近の6時間程度だ。

 この履歴を調べ上げれば、今日の昼間、奈々美がネットサーフィンでどんなサイトを閲覧していたのか、バレバレなのである。

 ブラウザに残された履歴をざっと見た感じ、奈々美は主に、推理系のドラマやらアニメの情報検索と、由緒ある刀剣などを擬人化した人気の乙女系ブラウザゲームにアクセスしていた様だ。

 ──と、これは何だ?

 俺はその履歴の中に埋もれた、如何にも怪しげな単語を発見する。


 そこには、「Sexyセクシィ Maleメール Bodiesボディズ」……とあった。


 気になるので、履歴からそのURLをダブルクリックして、新しいタブでそのサイトを開いてみる。

「うえっ……!」

 開いたばかりのタブ・ウィンドウの中では、むくつけき裸の男たちが、様々なポージングを取り、自らのその鍛え上げた美しく強靭な筋肉を誇示していた。

 一応……パンツは履いていたが。

 俺はむせ返る様な男臭いムードを放つタブを閉じ、更に履歴に目を通す。

 中には「マッチョ男子胸筋きょうきん祭り」などと言う、酷くアクセスしたい気分を削がれる単語もあったので、俺は軽くそれをスルーし、履歴のデータをコピーして、差し込んだ自分のUSBメモリにテキスト・データで保存した。

 画像のサムネイルや、軽量ならば幾つかのデータも拾っておきたいが、それはこのUSBメモリをパソコンに差し込んだ瞬間から自動的に作業を開始しており、現在では既に終わっている。

 ひとまず、これで俺のするべき作業は完了だ。

 後は、奈々美のアクセス履歴の細かな内容の精査とバイト先への報告だが、それは後でじっくりすれば良い。

 ──と、安堵しながら、ブラウザの履歴の最新の部分に目をやると、そこにたった今、俺がアクセスしたばかりのサイトが表示されているのに気付いた。

 全く、危ない危ない……。

 URLとしては、元々、今日の昼間に奈々美が訪れたサイトなので、それ自体は不自然では無いのだが、そう考えるには、履歴に並んで表示されている、そこにアクセスした時刻の記録がおかしい。

 俺はマウスを操作し、それらを履歴から選んで削除し、見かけ上、今の時間には、どこにもアクセスし無かった事にした。

 アプリの利用履歴などが記録されるイベントログも同様に改竄し、今しがた奈々美のパソコンを操作したと言う全ての痕跡を消去すると、俺は奈々美のパソコンを再びスリープモードにして客間を去った。


 俺はダイニング兼キッチンの椅子に座り、一息付きながら、奈々美のパソコンの利用方法に付いて、軽くいきどおっていた。

 ──全く、奈々美の奴め、一体何をやっているんだ?

 ああ言うネットサーフィンなどをする時には、ブラウザや他のアプリの処理が重たくなったり、更には、OSのカーネルがメモリリークを起こして、アプリのフリーズやOSのクラッシュに発展するのを防ぐ為にも、時々、履歴と共にブラウザのキャッシュを空にして置くのが基本的な利用方法だろうに。

 後、確かに閲覧していたサイトの中にアダルト・サイトは無かった様が、刺激が強過ぎるので、香織には余り見せたく無いものである。

 香織が中学生の時から付き合っている友人の阿部も、奈々美と同じく運動部ではあるが、ずっと野球でピッチャーをやっているせいで基礎体力は高いものの、そこまでムキムキの筋肉質では無い。

 全く、お前のせいで、あいつがボディビルを極めた筋肉ダルマの様な男を好きになる様になって仕舞ったら、一体どうしてくれる?

 もしこの若いカップルの仲が、好みの違いなどと言う理由でこじれる様な事になったら、それは奈々美、全部お前のせいだ。

 そんな事を考えながら、キッチン兼リビングに戻り、家の風呂場を占拠している2人の帰還を待った。

 

 ──2人が俺の家の風呂から上がった後、香織は宿題をやるなどと言って自分の部屋に戻ったので、俺と奈々美は一緒に客間に移動し、例の推小研に出す作品に付いての話を始めていた。

 奈々美は執筆した作品の内容を自ら解説しながら、起動しているノートパソコンを俺の方に向ける。

「……と言う様な、食傷気味に陥りがちな無難で良くある路線に走らず、今まで誰も読んだ事の無い様な、冒険的かつ挑戦的な作品に仕上げてみました」

 得意満面の奈々美を他所に、俺は歯の浮く様な気持ちで奈々美のパソコンの画面に表示されている奈々美の力作を読む。


 ざっと作品に目を通した感じ、今しがた奈々美の口から滔々とうとうと述べられた彼女独自の作品理論も、実際にそれを読んでみると、その文学的意図とは裏腹に、全ての仕掛けが裏目に出ている様に思える。

 こんな駄作を部長の高梨たかなし玲人れいとに読ませたら、余りに下手過ぎて怒る気さえ無くしそうだ。

 結果としてそう言う意味では、奈々美の書き上げた作品が高梨のその眼鏡に適う作品では無いだろうと言う俺の予測は、まま当たっていた訳だ。


 しかし、助詞の「てにおは」すらおかしい、この奈々美の文章の文豪っぷりはどうだ?

