──そうして、最後の日が訪れた。

 僕は彼女と一緒に、いつもの場所に来ていた。瑞々しい翠の野原。その中を通っていく、均された土の道。少し進むと背の高い向日葵畑があり、そこを抜けると海が見えると、僕たちは知っている。

 世界が終わる日にも、空はどこまでも澄んで、青かった。眩しいほどに白い入道雲が、もくもくとわき上がっている。

 熱気を帯びた風が、緩やかに吹き渡っていく。太陽は強く煌めいており、野原の上の空気は揺らめいている。輝かしい夏の一日が、そこに広がっていた。

「死ぬには佳い日だ」

 微笑んで、彼女が呟いた。

 僕はそれに、黙って頷いた。




 誰でもある僕と誰でもない彼女は、二人並んでゆっくりと道を歩いて行く。何度も通ったはずの道は前よりも長く感じて、それでも嫌気が差すということはなかった。

 野原の草いきれ。向日葵の黄金色。砕けていく積乱雲。

 次第に声を減らしていく蝉時雨。落ち着いていく熱気。傾く日輪。──最後の、陽炎。

 海が見える丘まで着いた時には、宵の帳が中天までを覆っていた。さて、と僕の後ろで足を止めて、彼女は僕に声をかける。

「私はここまで。夜の向こうには、君だけで」

 指さした先は、紺青の大海原。銀色の月が、煌々と穏やかな水面を照らしている。

 僕は彼女を振り返った。夕陽の残光を背に受けて、彼女は微笑んでいた。そのオレンジの影も、ゆっくりと夜色に染まっていくのだった。

 後ろを向いたままの僕に、彼女はそっと苦笑する。

「そろそろ行くといい。それほど時間もないのだから。私に君を、見送らせてくれるかい?」

 その言葉にようやく、僕は名残惜しさを殺して前を向いた。もう、彼女の姿は見えない。ただ、声だけが聞こえてくる。

「海までずっと走るんだ。大丈夫、息が切れることはない。決して振り返らないで。──さあ」

 軽く背中を押される。一歩足を踏み出し、二歩歩き、そして僕は転がるように走り出した。

 夜の丘は街灯もなにもなかったが、月明かりで視界は悪くなかった。道も一本道で、迷うことはなかった。

 走っている僕の脳裏に、夏の日々が走馬灯のようによぎっていく。もう戻らない日々が。もう終わってしまう、夏が。

 わけもなく苦しくなって、ぱたぱたと涙が流れていった。走馬灯の最後に、残光の中で微笑む彼女が浮かぶ。


 僕の背を押した彼女の手は、ひどく熱かった。




 走って行き着いた先に、砂浜と海が待っていた。

 砂地で足を取られ、そこでようやくスピードを落とす。ざくざくと砂を踏みしめて、夜光虫で蒼白く光る波打ち際まで辿り着いた。

 一つ、深呼吸をする。

 穏やかな波の音が心地良い。仄かに香る磯のにおい。

 波の上には月があった。空にかかっていたはずのそれは、今や一軒家ほどの大きさとなって、数十メートル先に浮いていた。

 その月には、クレーターはない──おそらく、地表らしきものもない。もう少しよく見ようとした瞬間、ごう──、と背後から風のようなものが、吹き荒ぶ音が聞こえた。

 思わず後ろを振り向きたくなって、その衝動をなんとか抑えた。少しして、それは突風の形で僕に突き当たり、ごうごうと追い越してゆく。

 突風の中に、橙の光の欠片たちが無数に渦巻いている。まるで向日葵の花びらのように。それが先ほど見た夕陽の破片であると、僕は知っていた。

 夕陽の破片たちは、渦巻きながら月に吸い込まれていく。それを目にして、ようやく僕はあの月がこの世界の出口であると察したのだった。

 唸りを上げる風。輝いては月に消える破片。オレンジの瞬きが誘うようで、ああ、と僕は頷いて砂を蹴った。

 ふわりと身体が浮いて、突風に乗る。最後の欠片たちが、僕を取り巻く。そのまま僕は、一直線に吸い込まれた。


 夜の向こうへ。




 ──目が覚めると、慣れ親しんだ自分の部屋だった。

 カーテンを開ければ太陽の光が差し込んできて、思わず目を細める。携帯端末に目をやると、九月の表示が時刻と共に浮かんでいた。

 外の空気を吸おう、と窓を開ける。直後、むせかえるような熱気に顔をしかめて、窓を閉めた。

 身支度や食事を済ませ、玄関を出る。そこに広がる景色や響き、温度さえも、昨日とさして変わらない。それでも間違いなく夏が終わったのを、どこかの感覚で理解していた。

 胸の詰まるような感触を覚えて、宙を仰ぐ。綺麗に澄み渡った空に、あの夏の青く青い空が重なった。


 どうかまた、来年も夏が来ますように。

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夏は人の夢をみる 海原 @kyanosnychta

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