一日が始まり、僕は野原へ足を向ける。

 歩き慣れた道。聞き慣れた蝉時雨。嗅ぎ慣れた草のにおい。見慣れない──、いや、本当は見慣れている、彼女の姿。

 迷うことなく近づき、やあ、と声をかける。振り向いた彼女は少し目を丸くして、それから、理解したかのように頷いた。

「やあ。……なるほど、気づく気に・・・・・なったんだね」

 一度首肯してから、彼女の言い回しに首を傾げる。気づく気になった、とは、どういう意味だろう。

 僕が疑問を抱いたのを察したのか、彼女は肩をすくめた。

「なあに。この世界の魔法は、君が違和感に気づけば解けるという寸法なんだ。ただ──ヒトは終わらない幻想ユメを、見たがるものだから」

 ──そうか。そういうことか。

 そうだよ、と微笑んで、彼女は答え合わせをする。

「ここは、人々が無意識のうちに夢見た、完璧な夏の総体。こんな夏を過ごしたかった、という、理想の果ての世界。……幻想ユメと気づかない間は微睡んでいられる、永遠の揺籃だ」

 そしてきっと僕は、心のどこかでそのことを解っていた。一日がリセットされ続けているのだと。おそらくは──最初から。

 だから、本当に気づこうとするかしないかは、僕のタイミング次第だったのだ。もし、ずっとこの夏を過ごしていたい、と願っていたなら、改めて気づくこともなかったのだろう。

「──でも、君は気づいた」

 静かに、彼女は呟く。

「揺籃の夢から醒め、元の世界で生きることを決めた。……何故だろうね?」

 ──それは。

 この世界は、どうしたって終わらないからだ。

 しかし、僕の焦がれた夏は──、


 ──夏は・・過ぎ去るものだからだ・・・・・・・・・・


「……そうだね」

 彼女はゆっくりと肯定した。その表情は、どこか嬉しそうでもあり、また哀しそうでもあった。

「太陽が燦々と照っていても、入道雲があれだけ白くても、向日葵が空高く伸びていても、夏はいつか終わる。 ──終わるからこそ、夏を愛してしまうのだろう」

 ああ、そうだ。何事もそうなのだ。人も、現れては消え去ってゆく。夢を見ては、終わっていく。生を突き詰めて、死へ辿り着く。

 ただ、消え去る前に、終わる前に、死ぬ前に──それまでの道程が輝いていた、と。確かに意味があったのだ、と信じたくなるのが人心だろう。煌めいて、輝いて、終わっていく。火花を散らして燃え進み、最後に一際大きく輝いてから、静かに火が落ちる線香花火のように。

 夏もまた、輝いて終わっていく。何事もなかったとしても、眩しい季節は過ぎてゆく。

 そうしてまた次の夏を、人々は夢見るのだ──。




 赤く染まってゆく空を、僕と彼女は眺めていた。今日も陽が沈んでいく。山の端にかかった太陽は、五分もしないうちにその姿を隠すだろう。

「──さて。君は、幻想ユメから醒める決意をしたんだね」

 彼女の言葉に、黙って頷く。夢を見続けることは可能だろう。だが、それではいずれただの日常と成り果てて、夢と呼べるものではなくなっている。いずれ醒めるからこその、幻想ユメなのだ。

「うん。なら、明日が最後になるな」

 それでは、と別れようとする彼女へ、一つだけ、と呼び止める。

 結局、君は誰だったのだろう。

 そんな疑問を投げた僕に、彼女は軽く笑った。

「気になるかい? そうだねえ、質問で返すようで悪いけれど……それでは君は、誰なんだろうね」

 言われて、言葉に詰まる。僕は──そうだ、僕は……僕であった気もするし、私であった気もするし、俺であった気もする。

 明確な記憶はない。ただ漠然と、自分は自分だ、としか思っていなかった。

 困惑が表情に出たのか、ああ、と彼女が少し慌ててとりなす。

「悪い悪い、意地悪する気はなかったのだけれど。君は君だ、それで間違っていないよ。この夢を見ている誰か。現実に帰れば、もっと違う人格なのかもしれないけれど」

 それに引き換え、と彼女は自分を指さした。

「私は、誰でもない。ただこの世界に浮かんでは消えてゆく、泡沫。……言っただろう?」

 陽炎のような者だ、と。

 毎朝言われていたそれは正しく、彼女の自己紹介であったのだった。熱源がなくなれば共に消える、一夏の幻。

「そういうわけで、私もそろそろお役御免だ。じゃあね、明日も同じ場所で待ってるよ」

 そんな言葉で締めて、彼女は僕に手を振る。

 一つ瞬きする間に、彼女の姿は夕闇へと溶け去っていた。

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