THE NRN-3

南雲 千歳(なぐも ちとせ)

前編

 それは、例年より梅雨明けの長引いた湿っぽい日々の合間に、ぽっかりと存在していた良く晴れた初夏の或る日の事。 

 学校が休みである土曜の、もはや昼も近い午前中の事である──。


 海の近くにある普通科の公立高校である、県立東浜ひがしはま高等学校に通う3年男子の俺、こと成海隆一なるみりゅういちは、街の中心部にある駅周辺のエリアに建つマンションの一室──つまり、自宅のキッチン兼リビング──の真ん中に置かれているダイニングテーブルに着席し、ひとり食事をっていた。

 今日の様な土曜日には、授業のある日ならば、放課後に何かしら入っている部の活動をしたりするものなのだが、しかし、本日は月に2回、週休2日制が適用される最初の日である第2土曜日であり、学校の授業は休みなので、基本的に部活は無い。

 なので、俺は午後に予定している友人の家絡みのバイトを控え、くつろいでいる所だ。

 いつもの薄いアメリカン・タイプのコーヒーが入ったマグカップを皿の脇に置き、ブランチのオムライスをゆっくりと食べながら、テレビも見ずに、俺は昨晩の出来事を思い出す。


 昨日の夕食後である金曜日の夜、俺はクラスや部活などで知り合った同じ学校の仲間と、最近サービスを開始したばかりの人気のオンラインゲームに時刻を合わせてログインし、そこで比較的ハードなプレイを行った。

 最初は、それこそ付き合い程度に、適当に2、3時間程度プレイしてお茶を濁す予定だった。

 ──のだが、その仮想現実の世界に集合した俺の知り合いであるクラスメートやら部活の後輩、あるいは妹の友達などで構成されたそうそうたる面々と、割とレベル的にはギリギリのダンジョンの探索をしたり、その後はそこで入手した新しい武器防具を装備して、これまた新しく挑んだ狩り場で延々とレベリングをし続けると言う高効率プレイをして回っていると、俺はいつに無く、それに熱中して仕舞った。

 そして、午後9時半と言う、適当な口実を述べておいとまさせて貰う予定だった時刻を過ぎても、俺はそのままログインし続け、プレイを続行したのである。


 当初の予定では、翌日に当たる今日も午後から予定があるので、そのネット上での集合大会は付き合い上の顔出し程度に切りの良い所でログアウトするはずだったのだが、いざプレイし始めると、いつまで経っても、その「切りの良い所」が見付から無い。

 結果、広いワールドのあちこちを、俺は知り合い同士で組んだ強力なパーティに追従する形で、延々と奔走する事になったのである。

 学校では割と優等生で通っているこの俺も、それなりにゲームは嗜んでいて、オフラインばかりで無くネットゲームの方もちょいちょいやっていたのだが、3年生になってからと言うもの、俺の興味の対象はひたすら勉強と部活とバイトに傾いており、これほど同時接続のオンラインの世界に入り浸ったのは久し振りだった。

 昨日、接続していたタイトルは、正式サービスが開始される前のオープンβベータテストの時に、クラスメートと同様、妹とアカウントを作って少しプレイしたのだが、近頃の俺は来春の大学入試に備えた受験勉強などにかまけて、殆ど真面目にレベリングをして無かったせいで、ゲーム内での俺のキャラクターは、スキルもレベルも全く育ってい無い初心者プレイヤーだった。

 それが、俺が昨晩のレベリング大会から早々にログアウトさせて貰いたかった理由の一つだったが。

 そんな初心者丸出しの俺のキャラが、昨晩、妹の友達他、低レベルの人々に混じって、既にそこそこの高レベルに達しているクラスメートに養殖して貰う側だったのは、実に情け無い場面であった。

 まさか、中学を卒業する頃までは、遊び屋として親友の阿部と共に近隣では割と鳴らしていた存在だったこの俺が、高校も3年に上がってしばらく経った今日日きょうびでは、当時、ゲームセンターやら家庭用ゲームの攻略法を手ほどきしていた自分の妹に、オンラインゲームの世界でけん引される様になるとはな。

 時の流れは、良くも悪くも、人の立場や考え方など、色々な物を変えて行って仕舞うものである──。

 そんな風に、作者不明の古典『平家物語』の冒頭を読んだ時のような諸行しょぎょう無常むじょうの精神で、昨晩の俺は、沢山のモンスターやNPCのいる仮想バーチャルな世界に入り浸り、忙しさでここしばらくくサボっていた自キャラのレベリングを、何とか効率的にやって貰う事が出来た。

 それはさながら、水産業者が卵からかえったったばかりの稚魚を養殖するかの如き様相であったが、今後、俺のキャラが彼らの冒険にきちんと付いて行く為にも、一時的な多少の恥をかくのは、仕方あるまい。


 それにしても、学校では毎日顔を合わせているクラスメートが、しばらく振りにゲーム内で出会うと殆どトップランカーレベルの高レベルプレイヤーに成っていたのには、実に驚かされた。

 昔から俺と付き合いのあるその2名のクラスメートは、テスト・オープン時代からのレベルとアイテムを引き継いで華麗にスタートダッシュを決め、今では「流星の~」とか、「ダガー~」の様な変な通り名まで付けられて、プレイヤーの一部からは注目を浴びているようだ。

 

 その後。

 夜も更け、時刻も午後11時を回る様になった辺り。

 狩りパーティが有する重要火力の1人であった妹と、その妹の友達などで構成される後輩グループが、それぞれ「明日は用事がある」だとか、「もう眠い」などと言って、順次ログアウトした。

 が、戦力の低下にも関わらず、今日の午前中に用事がある訳でも無い俺達3年生の先輩グループは、その後も集中強化遠征などと言って、新たなパーティを再編成し、更にレベルが高く経験値の美味い、これまで挑戦した事の無い狩場へと挑み、日付が変わってからも、リアルの生活など殆ど省みる事無く、プレイし続けたのである。


 そんな訳で、昨晩の様子がそんな具合だったせいか、今朝、俺が目を覚ました時間は、午前10時過ぎと言う、普段よりもかなり遅いものだ。

 ほぼ常に平日である金曜日とは違い、第2土曜日の今日は学校も無いし、部屋で適当にゆっくり読書をして過ごしたり、来春に控えている受験に向けてその対策の勉強などをしたい。

 が、既に述べた通り、実はこの休みである土曜日の午後、俺には既に先約があるのだった。


 今から約2カ月半ほど前──高校3年の始業式から、少しばかり経った後、今年の春先から、俺はクラスメートの有栖川すみれの家業の手伝い(と言う事になっている)であるアルバイトを始めていた。

 それで、今日の午後、具体的な時間帯で言えば正午頃から午後5時前後まで時間を、俺はまるまるそのシフトに取られているのである。

 よって、授業の予習・復習や受験対策の如き、学生の仕事である勉強だとか、読書やらゲームやら映画鑑賞等々と言った余暇を有意義に潰す為の遊びだとか、そんな自分の事をするのは、まずその日のシフトに遅刻し無いようバイトに出掛け、そこでするべき作業をきちんとこなし、家に無事に帰って来てからの事なのであった。

 よって、この午前中の時間、俺は正午頃になれば行くべきバイト、日によっては割とハードな作業内容の場合もある自分のやるべき仕事に備え、きちんと朝食を摂り、栄養を補給して置かなければなら無いのである。

 そんな具合なので、俺は自分以外に誰も居無いこの静かな家の中で、独り黙々とオムライスを頬張る。


 食前には、更に食事では足り無い栄養を補う為、バイト先から無料で支給されている幾つかのサプリメントも飲んでおいた。

 平日の昼間は普通に高校生として学校に通いながら、その放課後や週末の休みの日にアルバイトをしていると、どうしてもその翌日は疲労で調子を崩したり、生活リズムが乱れたりしちだ。

 なので、この支給されたサプリでの栄養補給は、その原因となる疲労の回復に当たり、大変重要である。


 所で、今朝の起床後、洗面所で顔を洗った後、朝食の用意をしようとキッチン兼リビングに行くと、普段の土曜日とは違い、家の中が異様に静かに感じた。

 不審に思った俺は、レンジの中に昨日の夜に作って置いた一皿のオムライスを入れて温めながら、同時に家族の所在を確かめる事にする。

 父親は単身赴任で海外に行っているし、母親は既にパートに出掛けている時刻だ。

 成海家の長女と言うか、俺の姉である綾音もとっくに短大を出て就職し、良い意味でこの家を出て自分で生活をしてるしな。

 成海綾音こと、通称あやねえが、結婚して自分の家庭を持つとかそう言う風になるのは、俺の知る限りでは、まだ当分先の事になる様だが。

 つまり、土曜日の午前中と言う今のこの時間、俺の家に両親が居無いのは当然であり、それは別に、全くと言って良い程、俺が気にするべき事では無い。

 が、この成海家には、母親の他にもう1人、俺と寝食を共にする家族がいる。

 勢い、そこで気になって来るのは、この成海家の家族の末っ子であり、同じ東浜ひがしはま高校に通う1年生で、また、実の妹でもある成海なるみ香織かおりの事である。


 気になるので、決して狭いとは言え無いこの自分の家の中を、あちこちに移動して見て回ったのだが、そこにいるべき香織の姿は、どこにも見当たら無かった。

 普段の土曜日なら、香織は遅くとも朝9時頃には目を覚まして活動しており、正午も近くなろうと言う今頃の時間ならば、適当にキッチン兼リビングでテレビを見たり、きょうだい各人に個別に与えられた自分の部屋で勉強やら遊びやらをしているのだが、どう言う訳だか、この本日はそこに彼女の姿は無く、母親が使っている両親の寝室はおろか、トイレや風呂場にも居無い。

「おい、香織ー? どこだー? 居無いのか?」

 そんな姿の見え無い妹の事が心配になり、呼び声を方々ほうぼうに掛けたが、どこからも返事は無い。

 そんな風にして家の中をあちこち歩き回った挙句、最後に玄関の方を見て見れば、あいつがいつも履いている学校指定の運動靴もそこに無いと言う異常事態である。


 はて、我が不肖の妹、香織は、この休日の朝っぱらから、一体全体どこに出掛けたんだ──?

