人狩り ~狂気の群れ~

澤松那函(なはこ)

人狩り ~狂気の群れ~

 人類が幾度か文明の崩壊を経験した後の世界。

 星の大半は、大樹と呼ばれる人知を超えた植物に浸食され、全ての生物は、大樹の与える恩恵と理の元、暮らしている。 


 大樹の恵みを口にする事で、人以外の獣は人と同等の言葉と知恵を得た。

 命を終えた生物の遺骸は大樹へと還り、混ざり合って新たに生じる。

 大樹から生ずる生命を人は精霊と名付け、彼等もこの呼称を気に入った。


 人と獣と精霊は、大樹の恵みの元、互いを尊重し合いながら理に従って生きている。

 だが理を乱すのは、往々にして人だった。

 ならば始末を付けるのも人の役目。

 その担い手を人々は、人狩りと呼んだ。

 







 夜気が無遠慮に入り込む小屋に二人の男が座している。

 障子から差す満月の光が寒気の薄衣に包まれ、二人の頬にしっとりとしみ込んでくる。

 一人は二十の半ばか、三十路の手前に見えた。

 男にしては艶のある黒髪は、少々癖のある毛質のようだ。

 白いシャツに黒いネクタイを緩く締めており、少々くたびれた黒のズボンととび色の背嚢はいのうが旅慣れている事を窺わせた。

 厚手の黒い上着は、相応の質らしく雪で凍える事はないだろう。

 村の近辺ではあまり見かけないが、大きな町でなら珍しくもない装いだ。


 男の風貌で一層目を引くのは、彼の面立ちだった。

 端正である事よりも鷹のように鋭い眼光と尋常でない瞳の色。

 そのまま翡翠ひすいを嵌め込んでいるかの如き美しさは、北方の民の蒼の瞳ですら霞ませる。

 もう一つは、背嚢とは別に肩から下げている濃藍の絹の長細い袋。

 持ち手の紐が肩に食い込んでいるから相当の重みがあるらしい。


 もう一人は、擦り切れた浅黄の着流しを身に着け、囲炉裏の灰を火鉢で転がしている。

 まだ三十路にもなっていないようだが、肉付きの悪い痩せ衰えた容姿は、死期が間近の老人を彷彿とさせた。

 だが窪んだ瞼の奥に鉄のように鈍い光が渦巻き、常人よりも濃い生気を放っている。


「あなたが人狩りのヒスイ殿か」

「ええ。それでご依頼の内容ですが――」


 ヒスイがシュウという男から手紙を貰ったのは、三日前の事であった。

 ちょうど彼の住む村の近くで仕事を終えたばかりのヒスイは、その足でシュウの元を訪れていた。

 無論近いからついでに、というだけの理由で足を運んだのではない。

 手紙に書かれていた依頼の内容が気がかりだったからだ。


「本当にご自分を狩ってほしいと?」


 手紙に書かれていたのは自分を狩ってほしいという依頼と自分の居場所を示す地図だった。

 五百人ほどが暮らす村の近くにある最も険しい山に男の住む小屋は建っている。

 まるで自らを俗世と隔離するかのようだった。


「妥当な理由があれば人の依頼も聞いてくださると」


 人狩りは、無差別な殺人者ではない。

