ノスタルジー
君の名前を呼んだ。
そう簡単に忘れはしない、その名前。雑踏に紛れた声でもしっかりと届いたようで、彼は驚いたように振り向いた。ざわめきの中、彼の口がたしかに私の名前を紡ぐ。通勤中のサラリーマンや通学中の学生がめまぐるしく進んでいる中、私たちの時間だけはぴたっと止まったようだった。
人波に逆らい手を伸ばした私と、逃げるように踵を返す君。逃がしはしない、と思った。私に何も言わず、学校から何から姿を消した君のことを、忘れた日などなかったのだから。君がいなくなってから、なんとなくぼんやりと過ごしてきた日々に、ようやく一筋の光が見えた気がした。空を流れるはずだった風船は、いつの間にか深い海を漂っていたのだ。空に憧れながら、暗くて深い海に。
「……っ、逃がさないよ」
「…………うん、知ってた」
「来て」
「……その制服、あっちのホームの電車に乗り換えの学校じゃないの。遅刻するよ?」
「いいよそんなの。君と話す方が優先」
握った手は絶対に離さない。再びしゃぼん玉が割れてしまうその前に、私は君に伝えなくちゃいけないことがある。定期券で改札を通り抜けて人通りの少ない路地へ入り、近くの公園までやってきた。彼の視線はずっと、スクールバッグにつけられたぼろぼろのストラップに向いていた。
公園に着くや否や、嘘八百を並べ立ててクラスのLINEで欠席連絡。それを見て、彼が苦笑った。彼と最後に顔を合わせたのは中学一年生の終わりごろで、まだ声変わりを迎えてなかったくせに、今は少し低くてあたたかな声になっていた。私より低かった背は、当然のように越されている。時が、流れている。
「……ほんとにサボるつもりなんだ」
「もちろん。ほら、君も早く欠席連絡して」
「そんな無茶な」
そう言いながらもスマホを出す君。笑い方は変わっていなかった。そして、逃がさないきもちがそのまま現れたように、繋がれたままの手にも抵抗は、しなかった。力強く握った私に、君はなだめるように言う。
「ごめんね」
「……なにが?」
「いろいろ。気まずいし、申し訳ないし、懐かしいしで、さっきは逃げようとしちゃったけど。でももう、大丈夫だから」
手の力ゆるめてよ、と遠い昔とおなじように君は、微笑んだ。
聞きたいことも言いたいことも沢山ある。昔は、私の持っているものすべてに君との思い出がつまっていたのだ。もう、君を懐かしい存在にはしたくない。ノスタルジーを感じるならば、ふたりで。
そんな我儘を聞いてほしいと、自分勝手にも思うのだ、きみにだけは。
ノスタルジー 深瀬空乃 @W-Sorano
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