Ⅱ.信じられない
1
目が覚めた私は、そこが署の救護室だと気付くのに五秒を有した。
ベッドに横たわり、ブラウスのボタンを三つほど外され、そのすぐ上までタオルケットを掛けられていた。
ゆっくりと首を動かしてそばの診察デスクに顔を向けようとすると、わずかに頭痛を感じた。
「いた……」
「──あら、お目覚めね」
デスクでカルテを書いていた
「あの、わたし──」
私が起きようとすると、柴山医師は手を止めて立ち上がり、私のところへ来た。そして枕をひとつ余分にあてがってくれてから、私の腕をとって脈を測り始めた。
「軽い貧血のようね。毎日ちゃんと食べてる?」
柴山医師は手元を見たまま言った。署のすぐ隣にある総合病院の勤務医で、アルバイトでこの救護室に交代で詰めている三人の医師の一人だ。なかなかの美人で、年齢は私より五つほど上だったように思う。
「ちゃんと食べてます。昨日だって、高いフレンチに行ってきました」私は言った。
「高いからって、栄養のバランスが完璧とは言えないわよ」
「そこのお料理、野菜が豊富なのが売りです」
「じゃあ動物性たんぱく質が足りないってわけだ」
柴山医師は脈を測り終えると、今度はデスクの端に置いてあった血圧計をとってきた。
「みんな、びっくりしてたわよ。ちょっとした騒ぎだったわ」
「先生は呼ばれたんですか」
「ええ。主任さんが血相替えてここへ飛び込んでこられて、慌てて駆けつけたのよ」
「わたし──急に全然わからなくなっちゃって」
「お客さんが来たんだって? その人を見るなり、あんたひっくり返ったって」
柴山医師はその時の様子を思い出しているらしく、小さく笑った。
そうだ、彼だ。原因はそこだった。
「……あの、その人、今どうしてるんでしょう」
間抜けだと分かっていたが、私は訊いていた。
「お客さん? さあ」
柴山医師は私の腕から血圧計を外しながら首を傾けた。「あの人もびっくりしてたみたいで、倒れたあなたを抱きかかえるのにも深刻な表情だったけど」
なにーっ! そんな恥ずかしいことになってたのか!
「それで、彼──あの人がわたしをここまで?」
「違う違う。担架を用意したから、そこに彼があなたを運んだのよ」
「……良かった」
私は心底胸をなで下ろした。
「あの人、知り合い?」
デスクに戻ってカルテを書きながら、柴山医師は訊いてきた。
「知り合いって言うか……ええ、まあ、そうです」
私は曖昧に答えた。
「刑事なんでしょ?」
「ひと月ちょっと前、わたしが出張で大阪へ行ったんです。そのとき一緒に捜査を」
「大阪の人なの?」
「本人は違うみたいですよ。大阪府警の刑事ではあるけど」
私は答えながら、猛烈に居心地の悪さを感じていた。今、ここで職場の人間と彼の話をするなんて、ほんのついさっきまでまるで想像していなかったことだ。まったく、あたしは何を喋ってるんだ?
「ふーん、一応知り合いなんだ……」
柴山医師は独り言のように言うと椅子ごと振り返って私をじっと見た。
なんだ、まだその話か──。
突然、柴山医師は飛びかかるようにして私の両手を取った。
「紹介してっ!」
「えええっ?」
私は思わずのけぞった。 「──な、な、なんですか──?」
「だって、ものすごくいい男じゃない。あれをほっとく手はないわよ」
柴山医師はかなり興奮している。
「そんなこと言ったって……」
「紹介さえしてくれたら、あとは自分で何とかするから。彼、いつまでこっちにいるの?」
かなり興奮しているだけでなく、必死だった。
「知りませんけど」
そう、こっちが知りたいわよ。
「今日帰るってことはないわよね?」
「だから、知らないんです」
「そうよね……いいわ、分かった。実はあたし、今から食事に出るんだけど、帰ってきたら是非お願いね」
「紹介って言ったって、どうやって」
「適当に、なんでも言ってくれればいいから。そこはうまくお願いするわ」
そう言うと柴山医師は満足そうににっこりと笑って私を見下ろした。
そんなのいやだ。誰があんたなんかに紹介するもんか。
「あの、わたしいつまでこうしてたら──」
「もう少し安静にしてなさい。今、血圧測ったけど、まだ不安定だから。脈だって弱いし」
白衣を脱いだ柴山医師はデスクの引き出しから小さなバッグを取り出した。
「いい? これは医師として言うのよ。あと一時間は横になってなきゃだめ」
「……分かりました」
私は観念して、柴山医師が食事に出かけるのを見送った。