 秩序や理、そういった規範を犯す者を狩るのだ。

 故に狩るに足る理由がなければ精霊の依頼でも聞く事はないし、妥当なら人の依頼でも動く。

 大抵の人々は、人狩りに関する正しい知識を持っているのだが、稀にこのような自殺幇助や復讐の依頼が舞い込む事もあった。


「自殺したいという依頼は何度か来ましたが、いずれも断っています」

「何故?」


 狩れない。

 そう告げたはずなのにシュウの表情は命乞いする鼠のようであった。


「何故狩れぬ?」

「我々は自死を手伝うために居るのではない。理や秩序を乱す人を狩るために居るのです」

「ならば俺はそうだ。いや、いずれそうなる」


 それは確信があるかのような口ぶりだった。

 縋りつくような眼力もそれに拍車をかけている。

 自らをここまで貶めて考える人間をヒスイは初めて見た。

 その興味からだろう。

 普段のヒスイならとっくに引き上げているところ、このシュウという男の話をまだ聞きたいと思うのは。


「どういう事ですか?」


 ヒスイの問い掛けに、シュウは鼻から重い息を吹き出した。


「俺は人が殺したくてたまらない」


 シュウの表情にあるのは羞恥と恐怖。紛れもないそれらは、しかしやがて移り行き、


「特に若い、いや子供だ。女の子だ」


 薄黒い笑みがシュウの唇から零れた。


「あの白く細い首に指をかけ、血と息の止まる様をこの手を通して感じたい。道行く子供を見るたびに私はそればかり考えてしまう」


 いずれ訪れる歓喜の時を待望して震える右手の指を、シュウは左手で握り締めて諌めた。


「自分でもおかしいと思い、東の都にある医療所へ行きました」

「医療所?」

「心のね」


 そう言ったシュウの顔に自嘲の色が濃く浮かぶ。


「医師によれば俺のような人間は稀に産まれる事があると言います。なんでも罪悪感という物を感じられないのだと」

「罪悪感を?」

「ええ。そして決まってそういう人種は歴史に名を残す大罪を犯していると」

「医師はそれ以外になんと?」

「薬も治療法もない。生まれついての性質なのだと。そして罪を犯していない俺では閉じ込めてしまう事も出来ないと。人の法が許しはしないのだと」

「だから私を呼んだと?」

「人の法が許しても秩序と理が俺の存在を許すわけがない。ならば俺は狩られるべきなのだ」


 ヒスイも何度かそういった人間の話を聞いた事がある。

 いずれも人狩りの手にかかったというが、そうなるまでにそれらの人間の手によって数え切れぬほどの命をが失われたとも。

 シュウがそうなるのだとして、彼が与えてくれているのは機会だ。

 そうなる前に止める機会を与えようとしてくれている。

 だからこそヒスイは狩る気に慣れなかった。


「理を乱すかもしれない。そんな理由で狩る事は出来ません」


 本当の脅威が自身を脅威とは自覚出来るのだろうか?

 まして自分を狩れと言うのだろうか?