 まさか、柄にも無く取り立てて理由の無い早起きをして、近所にある駅前のスーパーでパートとして働いている母親の出勤に付いて行った訳でもあるまい。

 そんな事を、まだ寝ボケが取れないぼんやりした頭で考えながら、マグカップに入れたいつものアメリカンコーヒーを飲みつつ、キッチン兼リビングの壁に掛けられた家族の様々な予定が書かれた大きめのカレンダーを見やると──そこでようやく、俺は香織がこの家に居無い原因が何であるか、分かり掛けて来た。

 そのカレンダーに細々こまごまと書きこまれている本日の家族の予定を良く良く見れば──いや、そこまで良く見ずとも、丸っこいあの香織の筆跡で、大きく『GSBC練習日』と書いてあるのが分かる。

 更には、どうでも良い事だが、カレンダーに印刷された今日の暦注れきちゅうも読んで見ると、それは大安だった。


「なんだ。今日はあいつの、部活の練習日じゃ無いか」

 分かって仕舞えば、何の事は無い、今日は俺と香織の通っている県立東浜高校のGSBC、即ち女子ソフトボール・クラブの練習日で、それで香織は居無いのであった。


 と、そんな事を、遅蒔おそまきながら把握する。

 良く考えて見れば、昨日のレベリング大会に出ていた後輩グループは、そういや、殆どがGSBCのメンバーだったな。

 ゲーム内での事とは言え、その後輩グループ中で妹の香織のキャラが1番の火力で、レベリングに貢献していたのは、兄の俺としては何とも鼻の高い事であった。


 休日だと言うのに朝っぱらから妹の姿が見え無い件に付いて、ようやく合点がてんが行き、ほっとした俺は、とっくに加熱時間を終えて休止状態にあるレンジからホカホカに温まったオムライスを出し、ひとまずキッチン兼リビングの背もたれが付いた椅子に座る。

 起き抜けから家の中をあちこち動き回って、疲れた。

 全く、寝ボケと言うやつは、本当に正確な判断や回想の敵だな──。

 そんな事を、ようやく冴えて来た頭でしみじみと思いながら、誰も居無い静かなキッチン兼リビングで、味の薄いコーヒーと共に、温めたオムライスを食べる。

 食事をしながらカレンダーを見ていると、今月7月のイベントとして、夏休みの開始と、それから、既に土用に入った月後半の期間中、八月がやって来る直前の30日が、土用どよううしの日である事が見て取れた。

 この俺は高校での学校生活をしながら、その友人絡みでアルバイトをしている事もあり、少し先にあるこの土用どよううしの日には、そのバイト先から得た小遣いからうなぎでも買って、この家に居る家族3人で食べようか何ていうノホホンとした考えが、僅かにまだ本調子では無い頭にぼんやりと浮かんで来る。

 貰っているバイト代からすれば、大して高い買い物では無いし、どうせなら、生きたままのうなぎを1匹丸ごと買って、家でさばいて焼き、タレを付けて食べた方が、調理法も学べるし、その辺で出来合いの物を買うよりも安上がりかも知れ無い。

 そう思った俺は、オムライスを頬張りながら、持っていたスマフォを操作して、鰻のその身の開きかたや生物学的な骨格の構造、オーブンで焼く場合の適切な温度などを調べる。


 と、そんなおり──。

 先程さきほど、香織の靴の状況を調べに行った玄関の方で、突如とつじょとして、来客の訪問を知らせる呼び鈴の音が鳴り響いた。

 その音を耳にした瞬間、青いスパークがひらめいたような冷たい警戒感が、俺の全身に走る。

 全く、こんな時間に何だ、宅配か──?

 俺は食べるのを止めて、口の周りに漂うオムライスの匂いを消す為に少しばかりコーヒーを飲んでから、席を立つ。

 前触れなく送られて来た宅配の荷物か、そうで無ければ、今日は土曜日なので確率は低いが、電気やガス、水道などの業者かも知れ無い。

 突然の来客に付いてそんな推察をしつつ、足音など余計な物を立て無いよう注意しながら、俺は玄関へと向かう。


 職業柄──と言うか、少しアナーキーなと言うか特殊なアルバイトをしている関係上、俺は不意の来客の様な突発的な事象に付いて、普通の人以上に警戒し無ければなら無いのである。

 しのあしで玄関のドアの前に立った俺は、その向こう側を光学的に窺い知る事の出来る情報源、即ち、この薄暗い玄関で唯一、光を放っているドア・スコープに顔を近付けて、それをおそおそる覗いてみた。

 すると──。


 そこに立っていたのは、同じ県立東浜ひがしはま高校に通うクラスメートの女子、松原まつばら奈々美ななみであった。

 奈々美ななみと俺は、お互いの家が近かったせいか、俺の家とは家族ぐるみでかれこれ10年以上の付き合いがあり、幼稚園に通う頃に出会ってから、小・中・高とこれまで一貫して同じ学校に通っている幼馴染おさななじみである。

 ついでに言えば、奈々美は昔から運動が得意で、我が東浜高校の女子バレー部のエースもしている、活発な奴だ。

 彼女は、更には、その性格・能力からは全く信じ難い事ではあるのだが、高校2年生の後半からこの現在までに掛けて、何と、その所属している女子バレー部で、部長まで務めている。

 そして、そんな奈々美と俺は、お互いに「隆一りゅういち」、「奈々美ななみ」などと下の名前で呼び合う、最高に親しいとも呼べる関係にあるのだが、しかし、別に俺達2人の関係は、時々、学校で同じクラスに所属したり、お互いの家に遊びに行ったりする以外の事、つまり、単なる幼馴染と言える存在の枠を超えた事は無かった。

 これまで、お互いが彼氏・彼女の関係に陥った事は無かったし、更には、そんな風に付き合おうと思った時期も、これまでの間では全く無かった。

 その原因としては、やはり、幼少の頃から知り合っている関係と言う部分にそれがあるのだろう。

 別に奈々美の顔立ちが悪いと言う訳でも無く、性格的に嫌いな訳でも無いのに、奈々美の方はどうか知ら無いが、何となく、俺の方としてはこいつを自分の彼女にしたいとか、そんな風には思え無いのであった。

 もっとも、もし相応の年齢になってもお互いにその相手が見つから無いと言う状況ならば、妥協の結果として、もしかすると俺はこいつと結婚する事になるのかも知れ無い。

 俺にとって奈々美は、そんな腐れ縁とも呼べる古くからの親友なのだった。

 つまりは──奈々美と俺の関係は、単なる友人でも無ければ恋人同士でも無い、そんな漠然とした関係である。


 と、そんな奈々美が突然、玄関の前にやって来ている訳だが、俺のケータイなどへの連絡も事前に寄越さず、今日はどうして、唐突に俺の家になどやって来たんだ──?

 そんな疑問を抱きながら、ドアスコープから戸外の奈々美の様子をうかがう。

 奈々美の顔を見れば、ひどくだるそうな表情をしていて随分とやつれており、そのぼんやりとした目の下には、寝不足なのか、軽くくままで出来ている。

全く、こいつは昨日、何時までレベリングしていたんだろう?

 まさか、今までずっと起きていて、徹夜プレイでもしたんじゃ無いだろうな?

 昨夜の深夜にまで及ぶプレイで睡眠不足を発症した結果、暑さにやられて夏バテにでもかかって仕舞ったのだろうか?

 ドアの前で立ち尽くして待っている奈々美は、普段から毎日のように顔を見合わせている俺をもして、そう思わせる憔悴しょうすいぶりである。

 どうやら、昨晩のハードプレイで生活リズムが崩れたのは、俺だけでは無いらしい。


 次に、俺は奈々美の着ているその服装に視線を移す。

 それにしても、今日のこいつは、なんつー格好をしてるんだ?

 気だるげな様子で立っている今日の奈々美の服装は、香織と言う妹を持ち、その普段着などを目にしている俺の基準からは、全く平凡では無かった。

 今日の奈々美のコーディネートは、着ている服の上の方は夏服の体操着の様な半袖のTシャツで、下の方はGパンジーンズに使われる青いデニム地で作られたショートパンツと言う、かなりラフなちだ。

 彼女の上着とボトムスに共通しているのは、首周りやそでやパンツのすそなど、腕や足を通すそれぞれの口の先に帯があって、服の強度が確保されている点である。

 どうやら、それはトップスとボトムスをそう言う共通項でマッチさせた、奈々美なりのファッションらしい。

 全体のイメージは動き易く活動的で、如何いかにも奈々美らしいと言えばらしい格好だが、彼女と仲が良い、同じく俺のクラスメートの桧藤ひとうならば、間違ってもこんな格好はし無いだろう。

 幾ら気温が上がり蒸し暑い夏場とは言え、腕や足まわりの肌の露出が多過ぎる。

 それにしても──彼女は幼稚園から始まって、小・中・高と同じ学校が続く腐れ縁とも呼べる存在なので、普段はそんな事を意識する事はほぼ無いのだが──女子バレー部の活動で鍛えた彼女の、軽く日に焼けて程良ほどよく引き締まった太腿ふとももや、意外と形の良い腰回りなどを見ると──心身ともに健康な男子高校生の俺としては、それなりにぐっと来る物がある。

 特に気になるのは奈々美の上半身で、こいつは俺が普段目にするクラスの女子達と比べてさほど胸が大きい方では無いのだが、かと言って、高校3年生としては格別に小さいと言う訳でも無い。

 なので、今の奈々美が着ている、身体のラインが浮き出る様な、タイトで伸縮性のある服だと、その年齢相応に膨らんだ胸元と、腰からの上の部分のくびれが目立ち、それが妙に健康的な色気を放っている。

 景色の歪むドア・スコープ越しとは言え、食事をするついさっきまで8時間程の熟睡をしており、十分に疲労が回復している俺としては、そんなスポーツで鍛えたスタイルの良さを素っ気無くさらしている同級生の奈々美の姿は、何とも直視ちょくしがたいものであった。

 奈々美と俺は、共に男女の意識などとうに消えて仕舞っている旧知の間柄ではあるが、そんな奈々美が側に寄れば、俺の方としては多少、意識せざるを得無いに違い無い。


 そんな夏を満喫している虫取り少年の様な格好で、ドアの前で疲れ切った表情をしている奈々美の姿を確認した俺は、続いて、その視界の方に注意を向ける。

 良く見ると、彼女はその後ろ手に、布製の買い物袋らしき物を持っている。

 その袋の膨らみ具合と彼女の腕の筋肉の力の入れ具合から、どうやら、その買い物袋の中には、割と重量物が入っているらしい。

 その重量物らしき物は、まさか爆弾か何かではあるまいから、ここから推理出来る事としては、奈々美はこの休日の土曜日の午前中、ショッピングなどしながらこの駅近辺をぶらつき、その帰りに俺の家へ寄った、と言う様な所だろうな。

 彼女がその道中、何を買ったのかは知ら無いが、彼女がスーパーやコンビニなどで買い物をする時に配られるビニール袋、いわゆるレジ袋の使用量を削減する事に協力的なのは、持続可能な将来の為に限りある資源を有効活用するエコロジー社会を実現して行く上で、すこぶる感心な事だ。


 と、そんな事を考えていると、奈々美は再び呼び鈴を押し、チャイムを鳴らした。

 彼女の次なる動作を眺めていると、奴はドアに顔を近付け、俺が見ているドア・スコープをドアの外側から覗き込むと言う行動に出た。

 俺の視界に、これ以上無いほどの拡大視点で奈々美の目玉が映し出される。

「げっ!」

 驚いた俺は、やるのを忘れていた大量の宿題でも見付けた時の様な妙な声を上げ、ドアから身を離し、そして、戸外にいる彼女に、ようやくドア越しに声を掛けた。

「何だ、奈々美か! ……ちょっと、待っていろ」

 そんな風に、俺は如何いかにも今しがたドアの前にやって来た様な感じを装ってそう言うと、ドアの錠を外して少しばかり開き、その隙間から頭を覗かせる。

 日中の為か、外の景色がえらく眩しい。

 戸外の奈々美は、俺を見るなり、ほっと表情を緩め、我が意を得たりと言う顔をする。

「あー、良かった! 隆一、いたのね! もう、中から物音がし無いから、留守かと思ったじゃ無~い!」

 奈々美は安堵したのか、うっすらと汗ばんだ顔に笑顔を見せる。

「ああ。ついさっきまで、寝ていたからな……」

 俺はそんな事を言いながら、警戒心を湧かせる。

 全く、奈々美の奴、連絡も無くいきなりやって来て、今日は一体、何の用だ?