 とにかく、絵にしても小説にしても、奈々美はそう言う芸術分野に、まるっきり向いてい無いのだ、と言う事だけは分かった。

 仕上がった初稿を一通り読み終えた俺は、どんな感想を期待しているのかニヤニヤして待っている奈々美に、最も指摘したい部分についての話を切り出した。

「で──。お前の書いたこの小説の結末なんだがな」

「何?」

「……この、『犯人は犬でした』って言うのは、本当にこれでいのか?」

 そんな俺の疑問に、ノートパソコンの前であぐらをかいていた奈々美は、その身を乗り出す様に返答する。

「良いわよ! 良いに決まってるじゃなーい!! いや、むしろ、そこがこの私の作品で最大に良い所なのよ! 良い? 推理作品って言うのは、意外なトリックとか意外な犯人みたいなサプライズ、つまり驚きの要素が必要なの! 私がこの作品で第1に目指した物……それがサプライズなのよ! 兎に角、推理物は意外性が大事でしょ!?」

「それは、そうかも知れ無いがな……」

「でしょ!? じゃあ、犯人が犬って事なら、意外性は満点のはずよ。ううん、そうに決まってるわ。犯人が犬──私は初めに着想を得たこの部分に、推理物の新境地を切り開く一つの可能性を見出したの。だから、頑張ってみた訳!」

 俺は奈々美のこの執筆姿勢に、思わず呆れて仕舞う。

「はぁ……。可能性があると言うだけで、お前は良くそこまで、自分に自信を持って頑張れるな?」

「う、うるさいわねっ、良いでしょ……」

 そうこぼして、奈々美はすねた様に横を向く。

「所で、この原稿、題名の部分に何も書かれて無いみたいだが、もうタイトルは決まってるのか?」

「そう言えば、まだ私のこの傑作に冠するに相応しい題名を決めて無かったわね。──と言う訳で、今考えた作品名を発表します。そう、この小説の作品名は……題して、『コーギーの殺意』!」

 お前は何を口走っているんだ。

「はぁ? コーギー? おい、奈々美。お前、それ、マジで言ってるのか……?」

 俺は犬には詳しく無いが、あの人懐ひとなつっこくて大人しそうな胴の長い犬種が、人殺しなどと言う大それた事をしでかすとは、どうしても思え無かった。

 ここまで来ると、もはや部誌の読者に喧嘩を売っているようにしか思え無い。

 いや、そもそもそれ以前に、そう言うタイトルを付けんとする奈々美の発想には、根本的な問題がある。

「マジもマジ。大マジよ! ……何よ。悪い?」

 俺は溜息を吐いて、今しがた奈々美の考えた作品タイトルの欠点を指摘する。

「おい、その『コーギーの殺意』って、読者に隠すべき推理のきも、言わば作者の出題した推理問題の答えである真犯人を、既にタイトルの時点で言っているだろう、タイトルで。それのどこが意外なんだ? 意外性を狙って行くなら、最低でも誰が犯人かと言う核心の部分は、ぼかしておくべきじゃ無いのか?」

「あ、そっか……。それもそうね」

 と、奈々美は考え込む。

 更に俺は言葉を次ぐ。

「言うなれば、秘すれば花と言うか、何と言うか……。こんな風に大して複雑なトリックを盛り込んでる訳でも無いのなら、タイトルを付けるならもっとこう、推理の核心部分を霧に包み込む様な、抽象的なものにして置いた方が良いと思うぞ?」

「うーん、じゃあ……。『姿無き殺人者』、とかはどう……? そうね、ルビは格好良く英語にして、ザ・インビジブル・マーダー!」

「『姿無き殺人者ザ・インビジブル・マーダー』か──。核心をぼかしたのは良いが、今度は抽象的過ぎて、何だか印象に残ら無いな。ザ・インビジブル・マーダー……まるでタイトルとは別に沿えられる謳い文句のようだ」

「そうね……。じゃあ、それをルビ振りで使うのは止めて、サブ・タイトルにする」

「そう言う問題か!?」

「あ、そうだ。良い事考えた」

 奈々美の能天気な頭は、今度は何を思い付いたのだろう?

「何だ? 早く話せ」

「作品を折角ここまで書き上げたんだし、推小研に提出して高梨君とかに見て貰う前に、朋花ともかに見て貰って、感想を付けて貰うのよ。そのついでに、作品のタイトルを決めるのに参考になる意見も貰って……」

「おい、止めろっ! そんなのは後で良いっ!」

 俺は携帯を手に今にも桧藤にメールを送ろうとする奈々美を見の当たりにし、慌ててその腕を掴み、止めに掛かった。

 このままでは、奈々美の作品が俺とのほぼ合作であると言う、隠したい事実があちこちへと飛び火して仕舞う。

「ちょ、ちょっと! なんで止めるのよ! こら! 隆一! 腕を離しなさいっ! 今、私のこの一大傑作を……」

「駄目だっ! 全く、何て事をしようとしているんだ、お前は!?」

 俺はケータイを握る奈々美のその腕にかじりつく。

 今の奈々美は、ド下手糞な歌を歌う代わりに、下らない小説を書いて、他人に無理やりそれを読ませるジャイアンだ。

 この調子だと、明日の日曜日には、ジャイアン・リサイタルならぬ奈々美朗読会を急遽きゅうきょとして実施しかね無い。

 しかも、エアコンの壊れた奈々美の家では無く、この俺の家で。

 そうとなれば、部長の高梨や、副部長を務める2年生の長瀬ながせ真紀まきの方はちょっと分から無いが、奈々美と同じくミーハー族の有栖川や阿部なら、嬉々としてこの奈々美の悪ふざけに乗って来るはずだ。