それからもう一度、私は短く眠ったようだ。目を覚ますと、時計の長針が180度分移動していた。
ドアがノックされた。まさか柴山医師ではないから、誰かが怪我をしたか、具合が悪くなって訪ねてきたらしい。
「あ、はい、どうぞ」
私は答えると身を起こした。柴山医師がいないことを説明しなければならないから、入ってきてもらうしかない。
入ってきたのは、彼だった。
「よう」
「──────! ! !」
声を上げそうになる口を両手でぎゅっと押さえて、私は固まった。
視線が彼に釘付けになり、瞬きさえも忘れていた。
彼は部屋に私しかいないのを確認すると、ちょっと安心したように表情を緩め、ゆっくりと近づいてきた。そしてベッドのそばまで来ると、私を見下ろして言った。
「面倒くせぇ女だな、おまえ」
「……悪かったわね」
私はふてくされて言った。本当は泣きそうだったけど。
彼はそんな私を見て小さく笑うと、デスクのそばにあった丸椅子を引き寄せて座った。
涼しい瞳、引き締まった眉、細く形の良い鼻に、透明な肌。少しだけ笑みをたたえている豊かな唇は、中性的な色気を感じさせた。
「びっくりさせんなよ。挨拶したら、突然ふらふらっと揺れて、膝から崩れ落ちそうになるんだもんな。慌てて支えにいって、顔見たら、豆腐みてえに真っ白だったぜ」
「ごめんなさい」と私は思わず謝った。「全然憶えてないの」
彼はちょっと驚いたようだった。微かに眉を寄せると、いくぶん深刻な表情で私の顔を覗き込んだ。その端正な顔を目の前にして、私の脈は少し勢いを取り戻した。
「──大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
私はそう答えると横になってタオルケットを顔まで引き上げた。
なんだか情けなかった。
彼は溜め息をついた。何も言わなかったが、私を見つめているのが薄い寝具を通しても感じられた。
「……島崎主任は?」私は訊いた。
「え?」と彼は訊き返した。「主任がどうしたって?」
「今日、来るはずだったんでしょ。なのにどうしてあなたが来たの」
「最初から俺が来ることになってたけど」
「ホント?」私は顔を出した。「うちの係長が、主任が来るって言ってたわ」
「そんなの知らねえよ。俺は三日前から、今日ここに来ることが決まってた」
「だったらどうして言ってくれないの?」
彼は肩をすくめた。「仕事の話はしねえ約束だろ」
「こういうのは例外よ!」私は思わず語気を強めた。「……びっくりさせないでよ」
「分かった。悪かったよ」
彼はそう言ったが、あまり反省しているようには見えなかった。
「それはそうと、あなたこんなところで油売ってていいの?」
「だって、おまえが報告書用意しといてくれねえから、することねえんだよ」
彼は言うと腕組みした。「係長に言われてたんだろ? あらためて揃えてくれって」
「……あ、忘れてた」
「ほらみろ」と彼は溜め息をついた。「こっちだって暇じゃねえんだぜ。地元にどれだけ仕事残して来てるか分かるよな。最終の新幹線には乗りてえんだから、せめて書類だけは──」
「え、もう今夜帰っちゃうの?」
私は思わず身を起こした。
「だから今言ったろ。仕事が山ほど溜まってるんだって」
「やだ」
「はぁ?」
「……そんなのやだ」
私の言葉に、彼はやれやれと言わんばかりに右手で顔を拭うと、そのまま髪を掻いて言った。
「前にも言ったことあったと思うけど。おまえの好き嫌いは関係ねえの」
「そんなの分かってる。それでも言う。今夜帰っちゃうなんて嫌だ」
私は意地になった。
「俺だってこんなしんどいスケジュールは嫌だぜ。それに、せっかくおまえの顔見たんだから、一緒にメシのひとつも食いたいと思うよ。だけど、用が済んだらすぐに帰ってこいって言われてるんだから、しょうがねえだろ」
「そのくらい、なんとでも言いようがあるじゃない。こっちの人間が納得してくれないとか、説明が終わってないとか」
「だって、面倒くせぇもん」
彼はあっさりと言うと両手を頭の後ろで組んだ。
「……本気で言ってるの?」
私には考えられないことだった。仕事が忙しいのは百も承知だが、それとこれとは明らかに別だと思うからだ。
「大真面目。不本意ではあるけど」
「……信じられない」
私は呟いた。今度こそ本当に泣きたくなった。
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