 ふと浮かんだ疑問が思考を犯していく。

 客観的に見れば彼の言うままに狩ってしまうのがいいかもしれない。

 診察した医師の名を調べ、彼の診断を元に人狩りを行ったとなれば人の法でも許されるだろう。


 しかしヒスイという男の自我がそれを拒んでいる。

 目の前に居る男は性根がどうあれ、善良であろうと足掻いているのだ。

 無駄な足掻きと罵り、銃口を向ける事が正しいとは、どうしても思えなかった。

 そしてシュウの話を聞いても彼を狩らない人狩りはきっとヒスイ以外にもきっと多く居る。

 人狩りとはそういう物なのだ。


「だから私には出来ません」


 ヒスイの拒絶に、シュウはその視線を火鉢に向けた。


「あなたが最後の頼みなのだ」

「申し訳ない。あなたが子供を殺したという事実がない限り、狩れません」


 シュウは火鉢を強く握り締め、先端を凝視してからヒスイを見やった。


「なら今この場であんたを殺そうとしたらどうする?」


 シュウから仮初の殺意が溢れ出す。

 ヒスイに襲い掛かる位は考えているだろう。そしてあわよくば自身が狩られると。


「狩りはしません」


 願いを汲めない事に後悔と懺悔を抱きながら、ヒスイはシュウと瞳を合わせた。


「残念ながらあなたでは私に殺すという手段を取らせる事は出来ない。こちらは人を狩る手練れです。人を殺さずとも御す方法は心得ています」


 人を狩る仕事をするという事は、人という動物の構造と対策を知り尽くさせねば勤まらない。

 殺せるのだから殺さぬ事も出来る。

 シュウとヒスイでは隔絶した知識と経験の差が存在している。

 彼が火鉢を振り上げても、その先端がヒスイの薄皮すら傷つける事はないだろう。


「他の人狩りを当たってください。もしかしたら受ける者も居るやも知れません」


 ヒスイは立ち上がり、シュウに会釈をして出口に向かって歩き出した。


「そうですか……」


 背後で萎れたシュウの気配に惹かれるようにヒスイは足を止めた。


「……シュウさんよ、一つ聞きたい」

「なんだ?」

「どうして自刃しない?」


 ヒスイの問い掛けにシュウの吐き出す語気は鋼のように硬かった。


「出来んのだ」

「何故さね?」

「俺は精霊の器だ」

「あんたが?」


 精霊の器とは、精霊を体内に宿した人間がそう呼ばれる。

 体内に別種の生物が巣食い、共存する。

 原理としては単純だが、全く異なる生物である人間と精霊が互いに悪影響を与えずにいる事は極めて珍しい現象だ。

 到底常人の真似出来る事ではないし、人間が望んで出来る事でもない。

 精霊がその土地で最も強い人間を選び、そして寄生する。

 人間が精霊に選ばれる以外に、この共生関係が生み出される事はない。


「俺の中の微細な精霊たちがこの土地に潤いをもたらしている。俺が自死すれば彼等はこの土地を去ってしまうだろう」


 器に宿る精霊は小さいながらも誇り高い者たちだ。

 宿主が自ら死を選べば、二度と弱い宿主の近くに寄る事はないという。

 だが宿主が殺されたとあれば話は別だ。

 宿主の無念を感じ、宿主に土地への愛着があれば、別の宿主を選んで土地を守ろうと全力を尽くす。


「しかし俺が誰かに殺されたなら、彼等はこの里に後に生まれる誰かにまた身を寄せるだろう。それでも数年の間は開くだろうが、居なくなるよりはましだ。俺には自分のために土地の全てを犠牲には出来ない」

「そのことを里の者は?」


 ヒスイの質問にシュウの絞り出した声は、


「知っている」


 まるで古い汚泥の底のように淀んだ声だった。


「だから俺が子供に手をかけても彼らはよしとするだろう。里の安寧のためならば。進んで子供を差し出すようになるやもしれない。それが怖い」


 自分の狂気を恐れているばかりではない。


「拒む自信がない」


 シュウという男が本当に恐れているのは、群衆心理という名の狂気の群れなのだ。







 ヒスイは村に残り、シュウの日常を見守る事にした。

 直近の依頼がなく、持て余している時間の使い方としては有効に思えたのである。


 いざとなれば狩る――。


 その約束をしてヒスイが村に居るせいか、出会った頃よりもシュウの抱く自身への恐れは小さくなっているようだった。

 それでもシュウは、村の子供達をまるで畏怖しているかのようで、彼等に決して近付こうとしない。

 だが不思議なのは、シュウが遠ざける態度を取っているのに子供達は妙にシュウに対して懐っこいという事だ。


 シュウはお世辞にも人当たりがいいとは言えない。

 自身の性質を自覚しているからこそだろうし、特に子供達とは距離を置いている。

 なのに子供達はやたらとシュウに話しかけてみたり、遊んで欲しいとねだるのだ。


 子供というのは良きも悪きも正直なものである。

 その意思は、往々にして表裏はない。

 だがシュウに対する子供たちの行為には、ある種の意図が感じられる。

 無邪気な意志はあれど、子供が明確な意図やそれに類する作意を抱くものだろうか?