 それに釣られて、高梨の双子の妹である早苗さなえちゃんと香苗かなえちゃんも来る事だろう。

 何しろ、その2人は妹の香織と同じく、GSBC女子ソフトボール・クラブを構成する中核メンバーだからな、以前の様に、遠慮無くうちにお邪魔しに来るに違い無い。

 桧藤ひとうの方は──人の良いあいつの事だ、誘われれば、その内心は渋々の事だろうが、親友である奈々美との付き合いを考えて、一応、来る事だろう。

 それはそれで俺としては一向に構わ無く、どんどんやって欲しいくらいだが、問題なのは、この奈々美の書いたコーギー犬が殺人事件の犯人と言う荒唐無稽なクソ駄作に、俺が関わっていると言う点だ。

 俺は必死で、奈々美のこしらえた問題が拡散するのを止める言い訳を考える。

 腕相撲の様な事をしているその内に、奈々美が根負けした。

「わ、分かったわよ! 分かったから、ちょっと腕を離しなさいよっ! 血行が悪くなっちゃうでしょうがぁっ!? わあ! ウギャアー!! 腕がもげるーっ!!」

「おいこら! たかが腕を強く掴んだ位で、そんな死ぬ騒ぎをするなっ! 全く、チンピラの当たり屋か!? お前は!? じゃあ、俺から手を離すが……良いか、そのメール、絶対に桧藤ひとうには送るなよ?」

「わ、分かったわよ! 分かったから、早く離して!」

 お互いに奈々美のケータイを取り合って取っ組み合いをしていた俺と奈々美は、ようやく離れ、はぁはぁと息遣いも荒くその場にへたり込んだ。

「はぁ……ま、まったく、何を大騒ぎ、してるのよ、はあ。たかが、メールくらいで、はぁ」

「そんなものを、はぁ。あいつに送信する、前にだな、はぁ。やる事が、一杯あるだろ……。はぁ……。と、とにかく、それを送るのは駄目だっ」


 と、その時。

「あれ? にーやんと奈々美ちゃん、そこで一体何してるの? そんなに息を切らして……?」

「あ?」

 突然の香織の声に、俺と奈々美は唖然としてそちらに視線を向けた。

 香織は如何にも不審そうな目で、軽く汗までかいて疲弊している俺達2人を眺めている。

 どうやら、先程からこの客間が騒がしいので、気になって様子を見に来た様だ。

「え? べ、別に何でも無いのよっ!」

「そ、そうだ。何でも無いぞっ! ちょっと、推小研部の今後の活動の上で、いさかいになって、論争をしていただけだっ」

「そう? いま私、宿題やってるから、にーやん達、あんまりうるさくし無いでよねっ?」

「あ、ああ。悪いな、香織」

 部屋に戻る香織を見送り、奈々美よりも一足早く呼吸を整えた俺は、その場に立ち上がる。

「はぁ……。奈々美、お前は目を付けて無いと、本当にとんでも無い事をしでかそうとする奴だな? おい、ちょっとそのケータイ、預からせて貰うぞっ」

 俺はそう言って、奈々美が持っていたケータイをひったくる様に我が手に納めた。

「あ! ちょっと! どさくさに紛れて、他人ひとのケータイを盗ら無いでよっ! この泥棒っ! 怪盗ロワイヤルッ!」

「誰がるか! こんな物っ! ちょっと、お前が桧藤に送る積もりだった、メールを見せて貰うだけだっ!」

 俺は奈々美のケータイをいじって、その操作を試みる。

「なら良いけど、私のケータイに……変な事し無いでよね?」

「変な事って……例えば、何だ?」

 俺は慣れ無い手つきで奈々美のケータイを操作する。

「送受信したメール消したりとか、どこかにチェーンメールを送ったりとか、後はエロサイトを覗いたりとか」

「はぁ? 誰がするか! そんな下ら無い事!」

 そう言って俺は、奈々美が列挙した俺にケータイを任せる事で起こり得る心配の数々を一言いちごんもとに否定し、彼女がクラスメートの桧藤ひとうに送ろうとしていたメールの全体をチェックした。

「あー、やはりな。やっぱりそうだった」

「な、何がやっぱりなのよ? もう!」

「おい、奈々美もちょっと見て見ろ。お前が送ろうとしていたこのメール、お前の作品のドキュメントが添付されているから、メール全体の容量が30MBメガバイト以上もあるぞ? お前、どうやったかは知ら無いが、そのパソコンからこっちのケータイの方に、そのまま作品のデータを送っただろう? こんなデータ容量の大きい小説のドキュメントを、圧縮もせずに桧藤のケータイに送る積もりだったのか、全く! 馬鹿か、お前は!」