 何か俺の手をわずらわわせる様な、面倒な厄介事やっかいごとを持って来たんじゃ無いだろうな?

「ふぅん、そう。寝てたの。まあ、あり得無い話じゃ無いけど……。ねえ、隆一……もしかしてあんた、この私に対して、居留守いるすを使ってたんじゃ無いでしょうね? 誰かが自宅のピンポンを押したら、ちゃんとすぐに出なさいよ」

 鋭い奴である。

 しかし、俺は言下に奈々美の発した疑問を否定する。

「あ……? 居留守? そんな訳があるか。で、今日はどうした? 何か、用か?」

 彼女が連絡も無しに、突如として我が家へ訪れた理由を問う。

 すると、奈々美は実に素っそっけ無く、

「ううん、別に。ちょっと、近くに寄る用事があったから。そのついでって所」

 と答えた。

「ふぅん、そうか……。近くの用事って、買い物か?」

「そうよ。ちょっと、買う物があったし」

 そう言って、奈々美はニヤニヤとする。

 買い物も良いが、まさか、また下ら無い事にその希少なお小遣いを使ったんじゃ無いだろうな?

 俺はそんな事を思いながら、寝不足らしい顔をしている、その奈々美の元気な行動に付いて言及する。

「なるほど。土曜日の午前中にショッピングとは、結構な事だな。しかしだ。お前、昨日は随分と遅くまでログインしてたってのに、良くそんな朝から派手に動けるな? 体調管理は、大丈夫なのか?」

「フン、そんなの平気よ! だって、昨日は学校から帰った後、昼寝したし。シシシ……」

 奈々美はその白い歯を見せ、下品に笑う。

「……全く、遊びの時だけは自己管理がきちんと出来る奴だな。それじゃあ、今日は、特に俺のうちに用事は無いんだな?」

 と、俺は重ねて尋ねる。

「ん~……まあ、そうね。うん……」

 と、奈々美は思案するような仕草で曖昧に答えるので、

「ああ、そうか。なら、気を付けて帰れよ。じゃあ、またな」

 と明るく言って、俺は今開けたばかりのドアをバタンと閉じた。

 ふう、これで一件落着だ。

 さっさとオムライスを食べに、キッチン兼リビングに戻るとしよう。

「あっ! ちょ、ちょっと隆一! 何やってんのよ、あんた! 閉め無いでよ!」

 とか何とか奈々美は言った様だが、この後、午後に予定を控えていた俺は、幼馴染同士の気安さでそれを無視する。

 どうせ奈々美の事だ。

 仮に何か話したい事があったとしても、ロクな用事では無いに違い無い。

 大体、何かあるなら、メールか電話で連絡すれば済む事だろう。

 俺はそんな風に考えて、リビングに戻ってテーブルにつき、さあ、食べ掛けのブランチを再開しようか──。


 ──と、思ったその矢先。

 ドアをドンドンドンと叩きながら奈々美の抗議する声が、戸外より響いて来た。

「こらぁっ! 隆一ィッ!! あんた! 何よ、その態度! まだ話は終わって無いのよ! このドアを開けなさいっ!」

 ──げぇっ!

 今度は一体……何なんだ?

 その物音にぎょっとした俺は、この奈々美の所業によって瞬間的に発生したイラつきを同時に覚えつつ、仕方無く玄関へと取って返す。

 そして、見た目明らかにそれを叩く音と連動して揺れているドアを見るや、俺は力の限り叫んだ。

「おい、奈々美! お前、他人ひとんちの玄関の前で、何を騒いでんだ!? うるさいだろ! めろ!」

 そんな風に、俺は今しがた閉じたドア越しに抗議したが、その声は奈々美の耳には全く届いてい無いようだった。

 いわゆる、馬耳東風ばじとうふうと言う状態だ。

 奈々美は相変わらず激しくドアを叩きながら、「早く開けろー!」などと、やかましくわめいている。

 このまま放置すると近隣の迷惑になりそうので、俺は仕方無く、溜息交じりにさっき閉めたばかりのドアを再び開く。

 奈々美は先程と同じ様に、憮然ぶぜんとした顔でそこに立っていた。

 僅かだが、奈々美はひたいに汗などをかいている。

「おい、何を──」

 ドアから俺の顔が覗くや、奈々美は僅かに開いたドアの隙間に近付き、叫んだ。

「こらぁ!! ちょっと、隆一ィ!! あんた、何してくれんのよ!? もっと早くドアを開けなさいよね! このっ……ノロマッ!! あと、他人ひとの話が終わって無いうちに、ドアを閉じるなぁっ!」

「はぁ!?」

「それから! 私のこの手が骨折でもしたらどうしてくれんのよ!? このウスラ馬鹿っ! ちょっと痛くなっちゃったじゃ無いの! 隆一は今すぐ手代を弁償しろ!」

 お前の手は、アンドロイドのパーツか何かかっ!!

 そこで、先程から限界レベルにまで締め上げられていた俺の堪忍袋かんにんぶくろは、ついに切れて仕舞った。

「おい、奈々美! 一体、お前は何を言ってんだ!? ふざけた事を言って騒ぐのも、そろそろい加減にしろっ!!」

「ぐぅっ……!」

 叱り飛ばされた奈々美は、頭を縮めて肩を強張らせる。

 俺は構わず、まくし立てる。

「全く、他人ひといえの玄関先で大騒ぎして……! 馬鹿はどっちだっ! この馬鹿っ!!」

「そんな……だ、だって隆一が……」

 俺はそんな奈々美の言葉を無視し、周囲を見回すと、続いて注意を行う。

いか、聞け! 奈々美! こう言うマンションみたいな集合住宅の通路や階段で、そんな風に大騒ぎをするな! それから、まだ自分に用事が残っているからと言って、他人ひとのドアを激しく叩いたり、廊下で大声を出すのはめろっ! 近所迷惑だろうが!!」

 そうピシャリと叱ると、奈々美は少しばかり反省した様子を見せ、謝った。

「う、むぅ……。ご、ごめん……」

「はぁ……。全く、もう高校も3年に上がったってのに、いつまで経ってもそんな風じゃ、そんなお前の面倒を見ている親御さんも困ったもんだな?」

 そんな事を言ってねめつける俺に、奈々美はたどたどしく反論する。

「で、でも……隆一も、ひ、他人ひとの話を、最後まで話聞きなさいよねっ! 全く、友達が訪ねて来てるってのに……あんたが私の事を、まるで新聞の勧誘が来たみたいに、邪険じゃけんにするからでしょうがぁっ!!」

 叱られたショックからか、奈々美は半泣きの顔でそう叫ぶ。

 まあ、そんな風に追い返した感じはし無いでも無かったかも知れ無い。

「それは確かに、俺も悪かったかも知れ無いがな──。しかし、別に俺の方では、お前を邪険にした積もりは無いんだ。奈々美の方からもう用事が無いと言うから、単に挨拶あいさつでもしに来たのかと思って、一通りやりとりが済んだから、ドアを閉めたまでじゃ無いか」

「はぁ!? 挨拶って、何の挨拶よ! 何の! あんたとはいつも、学校で会ってるでしょうがっ! 昨日だって同じオンラインゲームにログインしてたし! そんな良く顔を合わせる人に、いちいち挨拶何か要ら無いわよっ! そんな事する奴いる!? て言うか、邪険にする積もりが無いんだったら、まずはこの邪魔じゃまくさいチェーンロックを外しなさいよねっ! 全く、それが玄関先で知り合いと話す時の礼儀ィー!?」

 奈々美はひとしきりそう抗議すると、壁に埋め込まれた枠とドアを繋いでいるチェーンロックの鎖を掴んで、ぐいと引っ張った。

「あ! おいっ、止めろっ!」

「これを早く外しなさい」

「それはオモチャじゃ無いんだ! 乱暴するといたむから、引っ張って遊ぶなっ! 全く、子供か、お前は!?」

「じゃあ、早くここを開けなさいよっ。さっさとし無いと、これ、引き千切るわよ!? ギィイイイー!」

「あっ! おい、馬鹿! 止めろって言ってるだろ!」

 俺の泣き所を押さえて、奈々美は得意気にこうのたまう。

「ウッフフゥッ! どうやら隆一は、これを失うのが痛い様ねぇっ!? 交友関係の至宝である幼馴染のこの私を、宗教の勧誘みたいに邪険に扱った罰を受けるがいのよ!」

 おい、何か、さっきと例えが微妙に違ってるぞ?

 奈々美の怪力で家のチェーンロックを壊されたり、じって変な具合にされてはかなわ無いので、俺は何とか奈々美を懐柔してこの場を穏便に済まそうと、対話を試みる。

「な、なあ、奈々美。とりあえず、そこから手を離してくれ無いか? そして、何か行き違いがあったのなら、それは謝る。そんでもって、ここはお互い、冷静に話し合おうじゃ無いか。──つーか、ここのチェーンロックを引き千切るとか、そんな事、幾らお前の体力でも、無理だと思うぞ?」

「ふん。じゃあ、試して見ても良い?」

 奈々美は鎖を握るその手に、再び力を込める。

「あっ! やめろっ!」

 とっさに俺は、鎖を引き千切りに掛かった奈々美の手を掴む。

 すると、奈々美は引っ張るのを止め、今度はギャアギャアと喚いた。

「何よ! 放しなさいよ! この妖怪ようかい門前払もんぜんばらいっ! ギィイイッ!」

 奈々美はムキになって、それを前後左右に揺らす。

「全く、しょうの無い奴だな!? 今日は、他に付き添いはい無いんだろうな!?」

 気になったので、俺は奈々美の握る鎖の上から顔を出し、みたび、ドアの隙間からキョロキョロと辺りを見回す。

 そんな俺を見て、奈々美は実に不機嫌な様子で言う。

「別に、私しかい無いわよ……。良いから、早く開けて」

「チッ……」

 俺は思わず舌打ちをする。

「ああ、もう、分かった、分かった! 今開けてやるから、ちょっと待ってろ」

 仕方無く、奈々美の為に玄関のドアを開ける事にした。

 そう言って隙間から顔を引っ込ませると、ようやくチェーンロックから奈々美の手から離される。

 俺はドアをいったん閉じ、最初からずっと掛けていたチェーンロックを外すと、再びドアを開けた。

「ほら……これで良いだろう」

「フフ~ン! 物分かりが良くて、Veryベィリィー goodグッド!!」

 ついに開け放たれたドアの前で、奈々美はそんな台詞を吐きながら、買い物バッグを持った方の腕を腰に当てつつ、手をピースサインにしたもう片方の腕を頭の上に掲げ、勝ち誇ったポーズを決めた。

 それは今にも「バァ~~~ンッ!」と言う派手な効果音が鳴らんばかりの、見事なキメ・ポーズである。

 いつからお前は言葉の端々に英語を混ぜて喋る様になったんだ?

 つーか、まるで俺が頭のおかしい奴を客として招いている様で恥ずかしいから、他人の家の前で、そう言う派手なポーズを決めるなっ!