 経験上、否と断じる以外になかった。


「しかし、この寒い土地で良くもまぁ」


 村の畑を見やり、ヒスイは改めて驚愕していた。

 寒く痩せた土地であるのに不相応の実りが村の景色を彩っている。

 シュウに宿る精霊の力が、起こり得ない豊作を産むのだとしたら。

 その原理を村人が知っているのなら。

 子供達の抱く意図は、その親達の意図と考えれば飲み込みやすい。

 意図や作意を考えられずとも、それに沿って動く事は子供達にも出来る。

 だがもしもそうなら、それは、我が子すら対価にした実り。


「どうかされましたか?」


 ヒスイが振り返ると、そこには老年の男と、その背後に農具を抱えた数人の若い男たちが居た。

 老人の方は、この村の村長である。

 村に滞在する事を決めた時シュウに紹介をされ、それ以来何度か顔を合わせているが、連れが居るのは初めてだった。


「いえ。立派な畑だと」


 ヒスイがそう答えると、村長は窺うような視線でヒスイを刺した。


「左様か」


 敵意。あるいは殺意。

 仄かに香る程度だが、村長と連れの男達からヒスイに向けられているのはそういう感情だ。


「いつまでこの村に居るのかね?」

「さぁいつまでかね」


 ヒスイがはぐらかすと、村長の放つ害意は一層濃く色付いていた。

 この村に狂気があるのなら、きっとそれは彼等のような形をしている。

 狂気すら利用する尋常外れは、もはや人の形をした怪物に過ぎない。


「この実りの対価はなんさね?」


 それは正確な問いではない。

 正しく言うなら――。


「何を対価にしようとしているか、分かっているのか?」


 ヒスイの問いに村長からヒスイへの敵愾心を含めた全ての感情が消え失せた。

 ヒスイへの警戒を解いたのではない。一層濃い深淵に意識と感情の全てが塗り潰されたのだ。


「精霊の加護なくしてこの村に実りはあり得ない。そしてシュウは村の事を考えて踏みとどまっているがいつかは負ける」

「殺意にか?」

「自身へのな。そう、幼子に対するそれではない。シュウ自身が抱く自身への殺意よ」

「子供を宛がって、狂気をくすぐる事は却って奴を追い詰めると分からないのか?」

「違うよ。奴は自分を受け入れた方がいい」

「あんたらはどうしたいのさね?」


 村長は、無邪気に破顔した。


「あれはこの村にとっての守り神だ。目に見えぬ神にすら若い娘を生贄に捧げる事は往々にしてあった。もしも神が目に見え、触れる事が出来たなら。その恩恵が目に見え、科学的に証明されていたのなら。支払う贄なぞ軽くは思えんか?」

「思えんな。勝手に祀り上げて利用してるだけさね」

「あれが自ら命を断てば精霊は散り、この土地は枯れる。あれを殺して別の器が現れるのを待つか? その間、何人が犠牲になる? この実りがあれば子供は次々に生まれる。親も子作りに躊躇はせん。そのうちのいくつかを捧げる事で維持出来る繁栄なら選ぶのは自明だ」