「はぁ? な、何でよ!? 何が馬鹿なのよ? そんなの、別に良いじゃ無い! 最近のスマフォって、データの保存容量もGB《ギガバイト》単位で備わってるし、オフィスソフトとかのデータも開けるアプリあるし……」

「そう言う問題じゃ無いんだっ。お前はこのメールのデータ・サイズを見て、分から無いのか!? もしそんな事をして、あいつがパケ死したらどうする、パケ死したら!? もしそんな事になったら、あいつの今月分のケータイ料金はお前が出せっ! お前が! どう考えてもこんな物送ったら、ケータイキャリアとの契約内容次第では、パケット代は数千円にもなるぞ!?」

「え? そ、そんなにっ!? え、で、でも、こないだ朋花と話した時に画像を送ろうとしたら、ケータイ新しくした時に料金は定額制にしたから、何枚でも大丈夫って言ってたし……」

「は?」

 何だって?

 俺は呆気に取られる。

 全く、何でそんなバッドタイミングでケータイの料金契約を定額制に切り替えて仕舞ったんだ、桧藤の奴は。

「そ、そうか、なら、容量の話はとりあえず良い!」

 だが、ここで終わる訳には行か無い。

 俺にはまだ、第2の策が用意してある──。

「そ、それにだっ! 料金の方が定額制で大丈夫だったとしても、メールを送る時には、マナーと言う物があるだろうが、マナーと言う物が! このお前の書いたつたない長編小説を、パソコンの大きな画面で読ませるならいざしらず、ケータイのあの小さな画面でちまちまと読ませる積もりか? それであいつの近視が進んで、ますます目が悪くなったらどうする!? ますます目が悪くなったら! そうなったら、お前がその治療費を出せっ! あいつが新しい眼鏡を作る代金とか、レーシック手術に必要な料金だっ」

「ぐ、ぐぐぅ……」

 奈々美との合作だとか、そんな事になっては敵わ無いので、俺は桧藤が粗削りな作品を読むべきで無い理由を一気にまくし立てた。

 奈々美は納得したのか、奈々美はシュンとなって声のトーンを落とし、俺の方へ片手を差し出す。

「分かった。今送るのは止めにする……。とりあえず、私のケータイ返してよ」

 俺からケータイを受け取り、奈々美はその画面と一体になった二つ折りの蓋を閉じる。

「ああ、それが賢明だっ。友達に迷惑を掛ける前に、思い留まって良かったな?」

「そうね。うん、確かにそうかも」

「後、話は変わるんだが、そのお前の作品を読んだ上で、もう一つ、言って置きたい事があるんだが」

「む? 今度は何よ?」

「なあ、奈々美。お前……今まで、推理小説とか読んだ事無いだろ?」

「ギクッ! え……な……何で分かるのよ!?」

 はぁ、やれやれ。

 どうやら、奈々美の作品を読んだ上で考えていた俺の予想は、図星だった様だな。

「何だ、やっぱりそうか。なら、この作品を人に見せるのは、少なくともお前よりは推理小説に詳しい、この俺がチェックしてからが良いだろうな。若干の修正を施したほぼ同じ作品を何度も送り付けるのは、先方にも迷惑だろう」

 そうで無ければ、後々の口裏合わせが面倒になる。

 そうある為には、俺は何としてでも、この奈々美の書いた何から何まで無茶苦茶な推理小説らしき首を傾げたくなる様な創作活動の産物を、どうにか読めるレベルにまでブラッシュアップせねばなら無い。

 と言う訳で、俺はその修正作業に向けた査読を落ち着いた環境で行う為、そろそろ奈々美をこの場から去らせる事にした。


「そうだ奈々美。もう外は、気温も下がって来た頃だろ? お前のこの作品の推敲と言うか、字句や文章の細かい修正は、推小研屈指くっしの編集担当の俺に任せて、お前はそろそろ、自分のいえに帰ったらどうだ?」

「ええ? な、何でよ? これから隆一の意見を聞きながら、ここで仕上げをし様と思ったのに」

「そうか。しかし、今気が付いた事なんだが、ちょっと、まずい事になった」

「な、何よ? まずい事って……」

 俺はそこで、ずっと点けっ放しで冷風を吐き出している壁のクーラーを見上げた。

「実は、俺の家は案外と厳しくてな。電気代を節約する関係で、クーラーの使用時間は、1日3時間までと決まっているんだ」

「えぇっ!? そうなの!?」

「ああ、実はな」

「ちょ、ちょっと待ってよ。私、そんな事、聞いて無いわよ?」

「そうだな、今回は、事前に言わ無かった俺が悪い」

「そ、そんなの、黙っときゃバレ無いでしょ……。事前に私にそれを伝えて無かったあんたの責任として、そこは隆一の方で上手く誤魔化しなさいよ」

 と、奈々美は俺に迫る。

「あ? し、しかし、クーラーの事をこの場では誤魔化せても、翌月来る電気代の請求書の数字は、どうやって誤魔化すんだ?」

「翌月の請求? うーん……あ、待って」

 奈々美は何か疑問を思い浮かんだ様に、自分の顎に手を当てて首を傾げる。

「……って言うか、隆一はいえのエアコンの使用時間のルールを破ったって言うけど、それって、今日1日だけの事でしょ? この客間のエアコン、隆一の部屋で寝る前に消したから、私がエアコンを使ってたのは、合計にして約5時間ぐらいなのよ。そんな2時間ぐらい使用時間の差なんて、1か月分で来る請求なら、平均化されてバレ無いと思うのよね」