「フンッ! 決まったわね!」

 ──全く、昔からつくづく子供っぽい事をする奴である。

「……で、今日の用事ってのは、何なんだ?」

 そう俺が聞くと、奈々美は近付いて俺の家の中を覗き、先程の俺の様にキョロキョロと内部の様子を伺う。

「後で言うわよ。別に今、他にお客さんがいる訳じゃ無いでしょ? ドアを開けたついでなんだし、ちょっと上がらせなさいよ」

「何だ、うちに上がりたかったのか? だったら、早くそう言え。必要な事を先に言わ無いから、面倒な事になるんだぞ」

 面倒臭くなった俺は、くずし的に、彼女をそのまま家に上げる事にする。

「ムフフ、それは悪かったわねぇ。それじゃあ、お邪魔します……」

 奈々美は履いていたスニーカーを脱ぐなり、奥のカーペットの敷かれた客間に、スリッパも履かず裸足でフラフラと歩いて行く。

 そして客間に辿り着くと、そこにあるテーブルの前にだらりと座り込んだ。

「ああー、暑かった……」

 座り直してあぐらをかいた奈々美は、舌を出してはぁはぁと喘ぎながら、自分の鞄からプラスチック製のうちわを出し、それをパタパタと動かしてと自分の顔をあおぎ始めた。

 更には、着ていたシャツの下側をめくって、そこからうちわで扇いだ風を入れる。

「ふぃ~! やっぱ隆一んは涼しいぃ~!」

 奈々美の親が見たら、即座に叱るか泣き出す様な、実にはした無く無作法な姿である。

 そんな奈々美に、俺は注意を発しておく。

「おい、最初に言って置くが、今、うちの母親と香織はいないぞ? 母親はパートだし、香織は今日、部活に出ている」

「知ってる……。私は別にその人達に用事があって、ここに来た訳じゃ無いの」

「じゃあ、玄関先では言え無いか、すぐには終わら無いような用件でもあるのか? 用事があるなら、早く言ってくれ。悪いが、俺は今、バイトに出掛ける準備で忙しいんだ」

「忙しいって何よ? ふん! どうせ、勉強かゲームでもしてたんでしょ」

 やれやれ。

「それがゲームなら、お前の憤慨ふんがいも多少は理解出来るんだがな。例えば、お前の知り合いがバイトや勉強で忙しいと言う理由でお前と遊ぶのを拒否した場合、お前はそれを否定して仕舞うのか?」

「知ら無いわよ、そんなの……。て言うか、そんな事、どっちだって良いじゃ無いの。それにしても、あー、疲れた……。隆一のせいで体力消耗したから、ちょっとしばらくのあいだ、ここで休ませて貰うわよ?」

 それから、ああ暑い、暑いと、奈々美はうわ言のように言い、上昇し過ぎた体温を下げるべく賢明にうちわを動かす。

 そりゃあ、あれだけ騒いでれば、疲れるのは当然だ。

 全くの自業自得である。

 しかし、どうやら今の問答と奈々美の様子を見た感じ、その用事と言うのは、外出中に屋外が暑くてたまらなくなって来たので、ちょうど近くにあった我が家で涼みたかったと言う事らしい。

「──何だ、単に家に上がってクーラーに当たりたかっただけか。なら、俺は食事中だから、これで席を外させて貰うぞ」

「いいわよ! おかまいい無くぅー!」

 奈々美は自分で持って来たタオルで顔をぬぐいながら、ニッコリ笑ってそう言うなり、目を閉じて鼻をくんくんさせた。

「んっ、待って。この匂い……。ウスターソースとパセリ、そしてケチャップソースで炒めたオムライスの匂いがする。……隆一、ご飯食べてたの?」

「そうだが……良く匂いだけで、そこまで分かるな? まるで犬並みの嗅覚だ」

 俺は感心して、奈々美の顔の中央にある、そのお世辞にも高いとは言え無い鼻を見つめる。

 ついでに言えば、奈々美の口を開けて暑がっている姿もまるで犬の様であるが。

「エヘヘ、そうでしょう? 私ってば、視力と嗅覚には自信があるのよね! フレグランスも一杯持ってるし……。この分なら、将来は香水メーカーとかに勤められるかもぉ!?」

 お前がそう言う分不相応なオシャレをするから、妹の香織もその真似をして、高校の入学式の日に香水など付けて登校し様とするんだ。

 可愛い俺の妹が、お前みたいに化粧品やスキンケアにお小遣いをつぎ込む様になったら、どうしてくれる?

「なに? 将来は香水メーカー? お前の成績でか? そんな訳があるか。必要な努力をせずに分不相応ぶんふそうおうな将来を思い描くのも、大概たいがいにするんだな」

 そう俺がたしなめると、奈々美はタオルで拭ってさっぱりしたその顔を歪め、ムッとして抗議する。

「もう、なに、ジョークに対してマジな事言ってんのよ。冗談でしょうが。ただの冗談」

「なんだ、冗談か。全く、分かり辛いジョークを言う奴だ。それにしても、あんまりそんな匂いはし無いな? 本当に香水付けてるのか?」

 俺は奈々美の近くの空気を手で扇ぎ、自分の鼻の近くに引き寄せる。

「え? 何言ってんのよ。私はフレグランスを集めるのが趣味何であって、別に普段からそれを付けたりはし無いの。私は部活も運動部だし、普段から付ける匂いがする物何て、デオドラントスプレーで十分でしょ。第一、高校生のくせに香水を付けたりお化粧をするとか、何かギャルっぽいし、イメージ悪いわ。私、口紅とかファンデーションとか、全然持って無いもの」

「そう言えば、お前が化粧をしてる所何て、殆ど見た事が無いな?」

「そうでしょ? ああ言うのって、如何いかにも軟派なんぱよね。うん、軟派。まさしく不健康の象徴……」

 この言葉に、俺は呆れて、しばし物も言え無い。

「──幾ら何でも、高3にもなって、それはマズいだろう。お前の進路希望がどうかは知ら無いが、もし就職するんなら、常識的に化粧のひとつくらいは、覚えるべき何じゃ無いか?」

「フン。その時はその時よっ。今の私には、お化粧何て物は必要無いの」

「じゃあ、お前の持ってる色んな香水って、一体、何に使ってるんだ?」

「香水じゃ無いわよ! フレグランスゥ! い? フレグランスって言うのはね、お香やデオドラント用品含めた香りのする物全般の事なの。香水、即ちパフュームは、一応、フレグランスと言う言葉が指す全体の中の一つではあるけど、よりその範囲が具体的で、根本的かつ包括的な意味が異なる……抜本的で革新的な概念だし……」

 抜本的云々うんぬんの辺りから、奈々美の口上こうじょうはしどろもどろになる。

「あ──なあ、奈々美。無理して、難しい言葉で説明し無くて良いぞ?」

「ん? ……そ、そうよねっ。兎に角、私は、香水とかは付け無い派なのよ」

 まあ、大体、奈々美の言わんとする事は分かった。

 フレグランスと香水の語の微妙なその意味の違いに付いては、後で概念の範囲を説明するのに使うベン図でも描いて、正確に把握しておこう。

「そうか。じゃあ、普段から香水を付けたりはし無いんだな? すると、お前が沢山保有してると言う香……じゃ無かった、フレグランスの数々は、一体、何に使ってるんだ?」

「ウフフ、それはね──私って、時々、日常に染まってだらけて仕舞ったムードを変えたくなるのよねっ。そう言う時は、布団とかクッションにフレグランスを撒いて、お部屋の香りを気分と共にガラリと変えて見るの……」

 奈々美は夢見る様な表情でそんな乙女チックな事を言い、直後にウシシと笑った。

「へえ、そうか……。それは良かったな……」

 俺はそんな彼女の言葉に寒々しさすら覚えながら、適当に返事をする。

 奈々美はうちわを扇ぐ手を持ち替え、シャツを手で掴み、またお腹の部分に風を入れながら言う。

「それにしても、今日は外、あっつー。隆一……あんた、こんな暑いのに、良くオムライス何て食べられるわよね。大してクーラーも強く掛けて無いのに」

「冷房の設定温度何てものは、運動をし無いのなら、セ氏二十六度くらいで十分だっ」

「あっそ。じゃあ、まあそれは良いけど、今度から、こんな日の昼ご飯は麺類とかにしなさいよ、麺類。食欲が湧か無くても、麺類なら喉の通りが良いし……。ああ、暑い……」

 と、会話に向けるべきスタミナが切れたのか、そこで奈々美はトーンダウンして、うちわをせわし無く動かす。

 これはりょうを得るついでに、俺の家で何か御馳走ごちそうになろうとでも考えてるのかもしれない。

 そうした事なら、たまに……頻度で言えば年に2、3回くらいはお互いの家同士である事なので普段なら気にし無いが、この後、用事を控えている今日は別だ。

 そう思った俺は、先回りしてこう言う。

「夏場だからと言って、そうめんやひやむぎばかりで栄養になるか。折角せっかく来てくれた所悪いが、今日は、お前の分の食事は作って無いぞ? こっちでご飯を食べたかったのなら、今度からは遅くとも、1時間前には連絡してくれ」

「そうね、そうする……。別に麺類って言っても、あったかいラーメンとかでも良いけど……インスタントの。あ、でも今日はいいわよ。家で食べて来たし」

 と、意外な回答。

「ん、そうか? なら、めしは出さ無くて良いのか。じゃあ、そこでしばらく休んだら、さっさと帰ってくれ」

 そう聞くなり、奈々美は扇ぐのを止め、顔をくしゃくしゃにしていきり立った。

「ええー!? 何よ、それ! もう私、たった今来たばかりなのにぃ!」

「だから、さっきから俺は用事で出掛けると言ってるだろ! 仕方無いんだっ」

「それはこの私に対して、余りに失礼でしょうがぁ! 無礼千万ぶれいせんばんっ! そうね、それはこの長年の大親友に対する非業の仕打ちよ! 万死ばんしあたいする裏切り行為、天に仇なす悪魔の所業しょぎょう!」

「言うに事欠いて、お前は何を言っているんだっ!? ちょっと休んだら、さっさと帰れっ!」

「ああん! もう! 何なのよ、ここは!? 折角一息いたばかりの、暑さで疲労困憊ひろうこんぱいしている幼馴染を、一休みする暇も与えず、外の炎天下の灼熱しゃくねつ地獄に追い返す、とか……。本っ当に信じらん無い! 隆一! あんた、余りにも接客態度悪過ぎィ!!」

 俺はこの奈々美の罵声とも言える批難に、呆れて言い返す。

「お前こそ、ここをどこだと思ってるんだ!? ファミレスや喫茶店じゃ無いんだぞ!?」

「わ、分かってるわよ、そんな事ぉ! でも、隆一も、もっと客を大事にしなさいよね! 往年おうねんから付き合いのあるこの大事なお客様を、あんたは何だと思ってんのよ!?」

「はぁ? 大事なお客様って、お前がか? 全く、えら尊大そんだいなお客様もあったもんだな? 休日の昼間とは言え、他人ひとを訪問するのに、事前連絡はし無いわ、ドアを閉じれば玄関の前で大騒ぎはするわ……。お前の様な奴が、良くまともなもてなしを受けられると思ったな? 一体、どう言う思考回路してんだ?」

