五
一日が始まり、僕は野原へ足を向ける。
歩き慣れた道。聞き慣れた蝉時雨。嗅ぎ慣れた草のにおい。見慣れない──、いや、本当は見慣れている、彼女の姿。
迷うことなく近づき、やあ、と声をかける。振り向いた彼女は少し目を丸くして、それから、理解したかのように頷いた。
「やあ。……なるほど、
一度首肯してから、彼女の言い回しに首を傾げる。気づく気になった、とは、どういう意味だろう。
僕が疑問を抱いたのを察したのか、彼女は肩をすくめた。
「なあに。この世界の魔法は、君が違和感に気づけば解けるという寸法なんだ。ただ──ヒトは終わらない
──そうか。そういうことか。
そうだよ、と微笑んで、彼女は答え合わせをする。
「ここは、人々が無意識のうちに夢見た、完璧な夏の総体。こんな夏を過ごしたかった、という、理想の果ての世界。……
そしてきっと僕は、心のどこかでそのことを解っていた。一日がリセットされ続けているのだと。おそらくは──最初から。
だから、本当に気づこうとするかしないかは、僕のタイミング次第だったのだ。もし、ずっとこの夏を過ごしていたい、と願っていたなら、改めて気づくこともなかったのだろう。
「──でも、君は気づいた」
静かに、彼女は呟く。
「揺籃の夢から醒め、元の世界で生きることを決めた。……何故だろうね?」
──それは。
この世界は、どうしたって終わらないからだ。
しかし、僕の焦がれた夏は──、
──
「……そうだね」
彼女はゆっくりと肯定した。その表情は、どこか嬉しそうでもあり、また哀しそうでもあった。
「太陽が燦々と照っていても、入道雲があれだけ白くても、向日葵が空高く伸びていても、夏はいつか終わる。 ──終わるからこそ、夏を愛してしまうのだろう」
ああ、そうだ。何事もそうなのだ。人も、現れては消え去ってゆく。夢を見ては、終わっていく。生を突き詰めて、死へ辿り着く。
ただ、消え去る前に、終わる前に、死ぬ前に──それまでの道程が輝いていた、と。確かに意味があったのだ、と信じたくなるのが人心だろう。煌めいて、輝いて、終わっていく。火花を散らして燃え進み、最後に一際大きく輝いてから、静かに火が落ちる線香花火のように。
夏もまた、輝いて終わっていく。何事もなかったとしても、眩しい季節は過ぎてゆく。
そうしてまた次の夏を、人々は夢見るのだ──。
赤く染まってゆく空を、僕と彼女は眺めていた。今日も陽が沈んでいく。山の端にかかった太陽は、五分もしないうちにその姿を隠すだろう。
「──さて。君は、
彼女の言葉に、黙って頷く。夢を見続けることは可能だろう。だが、それではいずれただの日常と成り果てて、夢と呼べるものではなくなっている。いずれ醒めるからこその、
「うん。なら、明日が最後になるな」
それでは、と別れようとする彼女へ、一つだけ、と呼び止める。
結局、君は誰だったのだろう。
そんな疑問を投げた僕に、彼女は軽く笑った。
「気になるかい? そうだねえ、質問で返すようで悪いけれど……それでは君は、誰なんだろうね」
言われて、言葉に詰まる。僕は──そうだ、僕は……僕であった気もするし、私であった気もするし、俺であった気もする。
明確な記憶はない。ただ漠然と、自分は自分だ、としか思っていなかった。
困惑が表情に出たのか、ああ、と彼女が少し慌ててとりなす。
「悪い悪い、意地悪する気はなかったのだけれど。君は君だ、それで間違っていないよ。この夢を見ている誰か。現実に帰れば、もっと違う人格なのかもしれないけれど」
それに引き換え、と彼女は自分を指さした。
「私は、誰でもない。ただこの世界に浮かんでは消えてゆく、泡沫。……言っただろう?」
陽炎のような者だ、と。
毎朝言われていたそれは正しく、彼女の自己紹介であったのだった。熱源がなくなれば共に消える、一夏の幻。
「そういうわけで、私もそろそろお役御免だ。じゃあね、明日も同じ場所で待ってるよ」
そんな言葉で締めて、彼女は僕に手を振る。
一つ瞬きする間に、彼女の姿は夕闇へと溶け去っていた。
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