「そ、そうか?」

「だから、別に何も言わなければ、大丈夫でしょ……。って言うか、家で使う電気って、別にこのエアコンだけじゃ無くて、冷蔵庫とか電子レンジとかパソコンでも使うから、仮に電気代が増えた事がのちに発覚しても、その原因は、今の季節的な気温変動によるもの、って事にすれば、大丈夫だと思うけど」

「ああ、なるほど、そうかもな……」

 全く、幼い頃から、香織も含む俺との3人トリオで、ちょっとしたユーモアにあふれたイタズラと言うか、その多くは不始末をしでかし、周りの大人達にしょっちゅう叱られていたせいか、こいつはそんな周囲の大人の目から、自分達のしでかした悪事を隠蔽いんぺいする事にだけは天才的な頭脳を発揮する。

「じゃあ、クーラーの電気代の方は、今回はこの俺が電気代の締日しめびまで少しづつ節約して、何とか誤魔化して置くから、大丈夫だ。て言うか、もう遅い時間だし、親御さんを心配させ無い為にも、奈々美、お前は早く帰れっ」

「ちょ、ちょっと待ってよ、今、スケジュールを考えるから。うーん……今日帰って、1人で作業をして、明日起きて……。いや、駄目ね。やっぱり今日中に、ある程度まではこの原稿を仕上げなきゃ」

「はぁ!? なあ、奈々美。ちょっと、そこの時計を見てくれ無いか? 今何時だと思っている? こんな時間なのに、お前はこれ以上まだ居座る積もりなのか? 今日は母親が遅くなるから今の時間でもまだ大丈夫だが、普段なら、この時刻でもちょっと遅い方だぞ? 予め、お互いの両親に話して承諾の上で、最初から泊まりで遊びに来る予定だったとかなら分かるが、幾ら何でも、これ以上は遅過ぎだ」

 奈々美は壁の時計を見る。

 なんやかんやであれこれしてる内に、いつの間にやら時刻は既に午後6時半を過ぎようと言う頃合いだ。

「あ、ほんとだ。もうこんな時間か……」

「そうだろ。だから、お前はもうそろそろ帰って、自分んの夕飯の支度でもした方が良いんじゃ無いか」

 今頃から、奈々美が加筆・修正そして推敲の目途を含めた第1稿の完成作業の為に、このままダラダラと我が家に小1時間ほど居座り、その後に散らかった客間の片付けをして帰宅したら、彼女が家に着く頃には、時刻はゆうに午後8時を過ぎて仕舞う事だろう。

 感覚的には、午後7時頃ならばギリギリ『夕方』と呼ぶ奴も結構いるだろうが、8時過ぎともなると、これはどう考えても『夜』だ。

 幾らその目的が、部活動で必要な部誌に掲載する原稿を仕上げる為であり、また、それが奈々美本人の要求によるものとは言え、女子高生を夜中まで家に居させた挙句、その帰途で何かあったとなると、これは、彼女をそんな時間まで居座らせた俺にも責任無しとは言え無いはずだ。

 奈々美の言う事も分かるが、明日と言う日もある事だし、時間が遅くなりそうなら早めに切り上げる段取りをし、夜になる前にとっとと帰って貰いたいのが、来客を受け入れた側の本音である。

「な、何よ! 晩御飯の準備って? そんなの、うちの勝手でしょ! 何を食べるとか誰が作るとか、そんなの余計なお世話だし……。って言うか、うちの晩ご飯って、いつもお母さんが適当に作るから、私はその用意をし無くてもいの」

 案の定、帰宅をうながす俺の言葉に、奈々美は反発して来る。

「あ、そうなのか? あ、いや、お前んの夕食の用意を誰がするのかとか、そう言う問題じゃ無くてだな……」

「じゃあ、どう言う問題よ?」

「だから……おい、さっきも言ったろ! 遅くなるから、お前はもう帰れって事だっ」

「はぁ? 何でよ! 入力は終わってるけど、その推敲はまだなのにぃ!」

「はぁ……。なあ、奈々美。お前マジで、まだうちに居座る積もりなのか?」

「うーん、いや……。そうよね、確かにこの時間だと、もう遅いかも……。あんまり長居しても非常識だし、隆一の言う通り、今日は帰ろうかしら」

「そうだ。長居は無用だぞ。とっとと帰れ」

「何、あんたは折角邪魔しに来た親友を追い帰そうとしてるのよ……。今、スケジューリングを考えてるから、ちょっと待ってて」

 そうして、しばらくうつむいて考え込んでいた奈々美は、ようやくその顔を上げた。

「……分かったわ。決めた。とりあえず、今日は帰る」

 そこでようやく、奈々美は帰宅する決心を言葉にする。

「そうか。良く決断してくれたな。今朝、ここへ来た時には随分図々しいと思っていたが、お前にも中々良い所があるじゃ無いか。ま、明日あしたは日曜日で俺も暇してるし、一緒に推敲するなら、明日あすの午前中にでも、またうちに来いよ」