「何ィーっ!?」

 いきり立ちそうな顔で再び奈々美がそう叫んだので、俺はさっさと降参し、会話を切り上げる事にした。

 全く、これじゃあ、いつになったら俺は食べ掛けの食事を済ませられるのだか分から無い。

「あー、もう! 分かった分かった! 繰り返し言う様で悪いが、今日の俺はな、これからバイトで出掛ける所なんだ。今、食事をしていた所だから、俺がそれを終えて出発の準備をしているその間、奈々美はここでしばらく涼んでろ。そうだな、大体、20分ぐらいだ」

「あ、そう! そうなの。フフフ……どうもありがとう。それじゃあ、遠慮無く休ませて貰うわっ。 ──あ、そうだ! さっきはお構いなくとは言ったけど、隆一、ちょっと、あれ出してよ?」

「あれ?」

「そう、あれ」

「あれって、何だ? お前にゲームとか、漫画か何か借りてたか?」

「いや、幾ら幼馴染だからって、この扱いは無いでしょ。確かにお構い無くとは言ったけど、夏場に来客があったら、せめてお茶くらいは出しなさいよ。全く。常識でしょ」

 そんな小言を生真面目な顔付きで言い、奈々美は溜息をく。

「あ? そう言うもんか? まあ、それもそうだな……」

 全く、言っている事は実に正論なのだが、もてなす側の感情面としては、すこぶる厚かましい奴だ。

 俺は礼儀や言葉の綾と言うものの面倒さに辟易へきえきしながら、キッチン兼リビングへと向かう。

 すると、ドアを開けっ放しで出て来た客間の方から、奈々美のはずんだ声が響いて、俺の耳に届いた。

「あ、さっき言った飲み物だけど! 別に何でも良いけど、冷やした玉露ぎょくろとかがあるなら、なおグッド~!」

 そんな注文が来たので、俺は片手をメガホン代わりにし、当店の在庫状況を伝える。

「何? 玉露? 残念だったな! 生憎あいにく、このいえに、そんな気の利いた物は無いぞーっ!」

「ふぅーん! ……じゃあ、コーラとかでいいわよ!?」

 何がコーラだ、そいつも多分、この中には無いはずだ。

 俺は目の前にある冷蔵庫の扉を開け、その中を一瞥いちべつする。

 やはりと言うべきか、そこにコーラらしきペットボトルの容器は見当たら無い。

 口の開いた飲み掛けのスポーツドリンクの容器はあったが、これは香織の飲み掛けだ。

 しかも、その中身は残り僅かであり、どう見てもコップ1杯分の容量を満たすには量が足りてい無い。

 しょうが無いので、俺は庫内に逆さに立てて冷やしてあったグラスの一つを掴み、キッチンのシンクに備わっている水道の蛇口をひねって、水道管の中の水を抜く為、数十秒ほど出しっ放しにして、空のあらおけの中に捨て水をする。

 その後、ようやく出て来た冷たい新しい水道水をグラスにみ、お盆に乗せて奈々美のいる客間へと運ぶ。

「ほら、ご所望しょもうの飲み物だ。わざわざグラスにいで持って来てやったぞ」

「あれ? 何よ、それ? 玉露とか、コーラは?」

「はぁ? そんな物があるか。そう言うのは後で用意して置くから、今日はこれで我慢するんだっ」

 その俺からの心ばかりのもてなしの品──要するにただの水が入ったグラス──がテーブルに置かれると、奈々美はそれを手に持ち、僅かに揺れるその水面を神妙な面持おももちで覗き込みながら言った。

「それじゃあ、頂きます……」

 奈々美はもう片方の手に持ったうちわを床の上に置くと、あぐらをかいて座る体勢はそのまま、それに口を付ける。

 全く、行儀が悪いにも程がある。


 ──と、奈々美はそれを一口飲むなり、勢い良くテーブルにグラスを置いて叫んだ。

「って、もう! 何よこれっ! ただの水道の水じゃ無いのぉ! 透明だったから、そう言う紅茶かなんかかと思ったら、やっぱりただの水だったし!」

 そりゃそうだ。

 家の水道の蛇口から出るただの水道水が、ある日突然、紅茶に変わっていたら、付近一帯は町中、大パニックだ。

 そんな事がもし本当に起きたら、阿部のいえがやっている蕎麦屋何かは、客に出す麺が茹でられ無くて大変だろうな。

「何? 透明な紅茶? そんなの、最近、その辺で売ってるのか?」

 奈々美は両手で握りこぶしを作り、机を叩かんばかりの勢いで、激しくわめき立てる。

「そんなの、今、どうでも良いわよ! それより、私は冷やした玉露を所望しょもうしたのに、何で出て来るのがただの水なのよぉっ!? しかも、氷すら入って無いしぃっ! 一応、グラスは冷たいみたいだけど、それでも、もてなしの品がただの水道水とか……余りにも私への扱いが雑過ぎて、心底ムカツクゥー! あー、もう、隆一ィ! あんたマジ、本っ当にさいていーっ!!」

 そんな風に、奈々美は出されたもてなしの品への不満を、力の限りぶつけて来る。

 全力で抗議する奈々美に、俺は仕方無く弁明する。

「何でって、さっき、うちにそんな物は無いと言ったろ! お前、他人ひとの話、聞いて無いのか? 乾いた喉を潤すには、それでも十分だっ。悪いが、お茶だのジュースだのコーラだの、そう言うのは、自分のいえに帰ってから、そこにある物で十分に楽しんでくれ」

「チッ……ああ、もう良いわよ、分かったわ。あんたにはもう何も期待し無いし」

 奈々美はムスッとした態度で、俺の出したグラスを持ち上げ、キッチン兼リビングの方へと向かう。

 俺は歩き出した奈々美がそちらで何をしでかすのかと不安に思い、その後ろを追う様にそこへ移動する。

 流しの前に立った奈々美はグラスの水を口に含み、天井を見る様に頭を上げながらそこでガラガラとうがいをすると、ペッとばかりに吐き出した。

 げえっ……。

 俺の食べかけのオムライスに、いま奈々美がうがいで吐き出したやつの飛沫しぶきが掛かって無いだろうな?

 そして奈々美は、蛇口から新しく水を汲むと、それをゴクゴクと一気に飲み干す。

「んぐ……んぐ……ぷはぁ……。──どうも。水道の水、ごちそうさま」

 水を飲み終えた奈々美は、だるそうな低い声で慇懃いんぎんにそう言うと、そのまま流しで使ったグラスの内外を洗い、逆さに食器干しに置いた。

 少し安心した俺は、つい、軽い冗談を口にする。

「あ、別に、お礼の品とかは持って来無くてもいいぞ? 今のは、この俺からのほんの気持ちだからな」

「そんな物、用意する訳無いでしょ! このドケチッ! 休みの日なんだから、不意の来客に備えて、1リットル百円の紙パックのでも良いから、冷たい緑茶くらい用意してなさいよ! 全く、折角隆一んに来たのに……本当に何よ、この扱いぃ! この隆一の最低接客魔っ! 人非人にんぴにんーっ!」

「済まん、今のは冗談だっ」

「はぁ……疲れた」

 そう言うと、奈々美はフラフラと客間に戻り、さっき座った場所へ元の通りに座り込む。

 この調子では、どうやらこの先、小一時間以上もグウタラする積もりのようだ。

 なので、俺は機先を制して、奈々美に注意をして置く。

「なあ、奈々美。悪いんだがな、さっきも言ったように、俺は今日、今から出掛ける用事があって、マジでもてなしてる時間が無いんだ。俺んで茶でも飲んでくつろぎたければ、予め来る事を連絡してくれれば、飲み物と茶菓子の用意くらいはしてといてやるから……兎に角、そう言うのはまた今度にしてくれ」

「ふんっ、分かったわよ。じゃ、次はちゃんともてなしてよねっ?」

「しょうの無い奴だな。ま、予算の範囲で鋭意努力してやろう」

「じゃあ良いわ。許してあげるー!」

 十分なもてなしを出来無い再三の説明に、どうやら奈々美は納得したようだ。

「じゃあ、俺は食事をしてくるから、それが済んだら帰ってくれよ。頼んだぞ」

「うん、努力してみる……」

 と、何か引っ掛かる返事。

 だが、時間に余裕の無い俺はその疑問点に付いて頓着する事無く、客間を後にし、食事を再開した。


    ※


 しばらくの後、食事を終えて栄養分と水分を十分に補給し、すっかり空になった食器を流しの中の洗いおけの水に漬けて片付けた俺は、奈々美のいる客間に戻り──そして、仰天した。

 のんべんだらりとしているのかと思いきや、奈々美は客間のテーブルにかじりつき、その上に広げたルーズリーフにペンを持つ手で何か文字らしき物を高速で書き殴っていた。

 更に、机の上には、それ以外にも、やや大きめの四角い電子機器らしき物まで置いてあった。

「って、奈々美……? お前はそこで何をやっているんだ?」

 奈々美は、シャーペンを握りしめていたその手を止め、こちらを見る。

「何って、見れば分かるでしょ」

 素っ気無くそう返答すると、奈々美はぶつぶつと独り言をつぶやききながら、先程からしていた作業を再開する。

「いや、この俺の目から見た限りでは、そこでお前が何をしているのか、全く分から無いな? 宿題でもやってるのか……!?」

 少しばかり非難の色を込めて、俺はそう言った。

「もう……何って、執筆に決まってるでしょ。小説の執筆」

「ああ? 何だって? 小説……!?」

 この奈々美の余りの珍回答に、俺は豆鉄砲を喰らった鳩のように面食らって仕舞った。

「じゃあ、それってまさか……小説を書いているのか?」

 奈々美は、あたかもそれがそうあって当然の如く、ルーズリーフに文字を書き綴って行く。

「そうよ。さっきからそう言ってるでしょ。全く……隆一はさっきから、忙しい忙しいって私を邪険にするけど、私もあんまり時間無いんだから……邪魔し無いでよねっ」

 俺は、奈々美のこの回答によっても未だ解決していない己の疑問を呈する為、奈々美に再度質問を行う事にする。

「小説って、一体何の小説なんだ? 現国の授業で、そんな宿題あったか?」

 奈々美は「はぁ」と小さく溜息を吐き、すこぶる面倒臭そうに解説する。

「何って、部誌に載せる小説の原稿に決まってるでしょ。言っとくけど、一応、私も隆一と同じく、推小研すいしょうけんの部員なんですからねっ。かくあるからには、原稿を決められた締め切りまでに書き上げて、部に提出する義務があるわ」

 奈々美は書くのを止め、ムスッとしながら胸を張ってそう言った。

「お前が推小研……? ああ、そう言えば、そうだったな……」

 奈々美は、昔からズボラかつ他人に甘えがちな自分勝手で自己中心的とも言える性格のくせに、部活動と遊びだけは律儀にやる主義なのか、一丁前いっちょうまえに女子バレー部の部長などをしている。

 そのせいか、ここ最近、ほとんどど俺の所属している推小研すいしょうけん、即ち推理小説研究部の方には余り顔を出して来無かったせいで、俺の頭の中から、その事がすっかり抜けていた。


