2
夕方五時前になって、彼が戻ってきた。
帰ってきた当初はかなり不機嫌だったが、副署長や課長にさんざんなだめられて、平静を取り戻したようだった。きっと面倒臭くなったのだろう。
「──ずいぶんとご機嫌斜めじゃない」
一係の空きデスクで帰り支度をしている彼に、私は言った。
「あたりまえだろ」と彼は吐き捨てた。「新幹線で二時間以上もかかるとこから来てやってるのに、本店のやつらのでけえ態度にゃ呆れるぜ。どこも同じだと思ってはいるけど、ムカつくったらねえよ」
「それで、めでたく解放されたの?」
「ああ、いつでも帰れる」彼は言うと手を止めて私を見た。「がっかりか?」
「仕方がないんでしょ。仕事が溜まってるんだし」
「そうさ。ところがだ。さっき鍋島に電話したら、野郎、焦って帰ってこなくてもいいって言いやがった。課長も了承してるって」
「……へえ」
やっぱり。鍋島くんはそういう人なんだ。
「おまえ、あいつに何か言ったろ」
「え? ううん、言わない言わない」と私は顔の前で手を振った。
その様子を見て、彼は口元に不敵な笑みをたたえた。
「最後の言葉を二度言うやつは、嘘ついてるんだぜ」
私は答えなかった。彼はふんと笑うと、片づけを続けた。
「それで……どうするの?」私はおそるおそる訊いた。
「どうしよっかなぁ」
あっ、この男。またわたしをからかおうとし始めてる。
そこへ一係の係長がやってきた。
「芹沢主任、どうもお疲れさまでした」
「あ、いえ」と彼は軽く会釈した。「あのそれと、俺は主任じゃないんで」
「え、いやしかし──」
彼はにっこりと笑った。「例外というか、異端というか」
「そうなんですか」
何となくまだ解せないという感じで、係長は小刻みに頷いた。彼が巡査部長だから、すなわち主任だと思ったらしい。これで今朝の謎が解けた。
「それで、どうなさいます? このままお帰りになりますか」
「ええ、時間もまだ遅くないですし、そうしようかと」
「そうですか。お忙しいところ、本当にご苦労さまでした」
「いえ、こちらこそお世話になりました」
彼は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
すると係長は私に言った。
「一条警部、申し訳ないが芹沢巡査部長を駅までお送りしていただけませんか」
「え?」とっさの依頼に、私はすぐにはピンと来なかった。「……あ、はい」
「それに、あなたも今日はああいうことがあってお疲れだろうし、そのまま家に帰ってゆっくりしてください」
「え、でも」
願ってもないことだったが、同時に私は、自分が厄介者扱いされていることへの強い抵抗も感じていた。
そこで彼が言った。
「警部、俺ならいいですよ。一人で帰れます」
私は彼に振り返った。なぜそんなことを言うのかが分からなかった。私の顔はきっと、ものすごく怒っていると同時に、とても悲しい顔だったに違いない。
「いえ、送ってさしあげます」
私は言った。
これ以上、彼の好きにばかりさせるもんか。
早退届を出して、彼と一緒に署を出ようとしたところで、私はひとつ厄介なことを思い出した。
沙織との約束だ。面倒なことを承知してしまったと、深く後悔した。
それでも結局はさっさと諦め、私は彼女に連絡を取った。
「──みるちゃん、頑張って生きてて良かったね!」
約束の場所に現れて彼に引き合わせたとき、開口一番の沙織のセリフがこれだ。まるで私が自殺直前だったような言い草だ。この言葉には、彼も爆笑した。
「わ、大笑いしたお顔もステキ」
沙織は目をハートにして言った。「みるちゃんが羨ましい。あたし、婚約したこと後悔しそう」
「何言ってんのよ」
と私は言ったけど、まんざらでもない気分だった。
「だって、あたしの彼ったら芹沢さんと較べると全然なんだもん。良家の御曹司だけど、やたら優しくて器が大きいってだけで、他に魅力もないし」
「……それでじゅうぶんじゃないの」
そうかなあ、と言って沙織はもじもじとはにかんだ。