「何で褒める部分がそこだけなのよ! 私って、もっと良い所一杯あるでしょうがぁ!?」

「お前は、他人の言った言葉の端々はしばしと言うか、ちょっとした冗談に、いちいち突っ掛かって来るなっ」

「あっそ。冗談ならいわ。じゃあ、明日も午前中に来るから、宜しく……。あ、待った。今の無し。明日は駄目なんだった」

「ん? 一緒に推敲し無くて、良いのか?」

「いや、そう言う隆一の気遣きづかいは本当にがたいんだけど、実は私、明日の昼間って、前から約束してた大事な用事があって、ここに来れられ無いのよね。……って訳で、明日は、今のこの下書きみたいな作品を私なりに推敲した物を、夕方から夜に掛けての時間に、隆一のパソコンにメールで貼付して送るから、隆一はそれを読んで、明後日あさっての月曜日の朝までにその修正を終わらせてくれると良いんだけど?」

「ああ、そう言う事情か。しかし、それだと、時間的にスケジュールがちょっとキツいぞ? 何とか、昼過ぎくらいまでに出せ無いのか?」

「無ー理ー! どう考えても、明日の夕方以降ね。早くて今頃の時間帯。6時過ぎ頃」

「そんなに遅くにか……。てか、それじゃあ、俺の校正と推敲が終わってから、お前がそれを見て直す暇が無いだろう? それはどうするんだ?」

「それは……今回はまだ第1稿だし、原稿は隆一の責了せきりょうって事で良いわ。とりあえず、明日渡す原稿を直せるだけ直して、月曜日に学校に持って来てよ」

「そうか……。俺は別に、明日の夜に用事がある訳でも無いしな。それならきっと、大丈夫だろう。良し、明後日に出す現行の最終的な調整の方は、俺に任せて置け」

「そう! あー、良かった! これで心置き無く遊べ……じゃ無かった、用事を済ませられるわ。 サンキュー・ベリー・マッチ! それじゃあ隆一、頼んだわよ!」

 そして、奈々美は客間に散らばっていた自分の荷物を、そそくさと集めて手提げバッグにまとめると、「今日は本当に助かったわ。ありがと!」などと半日間の居候いそうろうと風呂の礼を言い、靴を履くやいなや、玄関の扉を開け、小走りで帰って行った。


 ──その翌日。

 待ちに待った日曜日は、残っていた宿題は昨日、奈々美が帰ってから入った風呂の後に済ませて仕舞い、バイトも無く、ゆったりと過ごす事が出来た。

 そして、その夕刻の事──。

 予報によれば、今日も熱帯夜になりそうだ。

 心配していた奈々美朗読会も開催される事は無く、俺は久々の休日を何とか無事に過ごす事が出来た。

 奈々美の作品に付いては、推小研の発行する部誌『クォーツ』の編集を担う部員の1人として、責任を持って今日の午前中に軽く査読して数十か所を修正し、あいつのパソコン用のメールアドレスに貼付して送って置いた。

 相変わらず読むに堪え無い作品だが、俺の施した文章修正で、多少はマシな物になったはずだ。

 そろそろ、返信が来る頃かも知れ無い。

 来春の大学入試に向けた受験勉強の一環として、自前で買った英会話教材のリスニングをしつつ、適当にブラウザ・ゲームなどをしてくつろいでいると、デスクトップのメール・ソフトのアイコンに着信表示が点灯する。

 どうやら、昨日、あの後帰ってからも真面目に加筆作業を進めて、たった今、それを完了したらしい。

 それはまあ、良いとして──。

 で、一体何なんだ、この分量は?


 あいつから送られて来た、第1稿に加筆修正を施した第1・5稿とも言うべき原稿の分量──それは、昨日の昼間に読んだ初稿に比して、ほぼ2倍弱に膨れ上がっていた。

 しかも、あのド下手糞な文章は、相変わらずそのままで。

 奈々美は普段からケータイなどを使っているせいか、その書き上げた文章はまるで下手なくせに、キーボードのタイピングだけは速い様だ。

 奈々美は食事を摂った後、眠くなって意識朦朧とした状態で筆が乗って来たのか、所々、明らかに日本語がおかしい。

 定期試験で学内1桁を複数回取った事のある程、現国の科目が得意な俺でも、その奈々美の原稿の中には、何度読んでも指示語の示す主語の分から無い文が、数えてみただけで少なくとも20以上はある。

 更には、接続詞、副詞、動名詞、助詞であるてにをはの使い方までが、滅茶苦茶である。

 場所によっては、指示語に対応する言葉や、その主語や述語に最低限必要な説明である修飾語の一部までが足りてい無い。

 これでは全く、まるで小学生が書いた作文である。

 それも、かなり低学年の──。


 俺は前日比2倍弱で分量の増えて仕舞った第1・5稿を前に、雷にでも打たれた様なショックを覚えて半ば呆然ぼうぜんとしつつ、修正時間があるのかどうか分から無い様な限界ギリギリの時間にこれを送り付けて来た、作者の奈々美に連絡を試みた。