 ここで軽く俺の自己紹介をしておくと、運動に付いてはそれ程自信がある方では無いが、勉強の方ではそこそこ優れた成績を上げており、自他共に認める優等生と言えるだろう。

 当然、今通っている高校を卒業した後は、大学へと進学する積もりだ。

 そんな俺でも、一応、課外活動としては部活動らしき物には入っていて、それは推理小説研究部と言う。

 略して推小研である。

 推小研は、俺の東浜高に数多く存在している文化部の中でもひときわ新しい部だ。

  去年の秋、俺の友人である高梨玲人が新しく設置したばかりの、歴史の浅い部である。

 そんな創部当初から推小研の部員名簿に名を連ねている俺だが、少なくとも3年生に上がった今年の春頃までは、殆どアクティブな活動はしておらず、それまでにした活動らしい活動と言えば、週1回ある集まりの時に顔を出す程度であった。

 しかし、そんな半分幽霊部員の様だった俺の推小研への取り組み方も、色々な事情から無事に3年生になったこの頃は、何となくアクティブに関わる様になっている。

 他の熱心なメンバーの様に自分で小説こそ書か無いものの、部誌に備えてある推理小説を読んだり、それに関わる色々な議論を交わしたりした。

 現在では、彼ら彼女らから預かった部誌の原稿をチェックして校正したり、それらをまとめて製本作業の段取りを付ける編集役を担当している。 


 奈々美の言っている原稿の締め切りと言うのは、正確な事を言えばまだ本当に掲載する原稿の締め切りでは無く、その前にする校正用に出す初稿、即ち第1稿の提出期限なのだが、何だか話すのが面倒なので、この際、そこは指摘し無いで置く。

 だが、奈々美が部誌向けの小説を書くと言う事に付いて、疑問に思う点はまだある。

 そもそも、奈々美が推小研の発行している部誌である『クォーツ』に作品を寄せると言う事自体、俺には初耳だ。

 それは決して大げさな表現では無く、高校生の身でありながら、我が県立東浜高校屈指の名探偵であり、推小研の部長で1年生の時からの俺の友人でもある高梨玲人たかなしれいとは、当然の事ながら、部が定期的に発行している部誌『クォーツ』の編集長も務めている。

 奈々美が小説を書いて部誌に載せるとか、部長の高梨や、奈々美と同じく俺のクラスメートで新入部員の有栖川ありすがわは、そんな事言ってたか……?

 彼らと最近交わした会話を思い返して見るが……そんな事を聞いた場面は、とんと記憶に無い。

 そんな具合なので、俺は今の奈々美の発言をいぶかしく思う。


 推小研の発行する部誌、『クォーツ』は、文芸部や新聞部など、多くの文化部が発行しているのと同様、あのコミケなどで販売されている同人誌の様な風体ふうていの冊子である。

 そんな部誌には、それを製作する上での物理的な制約上や、或いはその中身を構成しているコピー用紙1枚に付き幾らと言う様な予算の関係から──極めて緩いものではあるのだが、おのずと、製作可能なページ数には制限がある。

 なので、幾ら奈々美がバレー部の部長をしているかたわら、推小研にも籍を置いている正真正銘の我が部の部員だったとしても、部誌の発行を含めて、部の全てを取りまとめている部長の高梨の許可無しに、その作品を掲載する事は出来無いのである。

 よって、その点に付き、俺はどうしてもこの目の前で鋭意執筆中の彼女にそれを質問し、確かめておかねばなら無い。


「なあ、奈々美。部誌向けに小説を書くのは良いんだが、それって、本当に推理小説なのか? 原稿集めを任されてる俺は、何も聞いて無いんだが。部長の高梨には、ちゃんとその話は通ってるんだろうな?」

 すると、奈々美は如何にもしかめっ面で言った。

「え……? 何よその言い方。そんなの当前でしょ。昨日、高梨君にメールしたら、裏表15枚の30ページ以内なら、次に発行する奴に載せるから、是非書いて欲しいって言ってたし」

「あ……そうなのか? そう言えば、高梨の奴、前に部誌のボリューム・アップを図りたいとか言っていたからな……」

 そんな事を言いつつ、以前、高梨と交わした会話を思い出し、俺はそれ以上の奈々美への追及を躊躇ちゅうちょする。

 我が推小研の部誌は、美術部に発注して載せている挿絵があったり、その製本に当たっては職員室から貸与されている製本機を使っている事もあり、手作りの冊子にしては割と小綺麗こぎれいに出来ているのだが、それはかつて部長の高梨があからさまに対抗心を燃やしていた文化部会会頭の江崎さん率いる文芸部の物と比べていささかボリュームに欠け、冊子としての厚みが薄いのが目下の難点であった。

 俺や香織も、推小研部の蔵書であるとか、学校の図書室にある推理物の小説の読書感想文の様な物を寄せているのだが、結局、そうして水増しした『クォーツ』のボリュームは、合わせて5ページほど増加したに留まり、未だその中身の殆どが、引退と卒業を控える高梨と有栖川の3年生、そして部内唯一の2年生で副部長の永瀬真紀ながせまきの作品で占められていると言うていたらくである。

 そんな具合なので、その問題の解決を図る為のくるまぎれと言うか、窮余きゅうよの一策として、校舎内の各所に貼り出した部員募集用の色紙には、推小研の部員で無くとも、部誌に掲載する原稿を受け付ける旨が、部の活動内容の説明と共に並んで明記されている。

 高梨は、今年の春、東浜高校に入学すると共に推小研に入部した、双子の妹である早苗さなえちゃんと香苗かなえちゃんに、自分の部活動引退後に抜けるボリュームを埋める役目を引き継いで欲しかったらしいが、少なくとも、いまその2人が執筆しているであろう広い意味での推理小説であり、読者期待の長編大作は、目下もっか、舞台だのプロットだの登場人物だのと言った設定の擦り合わせが非常に難航しており、この分だとその原稿を貰うのは、早くとも夏休みの最中にずれ込む勢いだ。

 しかして、どう考えても、その高梨の妹2人の合作の掲載は、夏休み直前に発行するこの次の『クォーツ』夏号にはまずもって間に合いそうに無いのである。

 何しろ、チェック担当である俺が早苗ちゃん達から、書き出しの所も含めて、全くその原稿を貰って無い状態だしな。

 メールアドレスは交換しているし、昨日は同じオンライン・ゲームで遊んでいたのだし、そこで原稿に付いて何の話も出無かったと言う事は、つまり、それは未だ、作品と言う形で他人ひとに見せられる状態には無いのだろう。

 さて、そうして何とか作っている推小研の部誌だが、現在の所、学校から支給されている部費を使って無料で配布している状態である。

 しかし、現部長の高梨と、そしてその右腕である、次期部長になる事がほぼ決定済みの永瀬真紀ながせまきとしては、我が部の部誌に付いて、いずれは文芸部の様に有料での販売を目論んでいるようだ。

 それが将来の目標として現実的かは兎も角、高梨や長瀬と言った、今現在、推小研を動かしている部の中心人物の思惑おもわくと言うか、今の部が水面下で抱えている目標らしき物と言うのは、そんな感じなのである。

 ゆえに、部誌の『クォーツ』に載せて欲しいと寄せられてた作品が、仮にそれが出来上がりの不明な奈々美の作品であったとしても、部の幹部である高梨らの判断としては、部誌のボリュームが足り無いと言う問題を解決するたったひとつの冴えたやり方と言うか、つまりは苦肉の策として──それを載せると言う決断をして仕舞う事は、全く考えられ無い所か、むしろ、相当程度にありる話だ。

 部誌のブランド・クォリティを維持すると言う観点からすれば、奈々美の作品を載せるなんて言う暴挙は、部としては殆ど自殺行為に近いようにも思えるが。

 そう納得した俺は、ふと奈々美の方を見る。

 と、彼女はすっかりすねて仕舞った様で、ルーズリーフへの執筆を継続しつつ、こちらも見ずにブツブツひとごとの様に言った。

「全く……他人ひとが小説を書くのに集中してる時に、気安く話し掛けてんじゃ無いわよ。フンッ!」

 どうやら、俺の家の客間で勝手に始めていた、大傑作の執筆作業を中断された我が推小研の期待の星である松原先生は、随分とご立腹の様だ。

 いずれにしても、これから短くても3、4時間のあいだ、それも関係者以外には知られては行け無い事情を含む理由でこの自宅を後にし無ければなら無い俺は、この大先生に対し、言うべき事を言う事にした。

「おい、奈々美。こう言っては何だがな、部誌に載せる小説とか、そんな物、自分の家で書いたらどうだ? そう言うのは、心落ち着く自分の家で書いた方が、はかどるんじゃ無いのか? ……全く、知り合いとは言え、他人の家で原稿を書く推理小説研究部の部員がどこにいる?」


「なっ、何言ってんのよ? いるでしょう、そのくらい……。何か……その辺に」

 奈々美の言葉の後半はしどろもどろである。

「ど・こ・に・だ?」

 奈々美はこの俺の質問攻めにいささか気だるげな表情をしながら、再び「はぁ」と溜息を吐き、机に置いたままの腕を少し動かし、「う~ん」としばしの間考え込むと、その人差し指を俺の方へ向けるや、こう呟いた。

Inインyоurユアsightサイト……」

 この奈々美の回答を、俺はにべにも無く突っぱねる。

「英語で言っても駄目だっ。お前には分から無いだろうがな、俺がどこにいるって聞いた言葉には、当然、お前の他にって意味も含まれているんだ。有効な反論をしたければ、お前自身以外の例を示せ!」

 これを聞いて、奈々美は「チッ」と舌打ちをし、そっぽを向いた。

 どうやら降参したらしい。

 そんな奈々美の様子に構う事無く、俺は一呼吸置いて、伝えるべき事を伝える。

「悪いがな……さっきも言ったが、俺は今日、出掛けなければなら無い用事があるんだ。また、香織も部活からしばらく帰って来無いだろう。つまり、最後に家に残った俺には、お前のような家に居座る余計な客を追い出して、きちんと戸締りをして家を出る義務がある。今書いているその小説に付いて、何か俺に相談したい事があると言うのなら、後でメールでも寄越してくれれば帰った後に乗ってやるから、お前はもう帰れっ」

 この言葉に、奈々美はがんとして抵抗を開始する。

「何でよ! 嫌よ! ついさっき来たばかりなのにィ!」

 奈々美はテーブルに噛り付き、歯を剥き出しにして抗議した。

「そんな我がままな事を言うな! いくら幼馴染みとは言ってもだな、昼間とは言え女のお前を独りでこの家に置いて行けるか! 戸締りもある事だし、大体、俺が家を空けてる時に、ガスや電気の業者を装った不審者が訪問して、余計な物を買わされたり、破廉恥な行為を強いられたりしたらどうする!? そんな具合だから、お前は帰って、原稿は安全な自分の家で書け!」

「フンだ! 私はそんな消防署の方から来たみたいな話には、全然引っ掛かりません~! 隆一が何と言おうと、今日は梃子てこでも動きませんからねっ! 大事な原稿を仕上げる事が、今の私にとっては至上しじょう目標なの!」

 そう言い放つと、フンッと鼻息も荒く、奈々美は右手でペンを動かしつつ、端にあるテーブルの脚を余った左手で握る。

 どうやら、彼女は断固としてここに居座る積もりのようだ。

 今を思えば、先刻、ドアを開けてこの客間に案内して仕舞ったのが、そもそもの間違いだったのかも知れ無い。

 仮にそこまでは仕方が無いとしても、その後、奈々美が涼を得て余計な事をしようと考え出す前に、さっさと追い返せば良かったのだ。

「はぁ。全く、やれやれだな……」

 意固地いこじな奈々美の他宅たたく居座いすわり運動に困り果てた俺は、この問題をどうしたものかと思案する。

 これから出掛けるバイトは、何かの理由で終了時間が伸びたとしてもせいぜいが5時間位の事だし、香織もあと3、4時間もすれば帰宅するだろうし、今日はこのまま置いてやろうかとも思う。