「……なあ、この彼女、悪気はねえのは分かるけど、なんか腹立たねえ?」
彼は小声で私に言った。
「そういう子なの。聞き流してあげて」
私は呆れ返って答えた。
そのあと、沙織は最初の電話で申し合わせた通り、私たちを二人にして帰って行った。天然キャラのようで、こういう約束はこちらが何も言わなくてもきっちりと守る。縁故の腰掛け就職とはいえ、著名な大学教授の秘書の仕事が務まっていることからして、彼女という人物の能力は決して侮れない。
沙織を見送って、私は再び目的を思い出した。
「さてと。じゃあ新横浜ね」
彼はああ、と頷いた。私はがっかりしたが、彼が多忙なのは嘘ではなかったし、引き留めない方がいいことは分かっていた。
私は通りの端に出て、タクシーを探した。
「──今度来るときは、ちゃんと連絡してよ」
タクシーの中で私は言った。
「分かってる」と彼は答えた。「だけど、今日でほんとにこの件は終わったんじゃねえかと思うぜ」
「仕事じゃなくて、個人的にわたしに会いに来るときのことよ」
「ああ……そうか」
「嫌なの?」
「いや、そんなことないよ」
「だったらつれない返事しないで」
そう言った私に、彼はふんと小さく笑った。そして膝の上で組んでいた手を解いて私の右手を取り、指を絡ませてきた。
「そんなに心配か? 俺がどう思ってるかって」
私はスカートから覗く自分の膝小僧を見つめたまま、何も言えないでいた。
心配なときもあるし、そうでないときだって──無いかも。
「三日前から、今日が待ち遠しかったんだ」
唐突に言った彼に、私は振り向いた。彼は穏やかな微笑みを浮かべ、ゆっくりと首を折って私を覗き込んだ。
「笑った顔が見たいな」
「そんなこと言ったって……」
すると彼は、空いた右手を私の頬に添えてきた。
私はドライバーの後頭部に視線をやると、「見られてるわ」と小声で言った。
「俺たちもう、時間がないんだぜ」
そう言うと彼は私にキスをしてきた。少し触れただけのものだったが、私の心臓は破裂寸前だった。ところが、彼が大胆になってくるにしたがって、ここがどこで、誰に見られていようと、何もかもがどうでも良くなった。
つないでいた手を離すと、私は両手を彼の肩に回し、彼の抱擁を全面的に受け入れた。意識の隅っこではドライバーの存在を認めてはいたが、それよりもとにかく、彼を全身で感じていたかった。
やがて、もう五回目くらいのキスをしたとき、私の頬を涙が流れ落ちた。
「……帰らないで」
涙声で言った、私の懇願を聞いているのかいないのか、彼は何も言わずに私の髪を撫でていた。その沈黙がとても怖くて、彼の肩に顎を乗せた私は息を殺して目を閉じた。
いつの間にかタクシーは止まっていた。どうやら、とうの昔に新横浜駅に着いていたらしい。ドライバーは何も言わず、ハザードランプの点滅する音だけが車内に響いていた。
「それがダメなら、わたしがついていく」
彼が静かに首を振るのが分かった。そのまま私の耳元に口を寄せると、溜め息と間違うほどの小声で「また来るよ」と囁いた。
私は本格的に泣き出した。
それから何分が経っただろう。
私は、永久にこうしていられたらいいのにと思いながら、すぐ目の前に迫っている彼との別れに怯えていた。
人を好きになることが、こんなにも苦しいなんて。今、初めて気がついた。
「──運転手さん、すいません。今からでも部屋の取れるホテル、ご存じないですか?」
彼がそう言ったのを聞いて、私は強く彼に抱きついた。その勢いで彼は後ろに倒れそうになったが、私の腰をしっかり掴むことで難を逃れた。
「一軒、いいところを知ってますよ」
ドライバーが答えた。そしてギアを入れ、ゆっくりとサイドブレーキを下ろすと、すべるように車を出した。
「──気持ちは分かるけど、もうちょっと気を遣ってよね」
ドライバーはからかうように言った。
「ごめん」
彼は笑いながら謝った。
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