 ケータイから電話をしてみるが、やはり出無い。

 今の時刻的に、この第1・5稿を脱稿して、その開放感から既に眠りに就いて仕舞ったのだろう。

 こんな無茶苦茶な出来映えの作品に、万が一、俺が関わっていると言う事が奈々美の口から漏れれば、事である。

 一応の第一稿の締め切りは明日だと言うのに、全く、奈々美の奴め、一体何をしでかしてくれたんだ。

 こうなったら、もはや文章だけで無く、明日に行われるであろう高梨の検閲けんえつ……もとい査読に備えて、内容の方も修正した方が良いかもしれない。

 そんな風に思ってこれまで読んだ推理小説の内容を思い出して見るが、俺自身、ライトな感じの作品ならともかく、本格的な推理小説など、これまでもせいぜい7、8冊しか読んだ事が無い。

 それも、1行1行深く読み込むのでは無く、その内容をざっと把握するだけの斜め読みだ。

 つまり、奈々美の作品にある根本的な部分を判断するには、俺にはいささか推理小説に関する見識が足りてい無かった。


 パソコンの画面に大きく表示した奈々美の1・5稿を前にきゅうした俺は、そうすべきかどうか散々迷った挙句──結局、俺の知りる限り、推理小説と言うこの分野に掛けて最も高い見識を持っているであろう人物──つまり、県立東浜高校推理小説研究部の現・部長であり、そこで発行している部誌『クォーツ』の編集長でもある、友人の高梨たかなし玲人れいとに、仕方無く、直接に助言をう事にした。

 俺は時計を見る。

 多分、今ぐらいの時間であれば、まだ高梨は起きているはずだ。

 俺は画面の端にマウスカーソルの矢印を移動させ、そこにあったいつもゲームをする時に利用している、パソコンのゲーム統合プラットフォームのアイコンをダブルクリックして起動した。

 この統合プラットフォームは、知り合いや友達がパソコンの前にいる時に、お互いの連絡を取り易くする為の、仲間内での手段である。

 ソフトやダウンロードコンテンツの購入に訪れる窓口の他、マイページやチャットと言ったユーザー同士のコミュニケーションツールがあり、もし、登録した仲間がそれを起動しているなら、その状態が表示されると言う訳だ。

 オンラインでプラットフォームを起動中の表示があるフレンドリストの中を調べ、高梨もそれを起動していないか確かめて見る。

 幸い、フレンドリストには、高梨のID名がオンライン中として表示されていた。

 奴も今、自分のパソコンを起動して、何かやっている様だ。

 フレンド同士の連絡に使えるチャットのボタンをクリックし、そこに文字を打ち込む。

「よう、高梨。ちょっと今、チャットで相談したい事があるんだが、構わ無いか?」

 相手は画面の向こうに居た様で、すぐに返信が帰って来た。

「成海か。構わ無いが……どうした?」

「次に発行する部誌に載せる予定の原稿だが、明日が一応の締め切りだよな。それで、松原の奴なんだが、一応、原稿は書き上がってるんだが、あいつ、恥ずかしがって、まだお前に見せたく無いと言うんだ。そこで、細かい部分は兎も角、大筋のプロットに関してだけ、お前の助言を得て置きたいんだが」

 その表面おもてづらは努めて平静を保ちつつ、内心は必死の俺は、高梨に奈々美の作品の内容を伝え、教えを乞うた。

「……ほう、殺人事件か」

 高梨は、俺の話に興味を示した様だ。

「本格推理には日常系ミステリーと言う分野もあるが、初めて書くのなら、まあ、基本的には殺人事件にしたのは、無難な選択だろう」

「そうなのか? なら、どうやらそれは大丈夫みたいだな。読んだ感じ、あいつの作品も、ちゃんと人間の死体の出る殺人事件になっている」

 どうやら奈々美の作品は、高梨の示す基準の第1段階に付いては、確実にクリアしている様だ。

「その手の殺人事件を扱う場合、全体の構成としては、極力、前半までに事件発生が明らかになっていると良い。まず最初に死体の発見された具体的な状況を読者に提示し、次に、探偵役か、或いはその助手を務める主人公が、その現場などを捜査して犯人を当てて行くのが、Who dоne itフーダニット型の推理作品の基本パターンだ」

 なるほど、確かに読んだ俺に取っては、いささか食傷気味と言うか世間の常識に照らせばありきたりな構成ではあるが、それはある意味で推理小説を分かり易くする為の王道、一種の黄金パターンである。

 高梨の考え方としては、きっとこう言う事に違い無い。

 これまで推理小説など全く書いた経験の無い奈々美に小難しいテクニックを教えても、どうせすぐにはそれを物に出来まい。

 ならば、とりあえず初心者でもすぐに使えるような、シンプルで飲み込み易く、かつ意味のある、推理作品の定石じょうせきを教えて置く。

 そう言う、高梨の心遣いだろう。

 安堵した俺は、続いて奈々美の作品の概要を伝える。

「──て言う事何だが、高梨の意見はどうだ? ……犬が連続殺人事件を起こすとか、この俺には、幾らなんでも余りに荒唐無稽な内容だと思うんだが?」

 すると、高梨からその返信が届く。

「いや、まだ原稿を読んだ訳では無いのではっきりした事は言え無いが……俺の感じ方では、それは案外、良い発想の様に思う。コナン・ドイルの名作、『シャーロック・ホームズ』のシリーズの中にも、『バスカヴィル家の犬』と言う作品があって、その作品では、殺害は結局、人間の意図によるものだったが、その凶器として使われた道具は犬なんだ」