 だが、考えて見れば、この奈々美の様な好奇心旺盛な女子高生を一人で自分の自宅に置いて置くと言うのは、奈々美の身だけで無く、この俺自身に取っても危険な事だ。

 いや、同じ高校のクラスメートでも、桧藤ひとうやら有栖川ありすがわ、或いは隣のクラスの人で文化部会会頭を努めるかたわら、文芸部の部長もしている学園のアイドル的存在の江崎えさき雪重ゆきえさん辺りなら、他人の家で無作法をする事も無いだろうと思われるので、それでも良い。

 しかしながら、相手がこの奈々美となると、僅かに小一時間すら、独りで置いたまま家を空ける気にはなら無いのであった。

 なまじ幼稚園の頃から高校3年生と言う現在まで、ずっと悪友としての付き合いをしているせいか、俺はこいつがどう言う性格をしているのかを知り尽くしている。

 好奇心旺盛でミーハーなこいつをこの俺の自宅に独りで置いて置けば、監視の目の無いのを良い事に、家中いえじゅうの興味ある場所を、手当たり次第に引っ掻き回し、探って見るに違いない。

 俺の親の部屋にまで入るかはさておき、少なくとも真っ先にそんな奈々美の子供地味こどもじみ家探やさがしの標的ターゲットになる場所は、この俺の自室である事は間違い無いのである。

 無論、俺が他人に見られたく無く、かつ、他人が興味を引きそうな物の隠し場所──通常であればベッドの下とかなのだろうが、この俺はそんな安易な場所に、友人同士で貸し借りをしているいかがわしさ溢れる何物かなどを隠したりはし無い。

 しかし──しかし、だ。

 そこは上手く通過したとしても、鍵の掛かっている学習机の引き出しをどうにかして開けられ、中を探られて、そこに隠してある男子高校生の夢をパソコンの上で手軽に実現してくれるあれやこれやを目の当たりにされると、色々と困る。

 最悪、奈々美にその隠したブツを発見され、挙句に破廉恥はれんち野郎などと馬鹿にされたり、その見当外れな叱責を受ける所までは良いとしても、こいつの事だ、仮に口止めしたとしても、同級生の桧藤や有栖川や、知り合いである他の女子達に、その事を面白おかしい話題として触れ回る可能性が全く否定出来無いのであった。


 困り果て、迷った俺は、根本的に疑問に思った事を奈々美に質問する。

「本当に、しょうのない奴だな……。何故なぜそうまでして、俺の家で執筆作業をしたがる?」

「え? ええっと、それは……」

 奈々美は俺の顔から視線を逸らし、言い淀む。

 この様子に、俺はふと思い当たる事があり、それを聞いてみる事にした。

「んっ? なあ、奈々美、お前、まさかとは思うんだが……?」

「な、何よ!? 急に……!」

 奈々美は俺の切り出した質問に、どぎまぎとした表情をする。

 俺は思い浮かんだ疑問を、そのまま口にした。

「お前、もしかして、また家出いえでしたんじゃ無いだろうな!? 高校3年生にもなって! 年甲斐も無く!」

「な、何!? 家出ぇ!? 全く、何を言い出すかと思えば……隆一、あんた何言ってんのよ? 全然違うわよっ! 全く!」

 奈々美はドンと机を叩いた。

「言って置くけど、私が最後に家出したのは、中学2年生の春頃だし! それ以降、例え家族と喧嘩しても、感情にまかせて家を飛び出す何て言う子供っぽい真似は、金輪際こんりんざいしてませんー!」

 と、奈々美は閉じた上下の前歯を突き出し、実に子供っぽく反論を述べた。

 俺が最後に記憶している奈々美の家出は、確かお互いに小学校6年生位の時だったが、どうやらそれ以降も、そうした事があったらしい。

 それにしても、中2の春か……。

 良く思い出して見れば、確かにその頃、教室などで時折、不満ありげな面持ちで塞ぎ込んでいた、いわゆる半グレ状態の奈々美の姿を見たような気がする。

 何かしでかしてそれを親に怒られて家を飛び出し、どこかにいるのを探し出された挙句に、更に怒られでもしたんだろう。

 全く、昔からこいつは相当な馬鹿だからな。

 思い出したくも無い奈々美との過去についての、余計な知識が増えて仕舞った。

 ──その事に付いての感想は、この際、一旦置いておくとして。

「家出で無いと言うのなら、じゃあ何故、俺が出掛けると言うのに、お前はそんな風にテーブルにかじりついて居候の様に俺の家で過ごそうとする?」

「え? えーと……それは……」

「何だ、言え無いのか?」

「べ、別に、言え無い訳じゃ……無い……けど……」

 奈々美は口ごもった。

「じゃあ、訳を話せ。時間が無いからな、手短にだ」

 まるで警察の取調室に呼ばれた重要参考人のように対面に座っている、奈々美の供述に耳を傾ける。

 ようやく、奈々美はモゴモゴとした口調で、その理由を話し始めた。

「その……最近……私の家のエアコンが最近調子悪くて……。夜中は外と比べて全く涼しくなら無い訳じゃ無いけど、昼間は全然温度が下がら無くて……」

 奈々美は語りながら、視線を落とす。

 何だ、そんな事か………。

 こいつに使う様な頭があるのかはさて置き、これでようやく、この家に居座りたがるその理由が分かった。

「あ……って言うか、家に帰ってもどーせ一人だから、不審者と遭遇とか、そんな心配はいら無いのよ? 隆一の家の方が、一軒家の私の家より位置的に高いから、むしろ安全だし」

 それはそうかも知れ無いが、俺はそんな下りを無視し、この頑固に居座ろうとする奈々美をどうにか帰宅させるべく、次なる言葉を発する。

「何? クーラーが壊れた? そうか。ああ、それは大変な事だろうなあ。こんな暑さの厳しい時節に、全くご愁傷さまだ。それなら家に帰って、しかるべき業者に連絡して、早期に修理を依頼した方が良いな?」

「クーラーじゃ無いわよ! エ・ア・コ・ン!」

「そんなもの、どっちだって良いっ! ……って言うか、部屋の温度が下がら無いって、それはエアコン本体じゃ無くて、リモコンの方が壊れてるんじゃ無いのか? ここでしばらく待っててやるから、お前の家に戻ってちょっと見て来たらどうだ? 壊れて無ければ、メールで連絡してくれ」

 俺はそう言って、奈々美が向かうべきこの家の玄関の方を手で促した。

 すると、奈々美はニヤリと笑い、それからまるで勝利宣言でもするようにこう言った。

「はい、ハズレー! 残念でした、その手には引っ掛かりませんー!」

「ああ? 何だって?」

「私の家のエアコンの故障は、リモコンの故障では無いの。ベランダに置いてあるファンの付いた、あの白い箱型の機械……つまり、室外機の故障ですぅー!」

「室外機の故障!? なんだ、リモコンの故障じゃ無いのか……」

「違うわね、大外れよ! ヒャハハ!」

「しかし、そんな下ら無い事を、良くそんな風に得意気かつ偉そうに堂々と言えるな?」

「言えるわ、幾らでも言ってやるわよ! キャハハ!」

「……このアバズレッ」

 そう言い放った後、俺はある事に閃いた。

「──いや待てよ。今、お前の家のエアコンが上手く動かないのは、室外機の故障だと言ったな? 機械音痴のお前に、どうしてそんな事が分かる?」

「それくらい、この私だって分かるわよ! だって、最近のわたしのエアコン、スイッチ入れた後、動作中の室外機から異音がするもの。その後、幾ら待っても送風口から出て来る風が生ぬるくて全然冷たくなら無いし……。それから……」

「ああ、もういい! そう言うおまえのエアコンが抱える不具合の細かい説明は、後で聞く。ひとまず、お前がここにいたい理由が、お前の家のエアコンの室外機の故障である事は認める。その事に付いては理解した」

「じゃあ、分かったんなら、ちょっと涼ませてよ? 今日の夕方近くになるまで。とにかく今、私の家は昼間は猛烈に暑くて、とてもじゃ無いけど、執筆なんて頭を使う作業はしてらん無いのよっ!」

「何だその理由は、屁理屈にもなら無いな。だからと言って、他人の家に居付くな、他人の家に。それこそ喫茶店やファミレスに行くか、図書館とかに行ったらどうだ? ……って言うか、電器屋さんなら、おまえのすぐ近くにあるだろうが。親に頼んで、そこへ行ってさっさと修理を依頼して来いっ」

「はい、残念~。今日は土曜日にしては珍しく近くの公立図書館が休館日だったのよ。それに、小説を書くって言うのに、ファミレスや喫茶店じゃ落ち着か無いでしょうが! 後、うちのエアコンの修理ならもう、昨日頼みました。まだ保証期間内だし、安くて済むと思うから大丈夫だと思う。でも、今、電器屋さんもシーズン中だから、他の家のエアコンの取り付けやら修理やらで大忙しで、ぐには修理に来られ無いと言う訳なの。だから今日1日くらい、隆一ん家にいさせてよ。お願いっ!」

 手を合わせて頼み込む奈々美に、俺はどうしたものかと思案する。

「しかし……お前なあ……」

 次に何と言ったら良いのか、考えを巡らせる。

 そんな俺の様子を見て、奈々美はついにその溜まりに溜まった不満を爆発させた。

「何よ! この、隆一のケチンボッ! ちょっと涼むくらい良いでしょ! あんなクソ暑い自分の家で原稿を書いて、私が熱中症に掛かって大変な事になったら、どうすんのよ! そうなったら、隆一に責任取って貰うからねっ!」

「ぐ」

 奈々美の凄い剣幕に、俺はつい、気圧けおされそうになる。

「この暑さで頭の中が納豆みたいになって、執筆が進まずに原稿落しそうになったら、隆一にこれの続き書いて貰うからっ! 親友を粗末に扱った罰として、お前が私の代わりに原稿書けっ! この薄情者っ! オタンチンッ!!」

 奈々美はそう喚き立てると、これが最後とばかりに、机に上に置かれたその半分ほどが文字で埋められているルーズリーフを、手の平でバンと叩いた。

 そして、彼女はテーブルに突っ伏し、頭を抱えてこう呻いた。

「あーー! もう駄目ぇ! もう限界ぃ! 私のうちじゃ暑くて執筆は無理無理無理無理ぃ~~~っ!」

「チッ……」

 今度は俺が舌打ちをする番だった。

「家や喫茶店じゃ集中出来ずに、部誌に載せる小説が書け無いとか……。仮にも我が県立東浜ひがしはま高校を代表する女子バレー部のエースだと言うのに、随分とこらえしょうの無い奴だな!? 良くもそんなんで、運動部の部長が務まるもんだ! 心頭しんとう滅却めっきゃくして暑さに負けそうになる己を制する根性が、全然足りて無いんじゃ無いのか!?」

