Ⅲ.傷つきたくない
1
《──何で俺に怒るねん、意味不明や》
電話の向こうで、
刑事課に戻った私は大急ぎで報告書を揃えた。彼がそれらと大阪から持参してきた書類の両方を整えて県警本部へ出向いたあと、私は大阪の西天満署に電話して、彼の相棒の鍋島くんを呼び出したのだ。
「だって、教えてくれなかったでしょ。今日彼がこっちへ来ること」
《そんなもん、俺が言うまでもなくあいつが言うてると思たんや》
鍋島くんは短い溜め息をついた。《あいつとおまえの今の関係を踏まえて、俺の出る幕は? あると思うか?》
「それは……ないわね」
《せやろ。アホらしいこと言わせんなよ》
「……わかった。ごめんなさい」
私が溜め息をついたのを聞いて、鍋島くんの声は心配そうなニュアンスに変わった。
《あいつと何かあったんか》
「別に。ただ、何も知らされないままで突然彼が来たから、わたしがちょっとパニクっちゃって」
《そういう悪ふざけ、あいつの好きそうなことや》
「何をやったって、相手に嫌われることはないって、自信があるのよ」
《そういうことではないんやけど……》
「鍋島くん、分かるの?」
《まぁ、何となく》
「だったらどういうつもりで?」
《……どう言うたらええかな》
鍋島くんの口調に、適切な言葉が見つからないでいると言うより、本当のことを言うかどうかで迷っている、明らかな逡巡の色があらわれた。
「言って。ごまかさないで」
《ごまかす気なんてないよ》
「じゃあちゃんと言いなさい」
《……相変わらず、えらそうやな》と鍋島くんは笑った。《ほな遠慮なく》
「どうぞ」
内心、怖くて仕方がなかった。できればやめてくれたっていい。
《真面目に考えるのが苦手って言うか──そういう機会を避けようとしてる》
「いつでも遊びってこと?」
《いや、遊びやとか、軽く考えてるとか、そういうのとは違うんや。一条のことかて、ちゃんと考えたから受け止めたんやと思うよ》
「だったら──」
《あいつはな……相手のこと、真面目に考えれば考えるほど、あとで怖くなるんや》
「怖くなる?」と私は訊き返した。「その先が不安になるってこと?」
《そうとも言えるけど──ただ怖くなる、ってのが一番しっくりくる言葉かな》
鍋島くんは噛みしめるように言うと、少しだけ声のトーンを明るくした。
《とにかく、そういう病気、みたいに思といたって。そう認識さえしてたら、あとは一条が何かをしてやらなあかんってことはないし》
「分かったわ」
全然分かってなんかいなかったが、私の中の正義がこれ以上鍋島くんを困らせることを是としなかった。
《ほな、ご苦労やろけどせいぜいあいつに付き合ってやって》
「ええ。そうする」と私はようやく笑った。「ごめんなさいね。彼がいなくて忙しいのに」
《ほんまやで。相変わらず神奈川県警はロクなもんとちゃうな》鍋島くんも笑った。《じゃあな。またこっちにも来いよ》
「ありがとう」
私は電話を切った。
今日はとにかく、心臓に悪い日だ。この職場がおもしろくないとふてくされていた朝が遠い昔のように思える。
昨日からさんざんそんな愚痴を言ったから、神様が、「だったら思い切りスリリングにしてやろうかのう」とでもお考えになったかな。
彼が帰ってきたら、このドキドキがまたさらに激しくなるんだな、と考えていたところに、今、切ったばかりの携帯電話が受信を知らせる合図をし始めた。
私は驚いて電話を取った。マナーモードにしてあったので音は鳴らなかったから、そう慌てることもなくメインディスプレイを開いた。
沙織からの電話だった。 私はほっとして、通話ボタンを押すと耳に当てた。
「もしもし」
《みるちゃん? あたし》
「沙織、ゆうべはありがとう」私は答えた。
《こちらこそ、忙しいのに長い時間付き合わせてゴメンね》
「ううん、楽しかったわ。それで、何?」
《大した用はないんだけどね。昨日みるちゃん、職場が楽しくないって言ってたから、ちょっとご機嫌伺いに電話してみようと思ったの》
「そう、ありがとう」と私は口元を緩めた。この無邪気さ。そのおかげで時にはこうして癒される。
「ところがね沙織、今朝来たら、えらいことになっちゃってんのよ」
《え、警察署立てこもり事件とか?》
「……相変わらず、話がぶっ飛んじゃってるわね」
《違うの?》
「違うに決まってるじゃない。そんなことがあったら、今頃ニュース速報がガンガン流れてるでしょ」
《だって、あたし今日はテレビ観てないもん》
「あんたが観てなくたって、テレビを観た誰かがあんたに教えてるわよ」
また面倒臭くなってきた。ついさっき、彼女の無邪気さは時に心が癒されると思い始めていた自分の浅はかさを呪った。
「もう、すぐに話が逸れちゃうんだから」
《あ、そうだ、えらいことの話よね。何があったの?》
私は周囲を見渡し、誰もこの会話を聞いていないことをあらためて確認すると、それでも声をうんとひそめて言った。
「……彼が来たの。大阪から」
《彼って?》
鈍いヤツ。こういうところはすぐに反応してよ!
「だから、大阪の」
「大阪……?」
沙織はたっぷり三秒分の間を取ってから、こちらにも分かるように息を呑んで、
《うそーーーーーっっっ! ! ! ! 》
と驚いてくれた。……やれやれ。
《みるちゃん、会わせて!》
沙織は一気にハイテンションになった。電話の向こうで足をバタバタさせているのが分かるくらいだ。
「無理よ。仕事で来てるんだし、今日帰るって言ってたし」
《それはないわよ、みるちゃん! だったらそんなことあたしに教えないで!》
「あ、そう、ごめん」
《バカみちる! 謝ってどうすんのよ謝って。いい、絶対に会わせるのよっ! 五分でもいいから!》
沙織はときどき、テンションが上がりすぎるとお嬢キャラから女王キャラに変貌する。
「でも、ホントに時間がないかも。あんたが仕事の帰りにこっちへ来てくれるなら可能かも知れないけど」
《任せなさいよそれくらい。で、もし上手くいった場合は一緒に食事とかもOK?》
「そうなったら、さすがに遠慮してよ」
《あ、そうか》沙織のテンションが少し下がった。《ゴメンみるちゃん、気が利かなくて》
「いいのよ」
はぁ〜疲れる!
《じゃ、とにかくあたしの仕事が終わる頃にもう一度電話するね。そのときにどうするかちゃんと決めようよ》
「分かった」
なんで私は、彼女にまでイニシアチブを握られているのだろうか?
とにかく、私はもうオーバーヒート寸前だ。
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