「そうか。犬が凶器と言う作品なら、名作の中にもあるのか。それは良かった」

 まあ、犬が自発的に人を殺すと言う部分のリアリティはさておき、奈々美の発想の根本的な部分は、名作に当たらずとも遠からずと言った具合の様だ。

 だとしたら、今まで駄作だと思っていたこの奈々美の作品に俺が関わっている事がバレても、大したダメージにはならないかも知れない。

 愚にも付か無い駄作を奈々美との連名で発表する様な事になって、あかぱじくのは御免だと思ったが、ひょっとすると、これは逆に他人から見た俺のステータスを高めるのに使えるかも知れない。

 奈々美を強力にバックアップしたとなれば、奈々美と親しい桧藤も、俺の事をこれまで以上に良く思ってくれるかも知れ無いな。

 そんな事を考えていると、キッチン兼リビングの方から、母親の夕食の声が掛かったので、俺は高梨との会話を終えた──。


 その日の深夜、俺は眠くなるので夕飯もそこそこに、奈々美が送って来た原稿を自分のパソコンで開き、それを推小研への提出用に、推敲する作業に入った。

 ひとまず、斜め読みした奈々美の原稿を作品の始めの方から丁寧に読んで、頭の中に細かい流れを読み込んで行く。

 それにしても、酷い文章だ。

 幾ら奈々美が小説を書くのが初めてである事を考慮したとしても、これはそのままでは、とても読めた物では無い。

 ふと、「178・5センチ、体重61キロ、58歳4ヶ月ぐらいの男性が云々──」と言う表現が目に留まる。

 全く、一体何だ、この文は。

 主人公から見た他の登場人物の印象として、そいつの身長と体重の他、年齢が書かれているが、そもそも探偵役であるこの作品の主人公は、ちょっと犬に詳しいだけの普通の人で、その点、能力としても職業としても、特に人物鑑定にひいでていると言う設定がある訳では無い。

 そんな奴が、見知らぬ相手をぱっと一目見ただけで、細かい体重とか年齢とか、そんな具体的で詳細な事まで、分かるか、普通?

 もし主人公が、観察力に優れた刑事とか、しくは探偵業とか、俺の姉の様に服の仕立てをする職業に就いている人とかなら分かるんだがな……。

 どうやら、これは奈々美が作品を書く前にこしらえた設定の記述を、そのまま文章にして書いたらしい。

 読んで行くと、他にも、同様の箇所があった。

 文章力以前に、奈々美の作品には、そんな設定上おかしくて修正すべき箇所が、山ほどある。

 余りにも作業量が多そうなので、俺は一旦始めた修正作業をひとまず中止し、全体の分量を把握する事にした。

 奈々美の作品は、その量、実に製本時の分量にして30ページ余りに渡っている。

 これでは、所定の分量に納まる様に、あちこち削らねばなら無い。

 奈々美は、あいつが部長を務めているバレー部の方の活動もあると言うのに、いつに無く気合いを入れて執筆に取り組んだ様だが、この正視に堪え無いレベルのつたない文章力では、幾ら基本的なプロットの構成や登場人物や舞台設定と言った部分がそこそこの出来映えだったとしても、作品が好ましい評価をされる事は無いだろう。

 全く、漫画ばかり読んで、普段からきちんとした活字の本を読んでい無いから、こんな事になるんだ。

 そう言う奴は、基本的な文章を書く実力が不足しているので、学校の試験やらこう言う場面で、無駄に苦労する羽目になる。

 奈々美は、ケータイやらノートパソコンと言った情報機器を持っているなら、電子書籍で良いから、一般小説とかライトノベルとか、そう言うのに少しは目を通して、現代国語を勉強するべきなのだ。

 試験前も一夜漬けではなく、普段からコツコツと勉強をしていれば、内容が理解出来ずに試験の直前辺りになって俺に泣き付いて来る事も無いはずなのである。


 と、そこまで考えて、俺は或る事に気付いた。

 いや、待てよ──。

 良く考えたら、今回、そんな苦労をするのは、奈々美では無くてこの俺の方では無いだろうか?

 何しろ、この悪文だらけの奈々美の作品を推敲をするのは、この俺なのだから──。

 そう悟ると、俺は奈々美の作品中にある余計な場面を削り、本文中で奈々美の犯した基本的な構文ミスの一つ一つを丹念に拾い上げて、修正していった。

 全く、何で俺がこんな事をし無ければなら無いんだっ。

 怠惰な奈々美に代わって苦労したのは実は自分の方と言うのが、日々、様々なストレスにさらされて鬱気味になっている、俺の精神に追い打ちを掛ける。

 そして──おりしも夕刻より天気は薄曇うすぐもりとなり、熱帯夜となった、夏の夜。

 俺は深夜、日付が変わった後まで、その奈々美の作品の修正作業を続けた──。

 自室に、十二分にクーラーを利かせながら。

                 (中編終了。以下、後編に続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

THE NRN-3 南雲 千歳(なぐも ちとせ) @Chitose_Nagumo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