そろそろ戻らないと、と言い残して彼が出て行ったあと、私は大急ぎで身支度をととのえると、彼を追うように救護室を出た。

 何でだろう。さっきまでの動揺が、嘘みたいにおさまっていた。

 とにかく、彼ともっと話さなくちゃ。もっと話して、わたしがどんなに不本意で、まだなにひとつ納得していないってことを、彼に分からせてやらなくちゃ。

 

……ううん、違う。


 本気でそんなことを思ってるわけじゃない。

 ただ──彼のそばにいたいだけ。

 だけど、今のこの状況で、そんなこと言えるわけがないじゃない。 

 つくづく可愛くないなと自覚しながら、私は一階奥の救護室から続く廊下から、ロビーへと出た。

 広いロビーを横切り、二階へと向かう階段の下で、私は彼に追いついた。

「あれ、どうしたんだよ」

 彼は私に気づくと言った。「もう少し休んどいた方がいいんじゃねえか」

「いいのよ。もう大丈夫」

「俺の言ったこと気にしてるんだったら、今すぐベッドに戻れよ。報告書なんてどうでもいいんだし」

 そう言うと彼は私を見下ろした。透き通った、柔らかい笑顔が、また私の心臓を起爆装置に変えた。

「違うわ」と私は彼から目を逸らした。「女医さんが帰ってきたら面倒だから」

「なんで」

「……あなたのこと気に入ったみたいよ。紹介してくれって、必死だったわ」

「戻ろう」

 彼は言うと私の腕を取って回れ右をした。

「ちょっと、何なの?」

「女医さんの好意を無にしちゃ悪いだろ」

「!────」

 私は立ち止まり、勢いよく彼の手をふりほどいた。

「冗談だってば」彼は笑っていた。「あいにく、ああいうタイプは趣味じゃねえ」

「……じゃあ彼女が好みのタイプだったら、乗ってたってこと?」

 私は彼を睨みつけた。

「仮定の話で怒られちゃ、割に合わねえなぁ」

 そう言うと彼は階段を上り始めた。「ほんとにもう大丈夫なんだったら、さっさと書類揃えてくれよ」

「分かったわ」

 私は彼のあとについていった。

 何だろ、まるで彼のペースにはまってる。


 二階に着き、刑事課へ向かっていると、マクドナルドから帰ってきたときに私に嫌味を言った三人の婦人警官がまたこちらに向かって歩いてきた。

 まったく、この人たちは毎日何しにここへ来ているのか。団子になってうろうろ歩いている暇があったら、交通違反車両を一台でも摘発して欲しいものだ。

「あの、一条警部」

 びっくりした。の一人が、私に声をかけてきたからだ。

「ええ?」予想外のことに、私はつい、素っ頓狂な声を上げた。「わ、わたし?」

「あなたしかいないでしょ」

 言ったのは彼だった。もう言葉遣いが変わっている。

 私は彼を一瞥すると、団子三姉妹の次女(単に真ん中の位置にいたから)に向き直った。

「何か?」

 次女は今まで私に見せたことのない笑顔で、私と彼の両方に愛想を振りまきながら言ってきた。

「あの、あたしたち、さきほど山中刑事課長から、そちらの方のお世話をするようにと言われたんですけど」

「お世話?」

 私は訊き返した。思いっきり訝しげな表情になっているのを自覚していた。

「お世話ってなに」

「ですから、あの、お茶をお出しするとか」

 長女(私から見て次女の右)が言った。

「そんなの、この人自分でするわよ。同じ刑事なんだし、警察署なんてどこも勝手は同じだもの」

 私は思わず彼を親指で指していた。

「ちょっと警部」と彼。「そういう扱いはないんじゃないですか。俺、一応ここじゃお客さんですよ」 

「いいのよ、何だったらわたしがやってあげるわ」

 自分でも不思議なことだったが、私はすっかり“仕事モード”に切り替わっていた。

「そういうわけにはいかないと思います」と次女が言った。

「あら、なんで?」

「だって、警部は──」

「キャリアだから?」と私は即答した。

「平たく言うと、そうです」

「ふうん」

 私は腕を組んだ。彼を見ると、ちょっとしらけた表情をしていたが、口を出す気配はなかった。

 私は三姉妹を見回した。残りの三女はさっきからバカみたいに口をぽかんと開けて、彼に見惚みとれている。口を閉じろ! このバカ女!