 翡翠色の瞳が村の者への憐憫に染まった。


「村社会ってのはこれだから怖い。こういう閉じた土地には稀に居るんだ。あんたらみたいな無法な掟を良しとするのが」

「法も秩序も理も、我らを守ってはくれぬ」

「あんたらを守るためにある物じゃないさね」

「それはお前も同じだろうよ。人狩りよ」


 村長がヒスイを指差すと、農具を持った男達がにじり寄ってくる。

 ヒスイは、濃藍の絹の袋から小銃ライフルを取り出し、銃口を村長に向けた。

 その威容を前に村長を含めた男たちが一斉に怯む。


小銃ライフル。最も野蛮で、最も洗練された道具だ」


 小銃ライフルは、多くの人狩りが愛用し、人狩りのみが持つ事を許される武器であった。

 遠くの的を狙うのに、これ以上に適した獲物は存在せず、対象に無慈悲なまでの死を約束する。


「火薬で金属の塊を音より速く飛ばす。考え出した過去の人類と忠実に再現した北方の人間は、まこと賢いものさね」


 三百年ほど前、蒼い瞳と白い肌を持つ北方の民が小銃の原型を旧文明の遺跡から発掘した。

 以後この武器は、獣や精霊を狩るために心なき人々に使われもしたが、今では人狩りが人を狩るためだけに使う道具となった。

 人狩りの獲物の威力はあまねく民の知るところ。引き金を絞らずとも、抑止力とするには十分だ。

 しかし村長達の目に敗北の予感は浮かんでいない。

 あるのは確信だ。


「どちらにせよ。お前の負けだ」

「どういう意味さね?」

「シュウは自分を受け入れる。今日中には受け入れる。そしてあれはこの村を守り続けてくれる」


 それは紛れもない、


「何をした?」


 濃厚な勝利の確信だった。







 シュウが井戸から水を汲んでいると、


「シュウさん」


 自身を呼ぶ声が背後から聞こえる。

 聞き馴染みのある声だ。村に住むヤクハという娘の声であるとシュウはすぐに理解した。

 シュウに特に親しくしてくる娘で、村の子供たちの中でも一番器量が良い。


 背を向けたままでも彼女の姿をシュウは正確に思い描けた。

 小さくも通った鼻筋。桜の花弁と同じに色付いた唇。大きく黒目がちな瞳。髪は背中まで伸ばして下している。

 大人になれば匂うような美女になるだろうと予感させる娘であった。


 だからこそ彼女の誘惑はシュウにとって堪え難い衝動を生み出す。

 本人にその気がない事は分かっている。子供だから理解していない事も。それでも予感してしまう。期待してしまう。

 そんな自分に激しい嘔吐感を抱く。およそ許されざる欲望の重圧に心が耐えかねるから。


「これ似合う?」


 何の事か?

 新しい着物でも買って見せに来たのだろうか?


「今日は――」


 それ以上の言葉をシュウは飲み込んだ。

 ヤクハはいつもの着物姿ではなかった。

 ヒスイが来ているような白いシャツと唇よりも僅かに濃い桜色のスカートだった。

 丈は膝よりも上でいつも見える事のない白く細い足が露わになっている。


「おしゃれだね……」

「父さんが都で買ってきてくれたの。それでシュウさんに見せておいでって」


 ――何故?


「何故……だい?」


 ――何故そんな事をする?


「前に都でシュウさんが見てたのを見てたんだって」


 これより先を聞いてしまえばもう引き返せなくなる。

 分かっていても問わずには居られない。


「見てたって?」


 頭に揺蕩う熱が身体の下へ、下へと落ちていく。


「こういう服を着た女の子」


 鮮烈に覚えている。

 忘れようはずもない。

 都で診断を受けたその日、診療所を出た時にすれ違った少女。


「好きなんでしょ?」


 あの鮮烈すらも陰る美が目の前にあれば人は抗う事は出来ないのだと。

 もう良いのではないか?