「バレーをやってる時は平気なのよ! バレーやってる時は! って言うか、放課後は体育館が男・女バスケ部に取られるから、女子バレー部は基本的に朝練だし……。そもそも、3年の私は殆どの活動を2年生に引き継ぎ終わって、練習はほぼ引退したし……」

 そんな奈々美の言う後半のゴチャゴチャした下りを無視し、俺は指摘する。

「何だ、その場所場合を選ぶ不便なバイタリティは? そう言う体育会系的な根性はな、お前の家のエアコンが壊れている今発揮しろ! 今! 必要な時に発揮出来無くて、何の為の根性だ!? 女子バレのエースの名が泣くな!?」

「そんな無茶苦茶言わ無いでよっ! それにこれ、明後日までに一旦、上げなくちゃいけ無いし……。あ、そうだ! 隆一と一緒に書くなら、直ぐに終わって、早く家に帰れるかも!」

 奈々美は妙案を閃いた時のように、目を輝かせ、笑う。

 全く、とんでも無い事を言い出す奴だ。

「はぁ? 俺が小説を書くだって? おい、勘弁してくれ。この後に控えている疲れる用事を済ませて帰って来た後に、そんな面倒で時間の掛かる事をする何てのは、どう考えてもお断わりだっ」

 ましてや、高校での比較的簡単な科目である現国すら壊滅的で、赤点ラインに届いた事もある奈々美との合作がっさくなど、まさに悪夢その物である。

「何よ! 隆一はさっきから私の事、バレー部、バレー部って! バレー部だから何だってのよぉっ!! 第一、私はバレー部員である以前に、推小研すいしょうけんの部員でもあるでしょうがぁっ! 同じ部の仲間が困ってるのに、放置してシカトとか、どんだけー!! 隆一! あんた、それでも推小研すいしょうけんの部員ーっ!?」

 と、先程、バレー部員である事を種に散々に言われた奈々美が、今度は推小研の部員でもある事を逆手に取り、俺に逆襲を仕掛け始める。

「ぐっ……」

 仕舞った──上手い具合に指摘した積もりが、逆にこちらへの攻撃材料を相手に与える結果になって仕舞ったようだ。

 奈々美なんぞに一本取られるとは、この成海隆一も不覚を取ったな……。

「隆一! あんたも天下の推小研の部員なら、少しは私の執筆を手伝いなさいよねっ! うん、そうだわ! それが部員に課せられた責務でしょーがっ!」

「ああ!? お前は何、自分独りだけで納得してるんだっ!」

 全くその通りなのだが、だがしかし、俺には帰って来た後、忙しさにかまけて済ませていない宿題が少しあるので、そんな時間の掛かる事にはマジで付き合っていられ無いのだった。

 俺の家へ居座る正当な理由の糸口を得た奈々美は、拳を振り上げ、シュプレヒコールの声を上げ始める。

「無責任な部活動への姿勢、反対~! 東浜高等学校の推小研部員! 3年6組の成海隆一はっ! 即刻そっこくっ!! 自らに課せられた部員としての責任を果たせーっ!」

 もはや、何かの組合や市民活動の様相である。

 ──と、その時、俺のケータイが着信で振動した。

 折り畳まれたケータイの画面を見て見ると、1通のメールが届いている。

 早速それを読んでみると、それは俺の上司……いや、クラスメートでバイト仲間の有栖川すみれからであった。

 文面は次の通り。

「(=゚ω゚)ノやあ、こんにちは、成海くん♪ 今日のバイトの事だけど、もう、家は出たのかなあ? 既に出たのなら、安全の為にも、出発前の連絡をして欲しいんだけどな(*'▽')」

 文頭にゆる可愛い顔文字を使っていて、実に女子高生らしい文面である。

 だが、俺にはもはや、そんなメールの内容に感心したりなごんでいる暇は無かった。

 時計を確認すると、時間に余裕を見て家を出るには、残り時間はあと約十分くらいしか無い。

「ああ、くそっ!」

 もうぐずぐずしてはいられ無い。

 これからバイトを控えている俺は、直ぐにでもこの家から出発しなければならなかった。

「部員、成海隆一はぁ! 同志、松原奈々美の執筆環境の確保に尽力しろーっ!」

 奈々美は未だ要求をしている。

「おい、奈々美。俺は連絡があるから、ちょっと静かにしてくれ無いか? すぐ終わるから、ここで待ってろ」

「そもそも我が推小研はー……! あ? 何? 電話? 別に、幾らでも待つけど……?」

 奈々美が静かになったので、俺は洗面所の方へ行き、そこで先程送られて来たメールの主、つまり、有栖川に電話を掛けた。

 2回ほど呼び出し音が鳴った後、声が聞こえて来る。

「……あれ? 成海君、一体、どうしたのかなあ?」

 落ち着き払った様子の、有栖川のにこやかな声が響く。

「ああ、有栖川か。突然電話して済まん……。実は、予期せぬ事態が発生して、まだ家を出られて無いんだ。しばらく前から家に奈々美が来ていて、一向に帰りそうにない」

「何だ、そんな事か……。ああ、でも、確かにそれは厄介な事態ではあるかなあ……。それじゃあ、そのまま君の家に、奈々美を置いて置けばいいんじゃ無いかな? それとも、彼女を君の家に置いて、何かまずい問題でもあるのかなあ?」

 軽く言ってくれるな。

「いや、特に問題は無いが……しかし、大丈夫か?」

「え? 何が?」

「防犯上の理由で、あいつをここに独りで置いて置きたく無いんだ」

「ああ、なるほど。でも、別に心配する事は無いんじゃ無いかなあ……何でかと言うと」

 電話口の相手は、低い小声で言った。

「君の家の安全は、我々が保障している……」

「……そうか。なら安心だな。じゃあ、今すぐに出るから、いつもの場所に迎えに来てくれ」

「了解。あ、慌てて出掛けて転んだりし無いように、気を付けて欲しいな」

「ああ、分かった。済まん」

 覚悟を決めた俺は、電話を切り、奈々美に向かって言った。

「そうか、ここで小説を書きたい理由は分かった。そう言う事情ならば良いだろう」

「え? 何? いていいの?」

 奈々美はキョトンとして、次第に怪訝な顔をする。

「ああ、ただし、俺の母親がパートから帰って来る夜八時までだぞ」

「うん、分かった」

「……そうだ、奈々美。麦茶でも飲むか?」

「な、何よ急に。一体、どう言う風の吹き回しよ? ……飲むけど」

「急に追い出そうとして済まなかったな。ちょっと俺は出掛けて来るから、気兼ね無くこの部屋で小説を書き上げてくれ」

「そ、そう」

「……そう言えば、良く考えたら俺もお前も、推小研に所属している仲間だったな。そうとなれば、同じ部に入ってる者同士、困った時はお互いに助け合わ無いとなあ?」

「でしょう!? なーんだ、分かってるじゃ無いの!」

 奈々美はその白い歯を見せてニヤニヤとする。

「所で、俺のうちにいさせるのは良いが……原稿の方は、ちゃんと書き上がるんだろうな?」

 奈々美は兎に角、宿題と言う物を殆どやって来無い奴なので、俺は心配になり、そう質問する。

「それは問題無いわ。今書いてるこの私の作品だけど、実はもう8割がた書き上がってるのよね。この紙に書いた物が、それ」

 奈々美は上から下まで全て文字で埋まっている、10枚ほどのルーズリーフを俺に見せた。

「で、このほぼほぼ書き上げた手書きの原稿が完全に完成したら、オフィスソフトで編集可能なテキストデータにする為、その出来上がった文章をこのノーパソで打ち込みます」

 さっきから机の上に置かれていた平たい板状の物体は、どうやら畳んだ奈々美のノートPCだったようだ。

 奈々美の奴、家では割と高性能なマシンで色々なゲームをプレイしているのは知っていたが、ノートの方も持ってたんだな。

 どうやら、本日は俺の家で原稿を書き上げるや、その後、遅滞無くその入力作業も終わらせて仕舞う腹積もりらしい。

 全く、そう言う自分のやりたい事をする時だけは、抜かり無く下準備をして段取りを組める奴だ。

 いつも宿題を半分故意に忘れて来るこいつに、既にやり終えている自分のを見せて、その一部を写させてやっている俺としては、奈々美にはそう言う遊びや部活以外の事であっても、そんな調子でしっかりとやって貰いたいものだが。

「なるほど。手順は分かったが──一度手書きした物をテキストにするとか、それ、二度手間だろ? そんな小さなノーパソなら、大して電気も食わ無いだろうし、そこのコンセントに電源を繋いで、最初から直接、パソコンで執筆して構わ無いぞ」

「別にいのよ! 私はそう言う書き方じゃ無いと、しっくり来無いの!」

「なら、その辺の事は、別にお前の好きな風にやって良いが……」

 原稿を完成させる手順はどうあれ、問題はその中身だ。

 奈々美が書いている作品の中身がどんな物なのかは、まだ少しも読んで無いので皆目かいもく分から無いが、こいつの作文能力がどれほどの物かは、小中高と一貫して学校を共にして来た、幼馴染みの俺には良く分かっている。

 そんな俺が思うに、いま奈々美が鋭意取り組んでいるのは、きっと目も当てられ無い様な駄作に違い無い。

 全く、適当な物を書いて、俺の友人でもあり我が推小研の名物部長……高梨玲人たかなし れいとの機嫌を損ね無ければ良いが……。

 奈々美が高梨に指弾されたり、或いはその失笑を買うかどうかと言う事それ自体は、一種の放置プレイとしてその結果を楽しみにしているが、この身にまでそのとばっちりを喰らうのは御免だ。

「あ、そうそう、ついでに聞いときたいんだけど、私のこのノーパソを、隆一んのネットに繋げてもいい? こないだ、カオリンが自分のノーパソを接続してるとこ、見たのよね」

「ネット? まあ、別に良いが……。だが、間違っても有料サイトには繋ぐなよ? 特に、アダルト系のは厳禁だっ」

「もう、私が隆一んでそんな事する訳無いでしょうが……! 失礼ね!」

 何か引っ掛かる言い方だが、俺はそれを追及せずに言葉を返す。

「ああ、まあ……そうかもな。いや、一応の念押しと言うか、確認の為だ」

 怒る奈々美をそうなだめつつ、俺はそろそろバイトへと出発する事にした。

「じゃあ、俺はちょっとバイトに行って来るから、奈々美の方は、留守を頼んだぞ。誰かがうちに来ても、知り合い以外、ドアは開け無くていいからな。つーか……絶対開けんな! 後、香織が帰って来たら、ちゃんと玄関のドアの鍵を閉めさせてくれ」

「オッケ~! 分かったわ。知り合い以外、このいえのドアは開け無い。カオリンが帰って来たら、玄関の鍵を閉めさせる、ね」

「そうだ」

「良いわ。それじゃあ、後の事は、いつも学校が終わるとうちで夜まで留守番している、留守番クイーンのこの私に任せなさーい! そんじゃ、いってらっしゃい!」

 留守番に付いて自信満々の奈々美に見送られながら、俺は家を出て、そそくさとバイトの待ち合わせ場所へと急いだ。

 何だか、軒先のきさき貸して母屋おもやを取られるでは無いが、家主とも言える俺が客である奈々美に厄介払いされて仕舞った気がする。

 ──こんなんで、大丈夫何だろうか?

                 (前編終了。以下、中編に続く)

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