 私は言った。

「その点あなたたちは、お茶くみのために高い税金を使って雇われた人たちだってわけ?」

 思い切り棘のある言い方をしてやった。三人は一気に表情を曇らせたが、どうやら彼の手前、まだ何とか笑おうとしている。

「警部」

 彼が言った。「俺、どっちだっていいですから。早く仕事しましょうよ」

「そうだったわね」

「あの、ご厚意ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいますので、どうぞご都合のいいように。お仕事に支障のない程度で」

 彼は爽やかな笑顔で三人に言うと、私にもにっこりと笑った。

 三姉妹は今にもとろけそうな表情で何度も頷きながら、嬉しそうに両手を胸の上で重ねた。

 何なのよ、この三文芝居は。彼はれっきとした警察官よ。一日署長でやってきた、アイドルタレントじゃないんだからね! 

「ただし、三人も必要ありません。誰か一人だけにしなさい。これ以上の税金の無駄遣いは県民の皆さまに対する背任です」

 私は釘を刺した。そしてできるだけ居丈高に見えるよう、背筋を伸ばして彼よりも前を歩いて刑事課に向かった。

「……ほんと、マジむかつく」

 背中で三姉妹の一人が言った。その声は、朝に階段ですれ違ったとき、

「気取っちゃって。悔しい」

 と言ったのと同じ声だった。そして、今ここで発言していた二人のそれとは違っていたから、犯人はあのバカ面三女だ。

 わたしだって、あんたにはじゅうぶんムカついてるわよ。

 刑事課の手前の角まで来ると、私に追いついた彼が言った。

「なあ、あんな言い草はやめとけよ」

「どうして? 彼女たち、ただあなたに近づきたくて言ってるのよ。遊び感覚で警察バッジ持ってもらっちゃ困るわ」

「そうだとしても、ああいうのは良くないって。あとあと遺恨が残るだけだろ」

「受けて立とうじゃない。そんなくだらない遺恨、どうってことないわよ」

「……しょうがねえな」と彼は溜め息をついた。「大人気ねえったらないぜ」

「何よ、あなたどっちの味方?」

 私は彼に向き合うと、今度こそ許さないという態度を示すように両手を腰に当てた。

「どっちの味方とか、そういうんじゃねえだろ」

「わたしの味方って言いなさいよ、そこは!」

 彼は眉根を寄せた。「……ったく、なにカリカリしてんだよ」

「カリカリさせてるのはあなたでしょ?」

「俺が今夜帰るって言ったから、怒ってるのか?」

「それもあるけど──」

「だからそれは仕事が──」

「それだけじゃないわ」と私は語気を強めた。「あなたが来てから、わたしずっとひどい目に遭ってるじゃないのよ!」

「そんなこと、俺に文句言ったってしょうがねえだろ」

「あなたにしか言えないじゃない」

「みちる……」

 彼は今日初めて私を名前で呼んだ。それでまた、私の心の弱いところが小さな悲鳴を上げそうになった。

「女医さんのことと言い、さっきの連中のことと言い、あなた、わたしをからかってそんなに面白い?」

「面白がってるわけじゃねえけど、つい言ってみたくなるんだよな。だってそれが自然だろ?」

「なにがどう自然なのよ」

「だって、俺たち関係なわけだし」彼はけろっと言った。

 私は思わず俯いた。耳が熱くなるのが分かった。

「……公私は分けようって言ったの、あなたでしょ」

「ああ、そうだったな」

 彼はまたしてもあっさりと言うと、笑って肩をすくめた。

 やっぱり、面白がってる。

「……とにかく、ああいう連中に愛想良くするのはやめて。大阪の仕事を置いてわざわざ来たって言うんだったら、つまらない道草はせずにまっすぐ目的地に向かいましょうよ」

「そうだな。グダグダ言っててもしょうがねえから、ちゃちゃっと済ませちまおうぜ」

 彼は明るく言うと、私の肩を一度だけ叩いて歩き始めた。

「──早く終わったら、そのあとは二人でゆっくりできるかも知れねえ」

「終わったらすぐに帰るんじゃなかったの」

「もちろんそのつもりだけど……反面、ちょっとずつ気が変わり始めてよ」

 私は溜め息をついた。「もっとからかいたくなったのね」

「そうじゃねえよ」

 彼は言うと、刑事課のドアノブに手をかけて私に振り返った。

 彼に並んだ私は彼の言葉を待った。

「おまえを見てたら、その服、一枚一枚脱がせたくなった」

「なっ……!」 

 恥ずかしさと怒りをこらえて顔を上げると、彼はびっくりするくらい艶っぽい眼差しで私を見つめ、にやっと笑ってドアを開けた。

「お先にどうぞ、警部」

 信じられない。この男、やっぱりからかって喜んでいる。



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