 自分を狩ってくれる人間がこの村には居る。

 それならば、たった一度だけで終わるのならば、最後に一度だけ願いのままに動いても。

 欲情に囚われたシュウの瞳に黒い色が差し込む。

 痩せこけた手をヤクハの細い首筋に伸ばし、その後の快楽に喉が鳴り、柔肌に指が触れる瞬間――


「ヤクハ」


 シュウはヤクハに触れる事なく、視線を彼女に合わせて微笑んだ。


「よく似合っているね」

「ありがとう。シュウさん」


 満開の笑顔でヤクハが応じる。

 この花を摘み取る事は許されない。

 けれどこれ以上いては耐えられない。


「すまないが今日はお客さんが来てるからまた今度ね」

「うん。ごめんなさいお邪魔して」


 その言葉と笑みを残してヤクハは村へ向かって山を下って行った。


「よく耐えたな」


 もっとも聞きたかった声。その主の賛辞にシュウの頬が綻んだ。


「ヒスイ」


 待望してやまなかった男は、白い開襟シャツの襟に小さな赤い染みを付けていた。


「あんた、それは」


 血ではないか。シュウがそう問うより早く、ヒスイはシャツの血痕に触れて苦笑した。


「心配するな。村の者は誰も殺してない。ちょっと邪魔なんで拳骨をくれてやっただけさね」


 そう言いながらヒスイは、まだ微かに見えるヤクハの背中を目で追っている。


「あの子は?」

「ヤクハという。あの子の家は子供が七人も居る。一人ぐらいはと思うのかね」


 シュウの自嘲を込めた問いに、ヒスイは口を閉ざした。


「何故……殺さない」


 再度問い掛けるとヒスイは、額を掻きながら口を開いた。


「あんたが罪を犯していないからだ」

「俺が?」

「あんたにそうさせようとする悪意に、害意に抗うからだ。内なるそれだけでなく、外からのそれにも。あんたは法にも、理にも、秩序にも、従おうと懸命に生きている。自分の異常性を自覚し、抗い、そして傍に居る人々を守ろうとしている」


 シュウの中には狂気が潜んでいる。

 それは間違いなくとも、ヒスイの見立てでは欲望に屈しようとはしない男だ。

 そういう男を狩る人狩りは居ないだろう。

 命を奪う事を生業としているからこそ、奪う命を吟味しなくてはならない。

 人狩りの理ではまだシュウは狩るに値しない男なのだ。


「残酷だが、あんたはまだこの生き方に耐えられる」

「耐えてどうする。どうなる」

「ここを出たらどうさね? この村に居ればあんたはいずれ手を染める。この村はあんたには毒だ」


 ヒスイの提案にシュウは黒く重い微笑を浮かべた。


「無理だ。俺がここを離れればいよいよ村は死ぬ。この村はこんな俺を殺さずにいてくれた。たとえ精霊の加護が理由だとしてもこの村は俺を生かしてくれた。俺が村を殺す事は出来ない」


 いずれ怪物になりえるモノをどんな理由があれ、殺さずに置く場所。


「それに他へ行ってどうなる?」


 そんな尋常を外れた場所がこの村以外にあるのだろうか。


「俺が変わる訳じゃない」


 例え狂気の群れと分かっていても、


「俺が生きていけるのはここだけだ。この場所だけだ」


 この場所以外にありはしない。


「そうか」


 ヒスイは上着の内側から紙を一枚取り出すと、シュウに手渡した。


「これは?」

「土竜便だ。どこに居ても連絡がその日の内には付く」


 契約した土竜の言獣に対価を払い、手紙を届けてもらう土竜便は、人狩りや精霊が重宝している連絡手段だ。

 対価は大抵食べ物であり、ちょっとしたおやつをあげれば、どこへでも手紙や伝言を届けてくれるのだから便利な物である。


「年に数度は様子を見に来られる。それを待てずにどうしても耐えられなくなったら連絡をくれ。その時は狩ろう」


 ヒスイがこの村に残り続ける事は難しいだろう。

 既に村人たちから存亡を脅かす敵として認識されている。

 土竜便を使えばどんな土地に居ても一日の内に手紙がヒスイの下へと届き、精霊や言獣の手を借りれば、この村にすぐさま来る事も不可能ではない。

 今は狩れない以上、その時が来たら一刻も早くそう出来るように。

 そんな準備をしておく事だけがヒスイに今出来る人狩りとしての最善だった。


「生きてくれ。少なくとも今のあんたで居られる内は」


 ヒスイが告げると、シュウは破顔しながら安堵の念を浮かべた。


「約束する。どうしても耐えられなくなったらあんたを呼ぶよ。もしも俺が罪を犯し、あんたを呼ばず、逃れようとしたらその時も頼む。俺を狩ってくれ」


 その懇願に一つだけ小さく頷いてヒスイは、シュウの下を去った。

 






 数年後、ある山に一つの銃声が轟いた。

 それからしばらくの間、山の麓にある村は、稀に見る不作に見舞われたという。

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人狩り ~狂気の群れ~ 澤松那函(なはこ) @nahakotaro

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